第129話 私達の罪
長い金糸が風を纏う。透き通るように白い肌は、霧の中に薄らいで溶けてしまいそうに見えた。
濡れたように艶めく長いまつ毛の下、星空を写し取ったように輝く両の目は、しっかりと私達を……東雲さんを、捉えている。
薔薇色に染まる彼女の頬。小さな笑みを浮かべた彼女は、澄んだ声で空気を震わせる。
「咲くん」
その一言だけで東雲さんの表情が崩れた。
震える銃口の狙いが彼女から外れる。狼狽える東雲さんは驚愕や恐怖や混乱や、あらゆる感情をその顔に浮かべていたけれど。その中にはわずかな喜びも垣間見えた。
ずっと会いたかった人。もう一度顔を見たかった人。だけど願いはもう二度と叶わない人。そんな人が今こうして目の前にいるのだから、彼の動揺は当たり前のことだった。
彼女の名前は星空美輝。
冴園さんと東雲さんの高校時代の同級生で、東雲さんが愛していた人で、彼の人生を大きく変えるきっかけとなった人で。
そして、既に亡くなっているはずの人。
「幻覚です。東雲さん。あの人は美輝さんじゃない、偽物だ」
あの人が本物の美輝さんであるはずがない。
彼女が死んだのは五年以上も前のこと。仮にもし彼女が生きていたとしても、東雲さんと同じ年頃に成長しているはずだ。だが目の前の彼女は私と年齢が変わらない。東雲さんの記憶にある、最後の彼女の姿のままだ。
「分かってる。…………分かっている」
東雲さんは繰り返し言った。私に答えているわけではなく、自分に言い聞かせようとしているのだ。けれど動揺に揺れる瞳は、美輝さんから外れた方向に向けられている。
分かっていても、感情と理性を結びつけることは難しい。先程見せられた幻覚のせいで私も彼の気持ちはよく理解できる。
誰よあの子、とあざみちゃんは困惑を声に乗せて呟いた。私と東雲さんの反応から、彼女がただの敵ではないことを悟ったのだろう。私達の様子を窺うように攻撃の手を止めつつも、その手に巻き付けた糸はピンと力強く張っている。
「美輝じゃない…………」
東雲さんが低く呟く。緩慢な動きで再度持ち上げられた銃。銃口が美輝さんの姿を捉え、その心臓へと向けられる。だがカタカタと小さく震える彼の指は誤魔化しきれていない。
銃を向けられているのに美輝さんは怯えなど浮かべなかった。代わりに、いかにも悲しそうに顔を曇らせ、星空の瞳に雲を過らせる。
「私を撃つの? 咲くん」
「……………………」
「君が最初に殺した男の人みたいに?」
「ぐっ…………!」
東雲さんの指が引き金を引く。乾いた音を立てて飛んだ銃弾は狙いを少し逸れ、美輝さんの肩を貫いた。溢れ出す赤い血が彼女のシャツを濡らし、ドクドクと流れていく。
「酷いなぁ咲くん」
笑いながら言って美輝さんが一歩前に踏み出した。軽やかな足取りで、たった数歩歩いただけで彼女はいつの間にか私達の眼前に立っていた。
よく見れば、おびただしい量を零しながらも床に着く前に消えていくその血が偽物だと理解できる。床の上を滑るように歩いてきたことだって、激痛に一切顔を変えないことだって。
だけど今の東雲さんがどうやってそんなことを冷静に考えられるだろう。目の前にいるのはただの知り合いだなんてものじゃない。自分がかつて愛していた恋人だ。ずっと会いたかった人を前にして、誰が冷静でいられるものか。
美輝、と東雲さんの唇が震える。酷いなぁ、と美輝さんはもう一度同じ言葉を吐いて東雲さんの頬を撫でた。
幻覚だ。そのはずだ。
でもその手には、撫で方には、私からだって確かに温度が込められているように見えてしまう。
「私でも簡単に殺そうとしちゃうんだね」
東雲さんの目が見開かれる。違う、と否定の言葉を吐いたところで美輝さんは何も聞かない。酷い人、と繰り返し東雲さんの耳元で囁く。
「酷い人。あなたはとても残酷な人。人間の体を撃つことに、何の躊躇いも持たない人」
「ちが……あ、ぁ、違う、違う……」
「可哀想な咲くん、可哀想。可哀想」
「美輝……違う、美輝じゃない……美輝…………」
「咲、く」
美輝さんの体に深々とナイフが突き刺さる。怒りの衝動を込めた一撃は容易く彼女の体を貫くが、やはり手応えなど感じることはない。
二人の間に飛び込んだ私は鋭く美輝さんの幻覚を睨んだ。一切の表情を消した冷たい顔が私を見下ろしている。彼女の体からナイフを取り、大きく空気を振った。刃にはこれっぽっちも血なんて付いていない。
