第147話 あなたの言葉
「次これ、どこ運ぶんです?」
「まだ待機だ。とりあえず倉庫の手前置いとけ。中身に気を付けろ、潰すなよ」
はぁい、と返事をして段ボールを持ち上げる。床に置きっぱなしで湿った紙が指を濡らした。カビのようなにおいがスンと香る。
コンクリートが打ちっぱなしの倉庫は年中薄ら寒い。元より冷たい秋の空気を、一層濡らして冷やしたような風が、俺の肌を撫でていく。
倉庫には段ボールが山と重ねられている。俺の身長よりずっと高く積み上げられたそれを見て、疲れた肩を揉んだ。
荷物運びのバイトは思っていたより面倒だった。
運ぶ段ボールの中には、マネキンの手足やら、謎の薬品やら、理解できないものばかりが入っている。俺が担当する仕事は、それらを指定された場所に運ぶだけ。だが案外重い荷物を運ぶのには体力がいった。
「坊主、こんな時間まで頑張るなぁ」
「坊主はやめてくださいよ。俺、高校生ですよ?」
「学生なんぞガキだ、ガキ」
荷物に腰かけ休んでいた男二人が俺に笑った。煙草の灰が荷物の上に散らばっている。幾筋もしわの刻まれた太い指に挟まれている煙草は、妙に小さく見えた。
時給は高い。仕事さえすれば身分も年齢も問われない。そんなバイト先には浮浪者同然の仕事仲間がたくさんいた。だが大半は四十を過ぎた汗臭い男ばかり。俺みたいな学生は少し浮いていた。
「もうすぐ正午だぞ。帰んなくていいのか」
「ああ、ああ、いいんですよこいつは。親の顔見たくねーっつって、夜にばっかり入ってやがる」
「あんだぁ? 親子喧嘩ってやつか。……俺も昔親父と喧嘩したっけなぁ。エロ本盗んだのがバレてよぉ。兄ちゃんも、そんなとこか? ん?」
「そこの荷物運ぶからどいてください」
しっし、と足で彼らをどかして段ボールを持ち上げようとする。だが予想以上に中身が詰まっているらしく、ずしりとした重みに体がふらつく。
よろける俺の肩を、背後から誰かが支えた。驚く俺の手から段ボールが抜き取られた。
「気を付けな。若いうちから腰いわすと面倒だぞ」
仲間の一人である男はそう言って俺に笑った。重いはずの段ボールを難なく運ぶ彼の姿に、おぉ、と他の人達が感嘆する。
「歳の割に力持ちだな。いまいくつだっけ?」
「こないだ九つになったばかりだ」
またそんな冗談を言って、と誰かが呆れたように、見たところ五十以上に見える彼を笑った。
十だろうと五十だろうと百だろうとこの仕事場では関係ない。老いた見た目に反し、彼の仕事ぶりは俺以上だ。
段ボールを下した彼は冴園、と俺を呼ぶ。仕事を頼まれるのかと行ってみれば、彼は何故か黙り込み、まじまじと俺の顔を見つめた。
「な、なんです?」
「お前疲れてるだろ」
「は?」
「顔色が悪い。少し休め」
振り向いて、仕事をサボっていた仲間達へと顔を向けた。彼らは同じくまじまじと俺の顔を凝視したが、不思議そうな顔で首を振る。
「別に疲れは感じてませんけど……」
「お前は顔が分かりにくいだけだよ。ほら、いいから座ってろ。後はやっとくから」
無理矢理俺は近くの椅子に座らせられた。顔が分かりにくい。前に菊さんからも似たようなことを言われたっけな、と思い出して苦笑した。
年上の矜持というやつだろうか、なんて思いながら荷物を運ぶ彼を見る。薄汚れダボついた服のせいで体躯は普通のおじさんと同じに見える。だが重い荷物を軽々と運ぶ彼を見ていると、意外と筋肉があるのだと察する。俺は仕事仲間の中で一番背が高いのに……と自分の体を見下ろして唇を尖らせた。
それにしても、一度座ると確かに自分に疲労が溜まっていたことを実感する。足の力がじわじわと抜けて椅子にもたれかかった。大きく伸びをすれば、瞼の奥が僅かに重くなり、睡魔となって俺の意識を支配し始める。
「おい」
「んぁ?」
ガクリと頭が落ちて目を覚ます。パチパチと瞬きを繰り返す俺の目の前に、店長の顔があった。何度か軽く頭を叩かれて、微睡んでいた意識が覚醒する。一瞬だけ目を閉じたつもりがいつの間にか爆睡していたらしい。
