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第134話 オオカミの弟子

「見つかったか? ……そうか。お前は右を探せ。俺は左を探す」

「了解」


 潜めた会話。遠のく足音、近付く足音。柱の陰に隠れていた私は、近付いてきた男の爪先が見えた瞬間、素早く飛び出してその首に飛びかかった。腕を顔に回して男の口を塞ぐ。すぐに太い手が私の体を振り解こうとしてきたが、殴られることも構わずその首を締めあげた。

 男の体から力が抜けたのを確認して腕を離す。喉に触れ、脈があることを確認してほっと息を吐く。

 殴られた肩が痛い。きっと明日は酷い痣になっていることだろう。長引かなければいいのだけれど。


「……………………」


 私に明日は来るのだろうか。


「…………残りは?」

『周辺を警戒しているのはあと二人だ』

「意外と少ないですね」

『下で暴れているイヌの方に人員が割かれているんだろう。だが気を付けろ。倒す前に応援を呼ばれでもすれば……』

「呼ばれる前に倒せばいい」


 柱の陰から飛び出し、音を立てないよう気を付けて走る。前方に見えた男に気付かれないように。

 慎重に、静かに。

 猫のように私は動く。



 高そうな背広が床に落ちる。意識を失い倒れた男を見下ろし、私は乱れた呼吸を整えた。

 素早く廊下を見回せば、同じように崩れ落ちている男達の姿がそこにある。立っている人間はいない。

 ……見つかりにくいとはいえ、一ヵ所に留まり続けていればいずれ見つかってしまう。敵地という四面楚歌の状態で、今の私達が勝てるかどうかは怪しい。

 だから今の私がやるべきことは、あざみちゃん達がいる部屋の周囲を、少しでも安全にすることだ。そして、先へ進む際の障害を少しでも排除することだ。

 せめて、東雲さんが回復するまでの間。


「…………はぁー」


 大きく息を吐いて緊張を吐き出す。手汗を服で拭い、ナイフを握り直す。

 この付近の敵は倒した。少なくとも、あざみちゃん達が見つかる心配は減った。こんな状況ではあるが、小さな安堵感に眉間のシワを緩める。


『ネコ、お知らせだ』


 けれど、如月さんの声に再び緊張感を戻した。どうしました、と尋ねれば、電話越しに軽い言葉が返される。


『敵がそちらに向かっている。上階からだ。恐らくその階も捜索されるだろう』

「数は?」

『十人』

「十人…………」


 二十、三十と、そんな馬鹿みたいな数ではない。だけど今必死になって倒した三人よりは、ずっと多い。

 例えばそれが、か弱い素手の子供の大群であったならば、私はずっと有利になれたはずだ。しかし相手は手練れの銃を所持した集団である。対してこちらは、飛び道具を持たないたった一人。一度どこかに隠れて不意打ちを狙おうかと周囲を見回したが、近くに部屋もなければ身を隠せられるような台もないし、換気口はギリギリ体が通らない大きさのものしかない。身を隠せられるような場所はない。

 汗でぬめる手をまた服で拭う。それでも手の平はじっとりと湿り、何度拭っても変わらない。大きい深呼吸を繰り返してナイフを両手で握る。俯いて目を閉じれば、その姿はまるで、神様に祈っているようにでも見えるだろうと思った。

 本当に、神様にお祈りの一つでもすべきかもしれない、と口元に笑みを浮かべる。汗がまた一滴頬を伝う。

 お祈りって言ったって、何を祈ればいい。二人が見つかりませんように? 死ぬことなく敵を倒せますように? 無事に帰れますように?

 いいや。どの願いだってきっと神様が叶えてくれることはない。こんなことをしておいて、私達だけ助けてくださいなんて、そんなのは虫が良すぎる話だ。これまで倒してきた人達だって同じことを願っていたはずなのに。


「神様…………」


 そう呟いてみる。だけど私が呼んだ神様は、空にいる神様じゃない。今の私が信じている神様はそこにはいない。

 私にとっての神様は、


「……………………」

『ネコ、もうすぐ敵が来るぞ。どうする?』

「…………如月さん」


 奥歯を噛み締めて無理矢理震えを止める。ナイフを握り、キツく閉じた目を開く。


「指示をください」

『何の?』

「私と護衛さん達が戦っているところ。私からは見えない、気付かない敵の動きを。監視カメラで見ているんだったら分かるでしょ? 教えてください。どこからどんな攻撃が来るか、どう避ければいいか」

