第135話 目前
「話は終わった?」
やって来たあざみちゃんが私と東雲さんを見て言った。パッと彼から離れて顔を赤くする私に肩を竦めて、彼女は顔の横で携帯をふりふりと振った。オウムから、とスピーカーモードにした通話画面を見せる。
『ねこぉ? まったく。自分から頼んできたっていうのに、途中からオレの声なんか無視して大暴れなんだものな』
「ご、ごめんなさい。すっかり夢中になっちゃって…………」
『次の忠告は無視してくれるなよ? またも、敵が接近中。もう間もなくそちらに着くはずだ』
ちっとあざみちゃんが苦々しい顔で舌打ちをする。
咄嗟に膨らませた警戒心が、彼女の指先に巻かれた糸をしゅるりと動かしていた。彼女もすっかり回復はしたのだろう。けれど、
「次から次から、水みたいに湧き出てくるわね。まさか蛇口を捻れば敵が出てくる仕組みなわけ?」
『安心しなよ。建物中の人間が一斉にお前達を狙ってやってくるだけだ。キノコを倒したときに大分暴れただろう? あの騒ぎはとうにビル中に知れ渡っている。その付近の階を捜索されるのも当然のことだ』
少なくとも百人以上がこの建物にいると聞いた。それはあくまでも少なく見積もった人数であり、本当はそれ以上の数がここに集まっているのだろう。
苛立ちに前髪をぐしゃりと搔き乱す。髪から滴った血が手の平を汚すが、気にする余裕もなかった。
上に行かなければいけないのに邪魔をされ続けている。全ての敵を無視してただ突っ込んでいければいいが、現実的に不可能だろう。
――――問題を考えている暇などない。
ドン、と激しい銃声がした。私達が通ってきたばかりの通路からだ。
素早く振り返った私達の視界には閉じた扉だけが見えている。その向こう側から聞こえてくるのは銃声と複数の怒号だった。
「ネコ、お前は下がっていろ」
東雲さんが鋭い声を吐いて前に出る。クモ、と一声告げれば、糸を構えたあざみちゃんがその隣に立つ。
殺意のこもった二人の眼差しが扉を射貫く。緊迫した空気が肌の表面を冷やし、粟立たせた。
バン、という激しい打撲音を最後に扉の向こうからの物音が止む。空間が静まり返った。次の瞬間、扉が開け放たれ、張り詰めていた空気が爆発しそうになる。
だが誰よりも早く動いたのは私だ。二人の後ろから様子を窺っていた私は、扉の先に立つ人を見て咄嗟に構えていた二人を制した。東雲さんとあざみちゃんもすぐに警戒心を緩め武器を下す。
飛び込んできた一匹の闘犬。太陽くんは、闘志に燃えていた目を私達に向けた途端、パッと表情を年相応の少年らしいそれに変える。おーい、と気の抜けるような明るい声で両手を振り、掴んでいたスーツ姿の男を地面に落とす。絨毯に顔を埋めたその男は、苦しいだろうに身動ぎ一つしなかった。
「ようやく追い付いた! 無事だったんだな!」
「…………それはこっちの台詞よ!」
あざみちゃんが近付いてきた太陽くんの肩を掴む。服の生地を掴んだはずなのに、聞こえてきたのはぬちゃりという粘着質な音だった。
さっきは海水でぐっしょりと濡れていた彼の体は、今は血で濡れている。握っている拳は骨が尖った部分の皮膚が裂け、痛々しいピンク色を覗かせている。ボタボタと髪や頬から流れる血なんて、まるで全て偽物ですよとばかりに満面の笑みを浮かべている太陽くん。だけどその血は決して返り血だけじゃないはずだ。
当然だ。このビルの最下層からこの階まで、敵を薙ぎ倒して一気にここまで駆け上がってきたのだから。
「ここまでまっすぐ走ってきたって言うの?」
「隠れて進むよりまっすぐ突き抜けた方が早く上れるだろ?」
