第130話 あのお方の計画
以前、明星市の第三区で起こっていた動物殺傷事件。野良ペット関わらず小動物が何者かに殺されるということが連発していた。ハムスター、小鳥、猫、犬……。全ての死骸には、何か細いワイヤ―のようなもので縛られた跡が残っていたらしい。ワイヤーのようなもので縛り、窒息させたり、骨を折ったり、体を切り刻んで殺すという残酷な行い。
犯人の目的は動物を痛めつけて喜ぶことではなく、ただのストレス解消だった。
最初は小さな虫から始まったそのストレス解消法がいつしか小さな動物になり、段々と大きな動物になり、そして最後に人間になった。それだけのことだった。
それだけの、どうしようもなくて、どうやったって戻ることができない、そんな行いだった。
犯人だって本当は動物を殺すことなどしたくなかったのだ。だけど家や学校での抑圧が犯人をじわりじわりと苦しめて、どうしようもない状態まで追い詰めてしまったのだ。だから何匹も殺した。何匹も何十匹も殺した。
私はそれをよく知っている。だって本人をずっと目にしてきたのだから。
あざみちゃんを見てきたのだから。
「いや……いやぁ…………」
あざみちゃんがガタガタと足を震わせる。天井の糸にもその振動は伝わり、死骸が小さく震えた。腐りかけの肉が破片をボロボロと零している。小鳥に猫に犬。たくさんの動物達。
この死骸もきっと、あざみちゃんが今まで殺してきた動物達だ。
天井に刺さっていた糸がふつりと力を失い、ただの柔糸となってゆっくりと落ちてくる。それに伴って死骸達もが私達の頭上に降ってくる。実態はない。だから、動かなくてもいいはずだ。
けれど私達の動きに気が付いた東雲さんが、美輝さん達の幻覚からハッとしたように目を反らし叫ぶ。
「避けろ!」
反射的にあざみちゃんの手を掴み落下してくる死骸を避ける。横目に見えた腐りかけの死骸が、仄かに明るく光った。
床が揺れる。
地震じゃない。
床に落ちた死骸が潰れたと思った瞬間、皮膚や骨を弾けさせて爆発した。バンッと激しい音を上げて一瞬上がる炎。一匹だけならともかく、全部の死骸が一斉に爆発したせいで、その威力は凄まじい。
一匹目の爆発を見た瞬間私達は走ってその場から離れようとしたが、強烈な熱風を背中にぶつけられ、倒れてしまう。
肌から水分が奪われる。ひりひりとした火傷の鈍い痛み。熱風に目を開けていられず、薄目で地面を睨む。そんな私の眼前にコロリと何かが転がった。
「キノコ…………?」
手の平ほどの大きさのそれは、元がどんな色をしていたのか分からないくらい焦げて炭になっている。辛うじて残る形からキノコだとJ判別が付く程度だ。
他の塊も風に飛ばされて転がっていく。床の上を転がっていく焦げた塊。たくさんのキノコ。代わりに、動物の死骸は一つ残らず消えている。
天井に生えていたキノコを死骸の幻覚に見せられていた。可燃性のオイルでもかけられていたのか、内部に小型の爆弾が仕込まれていたのか。
頭の中で結びつけた結論に、カッと頭に血が上る。
「まさか、外の爆発もこれか!」
あざみちゃんの糸でビルを登っていたときに起こった爆発。あれはキノコさんが仕掛けた爆発だったのか。
あは、と笑い声が聞こえた。薄らいだ爆風の中から現れたキノコさんが笑う。正解だと、皺だらけでも汚れは一切ないその顔が肯定していた。
「あれは君達をこの階に誘い込むための仕掛けだったんだよ。だってつまらないじゃないか、簡単に最上階まで登っていくなんて。せっかく中にもいろんな仕掛けを用意していたのにさ」
「あたし達が外からやってくることも分かっていた…………」
あざみちゃんが歯軋りをする。爪が白くなるほど握りしめられた拳が小さく震えていた。
幻覚だけでなく、物理的な攻撃までも。だが厄介なのはそれだけに留まらない。
