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第133話 裏切り者

「な、何を、言ってるの…………」


 震える言葉を吐いてもあざみちゃんの鋭い眼差しは外れない。東雲さんまでも、神妙な顔で、私とあざみちゃんのやり取りを見つめている。

 どういうこと、と喉を震わせればあざみちゃんは静かに息を吐き、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「…………敵は、最初からあたし達の情報を持っていた。ルートも、戦い方も、そして過去も」

「それは……相手側にも有能な情報屋さんがいたからじゃ?」

「だからってあれほど詳細まで分かるものかしら?」


 ルートも、戦い方も、恐らく調べようと思えば詳細まで知ることができる。ただし過去のことは? あれほど具体的なことまで、いくら情報屋さんだからといってあれほど鮮明に分かるものだろうか。

 私が誰にいじめられていたとか、あざみちゃんがこれまでに殺した動物がどんな子達だったかとか、東雲さんにとっての美輝さんの姿とか……。

 例えば教師には言えなくても友達には言える話があるように、友達には言えなくても家族には言える話があるように、家族には言えなくても恋人には言える話があるように。

 普段近しい人にしか話さないであろう内容を敵は握っていた。いくら有能な情報屋さんであろうと、その人が第十区にいる限り、普段第十区に関わる機会がほとんどない私達の情報を探ろうと思っても探り切れないところがあるはずだ。

 だからきっと、あざみちゃんはこう考えている。普段の私達と関わる人間。親しい人間が、敵に情報を渡している裏切り者だと。


「ありえないよ!」


 私は叫んでしまう。あざみちゃんの推測を感情で否定した。


「私達の中に裏切り者がいるって? 嘘だよ、そんなの、絶対にない!」

「どうしてそう言い切れるの? 落ち着いて考えれば、裏切り者がいる可能性は高いじゃない」

「だって皆そんなことをする人には見えない!」


 私の言葉に確固たる理論はない。ただ、感情のままに思いをぶちまける。

 私が仲良くしてきた人達は皆そういうことをする人には見えない。優しい微笑みを浮かべて私やあざみちゃんに触れてくれる真理亜さんが、どうして裏切ろうか。いつも明朗として太陽のように輝く太陽くんがどうして敵に寝返ろうか。仁科さんだって、ネズミくんだって………。


「……和子。あたし達は本来仕事で組んでいるだけの関係よ。どれだけ仲が良くたって、結局は利害の関係でしか結ばれていない。誰が腹の中で野心を抱えていたっておかしくはない」

「でも……っ、て、敵に情報を流してどうなるっていうの?」

「敵の言葉に感銘でも受けたんじゃない? 甘言に惑わされたか、お金か……理由はいくらでもあるわ」

「敵に寝返るなんて、それって、明星市が壊れてもいいってこと!?」


 敵側に付くことはつまりこの明星市を崩壊させることに繋がる。そんなことになって、喜ぶ人間がいるというのか。

 知らないわよ、とあざみちゃんは首を振る。その顔からは深い疑心が読み取れた。


「今夜この第十区に入ったのは七人。ネコ、オオカミ、人魚、イヌ、白ウサギ、ドブネズミ、そしてあたし」


 誰が? とあざみちゃんは言う。私も東雲さんも、何も答えなかった。

 この中の誰が裏切り者か。あざみちゃんが知ろうとしている答えを私も東雲さんも知らず、答えたくもなかった。


「もしそうなら……誰も信用できなくなる」


 オオカミ、とあざみちゃんが言う。まだ顔色の悪い彼は、視線だけを動かしてあざみちゃんを見た。二人の間で交わされる視線は氷のように冷たい。


「あなたじゃないの?」

「東雲さんは敵じゃない!」


 答えたのは私だった。あざみちゃんの視線を感じながら、私は食い気味に叫ぶ。


「東雲さんは味方だよ! 私を裏切るようなまねは、絶対にしない!」

「証明できる?」

「それは、…………っ、でも、私はいつも彼の傍にいて……!」

「それは証明とは言えないわ。それに和子。さっきも言ったように、あたしはあなたのことも疑っているのよ。自分が裏切っていないって、証拠はあるの?」

「私じゃない!」


 私とあざみちゃんの言い合いは徐々に声量を増していく。怒鳴り合う私達を東雲さんは止めずに黙って見つめていた。止める気力さえ残っていないのだろう。

 いや、この際彼が見ていようが誰に止められようがどうでもよかった。ふつふつと頭の中に怒りが沸き上がり、蓋をして抑えようとしても上手くいかない。噴き零れた苛立ちは、棘のある言葉になって私の口から溢れてしまう。