荷物はとうに片付いていた。がらんどうになった倉庫に、椅子にすわる俺だけがぽつんと残されている。
「仕事中に爆睡とはいい度胸してるな」
「すみません」
「まあいいさ、お前は普段それなりにできてるからな」
そう言って、店長は黄色い歯を剥き出しにして笑った。俺は妙にこの人に気に入られている。仕事ぶりか、態度か、何が理由かは知らないけれど。バイトがしやすいのならば何も言うことはない。
「もう朝だ。他の奴らはとっくに帰ったよ」
嘘、と声を上げて腕時計を見た。午前五時半。予定していた帰宅時間を大幅に越している。慌てて帰る支度をした。そんな俺に店長は笑いながら雑談を振ってくる。鬱陶しいが、ぞんざいにあしらうこともできず、俺は作り笑顔を貼り付けてええ、ええ、と話を聞き流した。
店を出て家への帰路を急ぐ。秋の風がひゅう、と俺の肌に吹きつけるから、走りながら捲っていた袖を下した。
家に帰りたいわけじゃないさ。それでも、何度も朝に帰っているようでは、父さんと母さんの不信感が一気に煽られるばかりだろうから。
全力で走って家に着く。まだ早朝だ。二人とも起きてはいないだろう。荒い呼吸を必死に押さえて玄関の鍵を開け、音もなく廊下を進む。リビングを通り、そこに父が立っていたのを見て、げ、と顔をしかめた。
「座れ」
声から怒気が滲んでいる。動かない俺に、父さんはもう一度座れと命じた。だが固まった体は咄嗟に動かせない。父さんが足音を立てて俺に歩み寄ってきた。
「座れ!」
頭の奥にじぃんと広がる痛みに目を見開き、声も出せずに見悶えた。
拳骨を食らったのはいつ以来だろう。それでも、昔食らったものと比べると今父さんからもらった拳骨には一切の容赦がなかった。
迫力に気圧され恐る恐る席に着いた。父さんは座らない。俺の横に立ち、真っ赤な顔で俺を睨んできた。
「お前は一体どうしたいんだ?」
父さんは疑問を直接ぶつけてくる。俺が答えを探す間にも、父さんの口は閉じなかった。
「何がしたい? 家にも帰らず、小遣いを稼ぐばかりで、それで満足だって言うのか」
「……………………」
「学生としての本業は勉学だ。お前の成績は悪くない。だがな、それ以外に大事にすべきものだってあるだろう。今のうちに見つけなければならないものがあるはずだろう。お前にとってのそれは何なんだ」
「……………………それは」
「俺にはお前が分からないんだ。佑」
足音がして、母さんがリビングに入ってきた。吊り上がった目が俺を睨み、内なる怒りをあらわにしていた。
父さんも母さんも寝間着姿だが、その顔に寝ぼけた様子は感じられない。俺が帰ってくるのを寝ずに待っていたのか。いや、見張っていたのか。
「お前がしたいことは何だ」
父さんの問いかけに俺は強く目を瞑った。
何がしたいのか、どうしたいのか。自分でも分からない答えを今この瞬間問われている。何かを答えない限り、二人は怒りを潜めないだろう。
俺がしたいこと。
俺がどうしたいかってこと。
俺が望むもの。
「……………………きっと、どんな将来になったっていい」
ぽそりと吐いた言葉が呼び水となって、胸の内にある言葉を引きずり出す。自分の父と母に何かを期待するように、少し上擦った声が、夜明けの静寂に溶けていく。
「俺は、安定した収入が欲しいわけじゃない。暮らしに安らぎを求めているわけじゃない。ただ、一日が楽しいなって、面白かったなって、そう思えることができたなら、どんなに辛い仕事だって、構わないんだ」
楽しいって、幸せだって、思えることができるならそれでいい。
「だけどそれは一人じゃ難しくて」
そうなるために俺が欲してるもの。
俺は、誰かといるときの方が、幸せだなって思うことが多かった。クラスの友達とか。菊さんとか、咲とか。
昔から周りにはいつも人がいた。だからこそ、俺は一人で生きていくことはできない。誰かが傍にいないと駄目なんだ。
