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第143話 君の話




 咲ちゃんは俺の大事な友だちです。


 

 学校でも放課後でも、お休みの日にだって俺は咲ちゃんの家に遊びに行ったり、公園で遊んだりします。

 一緒に遊ぶのがとても楽しくてつい夜に帰ってしまうこともありました。そんなときは咲ちゃんのおばあちゃんに二人で怒られてしまいます。

 おばあちゃんは怒るととても怖いので、俺も咲ちゃんもいつも泣いてしまいます。

 でもその後咲ちゃんのおばあちゃんに頭を撫でてもらうのは、大好きです。

 

 咲ちゃんはちょっと顔がこわいです。

 よく、怒ってる? とか、にらんでるの? と言われています。俺もクラスの女の子に「咲ちゃんって怖い人なのに、佑くんは、なかよしですごいねぇ」って言われました。


 だけど咲ちゃんはとてもやさしい子だって俺は知ってます。ほかの子がお世話してない朝顔にお水をやっていたのは咲ちゃんです。捨てられていたこねこを交番まで運んだのも咲ちゃんです。

 みんな咲ちゃんのことを何にも知らないんだなーって思います。


 咲ちゃんは本当はとっても泣き虫で、こわがりです。

 九月が誕生日の俺は、一月が誕生日の咲ちゃんより、ちょっとだけお兄さんです。

 咲ちゃんは俺のとっても大事な友だちです。いっしょにいると楽しくて、ニコニコするからです。

 俺は、咲ちゃんのことを守っていきたいなあと思います。

 大人になってもずっと俺が守ってあげようと思っています。


 だから、ずっとずーっと、いっしょに遊ぼうね。咲ちゃん。









 冴園くん、という声に振り向いた。

 向こう側の路地から息を切らして走ってくる男の子がいる。汗ばむ頬に髪を張り付かせて、黒いランドセルを揺らしている。

 クラスメートの男の子だ、と気が付いたのはその子が目の前まで来てからだった。彼ははぁはぁと切らした息の合間から、あの、と声を上げた。


「あ、ありがとう」

「何が?」


 思わず疑問を声に出せば、彼は視線を泳がせ、何度か唇を震わせた。しばし戸惑っていた彼は不意に自分のランドセルを掴む。


「あ、あの……さ、さっき……これ、あっ」


 蓋の開いたランドセルのバランスが崩れ、中の教科書や筆箱が地面に滑り落ちた。カシャンとあちこちに散らばってしまったそれを見て俺は苦笑しながらしゃがみこむ。

 慌てふためきながら物を拾っていた彼は、ふと一つの本を手に取り、これ! と声を上擦らせて俺の眼前に突き付ける。視界が拾い上げたのは『簡単和食レシピ』と書かれた本のタイトル。表紙に描かれた煮物に彼の指が触れる。


「お礼言ってなかったから。取り返してくれて、ありがとう」


 少し恥ずかしそうな、小さく大人しい声で彼は礼を述べる。

 その言葉に、俺は休み時間の出来事を思い出した。


 クラスメートの男子二人が、他の子の本を奪い取ってからかっていた。返してよぉと泣くその子を笑う二人にムッときて、俺が本を奪い返してやったのだった。投げ付けたランドセルが見事に奴の頭に直撃した瞬間を思い出して、少し笑ってしまう。

