第137話 彼らの狙うもの
仁科さんは冬の朝のような人だ。
夜が明けきらぬまだ暗い時間。泥濘に沈むような微睡みから、ふっと目を覚ましたときの、ぼんやりとした感覚。毛布から抜け出した体を撫でていく寒さ。しん、と息を潜める空気はただ冷たく、寂しい。
冷えていく体を温めるのは甘いココア。喉を熱い液体が落ちていく。じわりと胃に滲む熱に、ほぅ、と息を吐いたときの穏やかな気持ち。
冷えるベランダに出て夜明けの光が昇るのを待ちながら、熱いマグカップの湯気で頬を温める。街の明かりは消えていて、目に映るのは寝静まった静かな街と、緩やかに踊る冬の風。
穏やかで、安らいで。短い微睡みと静寂の時間。
仁科さんを見ていると、そんなことを思う。
「――――仁科さん。仁科さんっ!」
「無駄だ。何も聞こえていない」
けれど。今目の前にいる仁科さんは、そんな普段の仁科さんではない。
熱を込めた息を吐き出し、薄い胸を大きく上下させる。ギラギラと鋭い眼光と剥き出しの犬歯には私達への敵意がこれでもかと現れている。
何が冬の朝だろうか。今の仁科さんからは静寂も安穏も感じることができない。強いて言うならば、炎。激しく燃え滾る炎のような、熱い獣性しか感じられない。
「来るぞっ」
東雲さんが鋭く声を飛ばす。
彼の忠告のたった一秒後。目の前に仁科さんが現れた。
「っ!」
いくら距離を取ろうとも、彼の跳躍力にかかれば一瞬。私は咄嗟にナイフを構えることしかできない。いや、それさえも、彼の動きには追い付けない。
鋭い蹴りが私の腰を蹴る。見切ることなんて考えられないくらい高速な蹴りに、私は目を丸くした。ふわっと体が浮く。放たれた力が私の体を飛ばす。瞬く間に迫る壁を目に映し、咄嗟に手を突いて衝撃を緩和させた。
「がはっ…………」
体中が痛い。息をするだけで骨が軋み、心臓が痛みに悲鳴を上げた。
もう限界だ。それでも、止まることはできない。必死で顔を上げた私は、仁科さんと戦う東雲さんの姿を見て、鼻にしわを寄せた。
素手の仁科さんと違い東雲さんは銃とナイフという武器を持っている。しかしそんなもの仁科さんの前では無意味だ。
東雲さんが撃つ銃も、ナイフも、仁科さんはすんでのところで躱している。それこそ頬の表皮や腕の皮を薄く裂くほど間一髪のところで。だがいくら傷を増やそうと仁科さんは怖気づかない。彼の足から繰り出される蹴りは重く東雲さんの体を打ち、大きなダメージを与える。
苦しそうに顔を歪める東雲さんを見て私は駆けだそうとした。加勢しなくては。けれど、ぞろり、と背中を撫でられるような激しい恐怖を感じ、素早く身を屈めた。刃を光にきらめかせたナイフが私の頭上を通り過ぎる。
「やるじゃん」
からかうような声で私の背後にいるハリネズミさんが笑う。彼女はくるりとナイフを回し、嬉々とした笑みを浮かべて私へとその切っ先を振り下ろしてきた。
ぐっと体を捻って攻撃を避ける。そのまま腰を捻って彼女へ拳を叩き込もうとした私は、背筋を撫でた悪寒に目を見開き、咄嗟に横へと跳ね退いた。私の腰があった場所にヒツジちゃんの靴が通り過ぎる。勢い余った彼女の足が床を叩けば、ミシミシと悲鳴を上げた。
仁科さんだけじゃない。ハリネズミさんも、ヒツジちゃんも。私達の敵は三人だ。
一人でも厄介だというのに。まさか、こんなに。
「……針一本分。細い針たった一本に付着しただけの薬だ。効き目はそれほど長くないはずだ。そうすれば、あるいは」
「どうだろうな?」
東雲さんの言葉をハリネズミさんが遮る。
「個人差があるからなぁ。本来、その薬は即効性だ。だけどそいつは効くまでに少し時間があった。効き目が切れるのも早いといいな。逆に、ずぅっと遅いかもしれないけれど」
薬に対する個人差と聞いて、私は以前製薬工場へ侵入したときのことを思い出していた。
薬を打たれ、それに耐えた彼の体。仁科さんの体が薬に耐性があるのかないのか、薬にもよるのだろうが、それは分からない。
普段から彼が摂取する飲食物などせいぜい水かリンゴ、それからサプリ程度。平均よりずっと虚弱であるはずの体。その内側には、どのような変化が現われているのだろうか。
仁科さんの狂暴性はどれだけの間持続する? 数分、数十分、あるいはもっと。
体力も気力も限界を迎えかけている私と東雲さんは、あとどれだけ耐えられる?
