第140話 救うということ
矛盾している、と東雲さんが呟いた。
「お前達のボスは、この街の秩序を崩壊させようとしている。それが『この街を救う』……? 何を言っているんだ。訳が分からない」
「壊すことが救うことになる」
ヒツジちゃんも同じことを言って、ハリネズミさんの服に縋り付いた。
私達の混乱はますます激しくなっていく。彼女達の考えが分からず、ただ伸ばした指に漠然とした不安が絡み着き、心臓へと潜り込んでくるような、どうしようもない不安だけが強くなっていく。
「お前達は枷を外せない。だけどあたし達は外せる。この街を守りたいという強い目的があったとき、お前達よりもずっとまっすぐに突き進めるのはあたし達の方だ」
「さっきから……何を言っているんだ! お前達がこの街を守ろうとしている? ふざけないでくれ。ギリギリの均衡を保っていたがゆえに明星市は一つの街として機能していたんだ。それを破り第十区の犯罪者を開放なんてすれば大勢の一般人が死ぬ。大虐殺の末に待っているのは、この街の崩壊だ! 救いなんてない!」
東雲さんの言葉にハリネズミさんは静かに目を伏せた。まつ毛の下に彼女の粗暴さが隠れ、静かな愁いが滲んだ。突然ガラリと変わった彼女に、私達は思わず狼狽える。
知ってるか、と彼女は静かに言う。力が込められ血管が浮いた手は、感情を抑えるように小さく震えている。
「喉の渇きに耐えかねて他人の小便を飲む子供を、たった一口分のパンのために地面に頭を擦り付ける子供を知ってるか。あたしは見た。スラム街みたいな光景をあたしはこの街で何度も見てきたよ」
私達は何も反応を返すことができなかった。彼女の話が例えばなしでもホラ話でもなく、実際にあった話なのだとその目が語っていたから。
臓器に身分は関係ないんだよ、と売られることを受け入れて笑っていた子供がいた。薬の取り引きを平気で行う女の子がいた。第十区に入ってから、私は自分の目が信じがたくなるような光景をたくさん見てきた。
明星市は犯罪都市だ。たくさんの犯罪が日夜蔓延っている。それでも、隔離された第十区のこのありさまを考えてみれば、他の区はずっとずっと平和なのではないかと思う。それほどまでにこの区の現状はおぞましい。人間の権利を奪う加害者が、権利を奪われ畜生以下の扱いを受ける被害者が、山ほどいる。
「お前達の救う明星市にこの子は含まれていたか」
ハリネズミさんがヒツジちゃんの肩を強く抱いた。ヒツジちゃんは静かに私達を見つめている。澄んだ赤い瞳に見つめられ、私は思わず視線を逸らしてしまった。
そうだよな、と乾いた笑いが聞こえる。誰も返事を返すことはなかった。だって、ハリネズミさんの言う通りだったから。
私達はこの明星市を救いたいと思っていた。大勢の人々の命が失われることを阻止したい。それがこの街を救うことだと思っていた。
だけど。だけどそれだけじゃあ、ヒツジちゃんみたいな子は救われない。
既に被害者となっている人達を救うための行動を、私達は起こしていない。
「現状を維持するだけじゃ、いつまでたってもこの街は地獄なんだよ、殺し屋」
ヒツジちゃんから手を離し、ハリネズミさんが前に出る。大量の針を装填した銃口がこちらを向いている。
吐き出される大量の針は、彼女達の思いだ。私が構えるナイフは、私の思いだ。考え方で決着が着かないのならば、物理的な交流が勝敗を決める。
「お前達が本当にこの街を守りたいというのなら、第十区で過ごしてみろよ。いつまでもこうやって悪者を隔離するばかりじゃ意味がねえって分かるはずだ。救いたいものがあるなら、今救われていない奴らのことを知ろうとしろ。それができないくせに甘っちょろいこと言ってんじゃねえ! なあ、この街を救いたいって気持ち、あたし達殺人鬼の方が強いんだよ、殺し屋ぁ!」
彼女の指が引き金にかかろうとする。私がナイフに添えた指がピンと張る。東雲さんの銃口がハリネズミさんの肩を狙う。ネズミくんがギュッと目を瞑って肩を強張らせる。仁科さんがハリネズミさんに向かって飛びかかった。