 そうだ。そのとき本を取られて泣いていた子。この子だ。

 名前は確か…………そう、咲。東雲咲。


「それ言うためだけにわざわざ? 別にいいのに。律儀な奴だなぁ」

「お礼は大事だって、おばあちゃん、いつも言ってるから」


 言って、東雲はふにゃりと顔を緩ませた。


 あ、笑った。


 ふとそう思ったのは、俺が東雲の笑うところを見たことがなかったからだった。



 東雲はいつも自分の席に座っている。

 休み時間になっても、あいつが他の奴の所へ行くのを見たことがない。決まって図書室か、自分の席で本を読んでいるか。

 俺はクラスのほとんどの奴とは友達だ。それ以外の子とも、何度か話すことはある。だけど東雲とこうして話すことは初めてかもしれない。

 目付きが悪い、怖い奴だ。と誰かが東雲のことをそう言っていた。同調して、周りの奴らもそう言っていた。

 今対面してみれば、確かに東雲は目が鋭くて、少し話しかけづらい雰囲気がある。黙々と本を読んでいるならばなおさら話しかけるには勇気がいるだろう。


「助けてくれてありがとう」


 だけど、今俺にお礼を言う東雲は優しい顔で微笑んでいて。

 ちっとも、怖いとは思わなかった。


「図書室から借りたのか?」


 聞けば、東雲は大きく頷いた。彼が大事そうに抱えるレシピ本をしげしげと眺める。

 図書室に行ったことがないわけじゃない。一回は行ってみようぜと友達と見に行ったことはある。だけどあいつらが興味を示したのは少しの漫画と昆虫図鑑くらいなもので、料理の本を手に取ったことはない。

 それを尋ねると東雲は、料理を練習したいのだと答えた。母がいない代わりに家事をする祖母の手伝いをしたいのだ、と言う彼に首を傾げる。


「母さん旅行か何か?」

「ううん、お父さんとお母さんは事故で亡くなっちゃったんだ。僕が生まれたときに」


 あ、と顔色を変えた。

 自分の失言に思わず口を押える。隠しきれない狼狽えは簡単に東雲に気付かれてしまった。だが東雲は、むしろ自分の方が慌て、首を振る。別に気にしてないよ、と言う彼の姿は本当に何も気にしていない様子だった。

 この本がなかったら困ってた、と東雲は大事に本を抱きかかえる。安堵したように彼の指が優しく表紙を撫でた。


「冴園くんって凄いんだね。たった一人で、あの二人を言い負かしちゃうなんて」


 鋭い、怖い、と言われていた彼の目にキラキラとした光が滲んでいる。綺麗に光るその目から、俺の顔をそっと伺うような視線が向けられる。

 ただ、人にちょっかいをかけているのがムカついたから飛び込んでしまっただけだ。ランドセルを投げて少し怒っただけ。殴り合いの喧嘩をしたわけじゃない。俺にとっては、何てことない小さなことだ。

 けれど、東雲がまるでヒーローを見ているみたいに目を輝かせるものだから、俺は照れくさくて、嬉しくて、熱くなる胸をぎゅっと押さえた。


「冴園くんみたいに、僕も強くなれたらいいのに」


 不意に東雲が言った。途端、彼の目から輝きは消え、揺らしていた肩からも力が抜ける。

 今話していた嬉しそうな顔から、教室の隅で寂しそうに一人座っているときの顔へと戻ってしまう。強くなれたらいい。そう言いながらも、それが自分には不可能なことだと、分かっているように。