「あんた、何か武器持ってるの?」
「手足と歯なら持ってるぜ!」
「隠れて待ってたり、連絡を寄こしたりすれば良かったのに」
「大丈夫だって。ヒーローは最強だからな!」
ボタタ、と太陽くんの弧を描く口から血が零れる。あざみちゃんはそれ以上何も言わず、ただ溜息を吐いて肩を竦めた。
根性なんかじゃ何とかならないことだって、太陽くんは何とかしてしまう。だけどこの怪我だ。ふと気を抜いた瞬間に倒れてもおかしくない。血だらけじゃないか大丈夫かよ、なんて私に向かって聞いてくる彼に、無言で頷きを返した。
「オレだって全員のせたわけじゃねえ。まだ敵が追ってきてる。急がないと、面倒だぜ」
「分かってる。……ねえオウム、他は今どこにいるの? 人魚も白ウサギ達も、どこにいる?」
そうさな、と如月さんは一拍置いてから小さく笑った。
『近くにいるよ』
「は? この建物にいるってこと?」
『ああ。…………っと、説明の時間はなさそうだぜ。お出ましだ』
如月さんの言葉が終わるか終わらないかというタイミングで、開けっ放しだった扉の向こう側の通路に、数人の護衛がやって来た。私達がここにいることを既に知っていた様子で、彼らは武器を向けてくる。
「走れ!」
東雲さんが手を振った。すぐさま走り出す私達の背後で銃声が一発聞こえる。足を止めずに振り返れば、東雲さんが一番前を走っていた護衛の肩を撃ち抜いたのが見える。相手も撃ち返してきたが、随分距離があるうちはそう簡単に当たらない。顔の横を通り過ぎる銃弾を無視し、東雲さんはその場から一歩も動かずまた相手の体を撃ち抜く。次の扉を開けて進んでいく。後ろを確認しながら東雲さんもすぐに追いついた。
けれどそうやって進んでいこうが、足の速さだけでいえば、私達よりも相手の方が上だった。
「ああもう、速い!」
走り出してそうたたないうちに、あざみちゃんが苛立ちを叫ぶ。
追手との距離は段々と縮まっている。今のこちらの体力とあちらの体力では圧倒的に相手の方が有利だろう。このまま逃げ続けているのは危険か。
そのときだ。いたぞ、という新たな声が横から聞こえて私達はハッとする。不運は重なるらしい。非常階段に繋がる道から上ってきた別の追手が私達の前に回り込む。挟み撃ちだ。
足を止めた私達へと彼らの鋭い敵意が向けられる。誰もが相手の動きを窺い、指先一つ動かさない。こちらが身動ぎ一つでもすれば、容赦のない銃弾の嵐に襲われそうだった。
「……………………」
暗いスーツの男達の中には女性の姿も見受けられる。サングラスと帽子で顔はよく見えないが、その顔には他の護衛達と同じ敵意が込められているに違いない。
こんな場所で日々を過ごし、こんな緊急時に建物の護衛として駆り出される人々に、性別も年齢も関係ない。侵入者に対し、咄嗟に恐れではなく敵意を抱ける人々は戦うということに慣れている人間だ。私達のように。
「武器を捨てて降伏しろ」
相手の一人が言う。私達は誰一人指示に従わない。
「降伏したらどうなるっての?」
「侵入者として、上に報告するだけだ。命の安全は保障しよう」
「信じられないわ」
あざみちゃんが鼻で笑う。こんな状況にまでしておいて、何事もなく無事に済むだなんてあり得ないだろう。
『殺人鬼』は私達の力を自分達の元に取り入れようとしている。だが命のやりとりをする中で生かそう殺そうと冷静に考えることができる人間はそういない。殺人鬼以外の、例えば今目の前にいる護衛達は、本格的な戦闘になったとき、容赦なく私達を殺そうとしてくるだろう。手加減をする余裕を持った人間がどれだけいることか。