弾丸よりも針よりも速く、仁科さんが宙を飛んだ。私達が気が付いたとき、既に彼はハリネズミさんの銃口のド真ん前に立っていた。前髪に隠れた左目を狙う銃。ハリネズミさんの指が引き金を引く。けれど、飛び出した針は全て、固い床に突き刺さって周囲に散らばった。
あまりに素早い。仁科さんの腕が銃を床に叩き付けたところで、ようやく目の前の仁科さんの存在を認識したハリネズミさんは、ギョッとしながらも素早く距離を取る。
「は……、ははっ、やるじゃねえか!」
ハリネズミさんが笑い、拳を構えた。堂に入った構え方から、彼女が決して銃だけに頼っていたわけではないことを悟る。
「お前のことも聞いてるよ、仁科浩介。なかなか波乱万丈な人生だったんだってな」
仁科さんは何も言わない。ハリネズミさんに対し拳を構えることもなく、無言で彼女を見つめている。
「母親から色々いじめられてきたんだろう? 母親の客達からも暴力振るわれてたそうじゃねえか。殴られた痣は消えても、煙草の火傷はまだ残ってるのか? 無理矢理薬を打たれてた痕は? もしかして、それを隠すために腕を切ってたのかよ。可哀想に」
「……………………」
「辛い思いをした子供はなかなか幸せになれない。お前がそんな性格をしてるのも、殺し屋になったのも、母親が原因だったんだろ。まあそんな風に育てられちゃ歪むわ。恨みを晴らして過去と決別したくても、この世にいないんじゃできないしな。玄関開けた途端首吊りママとご対面ってどういう気分だったんだよ、なぁ」
どれだけ馬鹿にされようと仁科さんは反論一つ返さない。第三者の口から初めて知る仁科さんの過去に、聞いているこちらの胸が痛くなった。
大まかに語られるだけでも仁科さんがどんな人生を歩んできたのか、表面くらいは掬い取ることができた。それだけでもこんなに胸が苦しくなる。
仁科さんも救われない子供だった。その環境が、今の彼を作り上げたのか。
仁科さん、と思わず静かな声で呟いた。こちらに背を向けているせいで彼の顔は見えない。どんな顔をしているのか。今、何を考えているのか。
「過去は人を変える。お前がこの世界に来てしまった原因も分かる。だからといって、情けはかけない」
「……………………」
「殴り合って共倒れでもしてくれりゃ楽だと思ってたわ。けど、やっぱ自分の手でぶん殴る方がずっと気持ちいい。弱ってるとこ悪いな。すぐ終わらせっから、安心して眠ってくれ。眠るの、大好きなんだろ? 二度と目覚めなくしてやるよ」
楽しそうに笑うハリネズミさんはまるで少女のような顔をしていた。晴れ晴れとした笑顔が仁科さんに向けられる。けれどどうにもその笑顔に背筋が震えてしまうのは、皮一枚を剥いだその下に、激しい炎が燃え盛っているのを知っているから。
仁科さんは無言だ。けれどその体は小さく、ふらりふらりとよろめいている。薬を打たれ、私と戦った彼の体は傷だらけで、あちこちから滲んだ血は床に点々と模様を描いている。
ハリネズミさんは強く拳を握り、優しく笑った。
安心して死ね、と告げて拳を振り抜く。重く、強く、風を切る音がする。
「あたし達の邪魔をするな、殺し屋!」
木の板が真ん中からへし折られたときのように、固いものがしなりの限界を超えて曲げられたときのように、ベキン。そんな音がして、固いものが折れた。
この場に木の板なんてない。その音を立てたのは人間の腕だ。肘と手首の間に新しく増やされた関節。ぷらんと力なく揺れた手の平が、目の前の鼻をぺちぺちと叩く。
鬱陶しそうに、仁科さんは鼻面を叩くハリネズミさんの手を払いのけた。
「あ?」
ハリネズミさんが折れた自分の腕を見てぽかんと口を開くのと、
「うるさいな」
白ウサギが苛立ちの声と共に床を靴で叩いたのは、同じタイミングだった。
全身に広がる恐怖が私の足を床に縫い付ける。ドンドンと鳴る心臓が周囲の音を遠ざけ、激しい耳鳴りに頭が痛くなる。