 俺は躊躇わず東雲へと言った。


「なればいいじゃん」


 東雲は困ったように俺を見て、無理だよ、と首を振る。


「そう簡単にできないよ。僕、暗いし、弱虫だし……」

「東雲なら変われるって。それに、弱虫のどこがいけないんだよ! 読んだことあるぜ。弱い人の方が、最後は元々強かった人よりも強くなれるんだって」


 漫画から得た朧げな知識を引っ張り出して東雲を励ました。俺からすれば、何もしないうちに諦めるなんて、おかしな話だと思う。

 強くなりたいならなろうとすればいい。俺みたいになりたいなら、俺を真似すればいい。やってみなくちゃ分からない。

 それでも彼は渋るような様子で首を横に振る。むぅ、と唇を尖らせた俺は、ふと名案を思い付き手を打った。


「俺みたいになりたいっていうなら、まずは一緒にいることから始めようぜ」


 東雲がキョトンとした顔で俺を見る。その顔に向けて、今日から一緒な、東雲。と俺は笑った。

 友達って、簡単に作れる。たった一言「友達になろう」と言うだけでできるんだ。たったそれだけでいい。

 俺みたいになりたいなら、俺を真似したいなら、だったら傍にいて見ていればいい。それだけできっと東雲も俺みたいになることができる。

 俺と東雲が友達になればいいんだ。とっても簡単だ。


「…………いいの?」


 東雲は言葉の意味を理解して、恐る恐る、という調子で尋ねてきた。その目には少しの不安と、眩い期待が込められていた。

 友達、という言葉に東雲は怯えを滲ませている。どうしてなのか、俺にはよく分からなかった。友達、というのが嫌なのだろうか。もっと別の言葉の方がいいのだろうか。


「何か悪いことでもあるのか?」

「う、ううんっ。ない、全然ない!」

「じゃあ決まり! 今日から俺達、親友な!」


 親友、と言葉を変えて言う。親友も友達も、俺にとっては大した違いなどなかった。言い方が違う同じ意味のものだと思っていた。

 だけど東雲は、ゆるりと頬を緩ませる。じわじわと喜びを滲ませたように表情が蕩け、抑えきれない高揚が彼の体を震わせる。


「親友…………」


 ぽそり、とそう呟いた東雲は凄く嬉しそうで。

 まともに話したことなんてこれが初めてなのに。今まで、東雲という男の子の存在なんて気にしたことがなかったのに。

 彼の笑顔が、今まで遊んできた友達の誰よりも、誰よりも幸せそうに見えたものだから。


「…………えへ」


 俺は東雲という新しい友達のことを、とっても好きになったんだ。


 俺には友達なんていくらでもいて。正直、このときはまだ東雲のことを特別だなんて思ったことはなくて。でも、親友って響きがこんなに喜んでもらえるのが嬉しくて。なら本当に親友という存在になったら素敵だろうなぁと考えて。

 咲ちゃんって呼ぼう、特別なあだ名の方が、親友って感じがするだろ? と俺が言えば東雲は恥ずかしそうに、でも嬉しそうに顔を赤くした。

 咲、という名前が女の子みたいだとからかわれていたから、もしかしたら嫌がられるかもしれないと思っていた。でも彼はそう呼ばれるのが嬉しいみたいで。きっと、特別な名前だと俺が言ったことへの思いの方が強かったのだろう。


「よろしくな、咲」


 俺が伸ばした手に、東雲は一瞬戸惑った。そろそろと脅え混じりに伸ばされた手を遠慮なく掴み、上下に振れば、東雲はほっとしたように息を吐いて手に力を込めた。


「……よろしく、佑」


 新しくできた友達は、全然怖くない顔で、とてもとても幸せそうに笑った。




「俺、今日親友ができたんだよ!」


 白いテーブルクロスの上に白い皿が並べられる。フライパンを揺すりながら母さんは、優しく微笑んで俺の話に耳を傾けた。


「へえ、どんな子?」

「男の子。クラスの子。初めて話したんだけど、思ってたよりいい奴だった!」


 三人分のコップをテーブルに並べながら俺は語る。今日咲と親友になったことを。俺があいつのことを助けて、それから放課後にあいつが話しかけてきたことを。

 母さんはニコニコと笑顔で俺の話を聞いて、友達じゃなくて親友なんだ? と言った。


「友達と親友って違うの?」

「そうだね……。友達の中でも、もっと仲が良くて、大事な友達っていうのが親友かなーって、お母さんは思うけど」

「じゃあ俺と咲ちゃんは違うのかな。だってまだ初めて話しただけだもん」

「そんなことはないんじゃない?」


 傾けたフライパンからふわりといい香りが俺の鼻をくすぐった。ケチャップと卵の香りに思わず頬が緩む。母さんは器用に卵で包んだケチャップライスを皿に乗せて言った。


「ずっと一緒にいても親友にならないお友達はいるし、会ったばかりで親友になれる子だっている。とっても大好きだって、大事だって思うんだったら、それはもう親友なんじゃない?」


