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第131話 優しい幻

 怒れば良かったのか、泣けば良かったのか、笑えば良かったのか。私には分からない。

 美輝さんを前に立ち尽くす。ぼうっとした目で彼女を見る。上手く頭が働かない。

 私は、何と答えるべきだったのだろう。


「私は咲くんを愛しているの」


 それなのに。


「咲くんも私を愛しているの」


 それなのに。


「どうして咲くんの隣にはあなたがいるの」


 彼女の顔がくしゃりと崩れ、涙で頬を濡らす。肩を震わせて悲痛に泣く彼女の姿は、あまりに辛くて、目を反らしてしまいたくなった。


「私が死ななければ今頃彼の隣には私がいた。あなたと咲くんが出会うこともなかった。あなたがいる場所は元々私の場所だったのに」

「み……美輝さん……私、私…………」

「あなたがいるせいで咲くんはたくさん怪我をして、苦しんで、ボロボロになってるの。何度彼に助けてもらったの? 何度彼を傷つけてきたの? 弱くて、頼りなくて、彼を傷つけてばかりの子供のくせに、いつまで彼の隣にいようとするの」


 心臓が苦しみに喘ぐ。ぐしゃりと胸を掻くように握ると、激しい鼓動が熱い手の平に伝わる。

 もしも美輝さんが生きていれば、きっと東雲さんは幸せだった。彼が殺し屋になることも、こんなに苦しい思いで戦うことも、体にいくつも消えない傷を作ることも、きっとなかった。

 私は日の下で生きる東雲さんの姿を知らない。彼が心の底から幸せそうに笑う姿を知らない。それを知っているのは、そしてその人生を歩ませることができたのは、きっと美輝さんだったのだ。

 彼女が生きてさえいれば。私の愛する人はきっと、私と出会うよりもずっと、ずっと幸せな日々を過ごすことができていたはずなんだ。


「返して。私の居場所を、返してよ。そこはあなたがいていい場所じゃないのよ」


 美輝さんはあくまで静かに言う。怒鳴られる方がまだマシだったかもしれない。ゆっくり紡がれる分、言葉に込められた彼女の悲しみがまっすぐに私の胸を裂く。

 周囲はいつの間にか真っ暗な闇に囲われていた。キノコさんはおろか、あざみちゃんと東雲さんの姿も見えない。暗い壁と天井、それから血の海になった床だけが今の私に見える世界のすべてだ。

 暗闇の中で、私と美輝さんだけが向かい合って立っている。

 彼女のスカートが血の海に浸り、美しい色を黒く汚す。精白な彼女が汚れることは、私が全身を血で汚すことよりも、遥かに耐えがたいことだと感じた。


「私が生きて…………あなたが死ねば良かったのに」


 彼女の言葉はまるで割れたガラスのように鋭い。鋭利な切っ先が私の胸に突き刺さり、その隙間からドロリと重く黒い液体を垂れ流していく。

 私が、死んで。美輝さんが、生きて。それはとても、正しくて、正しくて、正しくて……。

 生きていてくれたのなら。

 美輝さんが今も生きていてくれたのなら。


「私が東雲さんの傍にいるのは…………それは、だって、私…………」

「あなたが咲くんを愛していても、彼はあなたを愛さない。分かるでしょう? 彼が愛しているのは私だもの。今でも忘れられていないのだから」


 あなたじゃないの、と念を押すように美輝さんは繰り返した。

 東雲さんが私のことを愛していないなんて、そんなのとっくに分かっていることだ。でも、他の誰でもない、自分でもない、美輝さんからその事実を突き付けられるのは、酷く辛かった。


「分かってる……」

「あなたじゃない」

「分かってるよ…………」

「あなたじゃないの」

「やめてよぉ!」


 ドロリ。血が私の手に絡みつく。いつの間に水位が上がったのか、血は私の腰にまで到達している。鉄臭い。吐き気がする。

 嗚咽し涙を零す私を、美輝さんは冷たい目で見つめていた。そうだ。彼女にとって私は憎い女なのだ。自分のいた空間を奪い、我が物顔でニコニコと笑う女。

 居場所をなくすことは死にたくなるほど辛いことだと知っている。私は、美輝さんのそんな大切な居場所を奪った女だ。


「だって…………違う、私…………東雲さんと…………私は…………!」


 喉が震え、声が詰まる。必死に何かを訴えようとしても考えはまとまらず言葉にならない。

 何も違うものなんてない。理由がどうであれ、知らなかったといえ、私が美輝さんのいるべき場所を奪ったのは事実だ。

 ごめんなさい、と思わず口から謝罪が零れた。謝る必要も謝る相手も本当はないはずなのに。


「ごめ……ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ…………。美輝さんの場所を奪おうだなんて、そんなこと、考えてなかった」