「誰かがいつも傍にいてくれたら、きっと、一緒に幸せだって思って過ごせるから……。誰かに大事に思ってほしい。一番に見てもらいたい。他の何よりもかけがえのない存在だって、思ってほしい。……俺はそう思ってくれる人を探しているんだ。色んなところで、俺は、ずっと」
ずっと俺の傍にいてくれる人がいたのならば、それは、とても幸せなことだろう。
バイトをする理由は親に会いたくないからだけじゃなくて、俺にとってのかけがえのない人がどこかにいるんじゃないかって、期待しているから。ずっと探し求めている。名前も顔も知らないその誰かを。
カーテンの閉まった窓から日は差し込まない。カチ、カチ、という時計の秒針がうるさいくらい耳に残る。
膝に置いた手が震えていた。俺はずっと視線を下げて二人の顔を見ないようにしていた。だからもう朝になったのか、こうして何十分がたったのか分からない。
父さんと母さんの顔を見るのが恐ろしかった。
自分の思いを他人に吐露することが酷く怖かった。
けれど、俺の思いをぶつける機会は今しかない。
「自分で色んなことに挑戦して、幸せになれるものを見つけていきたいって思ってる」
心臓がドクドクと喘いでいる。背中に滲んだ汗が、びしょりと服を濡らす。
「まだ全然分からないけど、手探りだけど、だからこそ色々やって探していきたい。だから俺のことは俺に決めさせてほしいんだ。進路、だって」
拳を握る。俯いたまま、俺は期待と不安の混じった思いを必死に叫ぶ。
「何も考えずに大学に行くくらいなら、受験なんかしないで、他の道を…………っ」
パン、と頬を叩かれた。言葉が喉の奥に引っ込み、思考が一瞬で真っ白になった。
唖然と顔を戻せば身を乗り出した母さんが怒った顔をしていた。怒りに頬を引き攣らせ、鋭い声で俺に言う。
「いつまで子供みたいなことを言ってるの!」
その言葉に、血の気が引いていくのが分かった。全身の汗がすぅっと引いて、笑えるくらい頭が冴えていく。昂っていた感情が冷えていく。代わりに胸の奥に浮かんだのは、失望だ。どうしもうもないくらいに強く、重い失望の念が俺の体に満ちていく。
「母さんの言う通りだ。もう高校生だろ。夢見がちな妄想ばかりするのはやめて、現実を見て、地に足を付けるんだ。学歴があるにこしたことはない。将来性を考えれば大学に進学する方が得策に決まってるじゃないか」
「あのね、他にあるでしょ? 将来したいこと。あなた昔、将来は警察官になる、とか言ってたでしょ。今はどうなの? 取り寄せたパンフレット、部屋に置いてたの、見た?」
違う。違うんだよ。
戦慄く唇を噛んで、俺はまっすぐに二人を見た。何も言えなかった。今何かを口にしてしまえば、その拍子に涙が溢れてしまいそうで言えなかった。
二人の言っていることは正しかった。だけど今の俺に、その言葉はちっとも届かなかった。
分かってる。自分の考えがどれほど幼稚で夢見がちな台詞なのかって。それでも俺は、今の俺は、父さんと母さんに言ってほしかった。そっか、って、言ってほしかった。そう言ってくれさえすれば、また俺のバイトについて叱ろうと、大学のパンフレットを見せてこようと、きっと受け入れることができたんだ。
否定してくれさえしなければそれで良かったのに。
息を吸って、吐く。ゆっくりと瞬きを繰り返し、目の前の二人に向けていた表情を変える。
笑顔なんて浮かべない。怯えも悲しみも滲ませない。澄ました無表情を浮かべた俺は、また、椅子から立ち上がった。
どこに行くんだ、と父さんが怒鳴って腕を掴んできた。指が食い込み鈍痛が疼いた。
「もう話すことなんてないから」
「こっちにはまだあるんだ。おい、いいから座れ!」
「佑! いい加減にしなさい!」
腹の底から込み上げる苛立ちは今にも爆発しそうだった。煮え滾る怒りが俺の息を荒くし、肩を震わせる。駄目だ。落ち着け、落ち着け……。怒っても、どうしようもない。
必死に怒りを抑えていた。だけど、母さんが言った。
「誰かに大事に思われたい? お父さんと私がいるでしょ! 何を拗ねてるの、大人になりなさい!」