 オムライスだ、と歓喜の声を上げる俺に、話を聞いてないんだからと母さんは苦笑した。

 もうすぐ父さんが帰ってくる。いつもみたいに三人でテーブルを囲んで、たくさんお話をしよう。

 母さんはこんなことを言うけど、やっぱり俺にはまだ理解できない。友達も親友も同じじゃん。大事な友達ってどんな子なんだろう。そう思うばかりで、いまいち納得することができない。

 ただいま、という声が玄関から聞こえてきた。出迎えてあげて、と母さんは卵を割って俺に言う。スリッパの音をパタパタと鳴らし、俺は廊下を走った。


「おかえりなさーい」







 友達って簡単に作れると思っていた。

 物心ついたときから俺の周りにはたくさんの人がいた。お話して、笑って、一緒に遊べば友達って存在は作れる。親も先生も、佑くんは友達がいっぱいいて凄いねぇ、って言ってくれた、頭を撫でてくれた。

 俺は皆の人気者だって。皆に必要とされてる人間なんだって。

 ずっと、ずっと思っていたんだ。

 それが間違いだって、俺は一生、気が付きたくなかったよ。







 男の子と女の子は、昔ほど一緒に遊ばなくなった。

 大きくてピカピカだったランドセルは、随分小さくボロボロになっていた。

 あちこちが傷だらけの、黒いランドセル。俺の背中に揺れていたその重みも、もう来年からはない。


「ことみと今度、遊びに行くんだ」


 机にランドセルを置いた翔太がそう言った。昨日の放課後、氷のように冷たく強張っていた顔が、今は太陽のように明るく輝いている。


「へぇ、おめでとう! ついに言ったんだ?」


 ずっと好きだったもんなぁ、と俺が言えば、翔太は顔をくしゃっとして笑った。

 朝一番の教室は、新鮮な話で盛り上がる。その中でも翔太が告げてきた彼の恋の成功話は俺の興味を引くには十分なみずみずしさだった。

 小学校も卒業間近となれば、皆、自分達は大人の仲間入りを果たしているのだと思いつつあった。昔よりずっと背も伸びて、顔立ちも大人に近付いている。幼稚な話ばかりではなくちゃんと大人と同じような会話だってできる。そう例えば、恋のお話とか。


「シュシュが欲しいんだって。だからほら、駅の文房具屋の隣にあるカラフルなお店。あそこ行くんだ」

「いいじゃん。で? 映画見たりすんの?」

「そんな金あるかよー! お小遣い前借りで、パフェ食べに行くんだ!」


 もう十を超えた歳になった。俺の友達も何人かは、恋、ってものをし始めていた。

 あの子が可愛いとか、あの子と付き合いたいとか。そういう話で盛り上がることも、何度かある。

 けれどほとんどは願望で終わってしまう話だ。付き合うことに成功したのは、身近な友の中では翔太が初めてだ。

 まるで砕いた宝石を散りばめたみたい。俺は翔太の目を見て、そんなことを考えた。

 差し込む太陽がキラキラと、彼の目に差し込んでいるからだろうか。夢のような幸せを語る翔太は眩しかった。普段よりずっと饒舌で頬が赤い。

 日差しが机の木目を金色に変える。影から手を出せば、ぬくい温度がじわりと手の平を温めた。心地良い熱を浴びながら俺は彼の話に耳を傾ける。


「…………だからこれから、あんまり遊べなくなるかも」


 ふ、と翔太の顔色が曇った。

 爪がカリッと木目を引っ掻く。申し訳なさそうな翔太の目が、日差しの中で薄明るく透けていた。

 ふは、と息を吐いた俺は、机に置いた腕に顔を突っ伏しワザとらしい声で言った。


「えー、悲しー。俺よりことみちゃんの方が大事だって言うの?」

「えっ、いや、それは…………」

「はは、冗談だよ。分かってるって。ことみちゃんの方が大事だろ?」


 小首を傾げながら彼に言う。躊躇うような仕草を見せた翔太は、それでも小さく頷いた。

 ことみちゃんの方が俺より大事。それは、念願叶って付き合うことになった過程を考えれば、きっと当然のことなのだ。

 おはよう、と翔太の後ろから声をかけてきた子がいた。振り返った翔太は、赤いランドセルを背負って立つことみちゃんを見て顔を一気に赤くした。舌がつっかえたようなしどろもどろのおはようという返事に、ことみちゃんは嬉しそうに顔を綻ばせる。