彼女の幻覚を消し飛ばそうと柄を握り、彼女に向けて突っ込もうとする。だがその切っ先が触れる寸前、その姿がぼやけ、また別の人間の姿へと変わる。
お母さんだ。
「おか…………、くっ!」
私のお母さん。ナイフを握る私をキョトンとした目で見つめ、どうしたの、と今にも首を傾げそうな姿のお母さん。
反射的に手の力が緩む。と、その隙を狙うように、お母さんの幻覚が揺れ、その向こうから飛び出してきた塊が私にぶち当たった。
巨大なキノコ。
だがそう思ったのは一瞬で、すぐにそれが大きなキノコ帽と、それを被った幼い子供だと分かる。
その子供はケラケラと奇妙な笑い声を上げてローブの袖を振るう。ギラリとした光が見え咄嗟にナイフを構えると、キィンと刃がぶつかり合う音がした。
子供は私の頭上を飛び越えて床に着地する。ぶかぶかのローブと大きな帽子のせいで顔はよく見えない。だが背格好からして十歳もいっていないだろう。思わず攻撃するのを躊躇うような子供の姿、しかしこれも敵の幻覚の一種だと思い直す。
「この卑怯者!」
思わず敵に向かって怒鳴りつけた。美輝さんやお母さん。大切な人の幻を見せて動揺を誘うなんて。
だけど私の怒りをその子は馬鹿にする。ケラケラ、ケラケラと苛立ちを誘う声を上げて笑い続ける。
と、背後から風を切る音が聞こえた。私の体を避け、何本もの糸がまっすぐ子供に向かって飛んでいく。その子は笑うのをやめ、大きく飛び跳ねるように後ろへと下がった。木や壁に糸の先端に括りつけられた刃物が突き刺さる。
刺さった糸がピンと張る。全ての糸の弛みがなくなったと思えば、それをバネにしてあざみちゃんが空を飛んだ。空中で更に次々伸ばした糸を足がけにした彼女は、真上からその子供に向かってとびかかる。
子供がローブの袖を振るう。そこから飛び出した粉はさっき私がかけられたものと同じだ。だがあざみちゃんは自在に糸を操って粉を避ける。その指から放たれた糸が子供の首に巻き付く。だがそれと同時に、子供の周囲に大量の花が噴き出した。瞬く間にそれは子供の姿を覆い隠す。舌打ちをして退いたあざみちゃんの前、花の中からその子が現れる。またもその姿は変わり、今度は皺だらけの老婆の姿になっていた。なるほどね、とそのしわがれた声が言う。
「蜘蛛の糸。聞いていたけれど、厄介だなぁ」
「厄介なのはどっちよ。こんな奇妙な技を使って!」
「五感を惑わせるのは立派な戦法さ」
老婆が指を鳴らす。瞬間、私達を取り囲むように出現したのは大勢の人間だった。老若男女問わずたくさんの人々が虚ろな目をこちらに向けてくる。
全員が体のどこからか血を流し、傷を負っていた。もしも本物の人間であれば生きていられるはずのない怪我。だが幻の彼らにはそんなこと関係ない。ゆらゆらと揺れながら近づいてくる姿は、まるでゾンビ映画のようだった。
人の波の隙間から老婆の姿が見えた。だがすぐにその小さな体も人々の中に見えなくなる。最後に、老婆の声が、人の隙間を掻い潜って聞こえてくる。
「こんな風にね」
わっと人々が私達に襲いかかった。それらは全て幻であり、質量はないはずだ。それでもこうして視覚してしまい、彼らの叫びを耳にしてしまえば。どうやっても平静を保つことは難しい。
手当たり次第にナイフで人を薙いでいく。肌を切り裂けばそこから煙が立ち、彼らの姿は掻き消える。人混みを掻き分けて進むかのごとくナイフを振るう間にも、子供のくすくすという笑い声があちこちから聞こえていた。
全て敵のあの敵が見せている幻覚だというのならば、あの人を倒せば全て消えるはず。だが混乱した状態では上手く攻撃をするどころか、敵の位置を捉えることさえ難しい。
私の視界が東雲さんとあざみちゃんを捉える。人を攻撃するごとに、二人の顔が段々と険しくなっていく。その顔は蒼白になり、カッと見開かれた目は人々に恐怖を抱いていた。
二人の様子がおかしい理由は私にも分かった。
今しがた掻き消した女性の顔に見覚えがあった。次に消した老人の顔にも、その次の少年の顔にも。…………ほとんどの顔に覚えがある。手当たり次第に集めたように見えていた大勢の人々。その共通点。
――――私達が今まで殺してきた人だ。
「ひっ…………!」