体中が恐怖に震えているのは、今見ているもののせいだ。
だけど私の視線は、凍り付いたようにその一点だけを見つめ、逸らすことはできなかった。
「誤解してるよね」
ぐしゃ、と仁科さんの拳がハリネズミさんの顔面を殴る。音も飛び出る血も、まるでスイカを素手で殴っているみたいだった。仁科さんの白い服も髪も真っ赤に濡れて、薄いピンク色の液体がたらたらと肌の上を滑る。倒れる彼女の上に馬乗りになって、仁科さんは何度も何度もその体を殴り付けていた。
「ママがおれに煙草を押し付けて、おっさん達がおれを殴って腕に注射して、ママが自殺して、施設に入れられて。皆、おれのことが可哀想だって言う。そのトラウマは治せるからって。誰も辛かったなんて言ってないのに。おれは全部どうでもよかったんだよ」
白い髪が光を透かす。キラキラと輝く髪の毛一本と一本の間に薄い血の膜が張り、ぷつりと割れて雫になった。
「腕を切るのは生きることに飽きたから。勘違いしないで。絶望したりしたわけじゃない。起きるのも、歩くのも、息するのも面倒になったからってだけ。ママが死んだのがトラウマ? 虐待されて心を病んだ? はは、うるさーい。知らなーい」
仁科さんは笑いながらハリネズミさんを殴る。
ハリネズミさんの鋭い髪が血で濡れて頬に張り付いている。床に倒れるその体から、血が滲んで床に広がっていく。
最初は激しく彼を罵倒し抵抗していた彼女が、呻き声を漏らし動かなくなるまでに、時間は数分もかからなかった。
「勝手におれの気持ちを決めないで。どうでも良かったって、言ってるじゃん」
強がりとかそういうわけではなく。仁科さんは心底面倒くさそうな口調でそう言った。ガシガシと掻いた白い髪が乱れる。ドロドロに淀んだ赤い左目を覗かせて、ハリネズミさんを睨み付ける。
「おれが殺し屋になったことに過去なんか関係ない。水とリンゴ、それから布団を買うお金が欲しかっただけ。一回でいっぱい金が入ってくるから、凄く楽だった。それだけ。もしもママが今も生きていたとしても、おれを撫でてくれるような人だったとしても、おれは殺し屋になってた。だって楽じゃん。なんで駄目なの?」
うるさーい、と間延びした声で言って仁科さんはまたハリネズミさんを殴る。
怒鳴っているわけでも叫んでいるわけでもない。ただただ面倒くさそうに。朝に布団から出るのをぐずるような声音で。それが逆に恐ろしくてたまらない。
仁科さんは本当に、自分の身に起こった不幸をなんとも思っていなかった。
「殺し屋も殺人鬼もどうでもいい。この街がどうなろうと知ったこっちゃない。だから、どうでもいいんだって」
仁科さんの手がハリネズミさんの頭を持ち上げる。辛うじて呼吸をしているも、その頭は血だらけで目や鼻まで血で覆われて表情が分からない。仁科さんの手に、ぐぅっと力がこめられる。
兎、だなんて可愛い名前が死ぬほど似合わない仁科さん。どこまでも静かで怠惰な暴力は、あまりにも狂暴で恐ろしいものだ。
「喋るな、触れるな。うるさい。最近は街がうるさいから。また元みたいに静かにするには、お前らを殺さなくちゃって聞いたから。だからここに来ただけだ。おれはただ静かに眠りたいだけなんだってば」
「やめてぇ!」
張り裂けんばかりの声でヒツジちゃんが飛び込んだ。私達と同じく足を恐怖に縫い付けて固まっていた彼女も、ハリネズミさんの頭からミシミシと聞こえる音を聞いて、小さな体を必死に動かしたのだ。
無理矢理二人の間に潜り込んだ彼女は、ハリネズミさんの頭を守るように抱きかかえる。幼い女の子。そんな彼女にも容赦なく仁科さんの暴力が降る。
仁科さんの力に一切の手加減はない。かえって、敵からやってきてくれるなんて好都合だとばかりに微笑みを浮かべる。
肩や腰に打撃を受け、ヒツジちゃんは苦悶の声を上げた。それでも離れようとはしない。元々白いのに更に血の気の引いた顔が仁科さんを睨み付ける。真っ赤な目から零れた涙が、床の血と混じり合う。