「どうしてそんな酷いことが言えるの! 大切な仲間のことをそんなに疑うことができるなんて、もしかして、裏切り者はあざみちゃっ…………!」


 言い切る前にハッと息を止めた。私がその言葉を吐いた瞬間、あざみちゃんの顔が僅かに歪んだからだ。だけどそれはショックを受けた顔というより、叱られるのを耐える子供のような顔だった。

 悪いことをしたときの、罪悪感がたっぷりと胸に満ちているときの、そんな顔。


「……………………」

「…………あたしが敵だとしたらどうするのよ。一発殴りでもする? いいわよ別に。それで気が済むなら」


 ほら、とあざみちゃんは目を閉じて顔をこちらに向ける。強気な態度。挑発するような言葉。

 だけど、腕組みをしたその指先は服を縋るように掴み、シワを寄せている。強気に引き結ばれた唇の口端も、よく見れば微かに震えている。

 口を噤む私を煽るように、さあ、とあざみちゃんは言う。私が今ここで怒りのままに彼女の頬を叩いたって、彼女は宣言通り怒ることはないだろう。


「……………………」


 一歩彼女に近付く。気配を感じた彼女は、ぐっと表情を固くする。服のシワが一層深くなる。

 ぷにゅ、と。その固い彼女のほっぺを両頬から手で押さえれば、キツク閉じられていたその目が驚きに丸くなった。


「んぐ!?」

「あはは、あざみちゃん、タコみたい」

「なっ……何すんのよ!」


 ほっぺかたーい、なんて笑う私の手を振り払ってあざみちゃんが怒る。真っ赤になる顔が一層可笑しくなって声を上げて笑えば、強めのパンチを肩に返された。

 馬鹿、馬鹿、と口をパクパクさせて怒るあざみちゃんが可愛い。そんな彼女の頭を撫でて私は微笑みを浮かべる。さっきまで彼女に対して抱いていた怒りは、もうなかった。


「……あざみちゃんだって本当はこんなこと言いたくなかったよね」


 私の言葉に、あざみちゃんは振り上げていた手をぴたりと止めた。その目が動揺に揺れる。


「皆を疑うようなまねがしたくないのはあざみちゃんも同じだよね」

「そ……れは…………」

「だって皆のことが大好きなのは、私だけじゃないもんね」

「…………それは」


 だけど、と一度区切って、私はほんの少し声を低くした。


「この状況で、そんなこと、言ってられないもんね」


 あざみちゃんだって仲間のことを裏切るようなこと、言いたくないはずだ。だけどそれを言わざるを得ないのは、裏切り者がいることをハッキリさせなければこちらの勝機が格段に下がるから。

 もし本当に裏切り者がいるとして、その人が誰か、ここで突き止めなければ、私達の情報はどんどん敵側に流れていってしまう。当人に背後から狙われる可能性だって出てくる。誰も信じられない疑心暗鬼の状態で戦闘をするなど、危険すぎる行為だった。

 あざみちゃんはその危険を少しでも減らそうとしているのだ。それは結果的に私達の身を守ることに繋がる。他の仲間達の安全に繋がる。守りたいからこそ、彼女は、鋭い疑心の目を周囲に向けている。


「ごめんね、嫌な役割をさせちゃって」


 私が先にそれに気が付いてその役目を担うべきだった。感情的に動いてしまう私と、冷静に計算して動くあざみちゃん。どちらも悪いわけじゃない。だけどこういう瞬間に必要なのは、感情よりも冷静さだ。