「私達は先に進みたいんです。お願いですから、どいてください」
「正直に通す訳がないだろう。その場に膝を突け」
「どいてくれないと死にますよ」
「お前たちがな」
カチリ、と音がする。誰かが銃を構える音だ。周囲の護衛達の敵意は今にも破裂しそうなほどに膨らんでいく。緊迫した空気を包む薄い膜一つ、誰かが爪でぷつりと穴を開けてしまえば、そこから一気に溢れ出す。
しかし。その膜を破ったのは、私達ではない。予想外の人物だった。
突如弾けた発砲音に、その場の誰もが体を硬直させる。
集団の真ん中にいた一人が床に崩れ落ちる。しかし東雲さんはまだ銃の引き金を引いていないし、太陽くんもあざみちゃんも、私だって攻撃をしかけた覚えはない。
何より、発砲音がしたのは彼らの方からだ。
「え?」
思わずとぼけた声を出す。理解が追い付かないのは私達も、敵である彼らも。
その中でたった一人だけが状況を把握して、誰よりも早く動いた。それは説明するまでもなく今の攻撃をしかけた人物。倒れた男のすぐ後ろに立っていた人間だ。
彼女はゆらりと足を振り上げる。腰を捻り全力で叩き込まれた蹴りは、近くにいた男の腹を抉った。勢いに乗って、鋭いヒールはまた別の男の顎を蹴り上げる。
真っ先に我に返った男が彼女の手首を捻り上げようとする。だが彼女はむしろ、自ら男に体を寄せた。まるで二人は恋人であると錯覚するようなほどの距離。
バスンとくぐもった音がする。音と同時に、男の頬が一度だけ痙攣したのを私は見た。
男の頬にぷくりと小さな赤い玉が浮かぶ。それはパッと弾け、少量の血で男の頬を赤く染める。目を見開く男の体を、まるで汚い物であるかのように突き飛ばし、彼女は一歩後退る。
誰かが見知らぬ名前を呼びかけたが、女性はその名前に反応しない。恐らくは彼らの仲間の誰かに変装したのだろう。彼女はそちらの人間ではない。そのことに気付くのが彼らは少し遅かった。
女性の背後で鋭く刃物が輝いた。後ろだ、と太陽くんが咄嗟に叫ぶ。女性はすぐさまその声に反応し、振り向きざまに背後の男を蹴り上げた。
振り下ろされたナイフが彼女の帽子に引っかかる。外れた帽子の下から、隠されていた長い黒髪が姿を現す。深夜の海を思わせるような、滑らかに艶めく髪が、サラリと空中に広がった。
「東雲!」
女性の鋭い声が飛んだ。
東雲さんはその声に、持っていた銃を構え、引き金を引いた。弾丸が女性のすぐ横にいた男の片目を弾き飛ばす。ほぼ同時に、その隣にいた男の片耳が飛んだ。
女性の手中に何かが収められていることに気が付く。手の平に収まるくらいの小さな銃、デリンジャーだ。その引き金を引いたばかりの彼女は、銃身を鈍器としてまた一人の鼻面に叩き込む。
「人魚!」
東雲さんが彼女を呼んだ。真理亜さんが、ヒールで強く床を蹴る。東雲さんも同様に床を蹴って彼女の隣へ身を寄せた。
二人の左右から敵が迫っていく。拳と刃が二人を襲おうとする。
オオカミと人魚の鋭い視線が、互いの背後に迫る敵に突き刺さる。
二人の体が同時に揺れた。床から片足が離れたかと思えば、次の瞬間、空気を切り裂くような鋭い蹴りが敵の顔面に叩き込まれていた。
東雲さんの蹴りは真理亜さんの背後にいる敵に、真理亜さんの蹴りは東雲さんの背後にいる敵に。敵は一声も上げることなく昏倒し、その場に崩れ落ちる。
東雲さんと真理亜さんの視線が交差する。その目を僅かに細め、二人はまた互いを狙う敵に攻撃をしかける。
「こっちも来るわよ、和子、太陽!」
敵の注意が向けられるのはなにも東雲さんと真理亜さんだけではない。
