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第138話 まともな人

 白い細腕は、ウサギというよりは蛇を連想させる動きで、私の首に絡みついた。あっ、と思う間もなく後頭部を階段に打ち付ける。

 私の上にのしかかった仁科さんは、低い声で唸りながら私に手を伸ばす。必死で抵抗し身を捩っても、すぐに服を掴まれ、乱暴に引き倒されるだけだった。

 どれだけ力を込めて蹴ろうと、彼は全く動いてくれなかった。私が暴れることなんてまるで児戯だと言わんばかりの力強さ。ついに苛立ちの声を上げた彼は、骨ばった拳を振り上げた。振り下ろされる暴力を予測して、私はキツク歯を食いしばった。


「ますたぁ!」


 ガクリ、と仁科さんの頭が揺れ、拳が私の真横の手すりを殴った。

 仁科さんの肩に飛び乗ってネズミくんがその頭にしがみ付いている。白い髪をもみくちゃにして、同じくらい長い黒髪を振り乱している。顔を真っ赤にして怒りの表情を浮かべたネズミくんは、唾を飛ばして仁科さんに叫んだ。


「だめでしょ! なに、してるのー! おこっちゃだめ! おねえちゃん、いたい、でしょ!」


 ネズミくんを振り解こうと、仁科さんは吠えながら体を振り回す。だがネズミくんはしっかりと彼の髪を掴み離さない。何度も振り解かれそうになりながらも、途切れ途切れの言葉で仁科さんを叱る。

 今の仁科さんの状態をネズミくんは理解しているのかしていないのか。ただどちらにしたって、暴れる仁科さんへの行動は変わらなかっただろう。ネズミくんは甲高い声できゃあきゃあと喚き、彼の頭を殴る。

 ネズミくんの靴を仁科さんが掴んだ。べりべりと無理矢理小さな体を引き剥がした仁科さんは、その勢いのまま小さな体を投げた。


「ギャ!」


 考える前に体が動く。ネズミくんの体が浮いたのを見た瞬間、手すりから身を乗り出した。伸ばした指先が、手で包めるくらい小さな靴を掴む。だが直後、腕に襲いかかったその重さは、ずしりと骨を軋ませた。手すりから半分以上乗り出した体が重さに引かれて更に不安定になる。

 腕の悲鳴に汗を滲ませながら、仁科さんは、と振り返る。その瞬間、全身の苦痛を忘れた。代わりにどっと、恐怖がせり上がる。

 血に濡れた真っ赤な両手が私に伸びてくる。ただそれだけなのに。薄氷を貼り付けたみたいな冷え切った顔が、酷く恐ろしい。本能が警告を発する。捕まっては駄目だ、殺される、と。

 判断に時間など割けなかった。仁科さんに捕まる前に、私は手すりを蹴ってその手から逃げる。ぐらりと体は傾き、重力に従って落ちていく。咄嗟に手で階段を掴んだ。腕の筋肉がまた軋み、激痛に顔を顰める。


「おねえちゃん!」


 ネズミくんが恐怖に上擦った悲鳴を上げた。ネコ、と下から東雲さんの切羽詰まった声が聞こえる。

 支えにした手は汗で滑り、長くはもたないだろう。下に向けた視線に、ハリネズミさんが銃をこちらに構えた姿が映った。


「――――掴まってて!」


 ネズミくんに言い、意を決して階段を掴む手を放した。間一髪、鋭い針が空を貫き飛んでいく。

 体が落ちていく。瞬く間に迫る床。叫ぶネズミくんの体をしっかりと両腕で包み、私は空中で体を捻った。地面に触れた足を折り畳み、体を丸めた。ゴロゴロと床の上を転がって衝撃を逃す。