あざみちゃんが怒りに任せて腕を振る。だが指先から糸は飛ばなかった。へにゃりと、ただの糸のようにそれは彼女の腕から垂れ下がる。ギョッとするあざみちゃんが繰り返し腕を振るが、変わらず糸はだらりと垂れるばかりだ。
「なんでっ……どうして飛ばないのよ!」
苛立ちは困惑へ変わる。使い慣れた自分の武器が思い通りにいかないことに彼女はパニックに陥っていた。ただでさえ集中力が必要な武器だ、焦るたびに余計糸はあざみちゃんの手に絡み付きぐちゃぐちゃになっていく。
ハッとしたようにその目がキノコさんを睨んだ。鋭い怒声が放たれる。
「あんた! 何したのよ!」
「やだな、少しは自分で考えようとは思わないのかい?」
「いいから答えて!」
やれやれ、とキノコさんは演技がかった身振りで肩を竦める。
「幻覚を見せるような害ある胞子を常に体内に取り込んで、幻覚を見るだけで済むと思っているの?」
しわくちゃの手が空中に伸びたかと思うと、その手の上でボンッと小さな火が上がった。驚く私達の視界に、何個もの小さな火が浮かんでは消えていくのが見える。
魔法みたいだろ、とキノコさんが愉悦を口に浮かべる。
「空気中に充満している胞子は幻覚を見せるだけじゃない。使い用によっては、可燃性の物質として起火にも使える。配置や量を考えればこうやって一部の空間にだけ着火することも可能だ。それにただ爆発して相手に火傷や怪我を負わせるだけじゃない。爆発の際も胞子が飛ぶ。大量の胞子を吸った君達の体にもそうやって変化が表れているだろう?」
あざみちゃんが顔を歪めた。細い腕に巻き付いた糸は、スルスルと肌を滑って床へと垂れる。あざみちゃんは垂れるそれを必死に手繰り寄せようとしたが、指の隙間から水のように零れ続ける。
「体内に取り込まれる速度は緩やかだから、一日もここにいない限り死ぬことはない。だけど十分な毒にはなる。指先に痺れを感じてはいないかい? 頭の奥が重くはなっていないかい? 視界は、思考は正常か?」
言われてようやく気が付く。ナイフを握る指先が微かに震えていることに。じんわりと緩やかに効果が表れているせいで今まで気が付くこともできなかったんだろう。まだナイフは握れている。だけどそれがいつまでもつかは分からない。
唸り声を上げて駆け出した。キノコさんの左胸目がけてナイフを突き入れる。だけど当たり前のようにその体は煙になって消え、私はクソッと舌打ちをした。
「一体どうやったら倒せるっていうの!」
「さぁ? せいぜい頑張って考えてみたら?」
背後から目を両手で覆い隠される。耳元で囁かれる笑い声。ハッとしたように振り返りながらナイフを薙ぐも、一瞬早く、子供の姿をしたキノコさんが私の背を蹴ってを蹴って空中に飛び上がったところだった。
重い前髪がふわりと舞いその下の悪意に笑う目が一瞬私の目とかち合う。僅かな空白の瞬間。直後、私のナイフとキノコさんの投げた小さなキノコが空中でぶつかった。
目の前で起こった爆発。咄嗟に体を倒したが、避けきれなかった僅かな炎が頬を舐めていく。カハッと肺から空気を振り絞れば熱い空気が容赦なく私の喉を焼く。
「はっ……! っ、く、そっ…………!」
声を出せば僅かに喉が痛んだ。キノコさんを倒せないどころか姿を捉えられない苛立ちが募る。
眩暈がする。ぼやけた視界が、こちらにナイフを持って飛び掛かってくるキノコさんの姿を捉えた。避けようと後退る。だが度重なる攻撃に疲労していた体は上手く動かせない。
ぶわりと汗が滲む。見開いた目はこちらに向かう鋭い切っ先を捉える。そのとき、私の顔を覆ったのは、深い緑色のコートだった。
「ぐあっ!」
「いっ…………! いやぁ!」
幻覚を振り払って飛び込んできた東雲さんが私を庇った。肩にナイフが突き刺さる。血が飛び、肉が抉られる。激痛に顔を歪めた東雲さんは、歯を食いしばって自分の肩に刺さるナイフの柄を握り、そのままキノコさんの体を強く蹴り付けた。