「じゃ、じゃあまた昼休み! サッカーのときにな!」

「いいよぉ。お昼も、ことみちゃんと仲良くしてなよぉ」


 ひらひらと手を振りながら言えば、翔太は更に顔を真っ赤にしてうるせえと文句を言った。それでも口元の緩みは隠しきれていない。きっと昼休み、いつもの校庭の場所に翔太はいないだろう。

 去っていく翔太を見送って、それから俺はゆっくりと机の表面をなぞった。日差しは移動し、俺の机には影がかかっている。先程までぬくかった温度は急速に冷えていた。

 顔を上げて教室を見回す。まだ教室には来ていない子もいて、来ている子だって授業の準備をしているからこちらには顔も向けてくれなくて。俺の席の周りには誰もいなかった。

 教室の扉が開く音に顔を向ける。翔太とことみちゃんが、楽しそうに笑いながら廊下に出ていくところだった。さっきまで話していた翔太の視線は、今はことみちゃんだけに向けられている。


「……………………」


 好きとか。恋とか、愛とか。俺だって興味はあるけど。まだ、それがどういう気持ちなのかはよく分かっていない。

 もっと俺達が大人に近付けば近付くだけ、人を好きになるって気持ちがどういうものか、分かってくるのだろうか。

 だけど誰かを一番に愛することになれば。それまで関わってきた人はどうなるのだろうか。家族とか、友達とか。今まで一緒にいた人達は。


「冴園」


 潜めるような小さな声が俺の名を呼んだ。

 視線を向けた先に咲が立っていた。自分の席を立っていつの間にか俺の席に来ていた彼は、首を傾げて俺を見ている。


「なんだか退屈そうだったから。先生来るまで、お話しする?」


 昨日おばあちゃんから教えてもらったことがあるんだ、と咲はあどけない顔で笑った。

 彼の黒髪が日に透けて柔らかな光を纏っていた。咲ちゃん、とそんな彼のことを呼ぶ。


「誰か好きな人とかいる?」


 咲は一瞬固まった。じわりと熱を持って赤くなった顔を必死に振って、俺の言葉を否定する。

 そんなのまだ分からない、と答える咲を見て何だかほっとする。だよなぁ、と同意を示して呟いた。


「好きって何なんだろうなあ」

「冴園、好きな人いるの?」

「いーや?」


 そう、と咲は顎に手を添えて首を傾げる。好きという言葉の意味を、彼もまた考えているのだろう。


「あ、でもね。好きっていうのは、いつもその人のことを考えることだ、って本で読んだよ。先週借りたやつ。一緒にいたら幸せだし、いなくてもその人のことを考えて、幸せになるってことなんだって」


 よくわかんないねぇ、と俺達は互いに言い合って笑った。

 声変わりをするくらい大人になれば分かるだろうか。クラスで一番になるくらい背が伸びれば分かるだろうか。

 俺達はまだ何も分からない。


 ああ、叶うならどうか、分からないままでいたかった。






「ただいまぁ」


 玄関を開けて声を張る。だけどスリッパの足音も、母さんの声も聞こえなかった。

 声が小さかっただろうか、と考えて、けれどこれ以上大きな声を出す元気はなかった。

 二時間目からなんだか熱っぽくて、保健室で測ってもらったら微熱があった。早退することになったけど、家はそんなに遠くないし、六年生にもなって両親を呼ぶのも恥ずかしいからと俺は一人で下校した。いつもと違い誰も歩いていない通学路を一人で歩くのはなんだか妙な気分で、ちょっとドキドキした。何かが起こりそうだって思ったから。