「下がれ!」
東雲さんの声にハッとする。目の前に、たった目と鼻の先に、仁科さんの顔が見えた。白髪がふわりと漂う。骨の浮いた拳が視界に映る。
瞬き程度の一瞬だというのに。本当に一瞬なのに。どうして、こんなにも。ああ、駄目だ。速い。こんな、間に合わ。
「ひっ…………」
「ネコ!」
東雲さんが咄嗟に私の前に飛び出した。彼が構えた腕に、仁科さんの拳が落ちる。歯を食いしばって耐える東雲さん。頬に汗を滲ませた彼が仁科さんを殴り返す。腹に直撃を受けた仁科さんは数歩後ろに後退り、苦しそうに咳き込んだ。その場に蹲りうーうーと唸る。
不意に、私達の背後から物音がした。反射的に振り返った私は、こちらに迫ってくる針を咄嗟にナイフで振り払った。床に散らばる針を踏みにじってハリネズミさんを睨めば、銃を下した彼女は楽しそうに笑う。
ふわり、とヒツジちゃんがスカートを空気に揺らす。ふわり、ゆらり、と可憐に揺れた少女は、一転、爆風に乗るかのような凄まじい勢いでこちらへと向かってくる。
あえて立ち向かう。駆け出した私は、くるりと回転させたナイフの柄を彼女の肩に叩き込もうとした。まっすぐ肩へ一直線。幼い体を押し留める一撃を放とうとする。
蹄が床を叩いた。ヒツジちゃんが、爪先で床を叩くように蹴った。ただそれだけ。なのに、彼女は高くその場に飛び上がる。私の放った攻撃は空を掠め、驚愕に見開いた目が、頭上から靴底を叩き込もうとする彼女の姿を捉えた。
「…………!」
声さえ出ない。
頭を蹴られる重い衝撃に、痛みを感じるより前にただ驚きが広がる。足が崩れ、その場に崩れ落ちそうになった。一瞬とはいえ確かに意識が飛んだ。
だが、即座に目覚めた私は咄嗟にヒツジちゃんのスカートを掴む。私に背を向け東雲さん達を見つめていた彼女が、とろりとした赤い視線を私に向ける。
「……東雲さんには、…………手を出すな!」
ヒツジちゃんの顔が歪んだ。眩しいものを見るときみたいに、ゴミを見るときみたいに、細くなった目が私を見下ろした。
憐れんでいるのか称えているのかそれともどれでもないのか? 彼女の表情が読めない。だが私の思考は、突然のハリネズミさんの笑い声によって中断された。
「心配するなよ」
コツリ、と彼女は銃を指で叩いた。
「オオカミは殺さない。せいぜい気絶させるだけだ」
「…………殺さない?」
「命令だからな」
怪訝に眉根を寄せた。東雲さんを見れば、彼もまた訝し気にハリネズミさん達を睨みつけていた。
「オオカミはあなた達の中で、一番優秀」
ヒツジちゃんが言う。愛らしい声とは対称に、子供にしてはどこか冷たく固い口調が私達へと直接向けられる。
「強さ、冷静さ、判断力、行動力。この世界でやっていく上で必要なものを、あなたは十分持っている。だから、ボスもあなたのことを一番欲しがっている」
「俺をか。それは、光栄なことだな」
「あなたのことは、前にも一度誘おうとした」
「何?」
東雲さんがヒツジちゃんを見つめる。警戒するように銃を握るも、その銃口はまだ床を狙っている。隣で私も仁科さんやハリネズミさんを警戒しつつ、ヒツジちゃんの話に耳を傾けた。
「以前。第十区で、あなたに懸賞金がかけられた」
小さく指が動く。無意識に小指を撫で、過去を回想した。
以前。夏。学校を襲った侵入者。満月の晩。海辺の倉庫。
ちょうど一年前、去年の夏のことだ。『オオカミ』を狙う敵が増えたのは。
駅などに張られている犯罪者のポスターには懸賞金が書かれている。同様に、裏の社会でも似たような賞金の話はあるのだ。
気に食わない殺し屋を拷問してくれたら百万円。好意を寄せているヤクザの女を誘拐してくれたら数十万。金次第で簡単に人を狙い襲い殺す。
勿論東雲さんにも懸賞金はかけられている。彼が殺し屋として頭角を現すようになってから、オオカミの名を奪おうとする輩は大勢いたらしい。今も彼が生きているのは、襲いくる敵の命を逆に奪ってきたからだ。
しかし去年の夏突然彼の懸賞金は跳ね上げられた。これまで「オオカミには敵わない」と尻込みをしていた連中は、高額の報酬に目の色を変えた。大勢で、不意打ちで、弱みを握って。様々な方法でオオカミを捕えようとした。