 黙ってしまうあざみちゃんの頭を撫で続ける。そうしながら少しだけ身を屈め、彼女の目を覗き込んだ。鋭さの消えた目が私の顔から反らされる。


「……あざみちゃんは、私達のことが好き?」


 誰のことも疑いたくなんかない。

 だけど探らなきゃ、皆死んでしまう。

 好きな人を守るために、好きな人を疑わなければいけない。


「……………………」


 遠回りな言葉だが、聡明なあざみちゃんは私の言葉の意味を理解してくれただろう。私達のことが好きかどうか。最後まで裏切ることなく、傍にいてくれるかどうか。

 通路には私達以外誰もいない。爆発のことはまだ気付かれていないのだろうか。少なくとも今はまだ、私達の呼吸の音しか聞こえないほどの静寂だけが、この場所に満ちている。

 真夏でも、建物内の空調は適度な快適さを保っている。それでも私の肌には汗が滲んでいた。彼女の返事によって、私の内側で揺らぐ不穏な熱は、温度を増すだろう。

 あざみちゃんは唇を震わせて、たどたどしく言葉を吐き出す。


「…………証明はできない」

「うん」

「でも、あたしは…………あたし」

「うん」

「あたしじゃない」


 小さく彼女は首を振る。俯き気味になりながら、ぽつりと囁くような声量の声で言う。

 自分は味方だという証明になっていなければ、少しでも信用させようとするための言葉もない。あたしじゃない。ただそれだけの簡素な言葉だった。


「あたしじゃないの」

「うん、信じるよ」


 あざみちゃんが顔を上げる。一瞬見えた、縋るような泣き出しそうな目は、顔が上がり切った瞬間にはもう強気に吊り上がったものへと変わっていた。


「だから……そういうのが駄目だって言ってるのに。信じるって、言い切っちゃ駄目でしょ」


 馬鹿、とあざみちゃんは小さく呟く。そうだね、と言って私はほんの少し笑った。

 東雲さんがそんな私達を見て息を吐いた。青い顔をしながらも、その目尻を僅かに緩ませて、穏やかな視線をこちらに向けている。しかしすぐその表情を厳しくしたかと思えば、彼はゆっくりと言う。


「どう、するんだ。どうやって、そいつを、見つける?」

「…………こっちも全員を調べるんです。少しでも怪しい動きをした者がいないかどうか」


 如月さんに聞きましょう、と私は二人に言った。こういうときのお喋りオウムだ。こういうときのための情報屋だ。

 第十区に向かう計画をたててから現在に至るまでの私達の様子を彼はよく知っている。その中で不審な行動をした者がいたら、すぐに分かるはずだ。



『やあネコ。どうした?』

「如月さん、聞きたいことが」


 電話をかけると如月さんはすぐに出てくれた。状況を説明し、答えを求める。如月さんがそれを調べている間、私はそっとナイフを構えて周囲へ警戒を向けた。

 あざみちゃんは東雲さんの横にしゃがみ込み、彼の銃を持って同じく周囲を警戒していた。胞子の影響で彼女もまだ上手く糸は操れないらしい。しかし彼女の集中力ならば、東雲さんの銃だって普通程度には扱えるだろう。

 そろそろこの場所から離れた方がいい。少し長居をしすぎた。敵地で一ヵ所に留まり続けるのは得策じゃない。もしも如月さんがこの建物内部の詳細まで情報を掴んでいるのなら、敵に見つかりにくいルートも教えてくれたのかもしれないけれど。


『…………おまたせ。さて、知りたいのは今第十区にいるメンバー全員の情報だな?』

「はい。ネコ、オオカミ、クモ、イヌ、人魚、白ウサギ、ネズミ。七人全員の行動に不審な点がないかを」

『オッケー。じゃあまずイヌからだな。今はそのビルの二十七階にいるらしい。銃を持った護衛を素手で押しのけていってるってんだから、大したもんだよ。オオカミとネコとは一度船で合流したな? それ以前も同じように動き回って、直感を頼りに道を探していた。第三者と密会して情報をやりとりしている様子はないな』


 裏切りだ何だということは一旦置いて、彼が無事だということに安堵する。猪突猛進の太陽くんがこんな敵だらけの場所で無傷でいられるわけがない。だが少なくとも今は、上へと上ってこれる力はあるようだ。私達のいるこの階は何階だろう。三十階と四十階の間くらいか。もうすぐ彼もここにやってくるかもしれない。

 もしも太陽くんが犯人だったとしたら目的は何だろうと無理矢理に考える。ヒーローらしくあろうと、男らしくあろうとたくましく戦う彼がそんな卑怯なことをするだろうか。明星市を守るヒーローになると言っていた太陽くんがこの街を崩壊させる働きを行うだろうか。

 ……いや、でも、確かトカゲさんが意味深なことを言っていた。この街を崩壊させることが、この街のためになるのだと。

 あの意味は今も理解できていない。だがその言葉がもし本当だとしたら、ヒーローである太陽くんは、私と彼ら、どちらの側に付くだろう。


『人魚は今そちらのビルに向かっている最中だ。本拠地の場所は全員に教えたからな、多分もうじき合流するだろう。彼女にも誰かと連絡を取り合っているような様子は見られなかったな。他の人間と関わったかどうかだって、道中通行の妨げになっている住民に交渉したり、厄介な交渉を持ちかけてきた相手を脅したりしてたくらいだよ』


 真理亜さんが私達の味方なのは、きっと情によるものが多いだろうと思う。静かで冷たい印象の美しさを人に与える真理亜さんは、そうでいて、実際とても情に溢れた優しい女性だ。だけどもし、その情が逆手に取られてしまったら?