動きを止め、腕の中のネズミくんへと顔を向ける。彼はびっくりしたように目を丸くして私を見ていたけれど、体に怪我はないようだった。

 ほっと息を吐き、顔を上げる。目の前に靴の爪先があった。


「すごいね、高い所から落ちても平気なんだ。猫みたい」


 感情のこもっていない声でヒツジちゃんが言う。

 華奢な靴が私の鼻先に突き付けられている。少しでも下手な動きをすれば、攻撃を食らうだろう。腕の中の不安そうなネズミくんを強く抱き締め、私はヒツジちゃんを睨んだ。

 ヒツジちゃんの静かな殺意は私達を射貫く。器用に爪先が私の鼻を小突き、顎を持ち上げた。硬質な冷たい靴。熱い私の肌が冷やされていくみたいだ。


「あなたは…………なんで」


 思わず口を突いて言葉を零した。丸く膨らんだ彼女の頬を見つめる。白い肌に赤く色付いた頬。思わず頬ずりをしてしまいたくなるような愛らしいほっぺ。

 ネズミくんと年齢はほとんど変わらない。これまでだって、幼い子供が戦う姿を見たことがないとは言えない。けれど毎回思ってしまう、辛くなってしまう。どうしてこの子達は人を傷付けるのだろう。どうして私はこの子達を傷付けなければならないのだろう。

 子供だ。まだ、子供なのに。


「『なんでこんなことを?』」


 言い淀む私の代わりに本人が言う。白いまつ毛が伏せられ、赤い瞳に影を落とした。

 ふくりとその頬が緩む。小さな白い歯を見せて彼女が微笑む。

 その笑みを見た瞬間私は咄嗟にネズミくんの体を抱き込んだ。肩に強い痛みが走る。骨が折れたのかと、いや腕ごともぎ取られたのではないかと思ってしまうほどの激痛だった。

 痛みに叫ぶ。けれど、必死にもう一本の腕を動かす。必死に伸ばした私の腕が、蹴りを繰り出してきたヒツジちゃんの靴を掴んだ。思いっきり引っ張れば容易く彼女の体が仰向けに倒れる。

 素早く彼女の体にのしかかり、両足を膝で押さえた。そのまま体を抑え込もうと右手を伸ばす。


「…………なーに?」


 だけど。彼女の肩に伸ばす手は途中で止まった。

 私の下で、ヒツジちゃんは、蕩けるような笑みを浮かべていた。敵意でも殺意でもない感情をその目に湛えて。

 私の震える左手は彼女の胸元を掴んでいた。柔らかな生地にしわが寄り、飛んだボタンの間から白い肌が覗く。深雪のように白く、透き通るような滑らかな肌。

 やぁ、と彼女は遊ぶように笑う。ガラリと声音が変わっていた。少し大人びていた調子は消え、わざとらしいほどに幼く甘えた声になる。ぷちりとまたボタンの糸が解れ、白い肌の露出が増える。

 表情も、声も、身振りさえ。無邪気でいて別の色を含ませている。それはこの年頃の女の子としてはとても違和感があるもの。

 まごうことなき性的な色だった。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」


 ひゅっと喉を鳴らし、私は慌ててヒツジちゃんから飛びのいた。途端笑みを消したヒツジちゃんは素早く立ち上がって私から距離を取る。コツンと床を叩いた蹄の音が耳に残る。

 目の前の彼女をまじまじと見つめた。私の視線を浴びて、ヒツジちゃんは表情を崩さない。澄ました表情は、私の視線をなにも気にしていなかった。


「どうして」


 どうして。その言葉は何度も口から零れていく。

 彼女達と対峙してから。第十区に来てから。いや、もっとずっと前から。

 疑問ばかりが浮かんでしまうのだ。どうしてこんなことに、どうしてこんな目に。どうして、何故、何故。どうして彼女達はこんなことを。どうして私はこんなことを。


「人殺しなんてやってる奴がまともな人間なわけないだろ」


 ハリネズミさんの鋭い声が空気を揺らす。静かに笑みを消した彼女が、まっすぐに私とヒツジちゃんを見つめていた。鋭い眼差しはよりキツク、感情を込めた目でこちらを睨む。


「あたし達がどうして『殺人鬼』をやっているか知っているか?」


 静かに歩いてきたハリネズミさんに警戒を膨らませる。背後のネズミくんが、おねえちゃん、と小さく呟いて裾を握ってきた。東雲さんが銃口を彼女達に向けながら私の横に立つ。

