第14話 ジギタリスという花は
午後三時。東雲さんの家で三人一緒に泥のように眠り、真昼に起き、食事を取ってから家を出るまで大分時間が経っていた。十時間以上眠っていたから体の節々が軋んで痛い。だけど、肝心の東雲さんの顔色とクマは大分良くなっていたようなので安心した。
電車に乗り第四区に着く。そのまま真っ直ぐ家に帰っても良かったが、なんとなく街を見て回りたい気分だった。駅を出て普段は行かない道へと向かう。見知らぬ建物、見知らぬ道。
恥ずかしながら私は十六年間住んでいる第四区の道をあまり知らない。買い物に使うスーパーと、学校への道と、駅前のショッピングモール。大抵はそれだけで生活が賄われていたから。友達と街へ遊びにでかけたことも少ないし、高校に入ってからはむしろクラスメートと鉢合わせるのが嫌だったし。だから全く知らない道がとても新鮮だった。
少し歩くと緑の多い空間へと出た。所々に木が目立ち、もう少し行けば林があるようだ。ぶらぶらとアスファルトの上を歩いていると、足元を小さな何かが通り過ぎた。
「お」
茶色い猫だった。ぽっちゃりとした体を揺らしながら、その猫はのんびりと私の前を通り過ぎ、道端で立ち止まる。くあぁ、とあくびを漏らして私を見た。
その場にしゃがみ、おいでおいでと手で招くも、その猫は素っ気なくまたあくびをする。けれど逃げ出す様子はなく、今度は私の方から近づいてみる。お腹をそっと撫でてみると、薄い皮膚の下の温かな体温が手の平を包む。猫はニャア、と一声鳴いて立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。何となく私もその後を追ってみた。
動物は好きだ。犬も猫も大好き。マンションはペット禁制というわけではないが、きっと世話なんてできないだろうからと昔からペットは諦めている。だから今みたいに外で動物を見ると、つい構いたくなる。
猫はのったりのんびりと歩く。道を曲がり、塀の上を歩き、細い道をすり抜ける。けれどそののんびりとした動きは、林の手前でピタリと止まった。猫が背筋を丸め、口をカッと開き、威嚇の声を上げる。
シャアァ、と唸り始めた猫の姿にぎょっとしながら、私は思わず猫の視線の先に目を向けた。ただの木が生い茂った林。
その中で何かが動いた。
それがこっちへと駆けてくる。
「きゃっ!」
「わっ!」
ドンッと胸に何かがぶつかった。猫の威嚇と、薄暗い林というイメージが重なって、もしやオバケかと血の気が引いた。けれど落ち着いてよく見てみると、それは一人の女の子だった。
彼女は大きなつり目を丸くして私を見上げた。その顔はどこかぎょっとしたように強張っていた。しかし私が瞬いた瞬間、彼女の目は更に吊り上がり、口の中で謝罪の言葉らしきものをごにょごにょと呟いて走り去っていく。赤襟のセーターと、背中まで伸びた栗色の髪が風にひらめく。
……何をあんなに慌てているのだろう。気が付けば猫もいなくなっていて、林の前にぽつんと一人私は取り残されていた。
「……………………」
背筋にひんやりと悪寒が這う。ごくりと喉を鳴らし、今しがた少女が走ってきた林を恐る恐る見つめた。
何かがいるのだろうか。だからあの子も猫もいなくなってしまったのだろうか。
……気になる。
「大丈夫だよ、うん。ナイフもあるし……」
自分に言い聞かせるように呟いてそっと林に踏み入った。物音をたてないようにと思えど、落ちている枝葉を踏む音が響く。
ふと、湿った土のにおいに混じり、鉄のようなにおいがした。どこかで嗅ぎ覚えがある。
その臭いが何か思い出す前に、土に半分埋められた物体が目に入った。
「っ」
息を呑む。心臓が殴りつけられたように跳ね上がった。
猫が死んでいた。
「はぁ…………」
気だるい気持ちで鞄の中身を机に入れる。教室の中はひんやりと冷えきっていて、それがいっそう心のもやもやを際立たせている気がした。
ここずっと登校していなかったから、課題のプリントも授業内容も溜まっている。朝のホームルーム前というこの暇な時間をそれに費やすべきなのかもしれないけれど、全くそんな気にはなれなかった。
昨日見た猫の死骸。それが頭にこびりついて離れなかった。
灰色の毛並みの小柄な猫だった。半開きの口から涎のように血が溢れていて、その両の目はくりぬかれて傍に転がっていた。手足をぴんと伸ばしてべったりと腹を土にくっ付けて。
何より恐ろしかったのはその殺され方だった。上半身と下半身が分離し、ぐにゃぐにゃとした紐のようなものが……恐らく腸がその二つを繋いでいた。
あまりに悲惨な殺され方に私は悲鳴を押し殺して逃げた。多分あの女の子もこれを見てしまったのだろう、茶色い猫はこの臭いに警戒したのだろう、と混乱しながらも思った。
猫ねぇ、と口の中で小さく呟く。机の中に無造作に突っ込まれたプリントを握る。
殺し屋として生きることになった私の名前も『ネコ』だ。だからこそ、どこか仄暗い気持ちに胸が痛むのだ。
「…………ふぅっ」
暗い気分を払拭したいと思った私は椅子から立ち上がり、廊下へと出た。まだ先生が来るまでに時間もあるのだから、購買にでも行って飲み物を買おう。……何がいいかな、牛乳かな、ヨーグルトかな、野菜ジュースでもいいかも。