懸賞金が跳ね上がったのは一時の間だけ。金額が元に戻った途端東雲さんへの猛攻はパタリと止んだ。それでもあの間の彼の疲労感は凄まじく、結果的に落ち着いたとはいえ、私と彼の関係も大きく変化した。
「あれをやったのはわたし達」
東雲さんが表情を険しくする。どういうこと、と思わず私も身を乗り出した。
そのままの意味。とヒツジちゃんは小さく呟いて、ハリネズミさんを一瞥する。
「正確には、こっちの仲間の一人。あなたの懸賞金を勝手に吊り上げた」
「そんなの、簡単にできること……いや、今はそれはいい。…………何故?」
「さっきも言った。ボスはあなたを欲しがった。強い殺し屋が欲しい。中でも、『オオカミ』が、一番。だから」
吊り上げた、とヒツジちゃんは淡泊に締める。一つ一つが区切りの良い短い言葉。彼女の言おうとしている内容を頭の中でまとめる。
第十区のリーダーは、オオカミという一人の殺し屋を欲しがっている。
真っ向から仲間に誘ったところで彼が頷かないことは相手も承知だったのだろう。だから懸賞金を上げ、他の連中にオオカミさんを捕えさせようとしたのか。捕えたオオカミさんを自分の元に連れてこさせようとしたのか。
オオカミさんを捕えようとした連中は皆声を揃えて、殺すなと、生け捕りにしろと、そう言っていた。それはオオカミさんを殺してしまっては意味がないから。生かしたまま捕獲することで、ようやく大金を得ることができるからだった。
「でもボスはそれを良しとしなかった。無駄な騒ぎを起こすなって。だから懸賞金が上がったのは一時だけ。すぐに面倒事、収まったでしょう? 本人だけじゃなくて、周りにまで影響が出るのは嫌だったみたい。あなたへとか」
不意にヒツジちゃんに見つめられ、一歩後退る。私に、と小さく呟いてもう一度小指を擦った。怪我なんてしていないはずなのに、じくりとそこが痛んだ気がする。
オオカミさんを狙う敵は私にも目を付けた。いつもオオカミの傍にいる能天気なネコ。殺し屋の一員だとしても、私は東雲さんよりもずっと捕まえやすい殺し屋だ。私を囮として捕えようとした連中も大勢いた。
ずっと狙っていたのか。オオカミさんの力を自分達のものにしたいと、ずっと。
キノコさんと戦っていたときにも考えていた。もし私達が今夜第十区に来ることこそが、彼らの狙いだったのだとすれば。
…………それってつまり。
「東雲さん。東雲さんだけが、目的だった…………?」
呟く声は震えていた。隣の東雲さんが驚いた顔で私を見つめる。けれどそれに反応を返す余裕はなく、私の視線はただまっすぐに、目の前の敵二人に向けられる。
これまでの戦いの中で散々されてきた勧誘。力を得るために彼らは私達殺し屋を自分達の元に取り込もうとしていた。ネズミ、白ウサギ、人魚、クモ、イヌ、そしてネコ。全員のことを狙っているのだと思っていた。実際それも間違ってはいないのだろう。あわよくば私達も仲間にできればと、思っていたのだろう。
けれど真の目的は違う。彼らの狙いはただ一人。オオカミさんだ。
ハリネズミさんとヒツジさんは互いに顔を見合わせ、それから薄く微笑んだ。嫌らしく、上品でいて、薄い笑み。正反対な雰囲気を醸し出す二人の顔が、このときばかりは酷似する。
「薄々気が付いていただろ? あたし達がこんなにまどろっこしいことをしてお前達を追い詰めている理由。最初からお前達の辿るルートは把握してたんだ。排除するだけが目的なら、一人一人と戦わせていくような、時間のかかることなんてしてねぇよ」
「この建物に、入ってからだって。あなた達が戦った護衛達、一回ずつ戦うなら、そんなに多くなかったはず。せいぜい十人。やろうと思えば、一気にあなた達の元に何百人だって送れた。そうすれば、いくら全員でかかってこようと、あなた達は負けてた」
「あの人は、あたし達のリーダーは随分新しい奴を取り入れたいみたいだよ。じゃなかったら、蝶も、トカゲも、キノコも。誰も死んでないさ。仲間を殺してまで強い力が欲しいんだろうよ」