 ヒツジちゃんの隣に立ったハリネズミさんは、銃口を向けることなく、私達へと語る。


「自分で望んでいなくても、金と引き換えに人を殺す殺し屋とは違う。『殺人鬼』は自ら望んで人を殺す奴らだ。明星市には至る所に殺人鬼がいる。金になろうがなるまいが、人を殺すってのに意義を持つ連中だ。あたしも、ヒツジも」


 でもな、と彼女は言った。


「全員がこんな生き方を望んでいたわけじゃない」


 吐息を吐くような感傷に濡れた声。乱暴な口調と態度のハリネズミさんから吐き出された言葉は、なんだか少し、不似合いだった。


「殺人鬼は快楽のために人を殺すって思ってるだろ。そういう奴もたくさんいるよ。あたしもそうだ。昔っから喧嘩が好きでさぁ、強がってる奴が情けない顔で倒れるのが堪らなかったんだ。最後はやりすぎて学校で死人出しちまってよ。それから坂道転がりまくって、ここに来た」


 喧嘩が好き、人を泣かせるのが好き、加虐趣味が強すぎた、一回ナイフを使ってみたかっただけ。そんな色々な思いを抱えた人が殺人鬼になるのだと彼女は言う。

 話をされても理解ができず、眉間のしわは深くなる。そんな私の反応を見た彼女は、薄く笑った。


「さっきも言っただろ。全員がこの世界に望んでやって来たわけじゃない。殺人鬼は金を欲しがらない。自分の欲望のために人を殺すんだよ。相手に対する純粋な殺意とか、憎悪とか、復讐心のために」


 ハリネズミさんがくしゃりとヒツジちゃんの頭を乱暴に撫でた。小さな肩を抱いて自分の元に引き寄せる。


「明星市は犯罪だらけだ。毎日毎秒、どこかで誰かが傷付いて、死んで、絶望してる。……なあお前らポルノは見たことあるか? 普通のじゃない。体が欠けた奴とか、下手すりゃ死人が出てるやつとか。大っぴらに出してないやつだ。子供が出演してるやつは? 高校生? 中学生? そんなの普通だろ。六歳とか、四歳とか、乳児とか。生まれたばかりの赤ん坊から人権が剥奪されてるところを見たことがあるかよ」


 多分世の中には本当にそういうビデオがある。

 私が子供の映像と聞いて思い浮かべるのは、ホームビデオとか、そういう一般的なものだ。子供が公園で鬼ごっこをして遊んでいるときのワンシーン。お日様の下で無邪気にはしゃぐ可愛い子供達。

 だけどハリネズミさんが言うビデオはそんな微笑ましいものじゃない。


「ランドセルはアクセサリーなの」


 不意にヒツジちゃんが言う。ハリネズミさんに抱きつきながら、彼女はぽそりと囁くように言葉を吐いていく。


「そういう子達にランドセルをプレゼントしてくれるのは、知らないお兄さんや、知らないおばさん。無邪気に笑わないと殴られるの。怖いおじさんの前で、自然に、笑わないといけないの。お喋りばっかりする子も駄目。うるさいから。喋らなくても駄目。つまらないから。ニコニコして、望む言葉を、望むときだけ言うの。上手くできた子は褒められて、大人と仲良く遊ぶの」


 ヒツジちゃんの呟きを聞くうちに私はハッと目を見開いた。喉が震える。ネズミくんの手を知らず知らずのうちに強く握っていたけれど、彼は痛いと文句を言うこともなく、黙って私にしがみ付く。


「可愛くないと子供じゃないの。子供じゃないとゴミになるの。子供って、ほっぺはまぁるくて柔らかい。日焼けなんてしていない白い肌じゃないと駄目。髪はサラサラじゃないと駄目。子供って、そうじゃないと駄目だって。そう言ってた。みんな、そう言ってた」

「まさか…………そんな。ヒツジちゃん…………そんな」

「お人形さんみたいな子が特に可愛いって。肌が真っ白で、おめめは大きくて、ふわふわのドレスを着た子。もっと子供っぽく、綺麗に、可愛くしようって。お金を払えば子供でも整形してくれる病院が第十区にはあるの。ビスクドールがいいんじゃないって。アルビノが綺麗だよって。言ってた。みんな、全員。反対する人はいなかった。いなかったの。ねぇ。いなかった」