数人の護衛がこちらにやってくる。こちらに向けられる銃口を見て、あざみちゃんが咄嗟に前に出た。彼女の飛ばした糸が相手の手首に絡みつく。指を複雑に動かせば、嫌な音がして男の人差し指があらぬ方向に曲がった。
ギャッと悲鳴を上げた男に太陽くんが突っ込んでいく。二発目を撃たれる前に、彼は雄叫びを上げて男の顔に拳を撃ち抜いた。続けて別の攻撃を避けながら、敵の胸倉を掴み頭同士をぶつけていく。
私も太陽くんに続いて敵に突っ込んでいった。袖から滑らせたナイフを逆手で握り、間近にいた一人の足を狙う。スーツごと腿を裂けば、苦悶の表情を浮かべた男が一瞬体勢を崩す。その一瞬で背後に回り込み、今度は背中を切り裂いた。反射的に男は背中に手を回し、痛む傷口を押さえようとする。私はするりと、また彼の正面に回り込んだ。
「ごめんな、さいっ」
床を蹴って飛び上がる。回転させたナイフの柄を強く握り、大きく振り上げたそれを彼の頭上から目いっぱいに振り落とした。立てた膝が、ガクンと下がった彼の顎を強く打つ。
気絶してしまった彼を一瞥し、私はすぐに次の敵へ突進する。頬に飛んだ血を拭う暇もないから舐め取って、ナイフを振って血を飛ばす。
銃声と怒声と悲鳴が満ちた廊下。壁に新たな血や汁が飛んで、奇怪な壁紙を作り出す。
不意に頭上から物音がした気がして、私はパッと上を見上げた。
しかし頭上に見えるのは何の変哲もない天井だ。洒落た照明が廊下を明るく照らし、換気口が血の臭いを外に押し出している。どれだけ明るく照らされようと今の私達の心は癒されないし、血の臭いもすぐに飛ぶことはないだろうけれど。
「きゃっ」
小さな悲鳴。あざみちゃんが、ビクリと体を震わせた。
銃弾が頬を掠ったらしい。刺激に思わず目を瞑ったあざみちゃんの隙を狙い、走り寄って銃を向ける男がいる。彼女もその気配には気が付いていたようだ。素早く手を振り、男へと糸を飛ばす。
けれど一瞬だけ攻撃は遅れた。撃たれた銃は、糸の隙間を掻い潜って、彼女の耳元へと飛んでいく。
パァンと大きな発砲音。幸い弾は当たらなかった様子だが、耳元で弾丸の過ぎる音を聞いてしまったあざみちゃんは、反射的にその体を硬直させる。男の首に巻き付こうとしていた糸は、狙いを逸れて外れてしまう。
今がチャンスだとばかりに男が彼女へと向かっていく。あざみ、と太陽くんが叫ぶ。私も同じく彼女の名を呼ぼうとして――……ふと、視界の端に見えたものへと目を向けた。
あざみちゃんの真上。天井に設置された換気口。その蓋の隙間で何かが動いていた。
虫とか害獣とか、そういう大きさのものではない。もっと大きい何か。ぼんやりと光るものが揺れ動いたとき、それが人間の瞳であると確信した。
――――誰かがいる。
ぞっと背筋に寒気が上る。瞬間、金具が壊れるような音を立てて、換気口の蓋が落ちてきた。
「わぁ――っ!」
落ちてきたのは蓋だけじゃない。もう一つ、いや、二つ。二人の人間が落ちてきた。
蓋を咄嗟に避けた男は、だが続いて落下してきた子供は避けきれなかったらしい。男の顔面に直撃したその子供は、そのまま床を転がって壁にぶつかり、んぎゃっと悲鳴を上げた。
「なっ…………ごふっ!」
二人目は、子供ほど取り乱した様子もなく、落ち着いた様で着地した。その際腹部を強く踏まれた男は、肺から空気を吐き出して白目を剥く。
突如降ってきたその二人に全員の意識が向けられる。当の本人達はゆっくりと立ち上がり、白い髪と黒い髪をサラリと流した。仁科さんとネズミくんはお互いの顔を見合わせる。
「なんだ。全員こんな所に集まってたの」