蹄の靴が仁科さんの胸を蹴ろうとした。まともに受ければ鋤骨くらいは折ってしまいそうな強力な一撃。しかしそれを、仁科さんは顔色一つ変えず手で受け止める。ヒツジちゃんが恐怖を顔に浮かべても彼は手を放さない。
あまりにも一方的だ。あれだけ私達が苦戦していたハリネズミさんとヒツジちゃんが、白ウサギ一人を前にして絶望に泣いている。今の彼を恐ろしいと思うのは、敵だけでなく、私達も同じだ。
「やめて、殺さないで。殺さないで。ハリネズミを殺さないで!」
恐怖に全身をガタガタと震わせるヒツジちゃん。その顔に、私と対峙しているときの余裕さは一切ない。前面に押し出された彼女の脆い部分。一人の少女の部分が、悲痛な声で泣き叫ぶ。
「わたしを助けてくれたの。ゴミ箱に捨てられてたわたしを、育ててくれた。人間にしてくれた! わたしには、この人がいないと駄目なの! お願い、殺さないで。殺さないで!」
「邪魔」
「嫌だっ、いやあぁ! やだ、やだぁ! ハリネズミ、ハリネズミ!」
容易くヒツジちゃんを掴んだ仁科さんは、乱暴に彼女の体を放り投げた。遠くの床にベシャリとその体が叩き付けられる。痛いだろうに、それでも彼女は痛みを訴えることなく立ち上がり、またハリネズミさんの名を呼びながら走っていく。近寄ってきた少女を、仁科さんは虫を払うときの目で蹴り付けた。小さな体は吹っ飛んで床に転がる。
止めなければ、と考えた。このままだと仁科さんはハリネズミさんを殺す。ヒツジちゃんも。私達の目的はボスを倒すことで、邪魔をしてこないのであれば、彼女達を殺す必要はない。だけどそれを伝えたところで彼が止まるとは思えない。
迂闊に止めにいってもこちらまで被害を被るだけだ。どうすればいい、と私は喉を震わせて唾を飲み込んだ。
「マスター!」
叱咤の声が私の横を通り過ぎた。ネズミくんがまた彼の元に駆け寄ろうとしている姿を見て、咄嗟に腕を掴もうとする。だけど彼は私の手を払いのけてまで仁科さんの元へ駆けていく。駄目だ、と私が叫ぶのと、仁科さんの振り回した肘がネズミくんの顔を叩くのは同時だ。
痛い、と悲鳴を上げつつもネズミくんは止まらなかった。彼の背中に覆いかぶさるように抱き着いた。首に手を回し、仁科さんの耳元でぎゃんぎゃんと吠える。
「だめ! め、さまして、マスター!」
「とっくに覚めてる。お前が起こしたんだろ」
「じゃあもうやめて! だめだって、コラ!」
「うるさい」
仁科さんの繰り出した頭突きがネズミくんの顔に直撃する。ぷあっと小さな鼻から鼻血が溢れて、目の前の白い髪を濡らす。
痛いよぉ、とネズミくんが泣いた。だけど仁科さんに背後の少年を慰める気など皆無だ。
「静かにして。じゃないと眠れない。…………いいだろ。この子も、ずっと眠れるんだから」
そう言ってハリネズミさんの顔を見下ろす。ほたりと白い髪から落ちた血は、とうに誰のものかも分からない。
眠らせてあげる。永遠に。それが全人類の望むことだと、心底そう思っていそうな声音で仁科さんはハリネズミさんの首に手を回す。彼の力だ。全力を込めれば、首を絞めるどころか、折ることだって容易いだろう。
死んでしまう。
ネズミくんがその青い目を鋭く尖らせる。ぶるりと全身を震わせた彼は、ぐわっと威嚇をするように両手を開く。小さな爪がキラリと光る。限界まで大きく開いた口から大声が放たれる。
「ころすな!」
思わず、と東雲さんが身を乗り出した。私も強く両の拳を握り目を見開く。私も彼も息を呑み、その唇を震わせた。
仁科さんとネズミくんの前で、ヒツジちゃんが驚きの表情を浮かべていた。赤い目の視線は吸い込まれたように仁科さんに注がれる。
小さな爪。ネズミくんの小さい手。
それが突き刺さっているのは、仁科さんの左目。
「――――っ!」
仁科さんの体が震えた。痙攣した手がハリネズミさんから離れ、ガクガクと宙を彷徨う。
彼の背中にしがみ付くネズミくんは、体を振り回されても離れない。ギラギラと目を鋭く光らせて、うーっと唸りながら仁科さんの左目を抉る。