 そんな、そんな、と独り言が零れる。唇が震え、目の奥から滲んだ涙が今にも落ちそうだ。

 ヒツジちゃんはふと微笑む。子供らしい笑顔で。


「――――痛かったぁ」


 ぼろりと零れた大粒の涙が頬を流れた。口に手を当て、溢れそうになる声を押さえる。隣の東雲さんもぐっと唇を噛み、悲痛に顔を歪めた。彼の拳は小さく震えていた。

 おねえちゃん、とネズミくんが私を呼ぶ。ネズミくんはまだヒツジちゃんの言っていることをよく理解できない。それでも大きく見開かれた青い目には涙の膜が張っていた。


 殺し屋という世界に身を投じていても、多くの人と関わってきたとしても、私はまだこの世の闇を何も知らない。表面だけしか知らないのだ。

 差し伸ばされた手は、自分を救う手だと信じて疑わない私にとって、残酷な闇を突き付けられる瞬間は一瞬理解が追い付かなくなってしまう。だっておかしいじゃないか。どうして子供をおもちゃにしたがる大人がこの世に存在しているんだ。どうして、人を傷付けて喜ぶ人間がこの世にいるんだ。

 ああ、ああ。なんてことだ。この世には、この街には、すぐ身近に犠牲者がいる。傷付けられ虐げられた人がすぐ隣にいる。想像もできないくらい残虐なことをされた人が。

 どうしてこんな世界に。


 ママ、とヒツジちゃんが一言だけ呟いた。意味を掴みかねる私達に、彼女はもう一度言う。


「わたしが最初に殺したのは、ママ」


 裾を掴むネズミくんの手に力がこもる。その手を取って包むように握った。

 無言でヒツジちゃんを見つめる。私もネズミくんも東雲さんの視線にも、微かな動揺は現れていただろう。それでもヒツジちゃんは怖いくらいに顔色を変えなかった。

 彼女が瞬きをすれば白いまつ毛が瞳を覆う。瞬きをしなければ、呼吸で胸が上下しなければ、彼女は人形であるのだと錯覚してしまう。作り物めいてすらいる可憐な顔で、彼女は自身の母親殺しを告白した。


「ヒツジをビデオに出したのはこいつの母親だよ」


 ハリネズミさんの手がヒツジちゃんの両頬を包むように撫でた。表情を強張らせる私達に向けられる笑みは馬鹿にするような笑みだった。こんなことも想像できないのかと、そう言いたげな。


「こいつを産んだのも最初から出演させるためだったんだとさ。完全におもちゃだと思ってやがる。笑えるね。そりゃあおもちゃからママ、ママ、って助けを求められても手を叩いて笑っていられるだろうよ」

「やめてハリネズミ。思い出しちゃう。殺したときあの人、言ってた。助けて、助けて、って」

「だから手を叩いて笑ってやったんだよな。傑作だったよ、あのときの顔」


 くすくすと二人は顔を見合わせて笑った。仲のいい姉妹みたいに柔らかな笑顔を浮かべる。

 復讐だよ、とハリネズミさんが顔を上げていった。直前まで浮かべていた笑顔はとっくに消えて、乱暴な彼女の顔に戻っていた。


「ヒツジが殺人鬼になった理由は、復讐。自分を駄目にしたクソ共の殺害。それが終わってもさ、こいつが普通の子供として生きていけるなんて思うか? お前達。何本ものビデオはとっくにマニア達の間で広がって、数年たった今でもたまに誘拐されかける。大きくなったらケーキ屋さんになる、なんて言えるわけないだろ。生まれたときから未来がないんだから」


 冗談だと笑って言ってほしい。だけど声は笑っていてもハリネズミさんの目はこれっぽっちも笑っていない。

 殺し屋ぁ、とハリネズミさんが大きく声を張る。拳を握る彼女へ、咄嗟に東雲さんが銃を突き付ける。ハリネズミさんが銃口を天に掲げた。武器を向けられたハリネズミさんはそれに構うことなく叫ぶ。