のんびりとした口調が場の空気を混ぜる。こちらに銃や刃物を向ける男達は、様子を窺っているのか誰も動かない。そんな中で仁科さんが、何を気にするわけでもなく私達に言う。
「上に行くんでしょう? 楽な通路を見つけたから、そこから行こう」
「っ、おい待て!」
我関せずと先へ進もうとする仁科さんに、敵意を剥き出しにした声が飛ぶ。
彼らにナイフの切っ先を構えようとした。そんな私の視界を真理亜さんの背が遮る。
「足止めに七人もいらない。――――あなた達、先へ進みなさい」
真理亜さんの言葉を合図にしたように、太陽くんとあざみちゃんが彼女の両脇に立つ。糸と拳を握り、二人は前を見たまま、私に声だけで語りかける。
「オレ一人で十分だ。全員ボッコボコにしてやるよ」
「できもしないこと豪語しないでよ。人数は大いに越したことはないけど……そうね、こんな狭い場所だと、三人もいれば十分」
熱り立つ男達へ、太陽くんがパシンと拳を打つ。犬歯を剥き出しにした獰猛な笑みで敵を睨んだ。
「手前らの野望はオレ達が阻止してやる。この街は壊させねえ。それがヒーローの役目だからな!」
あざみちゃんはあくまで冷静な表情を崩さない。けれどその目は強く敵を睨み、その口端は僅かに弧を描く。
「ヒーローとかそういうんじゃないけど、問題はさっさと解決して受験に集中したいの。…………それに、友達が死ぬのは困るもの」
「家族や恋人と幸せに生きている人達が、大切な人を亡くして悲しむのは見たくないわ」
続けて真理亜さんも頷く。それから彼女はちらりと私の方を見やって、顎を引く。私は東雲さんへ顔を向けた。彼もまた私を見て、こくりと頷いた。
「無理はしないで」
私の言葉に三人は微笑みで返事をした。こんな状況で無理をするなと、その方が無理であることを私も承知している。
それでも言わなければ気が済まなかった。
「そっちも」
あざみちゃんが一気に手を引いた。透明な縄で綱引きをしているかのように、ぐっと引っ張られる腕。その指先から伸びていた糸がピンと張り詰める。
走りながら罠をしかけていたのか。伸びた糸の先がくっ付いていたのは、男達の足元、そこに敷かれた絨毯だ。
糊ごと絨毯が引き剥がされる。その上に立っていた男達が体勢を崩す。近くの仲間にぶつかり、その服を引っ張り、一人が転べば他の数人も巻き込まれてしまう。
辛うじて壁に手をつき立つ数人に、真理亜さんが装填した銃を撃つ、太陽くんが拳を振るう。しかし二人が応戦する隙間を掻い潜って一発の弾丸が飛んできた。まっすぐ。こちらに。
しかし、空中で急に弾は方向を変え、私達に開けるはずだった穴を壁に開けた。弾が弾かれた空中に、半透明な糸がキラキラと光を反射して張られていた。
「頼んだわよ!」
力強い言葉に背を叩かれる。一度だけ大きく頷いて、私達は彼らに背を向けて走り出した。
「この道が上に繋がってる」
「よ!」
仁科さんとネズミくんを先導に走ってきた私達。だが彼らがそう言って示した道を見て、私と東雲さんは顔を見合わせた。
「ここか?」
「うん。おれたちも、この道を通ってこの階まで来た」
「無理だ、通れない」
「とおれるよぉ?」
お前達はな、と東雲さんは溜息を吐く。
仁科さん達が案内してくれた道、それは換気口だ。建物の至る所に設置された通り道。だがそれはあくまで空気の話であって、人間が通ることを考えて作られたものじゃない。
仁科さんとネズミくんが無事にここまで辿り着けたのは、この道を通ってきたからなのだという。確かにダクトの中にまで監視カメラはないだろうし、敵が待ち構えているということもないだろう。だが細身の彼らはともかく普通の体躯の人間がここを通っていくことは難しい。私だって体がつっかえてしまって通れそうにない。