「マスター! ちがう! めがさめないの、ねむるのとちがう! もうあえなくなるの! ぼくのママみたいに!」
仁科さんが吠える。ネズミくんの体を引き剥がそうとする。だけど暴れれば暴れるほど眼球を抉る指の力が強くなる。ネズミくんは離れない。ずっと離れない。
「ぼくもうわかるよ。マスター、おにいちゃんと、おねえちゃんたちがしてること、わかってるよ! もううるさくないでしょ、ころさなくていいでしょ! マスター、マスターも、ずっとねむりたいなんて、いわないで。そうなったら、ぼくがおこしてやる!」
プチンッ。
薄い表面の膜が割れる小さな音。中に詰まっていた液体が、割れたところから我先にと溢れていく。破れた膜の上をとろとろと流れていく熱い液体は、真っ赤な色をしている。
獣の咆哮みたいな声がした。それは白ウサギの声と、ネズミくんの絶叫が重なった、大きな声だった。
「『ねむる』のと、『死ぬ』のは、ちがうの!」
仁科さんの体から力が抜け、ハリネズミさんの横に倒れる。東雲さんが駆け寄って仁科さんの体を抱き起こした。私も隣に転がったネズミくんの体を支える。彼は青い瞳を揺らし、仁科さんを見つめていた。
白ウサギ、と東雲さんが呼びかければ、その声に反応した仁科さんがパチリと目を開けた。丸くなった目は驚いたように宙を見つめ、ぽろぽろと涙を流していた。右目からは透明な涙、左目からは赤い涙を。彼は東雲さんへと視線を向け、ぽそりと呟く。
「痛い」
「……………………」
「痛いよ、これ」
むぅっと唇を尖らせた仁科さんが自分の潰れた左目を差す。真っ赤な血をとくとくと溢れさせる眼孔は、それっぽっちの言葉で表現できるほど些細な怪我じゃない。
東雲さんは何とも言えない表情を浮かべ、少しだけ笑った。
「そうだよ。怪我は痛いんだよ。馬鹿」
ハリネズミ、と声がした。ハリネズミ、ハリネズミ、とヒツジちゃんが血まみれの彼女に縋り付いて泣いている。その姿に殺人鬼としての佇まいは少しもない。
近付く東雲さんに気が付いたヒツジちゃんは慌ててハリネズミさんを抱きしめ、東雲さんを睨んだ。手を伸ばせば瞬く間に噛み付かれることだろう。
「どけ」
「いや! 近寄らないで!」
「手当てをするだけだ」
どいていろ、と彼はヒツジちゃんを抱きかかえ、呼び付けた私に渡す。酷く暴れるヒツジちゃんを宥めつつも離さないようにしっかりと抱きしめた。
東雲さんはハリネズミさんの怪我をしばし調べた後、彼女の服の端を破り、簡易的な包帯にする。せいぜいできるのは軽い出血を止めるだけだ。
それでも、何度も自分を呼ぶ声に気が付いたのか、ハリネズミさんの瞼が震えた。開いた目がぼうっと宙を見つめ、傍に立つ東雲さんを見つけてぴくりと動く。それから私が抱きかかえているヒツジちゃんを見て、険しくなった。
「手当てをしてるだけだ。動くな」
「…………はっ、ありがてぇな」
「おい、動くなって」
東雲さんを無視してハリネズミさんは起き上がる。ゆっくりと立ち上がった彼女は見るからにふらふらで、戦闘なんてできないだろうことは明らかだ。
それでも彼女は仁科さんに近付く。血の流れる左目を見て、男前になったな、と笑う。
「まだ決着がついてない。どっちかが死ぬまで続けるんだろ、おい」
「ハリネズミ! もうやめて、死んじゃうよ!」
「黙ってろヒツジ! むかつくんだよ、何も分かってねえくせして、甘いことばっか言いやがって……! こいつらの思う通りの世の中になったら、この街は終わったままだろうが、なぁ!」
ふらつきながらも彼女は叫ぶ。その言葉はただの戦闘狂いの言葉、なんてものじゃない。むしろ、もっと大切な、譲れない思いが秘められている、本気の声だ。
殺人鬼達の目的。彼女達が行おうとしていること。それは何だ。一体何だというんだ。
「教えてください、あなた達の目的の意味……。何をしようとしているんですか?」
「…………同じだって。お前達もあたし達も、やりたいことは一緒だって、言ってるだろ」