ギリ、と歯を食いしばって父さんの腕を大きく振り解いた。少し力を込めるだけで、案外あっけなく父さんの腕は離れる。
「うるさいんだよ!」
勢いのままに父さんの肩を殴った。軽い力にとどめたはずなのに、父さんは呻きながら後ろによろけた。
子供の頃父さんに叱られて腕を掴まれれば、いくらギャン泣きして暴れてもその腕からは逃れられなかったっけ。今は、こんなに簡単だ。いつの間にかこんなにも俺と父さんの力は逆転していたのか。
俺はもうすっかり大人に近付いてしまった。
「何が、お父さんと私がいる、だよ。何をふざけたことを言っているんだよ。俺が何も知らないって思ってんのかよ!」
それを言ったら取り返しがつかなくなるぞ。
脳の奥で、俺自身が叫んだ。だけど俺はそれを振り解いた。どうしようもないくらい荒れた心は止めることなんてできなかった。
「俺のことが大事だって言うなら……っ」
もう、どうでもいい。
「なんで浮気なんかしたんだ!」
二人が、ハッとしたように息を詰めた。同時に互いの目を見る。動揺が表れた顔は、俺の言葉が嘘じゃないことを証明していた。
胸の奥がぐちゃぐちゃだった。椅子を蹴飛ばすようにして俺は駆け出そうとする。だけど一瞬、リビングを出る瞬間に俺は二人を振り返った。
父さんと母さんは互いの顔を唖然と見るばかりで。俺のことは、少しも見てくれていなかった。
堪らなく悲しくなった。歯を食いしばり、もう一度二人に背を向けて走り出す。背後から聞こえてくる、二人が、相手を問い詰める声。
俺の名前を呼ぶ声は聞こえなかった。
走って、走って、走り続けて。このままどこまでも駆け抜けて、そのまま風に溶けて消えることができたなら、どんなに嬉しいことだろう。
行く当てもなく走り続けた。けれど高校生の行動範囲なんてたがが知れていて、その上無意識に、足はよく通る道ばかりを選んでいく。だから、見える景色なんて変わらなかった。出会う人も。
「冴園くん」
呼び止められ思わず足を止めてしまった。しまった、と思ってももう遅い。汗だくになった顔を上げれば視界に見えたのは、コンビニの明かりと、店頭のスタンド灰皿。そこで煙草を吸う美輝の姿。
まだ薄暗い空の下でコンビニの明かりはぼんやりと空気に溶けている。無視して通り過ぎればいいのに、吸い寄せられる蛾のように、俺は明かりの下へと足を向けた。
「おはよう、美輝」
俺の声は明るかった。ちっとも震えていないし、笑顔だってちゃんとできてる。大丈夫。
同じコンビニの同じ時間帯、たまに美輝は煙草を吸っている。家から遠く離れた場所の方が同級生に見つかりにくいからと彼女は言っていた。新聞配達のバイトはとっくに辞めたから俺が朝早くにここを通り過ぎることなんて滅多になかった。彼女だって毎朝ここにいるわけじゃない。なのに、ああ、どうして今日に限って。
美輝の隣、アーチ形の車止めに腰かけて、俺はニコニコと笑った。冷たい風が火照った体を覚ましていく。頭の中の熱だけは一向に冷める様子を見せなかったが。
「それ何本目? てか、今日風強くない? ずっと外で寒くないの?」
「寒いよ。でも、風が強い分煙を吹き飛ばしてくれるから、臭いが服に着かなくていいの。冴園くんは、朝のランニングか何か?」
「筋肉付けて格好良くなろうと思ってさ。そうそう聞いてくれよ。昨日の夜バイト先で面白いことあってさ、仲間のおじさんの一人がね、小学生の娘とクッキーを作ったらしくて……」
笑顔は嬉しいときだけじゃなくて、悲しいときに浮かべることだってできるんだ。
笑ってさえいれば悲しみを誤魔化すことができる。今の俺の心がどれほど荒んでいようと、それを隠して、何事もなく過ごすことができる。
俺は昔から、笑顔が得意だった。だけど美輝は、不意に微笑みを消し、真剣な目を俺に向けた。
「…………何かあった?」
声が途切れた。俺は笑顔のままで固まった。美輝が、不安げに俺の顔を覗き込む。その眼差しから思わず視線を逸らせば、彼女は一瞬目を見開いた。