『…………それは分かるよ? でも、どうしてオレがその情報をネコに教えなければならない。教えることに対する、こちらの利益は何だ?』

「さっき言ったじゃないですか。出世払い、もしくは私への保険金分のお金を渡すって」

『「今回だけ」って言っただろ』

「『今回』がさっきの一度きりだとは言ってなかったですよね。『今回』はまだ有効です。今夜一晩、私達が第十区にいる間が『今回』です」


 屁理屈すぎるぞ、と如月さんは笑う。だけどその声音から、彼がちっとも可笑しく感じていないことが露骨に伝わってくる。

 私も笑った。ちっとも可笑しいと感じていないまま、声だけで。自分でもぞっとするくらい冷たく低い声が喉から溢れる。


「迷惑料です」

『は?』

「私達殺し屋側が今回あなたに被った迷惑料」


 如月さんからの返答はない。この言葉だけで彼が納得するはずがないことは分かっている。だから私は無理矢理言葉を生み出して、彼に畳みかけた。


「情報屋にとって一番大切なのは膨大な情報。だけどそれ以上に信頼が一番大切でしょ。信頼されなければ情報を与えたところで意味はない。如月さん、あなたがいくら豊富で正確な情報を持っているとしても、あなたという人間自身が信頼されなければ、商売は成立しない。あなたが金額次第で敵味方関係なく情報を売っているとしても、同じ方法ばかり続ければいずれ信用を失って商売が成り立たなくなる。……今私に無償で情報を売ること。それが殺し屋側の信頼を回復させる、唯一の方法なんですよ、オウムさん」


 屁理屈だ。嘘だ。でまかせだ。私の言葉はどこにも根を張っていない。

 たとえ如月さんが金額次第で態度を変え続けたとしても、逆にそこを信頼して彼を求める人だっている。信頼されようと動けば逆に信用を失ってしまうことだってある。

 私の言葉が如月さんの考えを変えることができるとは思えない。だけどだからって、声の力を緩めることはしなかった。


「殺し屋と情報屋の今後のためです。お互いのためです」

『……………………』

「お願いします」

『…………多少のラグはあるぞ』

「……構いません。できる範囲で、見えた分だけで構わない」


 携帯を握る手に力を込める。数秒の沈黙が倍の長さに感じられた。その長い空白の後、長い溜息と、仕方がないなぁという声がした。


『今の言葉も多少は当たっているからな。……それに、ネコという存在は、殺し屋の中でも大きい』


 決して私の言葉が届いたわけじゃない。彼の中で損得を考えた結果なのだろう。それでも結果として協力を得ることができれば文句はない。ありがとうございます、と彼の気が変わらないうちに言った。

 できるのか、と彼が言う。できます、と私は即答する。十人もの敵を相手にたった一人で戦うことができるのだと言い切る。

 今の私は弱くない。


「私はオオカミの弟子ですから」


 今の私は強いのだから。




 扉を開け、次の廊下に飛び出した私を、向こう側からやってきていた男達が認識する。素早い反応で向けられた銃口。だがそれよりも更に素早い反応で動いたのは私の方だ。

 横殴りに飛んできた銃弾の雨は、身を屈めて廊下を駆け抜ける私の頭上を通り過ぎていく。一気に間合いを詰めた私は、一番近くにいた男に向けて飛びかかった。


『右手から男が喉を狙おうとしている。左手から銃だ、避けろ』


 ポケットに入れた携帯から如月さんの指示が飛ぶ。左右に目を向けることもなくパッと頭を下げた瞬間、聞いた通り、右手から大きな手が、左手から銃弾が飛んで髪の毛先を掠めていった。

 飛びついた男が私を引き剥がそうと手を伸ばす。迫ってきた手の平を突き返すように、勢い良く彼の頭に頭突きを繰り出す。頭部に走る激痛と真っ赤になる瞼の裏側。歯を食いしばって目を見開いた私は、彼の顔を手の平で掴み、無理矢理地面に押し倒した。