 なのに、私の震える唇は止まってくれない。胸中に溢れる苦悩。それを少しでも吐き出そうと、喉が勝手に肺の空気を言葉に変える。

 ドロリ。血が、私の胸にまで増す。溶かしたチョコレートのように粘質で、けれど香りは甘くなんてなくて、肺を汚染するような酷い鉄臭さ。

 瞬く間に水位を上げる血は、きっとすぐに私の頭も沈めるだろう。口から鼻から、ドロドロと流れ込んでくる血は私の肺を赤く満たし、動きを止める。肌から温度を奪い取る。

 だけどその前に美輝さんの白い手が私に伸びてきた。首を掴まれる、指が食い込む。細い指がまるで死人のように冷たいなぁと、まず思ったのはそんな呑気なことだった。

 喉を絞められる力は強い。カハッと肺から無理矢理空気が吐き出され、血管が脈打っているのがよく分かった。

 幻覚? 幻? 本物? 分からない。全部どうだっていいような気もしてきた。苦しくて苦しくて、何でもいいから、目の前の美輝さんから逃げたいとだけ考えていた。逃げることができるのなら、いっそ、首を絞められて死ぬことだっていいかもしれない。


「私が咲くんの隣にいるために」


 頭に血が上り、くらくらする。反射的に美輝さんの指を外そうと首元に手を伸ばしたが、結局、私の指がそれを外そうと動くことはなかった。


「あなたが死ねばいいの」


 空気は失われ、急速に体から力が抜けていく。気怠い体の重さが増していく。美輝さん、と音のない声で呼んでみたが、彼女は一切の反応を返してくれなかった。

 私がいなければ良かったのか。

 私が東雲さんと出会わなければ。

 私が生きていなければ。


「死ねばよかったのに」


 もう全部分からないや。

 美輝さん。私、どうすればいいのかなぁ。

 ねえ、美輝さん。





「――――どうしたの、和子ちゃん」

「美輝さん」


 隣に座る美輝さんは、私になぁに、と優しく微笑んだ。美輝さん、ともう一度名前を呼べば、目の奥が熱くなり、ポロポロと涙が零れていく。

 ごめんなさい、としゃくりあげる私の涙を美輝さんがそっと指で拭う。温かい。柔らかい。涙はちっとも止まらない。


「私がいたから。美輝さんにも東雲さんにも、辛い思いをさせてしまったんですね」

「…………何言ってるの」


 美輝さんは私の言葉を否定した。激高し、罵倒することなく、可笑しそうに笑う。


「和子ちゃんが何をしたっていうの?」

「美輝さんの居場所を、奪ってしまって」

「違うよ」


 微笑む美輝さんの輪郭が白い光に溶ける。どこまでも続く白い空間の中に、私達二人だけが座っている。太陽なんて出ていないけれど、降り注ぐ温かな光が、とろりと私の体を包み込む。

 ここはどこだろう。さっきまでいた暗闇はどこにいってしまったのだろう。そんな疑問は一切浮かばず、私はただこの状況を受け入れていた。


「ねぇ和子ちゃん。あなたのことを私達が嫌ってるだなんて、本当にそう思うの?」


 美輝さんの手が私の頬を撫でる。温かくて、その手に撫でられるのが心地よくて、私の心が溶かされていく。

 だけどそれを享受することはできないと私は彼女から身を引いた。申し訳ないという気持ちが溢れて、彼女と向かい合っていることが辛かった。


「私が東雲さんと出会わなければ、少なくとも彼が傷付くことはなかったかもしれないのに」

「だけど咲くんと出会わなければ、あなたは死んでいたでしょう?」


 静かにまっすぐ突き刺さる言葉。まじまじと彼女を見れば、その顔はほんの少し笑みを消し、私の心を掴もうとするような、真剣な眼差しを向けていた。

 私が東雲さんと会わなければ、きっと彼は傷付かなかった。私の言葉に悲しむことも、私を庇って怪我をすることもなく、殺し屋オオカミとしての日々をただまっすぐに歩んでいたのだろう。

 でもきっと私は死んでいた。

 あの日、保良さんが殺された日、あの星が綺麗な夜に。きっと私は自殺していた。絶望して、一縷の希望なんてないまま、ただ暗闇に身を投じて。

 ぐしゃりと、ただの血肉の塊になっていたはずだ。

 殺し屋さんに出会うことがなければ。東雲さんに出会うことがなければ。



 咲くんと出会わなければ、あなたは死んでいたでしょう?