 真理亜さんは過去に恋人に裏切られ、以来人を好きになることに拒否感を抱いてる。だけどもし、そんな彼女の過去を塗り潰すほどに愛する人ができたら。それがもし、敵側の人間だとしたら……。


『白ウサギとネズミも同様向かっている最中だ。無気力と子供のコンビだからあそこが一番にやられるんじゃないかと思ってたけど、戦闘能力の高いウサギと、直感に優れたネズミと、意外と合ってるのかもな。路地と下水道を使って移動している。あいつらに至っては連絡もなにもない。誰とも喋らないし、こっちからの連絡にも無反応だ』


 仁科さんとネズミくん。あの二人とは第十区の入口で分かれてから一度も会っていない。一番情報が掴めないのはこの二人だ。

 だけど、だから一番疑う、ということにはならない。だって仁科さんもネズミくんも二人ともいい人達だと思うから。仁科さんは何だかんだネズミくんを引き取って育ててくれているのだし、ネズミくんだって純粋で天真爛漫な優しい子だ。

 二人が裏切るとしたら理由は何だ? 金でもない、おそらく情でもない。二人が裏切るこれといった理由はないが、同時にこれといった裏切らない理由もない。

 

『今お前達と一緒にいるクモは――……』


 如月さんの情報は続く。私は顎に手をあて低く唸る。やっぱり分からない。誰が怪しいのか、誰が敵なのか。


「……………………」

『オオカミの情報は――……』

「……………………」


 あれ?


「……………………」


 私達の情報が敵に漏れている。詳細までを知ることができるのは、近くにいる、味方だけ。

 それは合っている。でも、私は何か、大きな思い違いをしているんじゃないか。


「如月さん」

『ん、何だいネコ?』


 もしも私の考えている人が裏切り者だとしたら。私達がこんなに悩んでいたことは馬鹿みたいで。そして同時に強い失意に襲われる。

 間違っているといい。間違っていてくれ。そんな思いに胸がドクドクと脈打つ。

 震える唇をこじ開けて、私は裏切り者の情報を如月さんに尋ねた。


「……………………私達の情報を敵に売っていたのは、如月さんなんですか?」

『そうだよ?』


 戸惑いも動揺もなかった。怒りも涙もなかった。彼の声はまるで、風が吹くようにサラリと通り過ぎていく。

 あまりにあっけなく答えられたものだから、一瞬言葉を飲み込めなかった。小さく同じ疑問を繰り返すと、だからそうだって、と電話口から如月さんの笑い声が聞こえる。

 音量を上げているから、近くにいるあざみちゃんと東雲さんにも彼の声は聞こえただろう。その顔は私と同じように唖然と目を丸くしていた。


「な…………なんで?」

『何でって、決まってるじゃないか。オレは情報屋だぜ?』


 単純な話だ。

 私達の身近にいて、情報を一番持っている人間。それは家族でも、友人でも、恋人でもない。情報屋お喋りオウムだ。

 そう、単純な話。だけど単純ゆえに目に付かない選択肢。私達と共に第十区への内部を探ってくれて、潜り込んだ私達それぞれに情報を送ってくれて、敵の情報も教えてくれて……。


『オレは金額次第で情報を売ってるんだ。それが君達殺し屋であれ、第十区の殺人鬼であれ、金を払ってくれればそれに見合った情報を売る。商売をしてるんだ。情でお客様を選ぶようなまねはしない』


 如月さんはまるで歴代続く老舗の主人が言うかのように、自分の商売を堂々と語る。実際、彼にとっては情報屋という仕事に誇りを持った発言なのだろう。祖父から受け継いだという情報屋。明星市内でも腕の立つ情報屋として店を構えている一人の男として。