 地面に飛び降り、真横にいた男に足払いをかける。バランスを崩した男の腹を膝で蹴り、同時に胸倉を掴んで自分の元に引き寄せる。広い体は私の姿を隠す盾になる。

 だがそれで防げたのはせいぜい数発の拳だけだった。ドス、と重い音がして男のスーツを破り銃弾が飛んでくる。呻く男の体に、またもドス、ドスと銃弾が叩き込まれる。ギョッとした私は慌てて彼を押しのけて逃げ出した。あちこちに空いた穴から血を流し、男は苦痛に呻いて崩れる。味方でもお構いなしだというのか。


『後ろから来るぞ』

「くっ!」


 指示とほぼ同時に振り向いた。だがそれでも僅かに間に合わない。振られたナイフが私の服ごと腕を切る。表皮に赤い線を描く程度の軽い傷。息を止め、くるりと空中でナイフを握り直し、襲いかかってきた男の肩を刃で貫く。

 ギャッ、と彼は咄嗟に自分の肩を押さえた。そんな体に勢いをつけて突進し、周囲の男達へとぶつける。ボーリングのように、飛んでいった男が数人を吹き飛ばす。それと同時に飛び込んだ私は、ナイフで近くの男の脇腹を切り裂き、反応しかけたもう二人の腕をそれぞれ切り付ける。頬のすぐ横を弾丸が飛んでいったのを感じながら、目をカッと見開いて、ナイフの柄で敵の眉間をぶん殴る。突き付けられた銃を、相手の腕ごと抱え込むようにして天井へ向ければ、何発もの弾があらぬ方向へ飛んでいった。

 飛んだ血がベシャリと顔にかかった。生ぬるいどろりとした不快感、鼻に付く鉄臭さ。拭う暇はない。


『左右から同時に。……ああ、背中を切られたか? 今攻撃してきたそいつは、右手側から回り込もうとしている。そう、そこだ……いいぞ、上手く気絶されられたじゃないか。おっと、前から来るぞ』


 刺して、薙いで、掻き切って。銃口から体を反らして、飛んでくる拳に身を捩って。

 男達が倒れていく。悲鳴を上げ、血の吹き出す手を押さえて呻く。殺してはいない。だけどその怪我は決して軽くない。

 銃を撃つことはおろか、ペンを握ることも、誰かと手を繋ぐことも、きっとしばらくはできないだろう。もしかしたら傷跡が残ってしまうかもしれない、麻痺が残ってしまうかも。そう思いながらも、攻撃を繰り出す手を緩めることはできない。


「っ、ぐぅ…………!」


 私の体にも傷は増えていく。肩を殴られ、腕を切られ、銃弾が足を掠める。刃や銃弾が肉を裂く瞬間、一瞬肌に氷を当てられたような冷たさを感じて、電撃を体に流されるような刺激に肩を跳ね上げる。冷たさは直後に激しい熱へと変わり、痛みと苦痛が傷口を中心に体中を巡っていく。そうしてようやく、切られた、と理解する。

 目の前の彼らが怖い。他人から敵意を向けられること自体、怯えてしまうというのに。何人もの大柄な男達の拳を向けられ、髪を引っ張られ、冷たい刃や重い銃を突き付けられることは、堪らなく恐ろしい。

 視界の端から何かが飛んできた。ハッとしたところで、遅い。一人の男が私に突進し、衝撃をもろに受けた体が吹き飛ばされる。固い壁に背中を打ち付けた。心臓が跳ね、一瞬意識が飛びかける。


『狙われているぞ』


 如月さんの声に体が反応する。ほとんど無意識に床を蹴って横に転がれば、私がいた壁にたくさんの穴が開く。

 跳ねる、飛ぶ。ナイフ一つで男達と応戦する。一瞬でも気を抜けば命を失うという極限状態の中、動きを止めることはできない。体中の痛みと熱が脳を焼く。


「ひっ…………う、うぅ…………」


 不意に昔の記憶が蘇る。道を歩いていて転んでしまったときのこと、壁に頭をぶつけてしまったときのこと、ハサミで誤って指を切ってしまったときのこと。小さなたんこぶや擦り傷ができたくらいだけれども、痛くて痛くて、わんわん泣いてしまった。こんな傷くらいで、とお母さんが呆れながら消毒をしてくれた。それでも痛みは消えなくて、私はずっと泣いていた。