 ああ、そうだ。私はあの夜、死んでいた。



「あなたが生きていてよかった」


 美輝さんが言う。言葉の裏に潜めた意味はない。嘘偽りのない、綺麗な声で。


「あなたは素敵な子。優しくて、いつも皆のことを想ってる。一度でいいから私もあなたとお話ししてみたかった。きっと私達、仲良くなれたよ」

「でも…………」

「私と咲くんのことは、あなたには関係ないの」


 だからね、と美輝さんは続ける。


「和子ちゃんと咲くんのことも、私には関係ないんだよ」


 好きにしていいんだよ、と美輝さんは微笑んだ。それは、さっきの幻覚とは、まるで真逆の笑顔で。伸びた手が私の背に回り、優しい力で抱きしめられる。サラリと流れる金色の髪は美しくて、星空の香りがした。

 …………この美輝さんも本物であるはずがなかった。今目の前で、甘い言葉をかけてくれる美輝さんは、私の妄想なのだ。彼女はもう死んでいる。彼女が私に声を聞かせてくれることなど、ありえない。

 どちらも偽物だ。本物の美輝さんの言葉など分からない。

 でも、どうせどちらも偽物だと言うのならば。


「私は誰も憎んでいないよ。和子ちゃんのことは勿論、お母さんだって、私を殺した人だって、皆のことを恨んでいないよ」


 だから気にしなくていい。

 だから囚われないでいい。

 誰の言葉にも存在にも背を向けて、私が進みたいと思った方向へ進むだけでいい。

 だってそれは、


「――――私の人生なんだから」


 光に包まれるように白くなる視界。抱きしめられる温度も感覚も、何もかもが消えていく。そうして美輝さんの姿も見えなくなる直前に。

 私の大切な人を、よろしくね。

 そう言われた気がした。





 溢れた血はナイフの刃を伝って柄に垂れる。指先から隙間を通って血が広がり、私の手はどんどんぬめる血で汚れていく。

 その鉄臭さと不快感は本物だった。


「……………………かふ」


 小さく咳き込む音。パタタ、と少量の血が床に落ちる音。

 私は朦朧とする意識の中でまっすぐに前を見た。驚愕に目を見開く美輝さんの姿がそこにあった。腹部に突き刺さるナイフ。白いシャツに広がっていく血。

 いや、違う。その幻覚は端がモヤのように揺らぎ、掠れていく。ノイズの走る画面のように、幻覚と現実が、交互に現れる。


「あなた――君が、いなければ……私、きっと、――咲くん…………美輝は、俺は……ぼく……」


 白いシャツは薄汚れたローブへ。長い金糸はボブへ。美しい女性から子供の姿へ。

 私の首を絞めていた子供の手が緩む。ひゅうっと掠れた音を立てて息を吸って、涙を浮かべた目を目の前の人に向ける。


「ちが、う」


 違う。美揮さんじゃない。

 そんな言葉を、美輝さんがかけてくるはずがない。

 相手の手の力は弱まっていく。対照的に、私が相手に突き立てたナイフは、ぐっと深くその肉を抉る。


「美輝さん、は。そんなこと、言わ、ない」


 息を吸う。圧迫されていた喉が開き、ゆっくりと肺に空気が取り込まれていく。途切れそうだった意識が段々明瞭になっていく。

 私が東雲さんに愛されていないのだと、私が死ねばよかったのだと。それがもし本当のことだとしても、そんな残酷なことを、彼女が言うはずがない。

 だって。だって、知っているから。私は。


「東雲さんが、愛している人は。そんなことを言う人じゃない…………!」


 優しい、優しいオオカミさん。人のことをとても想うことができる東雲さん。

 そんな彼がずっと愛している人が、酷い言葉を吐く人なわけがないんだ。



 ナイフを引き抜きながら目の前の子供の体を蹴り付ける。靴底に確かな感触があった。血を飛ばして転がっていくその体は、壁にぶつかって悲鳴を上げる。

 ふっと周囲の幻覚が一気に消えた。血の海も、亡霊の姿も、全てが消える。苦痛と恐怖に顔を歪ませていた東雲さんが、幻覚に恐怖し逃げ回っていたあざみちゃんが、ハッとしたように顔を上げた。