小さな悲鳴が上がる。子供の体が吹っ飛び、背後の壁に叩き付けられた。驚きに目を見開く私の前で、東雲さんはキノコさんを追おうとして足を崩し、その場に崩れ落ちて激しく咳き込んだ。東雲さん、と叫び私は彼の元へ駆け寄る。
キノコさんの服の下にも大量の胞子が仕込まれていた。その体が飛ばされる瞬間、ローブの背中が大きく膨らんだかと思うと、ぶわりと大量の胞子が舞っていた。至近距離でその直撃を受けた東雲さんの影響は強かった。
「がはっ……! ぐぅっ、あ、ああああっ!?」
「東雲さん!? 東雲さん、東雲さんっ!」
東雲さんは顔中に汗を滲ませ、床に手を突いて苦痛に吠えた。髪を振り乱し、シャツをぐしゃぐしゃに掴み体を丸める。苦しそうに何度も吐き出す唾には血が混じっていた。
苦しむ彼の姿に涙を滲ませる。唸りながらキノコさんへと顔を向ければ、呻きながら立ち上がり、まいったなぁ、と口端に笑みを刻む。その横で美輝さんや菊さんの幻覚が現れては消えてを繰り返す。
「素直に幻を受け入れなよ。何も君達を殺したいわけじゃないんだ」
咲くん、咲くん、と美輝さんの幻覚が彼を呼ぶ。咲、と菊さんも彼を呼ぶ。先程の責め立てる口調ではなく、優しく、温かな声音だ。
「咲くん。大丈夫、もういいよ。こんなに痛い思いをしてまで、戦わなくたっていいんだよ」
「苦しいのでしょう? つらいのでしょう? 咲。あなたが本当は優しい子であること、私はよく分かっています。少しくらい休んだっていいのですよ、咲」
幻覚は私のお父さんとお母さんの姿を形作る。和子、と呼ばれる名が、その声が、疲れ切った私の心を揺さぶる。
「こんなに怪我をして……。おいで和子、消毒をしてあげる。だからほら、お母さんのところにおいで」
「お前はまだ子供なんだ。使命感に駆られたからといって、こんな大層な仕事をするんじゃない。警察に任せればいいことだろう。これ以上体を傷つけるな」
違うよ、駄目だよ、と首を振る。事態が取り返しのつかないことになる前に、第十区の組織を倒して明星市を守ることは、私達殺し屋にしかできない。私の身がどうなろうとこの仕事を放りだすことはできない。
だけど痛いのも苦しいのも事実だ。本当はお父さんとお母さんの言葉に甘えてしまいたい。傷だらけの体を手当てして温かいベッドで眠りたい。私の日常に待つ皆の元に帰りたい。
嗚咽が込み上げる。赤くなった鼻を啜り、お父さんとお母さんの言葉を必死に否定する。幻覚の言葉は止まらない。
諦めなさい。もういいの。あなた達がこれ以上頑張る必要はないの。だから、諦めなさい。諦めて。諦めろ。
「どうして…………」
そんなことを言うの。
私だって簡単な思いでここに立っているわけじゃない。自分の命をなくす可能性とか、それでも大切な人を守りたい気持ちとか、色んな思いを抱えてここに立っているのに。どうして引き留めるようなことを言うの。なんで私を後ろに引っ張るの。
じわりと頭に浮かぶ疑問。誘惑に揺れる中で滲み出す、これまでの疑問。
第十区に来る前に、既に知られていた私達の情報。私達が来るまでの位置に大量の敵を配置することだってできたはずだ。ビルの入り口で待ち構えていた社員達だけじゃない。もっと、外部から人を集めて、いくらでも置けたはず。百人どころじゃない。二百、三百。もっと。
私達の通ってきたルートだって知られていたのなら、もしかしたら蝶さんも、トカゲさんも、偶然あそこにいたわけじゃなくて、最初から私達があの場所を通るように仕向けられていたのだとすれば。たった一人ずつで私達と戦うことなんてしなくても良かった。現に彼らは私達に倒された。足止めとか、侵入者の抹殺とか、それが目的だったならば人員も道具ももっと置いていたはずなのに。
おかしいんだ。彼ら殺人鬼グループの行動は。
ワタシ達の仲間になってくれるなら道を教えてあげるわ。
おれと手を組もう。もう痛い思いはしたくないだろう?