「さっさと降りてこいよ!」


 ダァンと空気を裂いて天井へ飛んでいく針。消えていったそれを合図に、上から重い物が降ってくる。白い塊。仁科さんが、螺旋階段の手すりを乗り越えて、まっすぐこちらに落ちてくる。

 ダァン。盛大に床を叩いて着地した仁科さんは、その口から長い息を吐き、静かに顔を上げた。濁った瞳は私達に恐怖を注ぐ。ふらつくこともなく立ち上がった彼に驚愕した。ろくに受け身を取ったようには見えなかったのに、あんなにも高い位置から落下して何事もないだなんて。

 暴れたからだろうか。さっきと比べると、彼の混乱は少しだけ収まっていた。がむしゃらに攻撃をしかけることはなく、唸り、自分の体を掻き毟る。


「マスター…………?」

「駄目だっ、下がれ!」


 だけど元に戻ったわけじゃない。

 ネズミくんの言葉に反応したのか、ぎょろりと目を剥いた仁科さんが私達に飛びかかってくる。咄嗟に東雲さんが放った足で薄い胸を蹴り付けた。酷く痛そうな音がする。だがそれだけだ。仁科さんの興奮は止まらず、東雲さんの胸ぐらを掴み吠える。


「ますた、ますたぁ!」

「危ない!」


 仁科さんの背後に見えたハリネズミさん。彼女が銃口をこちらに構えたのを見て、私はネズミくんを抱きしめて床に倒れる。壁に床に、何本かの針が突き刺さった。

 うしろ、とネズミくんの切羽詰まった悲鳴に反応してその場から飛びのく。針の雨は一回じゃ治まらない。何度も何度も撃たれる針を必死で避けた。


「は、っ、くぅっ!」


 紙一重で針を避け続けた私はへたりとその場に膝を突いてしまう。体力が限界だった。これ以上避け続けていても、いずれ追い付かれてしまう。


「夜はまだまだだ。まだ若いんだからへばんなよ。それともお前も一本打っとく? 効くぜぇ」


 は、は、と犬みたいに短い呼吸を繰り返す。ハリネズミさんの言葉に反応を返すことも難しくなっていた。

 体中が熱い。頭がくらくらする。揺れる視界で見る先には、必死で戦う東雲さんといまだ薬の抜けない仁科さんがいる。

 視線を上に向けた。螺旋階段の先にある扉。その先にこの街のボスがいる。きっと今も私達の戦闘を聞き微笑んでいることだろう。

 行かなくちゃ。もうすぐだ、もうすぐ、あとちょっとなのに……。


「…………」


 床に刺さる針を見た。固い床に突き刺さるほどの強度を持つ針は、撃たれればきっと凄く痛い。ハリネズミさんがどれだけ武器を持っているかは知らないが、下手をすればこの空間いっぱいに針を撃ちまくることもできるかもしれない。床一面が針の山。そんな地獄みたいな光景は見たくないし、例えそうなるとしてもそれまで私達の体力はもたない。


「………………」


 東雲さんも限界だ。仁科さんと戦う彼は呼吸も乱れ、苦しそうな顔をしている。体力も気力も限界が近いのは私だけじゃない。さっき告げられた、このボスの狙いが自分であるということ。それに少なからず動揺もしていることだろう。

 わざわざ自分を狙っている人物のところに行くべきなのだろうか。……いや、どうにせよ、一度話を付けたい。殺すにしろ殺されるにしろ仲間になるにしろならないにしろ、どれにしたって、私達は最上階まで行ってボスと話す必要がある。ならばそこに行くまでの気力を残さなければならない。この階で気絶して運ばれるなんてことになれば、全ての意味がなくなってしまう。


「……………………」


 ハリネズミさんとヒツジちゃんを倒すには、力が必要だ。

 だけどこの場においてそんな力があるのはきっと仁科さんだけ。そして仁科さんは今薬によって混乱状態にある。

 ならばその混乱を早く解けばいい。正常に戻った彼なら、本気を出した白ウサギならば、ハリネズミさんとヒツジちゃんの二人だって楽に倒せることだろう。

 彼の薬の効き目を消すには? 時間がたつのを待つのは非効率。ならば、思いっきり暴れてもらうしかない。暴れて、暴れて、暴れまくって、落ち着いてもらうしかない。


 おねえちゃん、とネズミくんが心配そうに私の顔を覗き込んだ。私は微笑んで彼の頭を撫でる。次の針が飛んでくる前に、攻撃を繰り出される前に、急いで彼の耳元に口を近付けて言う。