 喉が痙攣するように震え、私はその場に膝を崩して激しく咳き込んだ。首を絞められたことで喉を傷めたのか、吐き出される唾は僅かに血の色を混じらせている。

 血に濡れたナイフ。その切っ先を床に叩きつけ、気を奮い立たせて前を睨む。壁に叩き付けられたキノコさんがよろめきながら立ち上がる。それでも私が刺した怪我は随分なダメージにはなっているらしい。その顔から余裕は消えていた。


「その姿があなたの正体ですね」


 掠れた私の声にキノコさんは答えず、ただ睨みを効かせた。犬歯を剥き出しにしたその口から荒い呼気が零れる。

 次々と幻の体で現れては私達を惑わしていたキノコさん。だが考えてみれば、蹴られたとき、攻撃を避けるとき、物理的な接触ができたときのキノコさんはいつも子供の姿をしてはいなかったか。

 幻影で惑わせて疲労させて、私達に攻撃をするときだけ本物の姿に戻る。厄介な敵だ。だが実態が分かった以上、こちらにも勝機が見える。

 ナイフを構えキノコさんに切っ先を向ける。こちらを睨んでいたキノコさんは、ふっと息を吐き、笑い出す。余裕のある笑みとは言えなかったが、この状況での笑みに不安が浮かぶ。


「は、はははっ! だから? 分かったところで、君達の劣勢は変わらない。ぼくの幻影に惑わされている以上ね!」


 キノコさんがゆらりと立ち上がり、指を上空に掲げた。釣られてそちらを見上げた私は小さく呻く。

 天井に括りつけられたたくさんのキノコ。さっき動物の死骸の幻覚を見せられたときと同じように縛られているそれ。もう一度キノコさんが指を鳴らせば、これはまた爆発を起こすのだろう。

 視線を横に向けて周囲を見る。顔色の悪い東雲さんと、同じ顔色でキノコさんを睨むあざみちゃん。キノコは雨のように降ってきて、至る所で爆発が起きるだろうと予測した。二人を守りながら爆発から逃げることは難しいだろう。


「やめなさいよ。爆発させたら、あなたまで危ないわよ」


 あざみちゃんが固い声で言う。キノコさんはそれが強がりだと分かった様子で、鼻で笑った。


「糸も使えない役立たずの蜘蛛が言う。それくらい、計算していないわけがないだろう? 燃え上がる君達を、ぼくが悠々と眺めてあげるよ」

「計算、ね」

「それに、幻覚に怯えて逃げ回っていた君に言われても、ちっとも怖くないなぁ」


 あざみちゃんは口を閉じてキノコさんを見る。先程の幻影の中、あざみちゃんは迫る血の海から必死に逃げたのだろう。それが幻覚だと分かっても逃げたくなる気持ちは分かる。走り続けたせいなのか、彼女は苦しそうに肩で息をしていた。

 東雲さんだってまだダメージが残っているはずだ。立ち上がることさえもままならない様子で、銃を握ろうとしては指でカリカリと銃身を掻くばかり。回復するまで時間がかかる。それを敵が待ってくれるわけはない。

 その指が空に掲げられる。くそ、とどうしようもなくなった私は悪態を吐いた。急いで駆ければ二人を守れるだろうか、せめて少しでも。……無理だ。どうしたって間に合わない。


「やめなさい」


 あざみちゃんがぐっと拳を前に突き出して、怒りを滲ませた声で言う。その頬から汗が一筋流れた。

 キノコさんが笑う。笑うだけで、動きを止めることはなかった。


「やめないよぉ」


 指が鳴らされる。

 大量のキノコが降ってくる。それ以外にも、木の陰や、草花に隠れて生えていたキノコまでもが、ぽうっと光って。

 部屋の中のあちこちで、キラリと光が輝き、炎へと変わった。

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