灰皿に煙草が捨てられた。漂っていた紫煙が消え、その香りは風に吹き飛ばされる。彼女は、少し散歩しようか、と言った。
電車が目の前を通り過ぎていく。カンカンと鳴り響いていた警告音が止み、遮断機が上がった。踏切を通り過ぎれば塩辛い潮のにおいがした。潮風に背を押されるように小走りで駆ける美輝を慌てて追いかける。
「海だっ」
靴底が踏む感触は、整備されたアスファルトから乾燥した草へ、そして細かな砂へ。隙間から入り込んだ砂が足に絡み着くのが不快で、走りながら靴も靴下も脱ぎ捨てた。とっくに靴を脱いでいた美輝が目の前を走っている。彼女はそのまま浅瀬へと足を付け、きゃあ、と子供っぽい笑い声を上げた。
「わ、はは、冷たいっ」
「冴園くん、こっちこっち」
「え、なになに…………ぎゃっ深い!」
秋の海は冷たく、水に揺らぐ海藻が足に絡み着き、ぞくぞくした。冷たい冷たいと悲鳴を上げながら俺と美輝は浅瀬でくるくると駆けまわる。捲り上げたズボンの裾に海水が染みたけれど、どうでもよかった。
散々はしゃいでようやく俺達は砂浜に戻る。乾いた砂のところまで走り、服の汚れも気にせずどっかりとその場に仰向けに倒れた。少し生臭く冷たい潮風も今は心地良く、俺はその風を肺いっぱいに吸い込んだ。
「どう?」
「すっごく楽しい」
まさか海まで来るなんて思わなかったけど。そう言えば、美輝は声を上げて笑った。
電車に乗って海まで来た。日が昇り、行き交う人の数は増えたけれど、秋の海に来る人間は俺と美輝の二人しかいなかった。
くつくつと二人で笑って風を浴びる。ひとしきり笑って落ち着いたところで、美輝が訊ねた。
「何があったの?」
「親と喧嘩した」
簡素に言えば、そっか、と美輝は言った。心配であれそれ以上詮索しようという気はないのだろうか。声は変わらず、無関心と不安の、その間を行き来するものだった。
「ここね、前に東雲くんとも来たことがあるんだ」
「咲と?」
「うん。星が綺麗に見えるんだよ」
「今は朝だから少し残念」
「また来ようね」
「うん」
ごろりと横を向いて美輝を見た。彼女も俺に顔を向け、自然な動きで頭を撫でてきた。犬みたいにぐりぐりと頭を押し付ければ、彼女はくすぐったそうに笑った。
「私のお気に入りの場所。悲しいことがあっても、ここだと落ち着けるから」
「美輝の悲しいことって何?」
「そうだな。冴園くんが悲しんでる、ってことかな」
なぁんて、と美輝は恥ずかしそうに笑った。けれど俺は笑うことはできず、まっすぐに美輝を見つめる。
笑顔を浮かべるのは得意だ。自分の本当の想いを隠すのは、得意だった。
「悲しそうに見える?」
美輝が俺を見る。その顔に微笑みを湛え、ゆっくりと頷いた。
「見えるよ」
「……うん、親と喧嘩したから、ちょっぴり悲しい」
「本当にそれだけ?」
思わず手に力を込めると、指の隙間から砂が零れた。
「冴園くん」
「なに」
「海に思いを叫んでみたらどうかな」
「そんな、ドラマみたいな」
「いいじゃない。高校生なんだから。高校生は青春ドラマみたいなことしても許されるの」
「あはは、なんだそれ、めちゃくちゃ」
俺が笑って、美輝も笑った。大げさなくらい腹をひくひくと動かして、身を捩って笑った。はは、は、と口を震わせて、息をした。
美輝は何も聞いてこなかった。俺も何も言わなかった。俺の事情など、美輝は何一つ知らないのに。
「冴園くん」
「はは、あはは」
「泣いたっていいんだよ」
「ははっ…………、は、は」
俺は美輝を見て、くしゃりと笑った。美輝が頭を撫でてくれた。なんだか犬を撫でてるみたいだって彼女が言うから、俺は酷いなぁと言って、彼女の手に甘えた。
「はっ…………ひ、ぃ…………は、はは。は、は」
笑いすぎて涙が零れる。目尻からぽろりと流れた一滴は乾いた砂に、僅かな水分を与えた。
ぽろぽろと雫が流れていく。顔を歪ませて、砂を引っ掻いて、大量の涙を砂に沁み込ませていく。
「冴園くん、冴園くん」
「あっうぅ、あぁ、ひ、ぐぅ…………っ。う、わ、あぁ…………」
「大丈夫だよ。大丈夫だよ」