「ネズミくん。お願いがあるの」

「う、うん。なぁに?」

「東雲さんを連れて、私の傍からは離れていて」


 きょとん、という効果音が似合うほどにネズミくんは目を丸くする。離れようと立ち上がりかけた私の袖を、彼はくいっと引っ張った。もう一度視線を落とす。ネズミくんは泣きそうにくしゃりと顔を歪めていた。


「だめだよ」

「大丈夫。ちょっと仁科さんを止めるだけだから」

「だめ」

「ネズミくん」

「なにしようとしてるか、ぼくだってもうわかるよ」


 はたと動きを止めた私に、ネズミくんは強く首を振った。だめだよ、ともう一度呟いた彼の目から大きな雫が零れる。

 だけど私が止まったのは少しの間だけだった。呆けていた口を引き結び、そっか、とネズミくんの目を見つめて言う。


「もう分かるんだね、ネズミくんも」

「……ぼく、こどもだけど、こどもじゃないよ。いっぱいわかるよ」

「…………そっか、そっかぁ。大人になったね」


 くしゃくしゃと黒い髪を撫でた。柔らかい髪。汗とシャンプーのにおいがする。二年前、最初に会ったとき、あんなにベタベタしてた髪だったのにね。


「お願いね」


 だから私は成長したネズミくんにそう告げた。おねえちゃん、という声を振り払って駆け出す。

 ゴウ、と鋭く耳を切る音に首を振った。耳元を掠めたのは、飛び上がって私を攻撃してきたヒツジちゃんの蹄。空中で交差した私と彼女の視線は、鋭く敵意を剥き出す。

 空中で彼女の服を引っ掴んだ。繊細な生地がビリビリと破けるのも気にせず、私は思いっきりヒツジちゃんを投げ飛ばす。投げた先はハリネズミさんのいる方向だ。咄嗟にヒツジちゃんを空中で抱きとめたハリネズミさんを見て、私はまた走った。


「東雲さん下がって!」


 パッと東雲さんが後ろに飛び退いた。素早く彼の前に飛び込み、仁科さんへ向けて全力の体当たりをぶちかます。よろめきながらも仁科さんは私の髪を掴み、千切れそうになるくらいの力で引っ張った。密着する私の体に彼の拳が飛んでくる。重い痛みに、ぐぅっと喉が悲鳴を上げた。

 好都合だ。

 私がサッと服の内側から取り出した針に、仁科さんの視線が向けられる。仁科さんに密着しているこの状態、鋭い針は刺そうと思えばいくらでも刺せる。

 だけど。くるっと回した針の先端は私自身の首元に向けられた。それを見た東雲さんが、驚きの声を上げる。


「おいっ、何してる!」

「東雲さん…………もしも私があなたやネズミくんに襲いかかったら、躊躇せず撃ってください。大丈夫。ボスの狙いが東雲さんだっていうなら、まだここであなたを死なせようとはしない。私が襲いかかったとしても、ハリネズミさんとヒツジちゃんが止めてくれるはず。ネズミくんから離れないでくださいね」

「な…………待てっ! お前はどうなる、やめろっ。よせ、ネコ!」

「大丈夫」


 ぷつり、と肌が切れる痛み。確かに薬が塗られていたのだろう。首に突き刺した針からじわりと滲み出した薬が、肉を、血を焼く感覚があった。

 私の奇行にハリネズミさんとヒツジちゃんまでも目を丸くしていた。唯一、私を掴み唸る仁科さんだけが、興奮から表情を変えることはない。

 獣みたいな顔をしている。私もすぐにそうなる。

 大丈夫ですよ、と誰に言うでもなく呟いた。首がカァッと熱くなり、目の前に火花が弾けた。

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