面倒だなぁ、と仁科さんはのんびりとあくびをして言った。涙を滲ませた目が、とろりと私達を見る。
「それじゃあ、もっと楽な道を行こうか」
無言で立つ四人の男は、前の扉へと視線を向けていた。
扉の先には敵がいるかもしれない。そう意識している彼らは、それぞれの武器を手に下げ、扉が開いた瞬間すぐにでも攻撃できるように準備を整えている。
四方のうち出入口があるのはその扉がある一ヵ所だけ。だからこそ、彼らは他の方向への注意を欠いていた。
私は男達の中心に降り立った。足元に敷かれたマットが音と衝撃を殺してくれる。突如中央に現れた少女。男達が状況を把握し攻撃を仕掛けるまでに一秒。
一秒の間に、私が彼らに攻撃をしかけるのは容易いことだった。
その場で回転し、彼らの腕を切り裂く。浅い攻撃だ。しかし彼らに焦りを抱かせるには十分だ。
ギャ、と悲鳴が上がる。一人が憤怒の表情で私へと銃を向ける。至近距離の銃口を避ければ、放たれた弾は別の男の肩を裂き、血が飛んだ。
ダン、と音がしてすぐ隣に東雲さんが着地する。間髪入れずに彼は間近の男の右目に銃口を向け、引き金を引く。
頭皮が破れ、肉と汁と脂肪が弾け飛ぶ。狙って撃ったのだろう。夥しい量の液体は男の傍にいた二人の顔に降りかかり、その視界を遮る。
東雲さんはナイフを取り出し、鋭く腕を振った。ぱくりと男二人の喉に線が引かれ、彼らは青ざめた顔で喉元を押さえる。赤く泡立った悲鳴を上げながら彼らはずるずると床に倒れた。
「ぐっ…………」
三人が死に、一人の男だけが生き残った。顔を蒼白にしたその一人は今、私に喉元へナイフを突き付けられ、小さく体を震わせるばかりだ。ちらりと扉の方向へ目をやる。私がこの空間に降り立った瞬間から、四階分と進んでいない。
箱の上から エレベーターの中に降り立った私達。仁科さんが言う一番楽に上へいける方法、それがこれだ。
「貴様ら…………!」
「死にたくないなら静かに」
ぐ、と男の首筋に押し当てたナイフが、表皮に薄い切れ目を入れる。
背後で両手を拘束し、その首筋にナイフを当てて脅す私へと、男が殺意を抱いた目を向ける。無言で手に力を込めた。ぷつぷつと首筋に浮く血の玉に、男はぐぅ、と唸り動きを止める。
「動くとナイフが刺さりますよ」
一階、二階、とエレベーターは上昇していく。階数を横目で見ながら、私は男を脅した。
まっすぐ上に上がることはないはずだ。恐らく途中で敵が襲ってくるだろう。私達が彼を生かしておいたのは、そのときの盾にするため。一瞬でも僅かでも敵の攻撃を耐えるため。
ナイフの刃が徐々に深く彼の首に埋まる。少量の血を流し、男は歯噛みして私達を睨みつけていた。
箱の上にいた仁科さんとネズミくんも降りてくる。ぼうっとエレベーターが上昇する音に耳を澄ませていた彼らは、ふと口を開く。
「二人はどうしてここまで来たの?」
私と東雲さんは、そう言った仁科さんへ顔を向けた。彼は埃で薄汚れた服の裾を払い、息を吐くような声音で聞く。
彼の目が私達を見つめた。私も東雲さんも、全身とうにボロボロだ。視線から顔を隠すように頬を拭えば、固まった血が剥がれ落ちる。
「怪我、痛くないの?」
「…………痛いですよ」
「眠くない? 疲れてない?」
「眠いし、疲れてます」
「じゃあどうして帰らないの?」
私はすぐ彼の問いには答えない。代わりに、その足元でこちらを見上げているネズミくんに視線を落とす。