「もしも、途中で力尽きていたようなら、オオカミのことだって、きっと諦めていた。所詮、その程度だろうって。でも、予想通り。ここまで来ることができた」
くすくすと二人が笑う様子を目にし、東雲さんの顔に動揺が現れた。ここまで必死に頑張って上ってきた。それなのに、その全てが相手の手の平で転がされていただけの話だったのだ。無理もない。
気が付かなかった? とヒツジちゃんが言う。小さく柔らかそうな唇を細い指先がなぞり、弧を描く。
「わたし達がする攻撃、肉体的なダメージよりも、精神的なダメージを与えるものが多かった」
「……心を弱らせるため」
「そう。最上階まで上る体力をギリギリまで残して、代わりに心を弱らせて、へとへとにさせて」
「…………最後の最後、誘惑に乗せやすくするために」
東雲さんの力と体力があれば、私達がいなかったとしても最上階までは辿り着けたかもしれない。
如月さんに金を渡し、特定のルートを通らせるように東雲さんに指示を出す。道中いくつかの関門を置くことで東雲さんの力を試し、同時に精神力を奪っていく。
最上階まで辿り着いたところで既に彼の心は弱りきっていることだろう。そこに、とろけるような甘言を呈されたら。それが例えどうしようもない間違いであったとしても、弱りきった心のまま立ち向かえる人間などいるのだろうか。
「正解。おめでとう」
パチパチと小さな手で拍手をされる。ちっとも称えているようには感じない拍手に、感情を含まないヒツジちゃんの目。
拍手がやむ。表情の変わらない顔で、彼女は私に言う。
「だから早く降参してね」
突如風が吹いた。ヒツジちゃんの髪が空気を孕み、ぶわりと巻き上がる。だが、ここは室内だ。風は外から吹いたものではなかった。
ヒツジちゃんの背後から、ハリネズミさんが撃った大量の針が、横殴りの雨のように降ってきた。
「ネコ!」
痛いほどに腕を掴まれその場にしゃがまされる。視界が暗くなり前を見れば、私を庇う東雲さんの背中が見えた。
彼が脱いだコートを大きく振る。翻る深緑色の布に、直後大量の針が体当たりをする。バスバスと布がへこみ、何本かは生地を突き抜けて刺さる。直撃は免れた。だがコートという盾がはらりと床に落ちた瞬間、私達の目は迫る仁科さんの姿を捉える。
落ち着かない様子で蹲り体を震わせていた仁科さんだが、ハリネズミさんの攻撃をきっかけとしたようにまた暴れ出したのか。避けるよりも先に、仁科さんの拳が東雲さんの肩を殴り付ける。続けざまに彼は私の頭目がけて爪先を振り下ろそうとした。
「うっ!」
思わず伸ばした手が弾かれる。重い痺れに顔を顰めつつ、歯を食いしばってその痺れた手を再度伸ばした。仁科さんの靴を掴み、引き倒す。すぐに起き上がれないように彼のフードをナイフで床に縫い付ける。
仁科さんと、ハリネズミさんと、ヒツジちゃん。一瞬たりとも気を抜けるときはない。目まぐるしく動かす視界に映ったものを見て、私は叫ぶ。
「ネズミくん!」
狙われる対称は、なにも私と東雲さんだけではないのだ。
仁科さんに攻撃され気絶しているネズミくん。部屋の隅でぐったりと倒れていた彼に、ハリネズミさんの銃口が向けられていた。
私の叫びに、ハリネズミさんがこちらを見てにやりと笑う。遊ばれている。だがそのことに憤りを覚えるよりも、彼女の指が引き金を引く方が早い。
飛び出した私は、必死の形相で飛んでくる針を睨む。さきほどの東雲さんを真似するようにパーカーを脱ぎ、大きく薙ぐ。ボスンと布が揺れ、ぶつかった針が床に落ちる。その勢いのまま駆けた私は、倒れるネズミくんをパーカーで抱き包んだ。
「ネズミく…………、っ!」
靴で床を踏む小さな音がした。背後から聞こえた音に振り返った私は、銀の刃を光らせるナイフを見て、悲鳴を上げながら横に飛んだ。
「ひぃっ!?」
ガツン、と刃先が床を叩く。刃に付いた細かな傷や、持ち手などには見覚えがある。私のナイフだ。見開いた目を上げた私は、もう一度ナイフを振り下ろそうとする仁科さんを捉える。
「わ、う、わあ!」