 今の傷は、それ以上にずっとずっと痛い。


「う、ぅ…………ううぅうっ!」


 あのときのように泣いたって、この叫びたくなるほどの苦痛も、目の前の敵も消えない。誰も目の前の問題を解決してくれない。どうにかできるのは私しかいない。

 自分が戦わなければ自分を救うことはできない。常人よりも少しだけ高い反射神経、それが私の武器だ。自身の体を駆使して戦え。拳を握れ、ナイフを構えろ。


「うわああぁぁっ!」


 戦うんだ。

 逃げるな、負けるな、怯えるな。

 戦え、私。戦え。

 ネコ。



「来るな……来るなぁっ!」


 叫びながら拳を振り回す男の手を掻い潜り、ナイフを振る。両手から鮮血を噴き出して絶叫する男の後頭部に、振り上げた踵をぶつける。白目を向いて倒れた男から目を離し、次の敵へと目を向けた。私と目が合った敵は、その顔に深く恐怖を刻む。

 いつからか、男達が私を見る目は変わっていた。たった一人の子供に対するどこか余裕を滲ませていた表情が、真剣みを増していき、今では余裕など一切掻き消えた恐怖へと変わっている。

 私自身、自分が思っていた以上に応戦できていることを感じていた。大勢いたはずの敵はいつの間にか、残り二人しか残っていない。床に倒れる八人の男達は呻き、気絶し、体のどこからか血を流している。残っていたうちの一人が雄たけびを上げて向かってくる。彼のナイフが頬を掠め、小さな痛みを生み出した。けれど私の振るったナイフが彼の背中を長く切り裂く。足払いをしかけて転ばせ、その頭部に靴底をおみまいすれば、彼の体から攻撃の意思は消える。残りはあと一人。


「ひぃ…………っ」


 最後の一人になった男は私に向けて銃を撃とうとしていた。だが何度引き金を引いても銃口からは何も飛び出さない。装填がされていない銃などただの重しだ。だが極度の緊張状態にあるのか、男は銃弾が飛び出さない理由が分からない様子で必死に引き金を引き続ける。

 ナイフからポタリと血が垂れた。歯の間からふぅふぅと息を零し、私はゆっくりと男に近付く。パタタ、とまたも刃から血が零れる。

 とうとう男は悲鳴を上げて銃を私に投げ付けた。咄嗟に顔を覆った腕に、ガツンと重い金属がぶち当たる。痺れる腕を振って目を開いたとき、男が廊下を必死に逃げていく様子が映る。

 息を吸って走り出した。前を走る男が振り返り、私の存在を見て恐怖に声を引き攣らせる。平生ならばきっと男は私を振り切っていた。だが今、彼は恐怖に飲み込まれている。私達の距離は瞬く間に縮み、伸ばした指先が彼のスーツの裾を掴む。


「ひいぃっ!」

「っ!」


 振り向いた彼が振るったナイフ。キラリと光る刃に、反射的にナイフを向ければ、刃同士がぶつかる。重い衝撃に耐えきれず、私と男それぞれの手からナイフが飛び、遠くの床に滑っていく。

 男の目に僅かな勝機が滲む。丸腰になった男女、それも大人と子供となれば、素手の戦いには圧倒的な差ができる。汗を浮かばせた私の横頬に、男の拳が叩き付けられる。


「がふっ!」


 頭が飛んでいくかと思った。パンッと脳味噌が弾けてしまうと思うほどの衝撃、それから一拍置いて痛み、そして恐怖。生理的な涙が溢れて両目からボロボロと零れ落ちていく。

 男は容赦しない。二発目が今度は鼻に叩き込まれる。さっきは真っ白になった頭の中が、今度は真っ暗になる。失いかけた意識を、自分の舌を思いっきり噛む痛みで強制的に覚醒させた。ぼんやりと二重にブレる視界の中で、三発目が私を襲おうとしているのが見える。