「ネズミくんはどうしてここまで来たの?」
「リンゴいっぱいもらえるってきいたから」
にぱっと太陽のような笑顔を浮かべる。けれどすぐ、ネズミくんは僅かに表情を変えた。何かを思案するような少し大人びた顔をする。それは私が初めて見た彼の顔だ。
「ぼくね、リンゴいっぱいほしい。おいしいから」
「うん」
「もらったらね、みんなとたべるの。かえってマスターとたべるの」
「うん、そっか」
「だからここまできたの」
言ってネズミくんは仁科さんの足に抱き着いた。仁科さんはぼんやりとネズミくんを見る。頭を撫でることはしないけれども、その体を振り解くことはない。
私は頷いた。同じですよ、と続ける。
「私も帰ったら、色んなことがしたい。両親にご飯を作ってあげたいし、友達と遊びに行きたい。受験勉強もしなくちゃ」
やりたいこととか、やるべきこととか、会いたい人とか、話したい人とか。いっぱいある。
それは全部帰らないとできないことだ。だけど私達が今夜なすべきことをしなければ消えてしまうものだ。
言葉にしなくとも仁科さんには伝わったのか、それとも単に飽きたのか、彼は東雲さんに顔を向ける。同じ質問をされた東雲さんは、さらりと即答する。
「俺が殺し屋だからだ。頼まれれば、相手が誰だろうと殺す。それだけだ」
「本当に?」
「…………他の奴らと同じだよ。街の治安をこれ以上悪化させたくはない」
「本当にそれだけ?」
東雲さんが怪訝に眉根を寄せた。仁科さんは壁にもたれ、ゆらゆらと足を揺らす。何てことない世間話をするようなのんびりとした声で、彼は東雲さんに聞く。
「他の理由もあるんじゃないの、お前には」
「他の理由?」
「街を守りたいとか、殺し屋だからとか、それだけじゃない。もっと大きい理由」
「……………………」
「だってお前はおれに似てるもの」
東雲さんの表情に影が差した。彼は僅かに目を見開き、はくりと小さく吐息を震わせた。
心に不安が滲む。思わず注意を二人に向けて、私は口を開く。
「それって――――……」
ガコンッ、と。
エレベーターが激しく揺れた。ぐらりと倒れそうになるも、咄嗟に足を踏み出して耐える。驚きを頭に浮かべながら扉へと目を向ける。止まっているのは目的地の一つ下、最上階の一つ手前の階だ。
警告音が鳴り響くエレベーター。その扉が今まさに開かれようとしていた。
「来るぞ!」
東雲さんが言う。ほぼ同時にエレベーターの扉が開き、その向こうから何かが飛んできた。
こちらに来る。
「ギャア!」
男が悲鳴を上げた。飛んでくる何かを目にした瞬間、咄嗟に東雲さんが彼の体を引っ張り、前へと突き飛ばしたのだ。
何かの直撃を受けた男は、体を痙攣させ、仰向けに倒れた。その体を見てひっと悲鳴を上げる。彼の顔に長い針が生えていたからだ。脳天、両目、唇、喉。至る箇所に針を生やした男は、見開いた目で虚無を見つめている。
「邪魔…………何これ」
男の体では防ぎきれなかった分が仁科さんに刺さったらしい。首に刺さった針を抜き、彼は不快の表情でそれを床に放る。首に開いた穴からとろりとした血が流れ、服の襟を汚している。
長さは私の指先から手首ほどまで。太さは安全ピンより僅かに太い。明らかに殺傷目的で作られ、投げられた針が、男の体に、床に何本も散らばっている。
こんばんは、と陽気な声がした。私の知っている声ではない。新しく聞く人の声。東雲さんでも仁科さんでもネズミくんでもない人の声。
それは今開いた扉の向こう。そこに立つ敵が吐いた声だ。
その声は、続けて言った。
「ようこそ。最上階の、その手前へ」