もういいんだよ、もう諦めていいんだよ。
蝶さんもトカゲさんも目の前の幻覚も、同じようなことを言っている。諦めよう、もういいだろう、手を組もう。
殺人鬼というものは己の快楽で人を殺す集団だと聞いている。命の重さというものを何も理解していない人間達だと。だけどそれが本当ならば、何故出会ってきた殺人鬼達は皆そんな発言をしてきたのだろう。私達が殺し屋だと知っているのなら、余計楽しんで殺してきそうなものなのに。
……もしも彼らの発言が、彼ら自身の意図で発せられたものでないとすれば?
殺人鬼グループの目的は――――。
「和子。お母さんもお父さんも、あなたに傷付いてほしくない。許してあげる。だから、全部放り投げて……」
「黙れ!」
声を張り上げてナイフを強く握る。うるさい、と更に叫べば、震えていたあざみちゃんが不安気に私を見つめた。
とうとう気が狂ったのかと言いたげにキノコさんの目が私を見る。その目に答えるように、立ち上がった私は鋭い眼力で睨み返した。
「あなた達は、私達を殺したいわけじゃないんだ」
「……………………」
「私達を自分の元に取り込みたいんだ。そうでしょう!?」
殺人鬼達は邪魔者を消すために動いているわけじゃない。その逆だ。私達を仲間に取り入れようとして、こうやって少しずつ、説き落とそうとしているんだ。
甘言でも脅しでも何でもいい。実力のある殺し屋を自身に取り込めば、組織は更に力を強くする。
私達が第十区に来るように仕向けることすらも、もしかしたら計画のうちだったのかもしれない。
「そうでしょう!」
念を押すように叫んだ。あー、とキノコさんは呻くような声を上げ額を手で覆う。その唇が弧を描く。前髪の隙間から覗かせた目が半円を描く。
「――――その通りだよ」
キノコさんが答える。内心予想通りの答えだったとはいえ、カッと頭に血が上り、怒りに顔を歪めた。
納得がいく。これまでの敵が簡単に私達を殺しに来なかった理由を。
「その指示をあなた達に出したのは、あなた達のボスですね? 私達の力を自分のものにしたいから……」
「ボス、か。ボス。うん、そうだよ。指示を出したのはあの方だ。ぼくらのリーダーであり、マネージャーであり、ボスであるあの方だ」
あの方、と名を呼ぶキノコさんは熱のこもった吐息を吐いた。うっそりとした声音が甘い空気を更に甘く震わせる。
だけど、と突然キノコさんは声音を変える。ガラリと低くなったその声は歳を重ねた男の声だ。それが幼い子供の体から発せられているということに、奇妙な感覚を抱く。
「勘違いしないでくれ。それは決して君達の力を手に入れたいわけじゃない。ぼくらの力があればもう十分なのだから」
あざみちゃんがガチリと歯を食いしばり、キノコさんを鋭い目で射貫く。憤るように手を振り、ふざけるんじゃないわよと怒鳴り声を上げた。脂汗を滲ませながらも声にはハッキリと威勢を込めていた。
「あなた達の力? は、買いかぶりすぎじゃないの! そんなのどうってことないわよ。既にあなた達のうち二人も倒しているんだから。所詮、その程度ってことでしょ!」
あざみちゃんの言葉にキノコさんは僅かに唇をへの字に曲げた。悲しんでいるのだろうか。僅かに沈んだ声が答える。