 咄嗟に体を下げて拳を避けた。後ろに倒れ、そのままゴロゴロと転がって、男と距離を取る。転がった勢いで壁に背中がぶつかった。


「……………………?」


 ぬるり、とした不思議な感触に背中に手を回す。目の前に持ってきた手の平は、赤黒い血でベッタリと濡れていた。

 大量の血に、死という言葉が脳裏に過る。だが死を感じるほどの痛みは体にない。これほどの出血をするような攻撃を、背中に受けた記憶はない。

 ならばこの血は誰のものか。


「……………………あぁ」


 その答えはすぐに分かった。

 廊下の突き当りに一枚の鏡がある。通路の装飾として置かれた鏡には、綺麗な壁紙が張られた壁と、赤い高級絨毯の敷かれた廊下が映っていた。そこに立っている一人の少女は綺麗な壁とも、高級な絨毯とも、ちっとも似合わぬ姿をしている。

 猫耳のパーカーとショートパンツというラフで動きやすい服装。しかしどれもが大量の血に塗れている。ベッタリと付いた鮮血が服を汚し、そこから伸びる手足にへばり付く。鼻から流れる血、赤く腫れた頬、汚れた顔の中でその目だけが爛々と殺意の光を湛えている。

 バケツいっぱいに入った血を撒かれたように、シャワーを捻ってお湯の代わりに血が出てきたかのように、私の体は赤く染まっている。きっと私自身の血だけではなく、敵の返り血も。犬歯を剥き出しにして荒い息を吐く私の姿は、可愛いとか綺麗とか、そういう言葉とは無縁のものだった。

 まるで獣だ。


「…………あははは!」


 笑いが込み上げてくる。口を開くと切れた口内が痛み、頭痛が酷くなった。額から流れまつ毛を濡らす血を手で拭う。

 男は不気味なものを見るような目で私を見つめ、大きな手を広げて襲いかかってくる。私の片手を簡単に掴み、思いっきりへし折ろうと力を入れてきた。手首の血管ごと潰れてしまいそうな痛みに歯を食いしばり手を伸ばす。私が狙ったのは男の手ではなく、その片目だ。

 指の先からぷつりと糸が切れるような感触がした。固い寒天を爪で押し潰していくような感触も。だけど決してそれが寒天ではないことを廊下中に響き渡る絶叫が教えてくれた。

 彼が私から手を離しても、私は彼に抱き着いて離れなかった。引き剥がそうと縫い目が破れかけるくらいフードを引っ張られても、拳の雨が降ってきても、私は彼から離れない。握った拳で彼の腹部を抉る。

 ドスン、と重い音。女だろうと子供だろうと訓練を重ねた私の拳はさほど軽くはない。ドス、ドスと何発も続けて男の腹を殴る。彼は大きく目を見開いて開けた口から吐瀉物と血を吐き出した。足元の絨毯がびしゃびしゃと汚れていく。

 呻きながら男はその場に蹲る。もはや考えることすらできないのか、敵であるはずの私に縋り付くように、私の足を掴み必死に呼吸をしている。

 可哀想だった。顔は青く、体中怪我だらけだ。閉じた片目からは血が溢れ、視力が残っているのか眼球があるかも分からない。もしも彼が味方や私に危害を加えてこない人間であれば、私は今すぐにでも彼を支えて治療ができる場所を探していただろう。

 だが残念なことに私と彼は敵だった。


「うっ! っぷ、ぇ、うげっ!」


 蹲る男の体を蹴飛ばして、仰向けに倒れたその体に馬乗りになる。両の拳を握り締め、男の顔面を殴打する。

 バキッと何かが割れる音は骨が折れた音だろうか。男の肌が傷付き、皮膚が裂ける。汗で滑っていた肌が次第に血で滑るようになる。辛うじて私を捉えていた男の目がぐるりと上を向く。

 ごぷりと男の口から血が溢れた。それを見て、振り下ろしかけていた拳を止める。汗で頬に張り付いていた髪がはらりと垂れ、汗が毛先を伝ってポタリと男の頬に落ちた。

 頭の中が熱い。息が上手くできない。混乱する頭のまま、ぼんやりと前へ視線を向ける。鏡に映る獣と目が合った。

 二年前の私であれば一人も倒せないまま殺されていただろう。あのときの私よりずっと強くなった。だけど同時に、ずっとずっと、恐ろしくなってしまった。


「ぁ…………う、うぅ…………」


 震える口から零れる声もどこか獣の唸り声に聞こえてしまう。ぐしゃりと乱れた髪を鷲掴み、前のめりになって体を震わせた。

 恐怖と痛みが一気にやってくる。鏡の中で、恐ろしい姿の獣が唸りながら自分の体を抱きしめている。周囲には倒れ伏す赤に濡れた男達。……そのうちの一つが、僅かに動いた気がした。