 けれど帰るまで何も起こることはなかった。

 帰るまでは。

 買い物に行っているのか。そう思い、俺は廊下に一歩足を踏み出した。


「やめてよ」


 足が止まる。静かな廊下に突如聞こえたその声に、一瞬心臓が跳ねた。

 母さんの声だ、とすぐに分かって緊張を緩ませようとした。けれどどこからか聞こえる母さんの声はまだ続いている。それからもう一人、母さんと話す誰かの声が聞こえた。二人分の声はぼそぼそと不明瞭に廊下に流れ、俺の足元まで届いている。

 友達? でも、男の人の声だ。知らない人の声。

 エアコンの調子が悪いって言ってたから、業者の人かもしれない。しつこいって言ってた営業の人かも。もしかしたら友達に男の人もいたの? それとも、父さんの知り合い?

 熱に浮かされた頭はぼうっとして、様々な思考を巡らせる。邪魔をしちゃいけない。何故だか俺はそう考えて、息を潜めて声の聞こえる方へと足を向けた。

 近付くにつれ、段々と息が苦しくなる。頭の奥から鈍い痛みが響き出す。全部熱のせい。そう思って、俺は聞こえてくる声の内容を理解しないようにしていた。

 母さんが誰かに言ってる「愛してる」って言葉も、熱のせいだって。


「ねえ、流石にここじゃまずいでしょ」

「駄目? でも興奮するなぁ。奥さんの家でやるのって」

「何言ってんのよ。ほら、いつものとこ行こ? 落ち着いてできるし」

「えー、やっぱり駄目?」

「当たり前でしょ。ほら、あなたも私を愛してるんでしょ? だったらお願いくらい聞いてほしいなぁ」


 リビングには男女がいた。一人は見知らぬ男の人、一人は母さん。

 でもそれが母さんだと、すぐに俺の頭は認識しない。いつもと違う可愛い服を着ていたから。いつもと違う綺麗な髪型と化粧をしていたから。だからあれは母さんじゃない。そう、思いたかった。