「…………トカゲはどうでもいいけれど、蝶が倒されたのは少し寂しいねぇ。ぼくはあいつとよく話していたからさ。ぼくと話していると視線が気にならないから楽だって。面倒な男だったけど、あいつのことは嫌いではなかったんだよ。……だけどあいつ、別に強くはなかったからなぁ」
寂しそうだった声は一転して弾んだ声へと変わる。まあどうでもいいかな、と続く言葉は別に虚勢を張ったというものではなく、本当に一切の気持ちが籠っていないのだと私には感じた。
「蝶だけじゃない。他の奴は皆どうってことのない奴らだ。僕だけだ。僕だけが強い。僕だけがあの方をお守りすることができる。そうだよ、本当はこんな風に君達を誘うなんてことしたくないんだ。どうして君達みたいな敵意を持ってやってくる汚い連中を引き入れなければならないんだ? こんな、まどろっこしい真似までして。本当は今すぐにでも焼き殺してやりたいのに!」
次第に感情を乗せた声は、最後には鋭い苛立ちを爆発させた。泡を飛ばしながら吠える彼の形相に慄く。
どうしてそんなことを、とあざみちゃんが疑問を口に出す。どうしてそんなことをするのか。私達の力が目的ではないとして、何がしたいの。
思わず出た呟きにキノコさんが反応を示す。そんなこと、と声を荒げ首を振った。
「あのお方の計画のためだ!」
それだけで全ての内容を理解することはできない。だがキノコさんがそれ以上答えてくれることはなかった。その小さな指が鳴らされ、周囲の景色がまた変化する。壁と天井が一瞬で黒に染まる。まるで電気を落とされたようだが、自分達の体はハッキリと目視できた。
床も同様かと顔を落とした私は、ぐずぐずの泥のように溶けていく床を目にして息を呑んだ。表面の素材を溶かし、周囲の苔や木の根ごと液状になる床。靴が溶けた液体に侵されていく。ボコリと泡立つ液体。足元を流れる小さな塊。その色は、私達が嫌というほど目にしてきた、暗い赤色。
むっと鼻を突くような鉄の臭いを感じ、吐き気が込み上げた。臭いを感じるのは気のせいだ。けれど視覚の影響というものは他の五感にも影響するほど強烈だ。
一面の血の海。それは瞬く間に水位を増し、私達の足首を、膝を血に濡らしていく。あざみちゃんが悲鳴を上げ、近くの木の根に登って、更に裏に隠れようとするが、幻覚の血は無常に彼女の足を舐める。床に崩れ落ちる東雲さんの手足を濡らす。
「――――和子ちゃん」
血だまりの中で、違和感を覚えるほどに澄んだ透明感のある声。背後から聞こえたそれに思わず振り返る。
目の前に美輝さんが立っていた。サラリとした長い金髪も、白いシャツも、一切血に汚れていない。美しい姿の彼女がそこにいる。当たり前だけれども、あまりにも澄んだ彼女の存在と今の自分を一瞬だけ比べて、胸に一滴の墨が落ちた。
東雲さんや冴園さんの話で聞いた、彼らの大切な人。東雲さんの愛する人。実際に会ったことはないし、これから会うこともない。目の前の彼女も幻覚だ。
けれど私の脳は、目の前の彼女が本物の美輝さんであると朧げにでも思ってしまう。美しい人。優しい人。目の前の綺麗な女性は、自分の愛する人が今でも忘れられない人なのだと、認識する。
「和子ちゃん」
彼女の声がもう一度私の名前を呼んだ。どんな反応を返していいのかわからなかった。
彼女がゆっくと瞬く。そして、その唇を割って、私へ言った。
「――――どうして咲くんの傍にいるのはあなたなの」
咄嗟に答えることはできなかった。