「分からない……分かりませんよ! どういうこと? 同じって、じゃあなんでこんな、私達は戦って…………」
ふらふらとハリネズミさんが私に近付いてくる。私は無言でヒツジちゃんを下ろし、目の前に立つハリネズミさんを見つめ返した。ぽたり、と鋭い髪の毛の先端から、血が一滴垂れる。
「何で、殺人鬼を止めようとする?」
「たくさんの人が犠牲になるからです。私の大切な人達が皆死んでしまう。それは嫌だから」
「ならそいつらを連れてこの街を出ろ。そうすれば後は、この街に残るのはお前の知らない奴と、嫌いな奴だけだ。そいつらが全員死ぬなんて、ちょうどいいだろ」
私は首を振り、駄目です、と答えた。怪訝に眉根を寄せるハリネズミさんに言う。
「一人だって犠牲者を増やしたくない。私が知らない人も、私をいじめてきた子達のことも、死んでほしくない。生きていてほしい」
だから、と私は少し目を伏せた。
死んでほしいとは思っていない。私をいじめてきた子達のこと。私に死ね、と言ってきた一条さんのことだって、私は死んでほしくないと思っている。
ハリネズミさんは馬鹿にした声で私を笑った。憐れみと怒りが混合している。甘いな、と彼女は私を言葉の針で突き刺した。
「犠牲者を増やしたくない? なら、今既に犠牲になってる奴らのことはどうするんだよ」
「それは…………」
「馬鹿野郎。何も考えてねえじゃねえか。そんなんで、この街を救うなんて言うんじゃねえよ、クソガキ」
喉が熱くなる。両目を潤ませる私に彼女は、泣いて解決するわけないだろ、と追い打ちをかける。
ここまで必死に頑張ってきた。だけど最上階の手前まで来て、自分の決意が正しかったのかという不安に襲われる。固めた足場が脆く崩れ、闇の中に放り出される。
どうすればいい。何をすればいい。どう動けば、正解になる?
私は泣きながら、ハリネズミさんを見つめる。甘えるな、ともう一度言いかけた彼女に私は言う。
「どうすればこの街を救えますか?」
彼女の目が丸くなった。そりゃそうだろうと思う。だってこんなの、敵に聞く質問じゃない。
でも今の私には彼女が敵だとどうしても思えなかった。だって、短い時間の中でも彼女がどれだけヒツジちゃんを想っているのか分かったから。彼女は優しい大人だ。東雲さんと同じくらいに。
だったら、この街を救いたいという彼女の言葉は、絶対に嘘じゃない。
「私はどうしたら、この街を救えるんですか。皆が傷付かない未来をどうやったら作れるんですか」
「お前…………」
「教えてくださいハリネズミさん。どうすればいい。私のやるべきことは何ですか。教えて。お願いします」
「……………………」
「殺人鬼は、本当に私達の敵なんですか?」
分からなかった。
対立する殺し屋と殺人鬼。その信念は両極端の場所にあると、これまでずっと思ってきた。
だけどもしも違うのだとしたら。もしも殺し屋と殺人鬼が、同じ思いで戦っているのだとすれば。これほど残酷で滑稽なことはない。
「私が知らなかった人達を。あなた達を救うには、どうすればいい」
私の声が静かな空間に溶けて消える。
シンと静まる部屋の中で、ハリネズミさんの髪から垂れた血が、ぽたりと床に落ちる音が大きく聞こえた気がした。
彼女が静かに息を吐く。鋭かった眼差しが蕩け、切なさを浮かべた目で私を見下ろした。
悲しい声が私に降り注ぐ。
「もし、あたし達がお前といたら。…………ほんの少しでも何か、変わったのかな」
血が顔にかかった。
大量の血がハリネズミさんの口から溢れて、私の顔を濡らした。
凍り付いた表情の彼女が、震える視線を自分の腹部に落とす。そこにぽつんと開いた小さな穴が、ぷしゅっと小さな血の噴水を吐き出していた。
スローモーションのようにゆっくりと彼女の体が崩れる。キーンと耳に響く耳鳴りがして、発砲音の残滓が耳の奥にこだました。血を纏った弾丸が床を叩き、カロンと私の靴を小突く。
夢を見ているようだった。
「ハリネズミ」
小さな声がぽつりと、倒れた女性の名を呼ぶ。