 母さんは父さんに肩に腕を回されないし、母さんはあんなに父さんに寄り添わないし、母さんはあんなに高い声を出さないし、母さんは、母さんは。

 二人が顔を見合わせて、そのまま口と口をくっ付けた。指と指が絡まって、交差する。


「やめてってば」

「カーテンは閉めてるよ。それに、抵抗しなかったくせに」


 二人が立ち上がる。俺は咄嗟に隣の部屋に隠れる。二人の足音が、近付いて、遠ざかる。


「夕方までに戻れば大丈夫だから」


 扉が開いて、閉まって。家の中から音は何にもなくなって。

 俺はリビングに向かった。閉められたカーテンは部屋を暗くして、隙間から差し込んだ細い光が床上に舞う埃をキラキラと映し出していた。

 熱のときにはよく悪夢を見る。そう教えてくれたのは、咲と一緒に読んだ本だった。

 カーテンを開けよう。日を見よう。俺はぼうっとした頭で考えて、窓へと向かった。

 だけどソファーの横を通り過ぎたとき、二人の残り香が俺に届いた。

 果実の汁みたいに、濃厚な甘さと、さっぱりとした爽やかさを持った香水の香り。蜂蜜みたいな粘度でとろりと俺の鼻にまとわりついたその香りは、俺の肺へと潜り込む。

 卵とか、柔軟剤とか、お日様とか。俺が母さんからよく感じていた香りは全て、暴力的なまでの甘い香水に塗り潰されていた。

 目が覚めたようにハッキリと、俺の頭は現実を認識した。


「おぇ」


 吐いてしまったのは多分、熱のせいだろう。





 佑くーん、と間延びした声が聞こえて俺は目を開けた。

 部屋がオレンジに染まっている。ベッドから起き上がってカーテンを開ければ、目が眩むような夕日が俺の目を焼いた。

 佑くんいますかー? ともう一度声が聞こえる。窓を開け、何度も瞬かせた目をゆっくりと下に向ける。玄関の前に立つ咲が俺を見て密やかに手を振った。

 慌てて身を隠し、部屋を出て階段を降りる。だがリビングの前を通るときに一瞬足が止まった。


「母さん」


 言葉は返ってこない。覗いてみても、そこに母さんの姿はない。

 玄関の扉の前でもう一度足を止めて、俺は息を吸った。頭の奥から響くズキズキとした痛みを堪え、胸の奥に大きな石が転がっているような不快感を飲み込む。

 玄関の横には大きな姿見が付いている。毎朝、この鏡を覗き込めば笑顔の自分と目が合ったのだ。

 自分の無表情が鏡に映っていることに気が付いて、俺は力を込めて口角を押し上げ、扉を開けた。


「咲ちゃん! 来てくれたの?」

「冴園!」


 俺の姿を見た咲は顔を綻ばせた。彼は両手に抱えたランドセルを開け、一枚のプリントを渡してくる。


「今日の宿題。……大丈夫? 明日、来れそう?」

「大丈夫。少し寝たら、スッキリした」


 昼前に帰ってきてから少しでも眠っていれば、胃のムカつきは消えたかもしれない。ずっと目を開けて壁の白色を眺めていても、体の不調はちっとも解決しなかった。

 頭痛を堪えて咲に笑顔を向ける。それでも咲は少しも安心した表情を見せず、俺の額に手を当てた。


「でもまだ熱あるじゃん。休まないと。お母さんは?」

「…………おでかけぇ」


 お出かけ、という言葉に嘘はない。母さんは今もお出かけをしているのだから。

 咲の顔が不安げに曇るのを見て、俺は笑った。


「心配してくれてるの? 咲ちゃんは優しいなぁ」


 咲は少し唇を尖らせた。移るとまずいのだから、早く帰って。そう言おうとした俺の手を、咲が素早く取った。

 咲の怒った顔、久しぶりに見たな。ぼうっとした頭でそんなことを思った。


「心配するに決まってる」


 だって、と咲は少し唇をもごつかせた。彼はより強く俺の手を握る。だって、ともう一度彼は繰り返した。


「し、親友でしょ、俺達」

「……………………親友」

「おかゆでも作って持ってこようか? 得意だよ。おばあちゃんも褒めてくれるんだ……冴園?」


 きっと熱のせいだと思う。

 ふらりとよろけた足が、手が、目の前の咲に伸びて、その頭を抱きしめた。咲は突然の出来事に驚きバランスを崩し、わぁ、と俺ごと地面に倒れてしまった。


「咲ちゃん」


 何するんだよ、と文句を言いかけていた咲は、俺の声に動きを止める。


「…………どうしたの?」


 そうっと伸ばされた手が俺の肩を撫でた。彼に抱き着いて顔を隠したまま、俺は答える。


「やっぱりまだ熱あるみたい」

「そう……部屋連れていこうか?」

「うん。でも、ちょっと少しだけこうしてて。今は動けないんだ」


 俺の震える肩を咲はどう受け取っただろう。背中を擦る手は段々上に向かって、俺の頭を優しく撫でてくれた。

 大丈夫だよ、大丈夫。咲は何度も俺にそう言ってくれた。地面に当たる背中は痛いだろうに、それでも。

 吐き気がなくなるまでこうしていても咲はきっと許してくれるだろうから。我儘に俺は甘えて、咲の背に強く手を回した。


「咲」

「なぁに?」

「俺達親友だよな」


 顔は見えなかった。だけど、きっと笑顔を浮かべているのだろうと思うほどに温かな咲の声が、俺に返事をしてくれた。


「俺達はずっと親友だよ、佑」

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