 パッと顔を上げて振り返る。攻撃が浅かったのか、床に倒れた一人が、青い顔で私を睨んでいる。その手には銃。全身の血が引いていく感覚がした。

 男までの距離は遠い。ナイフも拳もすぐには届かない。顔から血の気を引かせる私に、男が片頬を引き攣らせるように笑った。

 パァン、と音が弾ける。肩が跳ねる。けれど血が飛んだのは私の体ではなく、男の頭だ。鼻頭付近に開いた穴から少量の肉を飛ばして、男の体が一瞬で床に崩れる。廊下の先に、私が最初に入ってきた扉のところに、銃を構えて立っている人物がいる。


「…………し」


 私の声に力はない。


「東雲、さん」


 震えた声で、掠れた声で、怯えたようにその名を呼んだ。

 男の後ろに立っていた東雲さんは、深緑色のコートを揺らして、ゆっくりと私の元に歩み寄ってくる。足取りはふらついていない。銃を持つ手にも震えはなく、回復したのだろうという事実を悟る。

 さっきまでは早く彼が回復してほしいと願っていたはずなのに。今じゃなければ良かった、という思いが心中を満たしていた。


「……違うの、待って…………」


 東雲さんの目が周囲の男達を見つめる。私の下にいる気絶した男も、血まみれの私のことも。また泣きそうになる。今度は生理的な涙ではなく、感情による涙だ。

 東雲さんは私を見て何と思っているのだろう。怖いと、嫌いだと、そう思われていたらどうしよう。いくら彼とあざみちゃんを守るためとはいえ、これほど暴れた姿を見られてしまうだなんて…………。

 前に私が誘拐されたときのこと、私は荒れた獣のように戦う東雲さんが恐ろしくて、彼のことを拒絶してしまった。今は逆だ。あのときのように彼が私を拒絶したらどうしよう。お前が怖いと、来ないでくれと、そう言われてしまったら。


「東雲さ…………」

「ネコ」


 ビク、と体が固まる。東雲さんが近付いてきて、そっとしゃがみ込んで、怯える私の顔を覗き込む。彼の唇がそっと開いた。


「怪我は大丈夫なのか」


 怖い、でも。来ないでくれ、でもなくて。それは純粋な心配の言葉だった。

 呆ける私に彼はもう一度同じことを訪ねてくる。怪我は大丈夫か、体は痛くないか、って。その言葉に、私の目にじわじわと集まっていた涙が流れていく。大丈夫か、と少し焦る東雲さんの胸元に抱き着いた。血で汚れてしまうというのに。そんな私を東雲さんは静かに受け止め、怪我に触れないよう優しく背中を撫でてくれる。


「いっ、痛い、痛いよ。怖かったよ。……体中、怪我だらけで、凄く、痛いよ」

「すぐに手当てをしてやる。安心しろ。もう大丈夫だ」

「し、東雲さん、ねぇ、東雲さん」

「どうした?」

「…………私、頑張ったよ」


 東雲さんが静かに息を吸った。伸ばされた指が、私の目尻に零れる涙を拭う。ちょっとだけハッキリした視界が、優しい微笑みを浮かべる東雲さんを映し出す。


「よく頑張ってくれたな、ネコ」


 その言葉だけで、痛みも怪我も恐怖も何一つ感じなくなる。東雲さん、と彼に強く抱き着けば、応えるように背中を優しく叩かれる。

 温かい。気持ちいい。こうして彼の腕の中にいられることが、堪らなく幸せだった。

 …………私にとっての神様がいるとするならば。


「東雲さん…………」


 それは、きっとこの人しかいない。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 気づいたら一気読みしてました。太陽くんvsトカゲさん、オオカミネコ蜘蛛vsキノコさん、どっちの戦いもものすごく激アツでどう決着をつけるのか、どうやったら和子ちゃんたちが勝てるのか想像もでき…
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