と、玄関の前を通るときに下駄箱の所で見知った顔を見た。思わず立ち止まると、相手も私に気が付き、気さくな笑みを浮かべて手を上げる。
「やあ、おはよう和子ちゃん」
「おはようございます、昴先輩」
昴先輩だった。彼は赤くなった鼻を啜りながら、今日も寒いねと笑った。
十一月も半ばになって、本格的な冬が到来した。厚着をしてくる人も増え、私もそろそろコートを買おうかと思っていた頃だ。昴先輩の両手には防寒のためにか黒い手袋がはめられている。と、昴先輩がその両手に何かを握っていた。
左手には新聞紙で包められた……花束、だろうか。そして右手には重そうな何かが入ったビニール袋、こちらは中身が厳重に新聞紙で隠されて見えない。
「何ですかそれ?」
尋ねると、昴先輩はぱちりと目を瞬かせ、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。それから小首を傾げて私に「ついておいでよ」と言う。不思議に思いつつも歩き出す彼の後ろをついて行くことにした。
廊下を歩いていると何故か生徒達の視線が昴先輩に集う。中にはおはよう、と挨拶をしてくる人もいた。男子も女子も、二年生だけでなく一年生や三年生も、昴先輩に笑顔を浮かべて話しかけてくる。昴先輩はとくに驚いた様子もなく、ニコニコと手を振り返す。
「お知り合いが……多いんですね?」
「うん、まあ、それなりにね」
ふふっと面白そうに微笑み、彼は廊下から外に出る扉を開ける。上履きのまま外に出た私達が着いた先は校舎の端のゴミ捨て場、その近くにある花壇だった。彼はしゃがみ込み、置いてあったスコップを取って土を掘り返す。私がギョッとするのも構わず、ザクザクと柔らかな土にみるみる穴を開けていく。
中ぐらいの穴を開け、昴先輩は大きく息を吐きながらビニール袋を取り、そこから新聞紙に包まれた何かを取り出した。それを開ける。
血の臭いがした。
「ひっ」
飲むような悲鳴を上げた。
そこにいたのは、私が昨日見た猫の死骸だった。
「なん……何ですか、それ…………」
何事もないかのようにもう一つの新聞紙を開ける昴先輩に尋ねる。そっちには予想通り花が包まれていた。淡い紫色の、長楕円形の花。
「君の誕生花、ジギタリスっていうんだよ。ずっと探してたんだけど中々見つからなくて」
「そうじゃない!」
こっち? と昴先輩が手袋を外し、猫の死骸にそっと触れる。新聞に包まれ、小さく丸められたそれは、猫というよりはまるでゴミのようにも見えた。
先輩はその死骸を手に包み、そっと穴の中に下ろす。さっき掘り出した土を丁寧にその上に被せていく。
「昨日の夜ここら辺を散歩してたら見つけたんだよ。このままだときっと腐るだけだなと思ってさ、それは可哀想でしょ? だから花壇に埋めてあげた方がこの子のためにもなるんじゃないかと思ってさ。……ほら、見てよこの傷」
言って、彼は猫の首周りの毛を手で避ける。ピンク色の皮膚に、痛々しい青痣がぐるりと一周していた。まるで細い紐のようなものに縛られたかのごとく。
それを見て思い出した。第三区を中心としてニュースにもなっている、動物が殺される事件。全身に細い糸のようなもので縛られた痕があるのが特徴で、犯人はいまだ目撃もされてなくて……。
思わず昴先輩を見下ろした。その手は恐れる様子もなく死骸に触れ、土に触れている。その手が運ぶ土の中に何かが交じっているのを見つけてしまった。
石? いや、違う。白に近い黄ばんだ色。細長かったり、太くて短いのだったり、折れたのだったり……、
ああ、これ。
動物の骨だ。
ムカムカとする胃の圧迫感を堪える私と対照的に、昴先輩は満足そうな顔で死骸を埋め終える。手の汚れを軽く払い、手袋をしてジギタリスの花を一輪ずつ丁寧に花壇へと植えていく。それほど時間もかからず、ジギタリスの花壇が出来上がった。
動物の死骸が埋められた花壇の上、綺麗に咲いた私の誕生花。何とも言えない微妙な気持ちに眉がしかめられた。
新聞の上に一輪だけ残ったジギタリス。それを昴先輩は掴み、私に捧げてくる。受け取ってということだろうか。
「……ありがとうございます」
そっと手を伸ばして昴先輩の手袋に触れるように花を受け取る。ふわりと香った花のにおいはキツク、ビリッとした刺激的なにおいがした。
あまり好きな香りじゃなかった。
彼は花を握りしめる私に満足そうに微笑み、「それじゃあばいばい」と手を振って立ち去った。
「……………………」
何がしたかったのだろうか。私に花をくれるためだけにこんなことを見せたのだろうか。考えてみても、昴先輩の意図は掴めなかった。
死んだ動物をわざわざ運んで花壇に供養するその行為は、とても素敵なことなのだろう。花まで植えて、彼らの死を悲しんで。とても優しい人じゃないか先輩は。
「私が駄目なのかな」
だけど私はどうしても、気持ち悪いという気持ちを拭いきれなかった。
チャイムが鳴った。校舎の角を曲がる前、最後にぼんやりと私は首を回して後ろを振り返った。
ゴミ捨て場の片隅に捨てられた一輪のジギタリスが、風に吹かれて紫色を揺らしていた。