ネズミくんを抱えて走り出す。仁科さんはナイフを振り上げて私を追う。背後から迫る足音とナイフを振る音に、恐怖がみるみる膨れ上がっていく。まるでホラー映画のワンシーンみたいだと現実逃避のように思うけれど、笑う余裕はなかった。
ただ広いホールには身を守れるような物はない。ピアノが置いてあるわけでもテーブルが並んでいるわけでもない。必然的に、そして向こう見ずにも私が逃げたのは、ホールの中央にある螺旋階段だった。
ダンダンと階段を蹴るように上る私の背後からは、トントンと軽い音が、けれど確実に距離を縮めて聞こえてくる。
下を見れば、東雲さんがハリネズミさんとヒツジちゃんと戦っている様が見えた。螺旋階段の手すり、一本一本の隙間は狭い。ハリネズミさんの針でこちらを攻撃することは難しいだろう。……それは東雲さんの加勢を受けられない、という点でも同じだけれど。
視線を下げたとき、追ってくる仁科さんのことも見えた。ナイフを握り階段を駆け上がる彼はめいっぱいに足を伸ばして三段飛ばしで階段を駆け上がってくる。比べて私はネズミくんを抱えていることもあって、一段ずつ上るのが精一杯だ。上を見ても、最上階まではまだまだ段数がある。このまま逃げきって上ることは不可能だ。意を決し私はネズミくんを階段に寝かせ、パーカーを握りながら振り返る。
「やあっ!」
目と鼻の先に近付いていたナイフ。それを握る手首を思い切り蹴り上げた。刃が肌を薄く裂く痛みが走る。仁科さんの腕が揺れたが、それはナイフを飛ばすまでには至らない。握っていたパーカーで彼の手を握る。ナイフの先が布地をほんの少しだけ貫いて、止まる。これですぐに刺される心配はなくなった。はずだった。
「ぇ」
仁科さんの伸ばした手が、私の首を掴む。一瞬で込められた力はとんでもなく強かった。きゅぅっと奇妙な音が喉から聞こえ、視界が端からどんどん暗くなる。思考ができなくなる。まずい。駄目。
後先を考える暇などない。完全に意識が落ちる前に、強く階段を蹴って仁科さんへと飛び付いた。彼の薄い体がふらつく。バランスを崩した彼は、咄嗟にどこかに手を伸ばすこともなく、そのまま後ろ向きに倒れていく。階段という場所で足を滑らせれば、その後の結果は決まっていた。
ほんの少しの間落ちていた意識を、ガンッと頭に当たる強い衝撃が揺り起こした。目覚めた意識で、今度は肩に、腰に、同じような衝撃が走る。最後に背中に痛みを感じたところで、ようやく連続していた衝撃が止んだ。
どうやら階段を転がり落ちていたようだ。螺旋階段という形状ゆえに、落ちた段数はたった少しのようだ。もつれ合うように落ちた仁科さんは、私の体に抱き着くようにして項垂れている。
足が痛い。打ち付けた全身の痛みに呻きながら自分の足を見下ろした私は、長く切り裂かれ血を流す自分の太ももを目にする。転がった拍子に仁科さんの持つナイフに裂かれたのか。ぞっとした私はようやく、自分に覆いかぶさる仁科さんに恐怖を感じてその肩を押しのけた。
「いい加減に、して、よっ!」
怒りと恐怖がないまぜになった声で怒鳴った私は、押しのけた仁科さんの姿を見て、思考を止めた。
仁科さんの着ている白いパーカーが真っ赤に染まっている。脇腹のあたりが、べとりと、じゅわじゅわと、赤い色を白い繊維に滲ませていく。その中央に生えているのはナイフの柄だ。
「…………あ」
うー、と仁科さんが低く唸る。ぼうっとした目が私を見て、それから自分の服を見下ろして、腹に刺さったナイフを見る。
骨ばった指がナイフを掴んだ。私が止める間もなく、彼は一気に刃を引き抜く。
「う、ぅーっ!」
とぷっと溢れた血が彼の服を濡らす。抜いた刃から飛んだ血が私の口元に飛ぶ。
仁科さんは長い溜息を零した。血を流す傷口に指が伸びる。ぐちゃり、と肉と血を抉る嫌な音。顔を強張らせる私へと、仁科さんは乱れた前髪の隙間から血走った眼を覗かせて、にこりと笑った。まだまだだよと言うように。
恐怖に唾を飲む。さっき飛んだ血のせいだろうか。少しだけ鉄臭い味がした。
いつまで頑張ればいいのだろうか。私はふと、そんなことを考えてしまう。