「ああぁっ、ああー…………うわああぁん、うああぁぁ――――」
「大丈夫」
美輝の服に縋り付いて、みっともなく泣いた。どうして彼女がここまでしてくれるのか分からなかったけれど、その理由について考えることはしなかった。
悲しいとか苦しいとかじゃなくて、自分が何を考えているのかも分からないまま、ただ胸の奥がぐちゃぐちゃになっているのをどうにかしたくて、泣き続けた。
彼女の手が俺の背に回されて、子供を宥めるように優しく撫でてくれた。高校生なのにとか、男なのにとか、そういう思いは、とっくに消えていた。
「あなたは案外、泣くのが下手だねぇ」
美輝が優しく笑って言った。
太陽がキラキラと海を照らして、美輝の髪を白色に輝かせた。神秘的なまでの美しさが俺の心を満たして、なんだか嬉しくなって、更に涙が溢れた。
俺が望むことを、望むものを、この人は与えてくれた。
光に照らされる彼女があんまりにも眩しくて美しくて、俺は、簡単に心を揺さぶられた。
俺を幸せにしてくれる人。俺の傍にずっといてほしい人。
俺は、美輝のことが好きだった。
雪見障子の向こうに音もなく降り続ける雪を見た。灰色の空から落ちる白は、庭の草木に薄く積もり、白い衣を着せている。
いつの間にかこたつで眠ってしまっていたらしい。ぼーっとする目で辺りを見れば、傍には同じく寝息を立てる咲の姿。握っていたシャーペンは床に転がり、俺が枕代わりにしていた座布団の横に落ちていた。
カリカリという音が聞こえる。身を起こした俺は、向かいに座り、俺と咲が解いていた問題集を採点する菊さんを見た。彼女は起き上がった俺を一瞥し、また視線を問題集に落とす。
黙って菊さんを見つめ続けた。消しゴムのカスと黒鉛の汚れだらけの紙に、新鮮な赤色が丸を描いていく。最後の問題に赤が引かれた。菊さんの表情が緩み、その口に弧が描かれる。
「おめでとうございます。ほとんど正解ですよ、素晴らしい」
「ありがとうございまーす」
受け取った問題集を一問ずつ見返していくと、確かに、苦手な分野以外は全問正解と言っても良かった。
咲の問題集も眺めている途中で、一度席を立った菊さんがお茶とを持って戻ってくる。熱い緑茶を啜って、ほっと息を吐いた。
「あなたも咲も、随分と学問に励んでいますね。こたつで眠りこけるのは感心しないですが……まあ、今回は許しましょう」
以前こたつで爆睡して、咲と揃って風邪を引いたことを思い出した。セーフだったなぁ、と眠る咲の頭をわしゃわしゃと撫でれば、彼は唸り声のような寝言を呟き、俺の手を払う。
勉強会と称して咲の家に遊びに来た。時折くだらない雑談をしては問題を解き、来週のテストに備えようとした。とはいえ俺も咲も頭が悪いわけじゃない。学年トップとまではいかなくても、上位二十人の中には入るくらいではないかと思う。
「もうすぐ受験生ですし」
三年生になれば、大学受験という大きなイベントが待っている。進学を意識している生徒達にとっては次のテストの結果は重要だった。既にピリピリした空気が漂う中、勉強に手を抜くわけにはいかないのだ。
と言ったものの、俺も咲も受験勉強自体にさほどの熱意を注いではいない。いつも通りの点数を維持できればいいとだけ考えていた。受験というものに興味がないのだ。俺も、咲も。
お盆に乗っていたみかんを剥いて、白い筋を丁寧に取って遊ぶ。問題集を脇へ寄せた俺を菊さんは見つめていた。
「進路は決めましたか?」
「多分進学。親が決めたところに、とりあえず入ろっかなって。思ってます」
「あなた自身の意見は?」
「んー、特に。どこでも」
甘酸っぱいみかんをもぐもぐと食べながら答えた。実際、どこでもいいのだ。意見を聞かれようがどうとでも。
浮気について問い詰めて、両親は一時期荒れた。何度も喧嘩して言い争って、俺がバイトへ行こうと、朝に帰ってこようと、気にしなかった。
けれどいつの間にか問題は解決したのだろう。二人は再構築を選び、また以前のような一般的な夫婦へと戻っていた。行ってらっしゃいと見送って、おかえりなさい、と出迎える家族の形だ。