 だがそんなことはどうでもいい。逐一情報を伝えるようにと言っていた彼の指示に従い、私達は素直に情報を提供していた。それはその情報が他の仲間との情報共有に繋がると思ったからだ。仲間の役に立つと思っていたからだ。だが如月さんは、殺し屋の情報も、殺人鬼の情報も、両方に伝えていた。


『君達の前では分かりやすく敵だ味方だと言っているけれど、正直オレには敵も味方も同じだ。こっちは商売人で、来る者は全員お客様。同じ情報を渡すならより高額を払った方へ。十円を持ってやって来た大富豪より一億を持ってやって来た赤ん坊を優先しますよ』

「……私達に渡してくれた第十区の情報、全部は分からないって言ってましたけれど、あれ、本当はどこまで分かってるんですか?」

『第十区の情報なら八割程度までは分かってる。ああ、ネコ達に渡した情報は四割程度かな。あれだけの金額じゃあ重要なものまでは渡せないし、何よりお相手側から口止めされているからね』

「口止めって?」

『君達に伝えてほしくない情報にブロックをかけているのさ。勿論多額の金でね。君達がそれを知ろうとするなら、その倍の金額を払うことになる。……ただ、情報一つとっても、ネコが寄こした金額よりは上だけれど』


 私が寄こした金額。それは私が殺し屋になってからずっと、使い道がなくて貯め続けていたお金。約二年間分手付かずのそれは、同級生、いやお父さんやお母さんが見ても目玉が飛び出るくらいには高額になっていたはずだ。

 私はそれを如月さんに全部渡した。これで得た情報が皆のためになるって思っていたから。明星市を救うためになると本気で信じていたから。

 その結果がこれだ。


「…………信じていたのに」


 お喋りオウムのあなただけじゃなくて。私は、如月当真さんという人間を信じていますから。

 私は、如月さんに対してそう言った。信じていた。今まで何度も酷いことを強制してきたり、キツイ仕事を任せたりしてきても。一緒に笑って、叫んで、数年を過ごしてきた如月当真という人のことを。信じていた。だから彼の情報に従ってここまで来た。信じていた。信じていた。信じていたのに。


『勝手に信用していただけだろ』


 笑うような口振りだった。飄々と風が抜けていくような、軽い声だった。

 如月さんは裏切り者じゃない。最初から、私達の味方ではなかっただけだ。


『オレは情報屋。浮気調査から行方不明者の捜索まで。愛人との逃避行に使う秘密の抜け道から子供の誘拐方法まで、何でも教えるお喋りオウムさ。――勿論、お金次第でだけどね』


 ギリ、と手に持った携帯が軋んだ音を立てた。あざみちゃんが何かを怒鳴ろうとしたのか口を開きかけて、私の顔を見てひっと息を呑んで固まる。


「お喋り……オウム…………!」


 おーこわ、と茶化すように如月さんは笑う。その態度にぐっと力を入れた私の腕に、小さな指が絡みつく。見ればあざみちゃんが泣きそうな顔で私の腕にしがみ付き、いやいやと首を振っていた。

 怒らないで、落ち着いて、という意味だろうか。思わず腕の力を緩めて彼女の顔を見つめてしまう。オオカミに似たなぁ、という声が携帯から聞こえ、言葉が続けられる。


『もう情報は伝えてくれなくても結構。そのビルの監視カメラに接続はできているからね。建物に入ったときからそちらの行動は見えている。…………いつまでもそんな所でうかうかしてていいのかい? ほら、もうすぐ護衛の連中がやってくるぞ』


 ハッと周囲へ視線を巡らせる。足音は聞こえない。人の声も。だがそれはこの建物の防音性が高いからかもしれない。本当はもう、すぐそこの扉まで迫ってきているのかも。

 とにかく場所を移動しなくては、と私は東雲さんに肩を貸して立ち上がらせる。通路の先にあった非常階段を上りながら、ちらりと上を見た。階段の角に付いた防犯カメラ。チッと舌打ちをしてまた前へ顔を向けて一段一段を上っていく。どうせ如月さんに頼んでもこのカメラの録画機能を止めてはもらえないだろう。私達の情報は相手に筒抜けだ。

 三階分は上ったはずだ。だが既に息は切れ、全身に汗が滲んでいた。肩を貸しているだけなのに、成人男性一人を支えて歩くのがこんなに困難だとは思っていなかった。東雲さんも歩ける程度には回復しているものの、その足取りはまだおぼつかず、彼の体重のほとんどを私が支えている状態だった。

