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第141話 絶望

 全て終われば私達の日常が戻ってくると思っていた。

 この夜が終わったら。帰ってきた私達を彼は、おかえり、と笑顔で出迎えてくれると思っていた。

 だから私達は、ただいま、と答えるためにここまで必死で戦ってきたのだ。

 また三人で過ごしたいから。

 また三人で笑いたいから。


 ねえ、言ったじゃない。

 また三人で遊ぼうねって、あなたが言ったんじゃない。


 どうして。






 三百六十度全てガラス張りの窓から第十区の夜景が見渡せる。

 濃厚な黒い夜の中に、街明かりという人工的な星が輝く。真夜中にも関わらず、無限の星は数を減らさない。青白い光、オレンジ色の光、様々な色が輝き、強い光を高層階のビル内にも届かせる。薄暗い部屋に立つ冴園さんとあーちゃんの顔が、明星市の光に薄く照らされていた。

 キラキラ、キラキラ光る夜はとても綺麗で、夢みたいだと思った。

 夢ならば良かったのに。


「嘘ですよね」


 随分と広い部屋に私の声が落ちた。

 か細い声は硬質な床に触れた途端、パラパラと砕け散る。我ながらあまりにも頼りない声だと思った。薄氷のように、軽く突いただけで割れてしまいそう。


「冗談ですよね。冴園さんがここにいるはずがない。もしかして、無理矢理連れてこられたんですか?」


 答えは返ってこない。心臓が喘ぐようにドクドクと脈打ち、暑くもないのに汗が滲む。

 次第に上擦る声は床の上で何度も砕け、足元に積もっていく。言葉を発するたび足に絡み着き、身動きが取れなくなっていく。

 自分の発した言葉が心を傷付ける。目の前の現実を突き付け、けれどそれを否定して、頭を殴り付けて混乱させている。


「脅された、とか。何か理由があってここに連れてこられたんでしょう。自分の足でここに来たわけじゃない。そうに決まってます。ですよね? ……答えてくださいよ、ねえ、そうでしょ!?」


 質の悪い冗談だよ。冴園さんがいつものような笑顔で答えてくれることを願って、縋るような視線を彼に向ける。

 信じられないのは、彼の目が、顔が、いつも私の傍にいる彼と変わらなかったから。


「……お願いですから…………言ってください。嘘だって、言って…………」


 怒らないから。絶対に何も言わないから。しょうがない人だなー、って笑うから。

 だから、お願いだから。冴園さん。

 冴園さんは優しい微笑みを私に向けたまま、答えた。



 冗談だよって言ってくれたなら。

 嘘だよって言ってくれたなら。

 私達はどれだけ救われただろうか。



「オオカミとネコならここまで来れると信じていたよ」


 視界に映る全てが崩れる。

 部屋に置かれた机も、観葉植物も、額縁も。部屋中の何もかもが視界の中で形を崩していく。壁も床も柱も何もかも、何もかも。

 彼の悠々とした言葉も態度も、決して、脅されて連れて来られた人間のものではない。そのことを理解した瞬間、震えた吐息が零れた。

 全身から力が抜けていく。ナイフを取り零しそうになり、震える指先を必死で柄に絡めた。

 冴園さん達との距離は、せいぜい数メートル。飛びかかることも容易い距離。けれど今の私の足は、動かそうとしても上手く動かせなかった。


「いっ…………」


 舌がつっかえる。喉が震えて、上手く言葉を吐き出せない。

 何度も失敗してようやく吐き出した言葉を冴園さんに投げ付ける。


「いつから」


 そう、いつから。

 いつから彼は敵だった?


「最初から」


 答えはあまりにも残酷だった。


「今日のことはずっと前から決まっていた。俺が君と初めて出会った日には、既に」


 冴園さんと初めて出会ったのは、殺し屋になってすぐのこと。

 東雲さんが眠れない夜に彼はやって来た。咲ちゃんの親友なのだと言って、人懐っこい笑顔で私に話しかけてくれた冴園さん。明るくて優しくて、お調子者だけどちゃんと大人な冴園さん。