だが一度付いた傷は二度と元通りには戻らない。二人が話すときにたまに見える、小さな疑心やぎこちなさは、恐らくこの先何十年たっても消えやしない。
あんなことがあっても、二人は俺に進学を進める。大学のパンフレットはもう見飽きてしまった。どの学校だろうと俺の心はちっとも動かない。ならば二人が一番勧める大学にでも決めてしまった方がいいのだ。俺の意見なんていい。元からない。
「咲はどうするんですか?」
「今のところは進学を希望しているようです。ただ、将来についてはいまだ漠然としているようですが」
「…………菊さん的には、どこに行ってほしいんです?」
「この子が後悔しない道であれば、どこでも」
俺はぱちりと瞬きをし、流石菊さん、と大仰に拍手をした。菊さんはそんな俺を見て、優しく微笑む。
「あなたもですよ佑」
「え?」
「あなたがどこへ進もうと、それがあなたの後悔しない道であれば」
俺はもう一度瞬いて、困ったように肩を竦めた。本当に困った。叱られるのを恐れる子供みたいに、こわごわと菊さんを見る。
後悔しない道を選べるとは思えなかった。俺はきっと、この先何度も後悔して、どうしようもなくなって、何度も行き詰まる。そうなったら菊さんは俺を怒るだろうかと、不安だった。
「もし、後悔したら?」
「残念だと思いなさい。苦しんで、悲しんで、悩みなさい」
「…………おしまい?」
「誰も常に正しい道を選択しろと言っているわけではありませんよ」
雪は音を殺す。しんしんと世界を白く染める雪は、外の音を消し、部屋の中、俺と菊さんだけの声を残した。
静かな部屋の、静かな菊さんの声。俺の鼓膜を震わせるのは、ただそれだけだ。
「一番最後に自分が望むことをできたらいいのです。それまでの人生、どんなに後悔をしていたって、最後の瞬間に心から望んでいたことが叶うならば。それさえできれば、十分」
俺はもう一個のみかんを剥いて、丸ごと食べた。菊さんの言葉は正直いまいちよく分からず、あはは、と愛想笑いをする俺に、菊さんは呆れたように苦笑した。
言いたいことは理解できている。だけど納得ができなかった。俺が、まだ若いからだろうか。菊さんほどの深い心を持っていないからだろうか。未来の俺は一時の後悔さえも、きっと許せないだろうと、そう思っていたのだ。
「菊さんは最近、後悔した?」
「いいえ。あなた方のおかげで、私はとても幸せですよ。…………ああでも、もしも私があなた達を遺していなくなることを考えれば、少し後悔を感じますね」
「悲しいこと言わないでよ」
「悲しいですか?」
「うん。菊さん、元気じゃないですか。これからも元気でいてくれないと、俺も咲も、寂しい」
「やっぱり私は幸せ者ですね」
冗談を言うような口振りで言って、菊さんはくすくすと笑った。
確かにもう彼女は高齢だけれど、でも、思考も言動も衰えを一切感じさせない。いつまでだって俺達に大きな背を見せてくれる存在だ。
眠る咲を見下ろす。きっと今の会話を聞いていたら、こいつは誰よりも泣きそうな顔をするのだろう。
「佑。どうか、咲の傍にいてやってくださいね」
菊さんの言葉に俺は彼女を見た。優しく温かな眼差しに、俺も同じような笑顔を浮かべる。
「言われなくても」
雪はしんしんと降り続ける。
草木の緑を覆い隠して、真っ白に染め上げる。
雪はしんしんと、しんしんと。
いつまでも降り続けた。
「おはよう美輝」
「おはよ、冴園くん。マフラー新しく買ったの?」
「いや、押し入れから引っ張り出したやつ。今日寒いから」
「青色似合うねぇ」
そぉ? と笑って俺は首元のマフラーに顎を埋めた。美輝が笑って、俺も笑った。
二年生の冬。俺と美輝は友達だった。秋に彼女を好きだと自覚して、けれどそれから何の進展もない。俺が思いを彼女に暴露することも、逆もない。