絶叫が響き渡った。倒れたハリネズミさんに駆け寄ったヒツジちゃんが、その体に縋り付き、慟哭する。
息をしているのかも分からない。ヒツジちゃんと同じくらいに顔を白くしたハリネズミさんは目を閉じて、ぐたりと四肢から力を失っている。腹から溢れる血を押さえようとヒツジちゃんは必死になっていた。白い服と手がみるみるうちに血で汚れていく。
「殺人鬼に裏切りは厳禁。忘れちゃったかにゃー?」
この場にいる誰のものでもない声が、最上階に続く道から降ってくる。軽やかに弾む、演技くさい、楽しそうにからかう声。
全員が、弾かれたように顔を上げる。螺旋階段の手すりから身を乗り出して私達を見下ろす、一人の人影を見る。
「あ…………」
愕然と目を見開いた私に彼女は笑った。ニヤニヤとした、弧を描く唇。彼女がこちらに手を振れば、サラリとした黒髪が肩に流れた。夜を孕んだ艶めく髪の色。
――――いいんじゃない?カラオケ行くのも遊ぶのも。人生は楽しまなきゃ。
――――ノアの方舟ねぇ。わたし、絶対一人で乗るわ。他の人は誰も乗せない。新しい世界でわたし一人だけで生きていくのよ。それって、最高の自由じゃない?
――――やられた分だけやり返すのは正当防衛! やり返さないで逃げるだけなんて、こっちが損するだけでしょうが!
――――ね、この辺りで緑の首輪付けた子猫見なかった?
「あ、ぁ……………………」
――――名前? ……あーちゃん。わたしの名前。あーちゃんって名前なの。
「……………………あーちゃん」
「こんばんは、ネコ」
あーちゃんが私に手を振った。もう片方に手には、今撃ったばかりの銃が握られていた。
螺旋階段の一番上にいるあーちゃんは、私達を見下ろしてニヤニヤと笑い続けていた。同時に、鋭く冷たい目がハリネズミさんとヒツジちゃんを射貫く。
私達と同じ世界で生きる者の目だ。
「わたしたちに裏切りは許されない。忘れたの? ……ああ、でもそっか、実行に移したわけじゃないものね。ならまだセーフ? んー、まいっか、撃っちゃったし」
あーちゃんの言葉はハリネズミさんには届かない。ヒツジちゃんは何度もハリネズミさんの名を呼んで、縋り付くばかりだ。
二人から興味をなくしたあーちゃんは、私達に視線を向ける。私の顔を見ても、彼女は何も言わない。
「さあお待ちかね。あと一回で、あなた達のお話もおしまい。早く上っておいで、殺し屋さん。そうしたら全て教えてあげる。あなた達の知りたいこと、全て」
ひらりとあーちゃんはこちらに背を向け、姿を消した。待て、と東雲さんが吠えるも彼女の姿は二度は現れない。
すぐに追いかけようとした東雲さんだったが、ハリネズミさんに視線を向けて立ち止まる。このまま放置すればハリネズミさんは死ぬだろう。ヒツジちゃん一人で彼女を救うことはできない。
「…………行ってよ、何とかするから」
仁科さんが言って、ハリネズミさんの傍にしゃがんだ。激しい警戒を露わにするヒツジちゃんの頭を呑気に撫でて、仁科さんは私と東雲さんへと振り返る。持ち上げた袖を捲り、その下の夥しいリストカットの痕を晒して彼は言う。
「止血くらいならできるし。まあ、なんとかなるんじゃない? やらないよりはましでしょ。それに、この目で動くの、やだし。上まで行くの面倒くさいし」
だるそうに首を振る彼の目から、真っ赤な血がまた滴った。乱暴にその血を拭った彼はシャツを脱ぎ、力任せに引き千切っていく。
「早く行きなよ。で、早く終わらせて。おれもう帰りたい」
「マスター、はやくてあて!」
「はいはい。うるさいなぁ、もう」
仁科さんの挙動を警戒しながらも泣き続けるヒツジちゃんの背中を、だいじょぶよー、とネズミくんが撫でる。丸いほっぺを二人でぴとりとくっ付けて、赤い目と青い目を伏せて、祈るようにハリネズミさんが手当てされるのを見つめていた。
東雲さんは彼らの様子を見て、一瞬躊躇ったもののすぐに首を振る。オオカミとしての険しい顔に戻った彼は、ネコ、と私を呼んだ。