 だけど、私と彼が初めて出会った日には、既に。


 彼は私にとって、信頼できる大人の一人だ。

 信頼していた。

 本当に。


「ずっと…………」


 高層階のこの部屋には何の音も聞こえてこない。車の音や人の話し声、そんなものが一切届かないこの場所はどこまでも静かで、耳が痛いくらい。

 溜息さえ響く。下手をすれば心臓の鼓動さえも聞こえそうだ。


「ずっと一緒にいたのに」


 私の喉から絞り出される声。涙に濡れた声はくぐもって、震えて、聞き取りづらい。訴えるような声に、冴園さんは静かにうん、と頷いた。


「傍にいてくれた。私達を励まして、元気付けてくれた」

「ああ」

「悩みを聞いてくれた。一緒に遊んでくれたじゃないですか。いつも、優しくしてくれて……」

「そうだね」

「……傍にいたのに。ずっと一緒にいたのに! ずっとずっと私と東雲さんの隣にいてくれたのに!」


 全身の力を込めて私は叫ぶ。荒げた声と共に涙が飛んで、床に落ちた。

 信じたくなかった。


「冴園さんが、明星市を壊そうとしているんですか!?」


 冴園さんの顔色は変わらない。私にはそれがただただ悲しかった。

 涙を流しても、視線に懇願を乗せても、彼は私達の手を取ってはくれない。ただ優しい顔で笑うだけだった。いつもと変わらない、優しい大人の顔で笑って言うだけだった。


「ごめんね」


 その一言がどれだけ私の心を傷付けたのか。誰よりも人の気持ちを考えることができる冴園さんならば、痛いくらいに分かるはずだ。



「――あの鳥野郎に口止めを依頼していて良かったわね」


 あーちゃんが冴園さんに肩を寄せ、にんまりと笑う。呆然としていた私は彼女の言葉に目を見開き、ほぞを噛んだ。如月さんとのやり取りを思い出す。どうしようもない感情が心中を駆け巡る。


『お相手側から口止めされているからね』

『君達に伝えてほしくない情報にブロックをかけているのさ。勿論多額の金で』


 如月さんが私達の情報を漏洩していることが発覚した際言っていたこと。

 彼は敵側の情報をブロックしていると言っていた。殺人鬼の弱点を私達に知られないように、街のルートを把握され想定外の行動をされないように、聞いた当初はそんな目的だろうと思っていたのだが。

 勿論それもあるのだろう。だが一番は、私達に自分達の存在を知られないようにするためだったのではないか。あーちゃんが、冴園さんが敵だと知られないように。

 …………それは一体、いつから秘匿されていたのだろうか。私達が第十区に向かうことを決めたときから? それとも、最初の最初。私が冴園さんと出会う前から?

 はは、と乾いた笑いを零す。どんな反応をすればいいのか分からなかった。


「ああ、もうそんなに震えて黙り込んじゃって。何のためにここまで来たの? シャキッとしなさいよ、つまらないじゃない」


 震える私にあーちゃんが言う。彼女の態度は街で会うときとまるで変わらない。まるで今にも「これからお茶でもしない?」なんて言ってきそうな顔。

 長いまつ毛が揺れ、その下の瞳が光る。光を浴びた宝石のように輝く瞳。暗闇でも光るそれは一瞬猫の目を思わせた。

 あーちゃん、と声をかければ、彼女は間延びした声でなぁに、と答えた。


「教えてよ」

「何をかしら?」

「どうしてこんなことに」


 あーちゃんが口を開けて笑った。弾けるような笑い声が部屋に響き、私の体に突き刺さる。

 ひとしきり笑った彼女はくすくすとした微笑みを口元に残し、鋭い目で私を見つめる。その視線が肌に触れた瞬間、激しい恐怖が背筋を震わせる。静かな敵意を感じ、私の警戒心は一瞬にして膨れ上がった。


「全部教えてあげるって言ったものね。教えてあげる、あなた達が知りたいこと」


 そう言いながらも彼女は数歩後ろに下がる。近くの柱の陰にしゃがんだ彼女は、一丁の銃を手に取って立ち上がった。立ち上がった彼女を視界に入れた瞬間、膨れ上がっていた警戒心が弾け、私の体を動かす。隣の東雲さんの手を掴んで駆け出した私を、後ろからあーちゃんの声が追いかけてきた。


「だけどその前に遊びましょうよ」


 黒い筒状の銃は、普段東雲さんが扱っているような拳銃ではない。

 短機関銃、サブマシンガン。

 私と東雲さんが柱の陰に隠れた直後、引き金が引かれた銃から弾丸の嵐が噴き出した。

 耳を劈く発砲音が響く。重い唸り声を上げて飛んでくる大量の弾丸。一発一発の大きさは小さいものの、威力は砲丸が飛んでくるようなものだ。隠れている柱の角に穴が開く。バコンと音がして石のような破片が飛び散る。反撃をしようにも、この嵐が止むまでは迂闊に顔を出すことなんてできない。


 不意に、腕を掴まれる。骨が軋むくらいの力で。強い痛みにもしや敵かと顔を上げたが、そこにいるのは東雲さんだった。彼は柱に背中を預け、俯いてその肩を震わせていた。


「…………ぃ。…………だ」


 ぼそぼそと彼は何かを呟いていた。だがか細い声は、この銃弾の中でちっとも聞こえない。

 俯く東雲さんの顔は前髪に隠されている。少し覗き込めば、彼がどんな顔をしているかは見ることができるだろう。だけど見ていいのか。見てしまって、そのとき私は、どんな顔をすればいいのか。