好意を寄せた相手に、好きだ、と伝えないのは初めてだった。今までは少しでも好ましいと思う相手がいれば、好きだよって簡単に言って仲良くなれたのに。美輝には簡単にその言葉を口にできなかった。
友達の俺と美輝は机を挟んで立ったまま朝の会話をする。登校して先生が来るまでの、気だるげながらも楽しい会話。けれど他愛もない話を続けるうちに、俺と彼女は同時に違和感を覚えていた。
「東雲くん来ないね」
「風邪かな?」
「ね。ちょっと心配かも」
電話しよっか、と俺は携帯を耳に当てた。コールが長い。珍しく寝坊でもしたのだろうかと思っていると、ようやく通話が繋がった。だが咲は一言も発さない。
「咲ちゃん朝だよ、起きてる? 寝坊かー?」
からかうように言っても咲はまだ話さない。首を傾げながら続けて話しかける。
「風邪で声が出ないとか? それとも、まだ寝ぼけてる? 聞こえてるかこの声?」
『ばあちゃんが』
ドクリ、と心臓が震えた。あまりにも固く張り詰めた咲の声は一瞬で俺の笑顔を消す。俺を見ていた美輝が表情を変え、東雲くん? と微かな声で呟いた。
「菊さん……? 菊さんが、どうかしたのか」
教室の喧騒がうるさかった。賑やかで楽し気な声が一転、酷く耳障りなものに感じられる。
咲の声は酷く震えていた。ぼんやりとした、不安と恐怖に満ちた声が、俺の鼓膜を揺らす。
『…………ばあちゃんが。起きないんだ。いつまで経っても、眠ったままで。触っても、冷たくて、固くて』
息、してなく、て。
咲がそう言った途端、俺は立っていられなくなって、思わず机に手を突いた。冴園くん、と美輝が叫んで俺の体を支える。俺の様子にクラスメート達が気付き、心配そうな声をかけてくる。
大丈夫? 冴園体調悪いの? えー、先生呼ぶ? もう来たって。廊下、ほら。冴園どうした? 冴園くん?
心臓はドクドクと喘ぎ、寒いはずなのに全身が熱くて、けれど震えるほど寒くて。
咲の声は聞こえない。けれど通話は続いている。真っ白になった頭で、辛うじて言った。
「今すぐ行くから」
マフラーを掴んで教室を飛び出した。クラスメートが動揺する。廊下にいた教師が怒った顔で俺を呼び止めようとして、ただならぬ血相に、どうしたんだと声を上げる。言葉を返さず俺は廊下を走った。
学校を出て外を走った。雪が降っていた。灰色の空からどんどん降って、俺の髪や肩を濡らした。心臓が痛かった、足が痛かった。息が苦しい。顔が熱い。苦しくて涙が出た。何度も目を拭って、俺は走り続けた。
「咲!」
玄関の戸を開けた。蹲っていた咲が俺を見て、冴園、とか細く名前を呼んだ。
「菊さんは」
「部屋に」
体の熱は廊下をあるくうちに消えていった。見慣れているはずの重厚な色の木材は重く、冷たく俺の体にのしかかる。
廊下を軋ませて歩く。居間の入り口の柱に着いた傷は、俺と咲が身長を測ったときのもの。あの階段のシミは、美術の課題をやろうとして誤って絵の具を零してしまったときの汚れ。この天井の木目は、オバケみたいに見えるから怖くて、なかなか一人でトイレに行けなかった思い出の物。
いっそこのまま永遠に着かなければいいのに、なんて思ってしまった菊さんの部屋はすぐに着いてしまう。開けっ放しの障子の向こうに、布団に横になる菊さんがいた。
「菊さん。菊さん」
彼女の枕元に駆け寄って、静かに、必死に、何度も呼びかけた。
雪明りに照らされて、彼女の頬は白く光っている。安らかな顔だった。眠っているだけのように見えた。だから思わず、彼女の頬に触れてしまった。冷たかった。
全身の血が凍ったみたいに、体中がすぅっと冷たくなって、俺は、何も考えられなくなった。
ばあちゃん、と咲の声がした。振り返って咲の顔を見る。何も分からないといいたげな静かな眼差しだった。表情は強張り、どうしようもない空虚に包まれている。
菊さん、と俺はもう一度彼女の名を呼んで、その顔を見下ろした。膝に手を置いて、必死に泣くのを堪えた。鼻を啜ればツンとした冷たい空気が鼻孔を通り、鼻の奥が痛かった。
どうか、咲の傍にいてやってくださいね。
あのときの言葉を、俺は思い出していた。