 こんな速度じゃすぐに追いつかれてしまう。あざみちゃんが周囲を警戒しながらパッと廊下へ身を踊り出し、こっちよ、と一つの扉の前で手招きをする。あざみちゃんに引っ張られるように入った部屋は、使われていない空き室だった。そこに飛び込み、三人で座り込む。どうするの、と六つの目がかち合った。


「お前達だけで、上れるな?」


 ハッと東雲さんを見る。彼の真剣な眼差しが、俺を置いて行けと、そう言っていた。彼は銃を握る。その声にも手にも、最初よりずっと力が戻っているけれど、まだ一人で動けない状態の彼が銃を撃てるはずがない。


「無茶です! 入り口のときみたいに、また自分が囮になる、とか言うんですか!?」

「その通りだ。さっきまでは、使い物にならなかったが……今は多少撃てる。まだ敵が来るまで、多少の時間は、あるだろう。その間で、もう少し、動けるくらいには回復するはずだ」

「だからっていつもみたいに怪我せず敵を倒せるわけじゃないでしょう!? 今の自分の体、よく分かってるはずでしょう!?」

「だから言っているんだ。おい、ネコ。よく考えろ。動けない男を抱えて、敵の目を掻い潜って進むことの方が、ずっと危険だろう。足手まといは切り捨てろ。でないと、こんな場所は進めないぞ……!」

「っ、なんで……っ!」


 ポロ、と涙が零れる。東雲さんはそれでも顔色を変えずに私を睨むように見つめていた。だけど続く私の言葉に、一瞬だけその顔が変わる。


「なんでいつも……そうやって、自分から死にに行こうとするの…………!」


 東雲さんは、ほんの一瞬だけ眉尻を下げて目を細めた。だが次の瞬間には冷淡な顔に戻り、よく考えろ、と諭すように私に言った。


「クモ、糸で俺の手を、銃に縛り付けてくれ。落ちないように」

「わ、分かった…………」


 あざみちゃんは私と東雲さんを交互に見つつも、彼の手に糸を巻こうとする。私が何を言っても東雲さんの意思は変えられない。唇を噛んで二人の様子を見つめていた私は、拳を握り、涙を拭った。立ち上がって携帯を耳に当てる。


「…………如月さん、如月さん、聞こえますか」

『はいはい?』

「見てるんですよね、このビルの中。なら私達の近くにいる敵の位置も分かりますよね」

『勿論。分かってるよ』


 通話状態のままだったお喋りオウムとの電話。東雲さんとあざみちゃんの怪訝な視線を受けながら私は続ける。


「なら教えてください。敵から安全に身を隠せる場所と、敵の数と、位置」

『おいおい人の話を聞いてたか? 金次第で情報を与えるって言っただろう。敵も味方も関係ないって』

「聞いてたから言っているんです。信頼とか、味方とか、敵とか、もうどうでもいい。お金は払います。情報をください」

『…………金のあてはあるのか?』

「出世払いで。それが駄目なら、私に保険金でも何でもかけてください。保険のことはよく分かりませんけど……多額のお金にはなるんじゃないですか」


 おい、と東雲さんが声を上げて私を見る。あざみちゃんもだ。二人の視線に答えず、私は続ける。


「いいですよね如月さん」

『あのなぁ…………。まあいいさ、今回だけだぞ』


 そう言って如月さんが伝えてくれた情報を確かめるように私は東雲さんとあざみちゃんにも告げる。ただし、安全に身を隠せる場所の情報だけをだ。幸いにもそこはこの部屋から左程離れてはいないようだ。すぐに身を隠すことはできるだろう。

 二人の顔が険しくなる。立ち上がろうとしたあざみちゃんへ顔を向けると、彼女はぐっと肩を固くして私を見た。今の私はどんな顔をしているのだろう。


「あざみちゃん」

「……………………」

「お願い」

「…………和子。和子っ!」


 彼女が我に返って立ち上がろうとしても、それより私が部屋を出る方が早い。扉を閉める直前、東雲さんの必死な叫び声が背中にかかった。


「ネコ…………ッ!」


 私は振り向かない。空を切るように振ったナイフが、キラリとその刃を銀色に光らせる。顔から喜楽の色を掻き消し、鋭い眼光で目の前を睨みつける。

 なんでいつもそうやって、自分から死にに行こうとするの。

 オオカミに似たなぁ。

 さっき耳にした言葉を、ふと思い出した。

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