「しの…………」


 名前を呼ぶ前に、彼が顔を上げてしまう。油断していた私の視界に、間近の彼の顔が映る。目を反らすこともできなかった。

 血の気が引いた蒼白の顔。涙の膜が張った目が縋るように私を見つめている。わななく唇が引き攣った息を震わせる。

 その顔に、オオカミという殺し屋の威厳も、頼もしい大人の男としての顔も、何もない。


「無理だ」


 私は彼に聞いた。友達であろうと親であろうと、相手が誰であっても殺せるのかと。そのとき彼は、分からない、と言った。

 その答えはあまりに早く、最悪のタイミングで返された。


「できない。俺には殺せない。冴園を殺せないよ、ネコ…………!」


 今にも涙を零しそうな東雲さんの目が私に縋り付く。憔悴した彼は、まるで神様に助けを乞うているように、私の腕を強く掴む。震える足から力が抜け、彼はその場にずるずるとしゃがみ込んだ。私は無言で彼を見下ろす。指先一つ、動かせない。


「頼むから」


 彼は言う。今までに見たことがないくらい弱く、頼りない声で言う。


「助けて…………」


 …………ああ、私は、一体どんな顔で彼を見ているのだろう。

 自分でも、自分が浮かべている表情が、心が、ちっとも分からなかった。



「やっほぉ」


 重い空気に不釣り合いな軽い挨拶。弾かれたように振り向いた私の目に、こちらに飛び込んでくるあーちゃんの髪が見えた。

 咄嗟に突き出した肘に、彼女の靴底がぶつかる。ビリビリと骨が痺れる痛みに顔を顰め、私は東雲さんを一瞥した。放心する彼の様子を見て、ぐっと奥歯を噛む。駄目だ。今の東雲さんは、何もできない。

 彼の手を振り解いてあーちゃんへと飛びかかる。柱から飛び出し、もつれ合うように絡まった私達は近くの窓際まで転がった。私の上に馬乗りになったあーちゃんの腰で何かがキラリと光った。そこから迅速な動きで突き出された何かを、反射的にナイフの柄で受け止める。私の持つナイフとよく似た小型のナイフの刃が、ギチギチと柄に食い込んでいた。あーちゃんが笑いながら身を乗り出してくる。サラリと長い黒髪が私の頬に垂れたかと思うと、次の瞬間、彼女の鋭い歯が私の肩に突き刺さった。


「うあっ!」


 肩を濡らす熱い雫。肌を裂き埋め込まれた歯が私の肉を抉り、苦痛を生み出す。悲鳴を上げる私の口に、するりとあーちゃんの髪がカーテンみたいに垂れる。

 まつ毛の淵に彼女の髪が触れた。艶やかな黒髪は夜の色。黒いカーテンの中で彼女の白い顔がくすくすと妖艶に笑う。興奮で仄かに赤く色付いた目元が、妙に色っぽく私を見下ろした。笑みの形を作った唇から、私の肩の間に、つぅっと赤い糸が繋がる。


「刺激的な夜は一度きり」


 あーちゃんの声はぞっとするほど欲に濡れていた。

 思うままに武器を扱い、敵に掴みかかり、好き勝手に動くことへの興奮。仮にも友達である私に攻撃するという罪悪感なんて彼女にはない。

 小さな爪が私の首をカリ、と引っ掻く。鈍く沁みるような痛みより、じわりと滲む少量の血の熱さをより強く感じた。


「楽しみましょ? 子猫ちゃん」


 ぞわりと膨らんだ恐怖に従い、思わず彼女を蹴り飛ばした。きゃあん、と嘘くさい悲鳴を上げて倒れた彼女から距離を取る。


「いったぁ! 乱暴なんだから、もう!」

「コラ、銃を使うなら事前に言ってくれよ。耳が痛いじゃないか」

「反応が鈍い方が悪いんでしょ?」


 耳を押さえてしかめっ面をする冴園さんと笑うあーちゃん。呑気な二人の会話が、どこか遠くに聞こえる。

 ナイフの刃の輝きが、窓から見える街の明かりにぼやける。眼下の景色。たくさんの人々が生きていることを示す明星市の明かり。

 街の光、星の光、どちらもいっとう強く眩く煌めくのは夜だ。世界が闇に包まれるこの時間が、一番光が見える。

 光が眩く輝く刺激的な一夜。

 私の人生においてもっとも忘れられない一夜。


「冴園さん……あーちゃん…………」


 突き付けたナイフは、あまりにも酷く震えて、滑稽だった。

 二人が私を見る。薄く微笑むその顔は、これまで戦ってきた敵の誰よりも優しく、残酷だ。


 朝が来ればきっと全てが終わる。あとたった少しの時間で全てが終わる。それまでの、長い長い夜。

 朝は来るのだろうか。

 私達に朝はやってくるのだろうか。


 少なくともきっと、この場にいる全員が暖かな朝日を浴びることはできないのだろう。

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