「行くぞ」
「…………はい」
私と彼は螺旋階段を駆け上がる。最上階が近付いてくるたび心臓の音が大きくなり、今にも胸を裂いて飛び出してしまいそうなほどに激しくなった。
だけど、同時に足が動かなくなっていく。見えない足枷は次第に重くなり、とうとう途中で私は立ち止まってしまった。気が付いた東雲さんが振り返り、どうした、と尋ねてくる。
「…………」
「ネコ?」
「…………友達なんです」
震える私の声で、東雲さんは全てを察したらしい。その顔に驚愕と悲しみが浮かび、彼は静かに息を吐いた。
ずっと友達だと思っていた女の子は、今私達と敵対する存在となって目の前に立ちふさがっている。
まさか、彼女がこの街のボスだというのか。私達がずっと倒そうとしていたのは、私と同い年の女の子だというのか。
和子、と楽しそうに笑顔を見せていた彼女が同じ笑みでネコ、と私を呼ぶ。銃を突き付ける。
私はこれから彼女と戦わらなければならない。
友達と殺し合いをしなければならないのだ。
「俺達は殺し屋だ」
低い東雲さんの声が私の耳に触れる。トン、と階段を下りて彼は私の傍にやってくる。俯く視界に、深緑色のコートが映った。
「相手を殺さなければならない状況であれば、相手が誰であろうと殺すしかない」
「友人でも、親でも?」
「…………ああ」
「東雲さんは殺せますか?」
私の問いに東雲さんは一度は頷きかけた。だけど、その眉にしわが寄る。しばしの沈黙の後、苦しそうに彼は答えた。
「分からない」
くしゃりと私は微笑んだ。東雲さんはそんな私を見て、少しだけ笑って、それから目を伏せた。
彼が私の手を取る。強くその手を握り返せば、彼は行こう、と言って私を引っ張るように階段を上っていく。
螺旋階段を上りきった先にあったのは一つの扉だった。ここを開ければあーちゃんが待っている。彼女との戦いが始まる。
「ネコ」
東雲さんが私の名前を力強く呼んだ。繋いだままの手が、強く私の手を握る。その手が小さく震えているのに気が付いた。
怖いのは私だけじゃない。この戦いで明星市の命が決まるのだ。
生きるか、死ぬか。
「俺達なら大丈夫だ」
怖いのは一緒。だけど東雲さんの言葉はどこまでも力強く、たくましかった。
一瞬だけ緊張と不安を飲み込む。私は頷いて、覚悟を決めた顔で東雲さんに笑った。彼も笑う。自信と強さに満ちたまっすぐな目を私に向けた。
二人で扉に手をかける。
「行くぞ、ネコ」
「行きましょう、オオカミさん」
誰と戦うことになろうとも、どんなに苦しい戦いが待っていようとも。
私達ならば大丈夫。
私とあなたならば、どんなことでも乗り越えられる。
私達は殺し屋、オオカミとネコなのだから。
――――そう思っていた。
「待っていたよ」
静かだった。
私も東雲さんも言葉を発さず。部屋の中央に立つその人を見つめていた。ニヤニヤと笑うあーちゃんの隣で、その人も私と東雲さんを見つめている。
繋いでいた東雲さんの手が震えていた。力が抜けたその手が解けていく。私の体は凍り付き、呼吸さえも止まっていた。あれだけ激しく叫んでいた心臓は、今、鼓動しているのかも分からないほどに沈黙していた。
「なんで…………?」
東雲さんの声だとすぐには分からなかった。わななく唇から零れた声は、酷く弱々しくて、今にも泣きだしそうな子供の声に聞こえた。
彼の引き攣った呼吸を、彼の震える喉を、すぐ隣に立つ私は感じている。だけどその顔を見ることはできなかった。
だってもし見てしまったら。私はきっと、耐えられない。
「なんで。なんで…………」
嘘だと言ってくれるのを心から願うように。
東雲さんは、絞り出すような声で、その人の名を呼んだ。
明星市の裏のボス。第十区のリーダー。殺人鬼達の頂点に立つ者。
私達が倒さなければならない人間を。
私達が殺さなければならない人間を。
「なんでお前がここにいるんだよ、冴園…………!」
絶望する私と東雲さんを見て、冴園さんは、優しく微笑んだ。