それに気が付いた瞬間、体中の血液が凍り付くような恐怖に襲われた。
仕事として私が切り付けてきた人々の姿。虚ろな眼差しは死人のそれと同じだ。
体中に付いた傷。ナイフの切り傷とか、弾痕とか、綺麗に輪切りにされた腕とか。ああ、そうか。これは全部。全部。
泣きそうになりながら目の前の男性にナイフごと突進する。煙になって消えた体の向こう側で、東雲さんとあざみちゃんが戦う様子が見えた。二人とも顔色が酷く悪い。それでも二人とも、泣くことも叫ぶこともなく、歯を食いしばって人々を消している。銃で、糸で。二人が人々に付ける傷は、元から人々の体に付いていた傷と同じ形だった。
大勢に襲いかかられるとしても実態がない以上こちらが負傷することはない。だが敵の攻撃は私達の精神を大きく削る。人々の数は残り十人程度にまで減った。私達の精神はどれくらい減っただろう。
周囲を見回しても老婆の姿はない。またしてもどこかに隠れてしまったようだ。畜生、と悪態を付きながら近くの女性にナイフを突き刺す。すぅっと空気に溶けていく姿を見ながら一つの疑問を抱いた。
敵はこの幻覚をどうやって見せているのだろう。
最初は、私が敵にかけられた粉に幻覚作用があるのだと思っていた。だけどかけられていないはずの東雲さんとあざみちゃんも今、私と同じ幻覚を見ている。
敵は好きな人間に幻覚を見せることができる? それとも、気が付かない間に二人も粉を吸わされていた? だけどどうやって、いつ。
考えがまとまらない。人を切り煙にしていきながら私は頭を振る。落ち着こうと深呼吸をしても湿った空気を肺に取り込むばかりで鼓動は収まらない。震える手に無理矢理力を入れてナイフを握る。近くの木の幹に触れると、湿った木の皮が熱い手の平を冷ましていく。
「あ」
思わず声を上げた。足元を見る。そこに生えている可憐な花や草に爪先で触れてみた。くしゃりと小さく花びらを揺らすそれが、紛うことなき本物の植物だと再確認する。
部屋中を見回した。壁や床に生えるたくさんの草花。そして部屋を満たす甘い香り。
まさか。もしかして。
幻覚を見せる植物があるとどこかで読んだことがある。一年先輩からプレゼントされたスノードロップやジギタリスを調べたときに見た花の図鑑だったろうか。毒がある植物。危険な植物。その中に確かにあった、幻覚を見せる草花の名が。
香りを嗅げば、口にすれば、多幸感や幻覚を感じる植物というものがこの世にはある。例えば私達が見ている幻覚が催眠術の類ではなく植物からくるものだとすれば? この部屋に生えている草花が、放たれる香りが幻覚の元だとすれば。植物のためだと思い込んでいたこの甘い香りが私達の奇妙な幻覚を生み出しているのだとすれば。
ヒントは最初から見えていた。あの敵が常に姿を変えながらも被っていた帽子。色濃い赤い傘に白いイボを付けたそれは、部屋のあちこちに生えている。小さな、けれど大量のキノコ。
例えばここから胞子が撒き散らされているのだとしたら?
「――二人とも! もしかして、このキノコが原因……」
「遅かったね、正解だよ」
振り向いた私が目にしたものは眼前に迫る鋭い針だった。脳で考えるより前に体が動く。咄嗟に上半身を反らし飛んできた針を避けた私は、そのままバク転の要領で後ろに飛び退く。
攻撃が当たらなかったことに残念そうな顔をしているのはキノコ帽子を被った子供だ。上手く投げられなかったらしい数本の針が指からパラパラと床に落ちる。
「せっかく拝借した針だったんだけどなぁ。やっぱりぼくには扱いが難しいや」
ローブを払い、その子はさてと私に向き直る。その頭から大きな帽子が外され、その下の重いボブ頭が見える。だが前髪は目を覆うほどに長く、やはりその表情は読み取れない。女か男かも分からない。唇が笑っているとしても、その目がどんな感情を湛えているのか分からない。
「明星市の裏社会に生きる奴は、生き物の名前を仕事名にする。面白い風習だと思わないかい。生き物であれば何でもいいんだ。そう、獣でも、昆虫でも、植物でも、菌類でも」
その子は大仰に帽子を抱きしめた。小さな腕の中で潰れる赤いキノコ帽子。
菌類でも生き物だというのなら。私達の目の前に立つ敵の名前は決まっている。
「可愛い名前だろ。ぼくのこと、そう呼んでくれよ。キノコって」
キノコ。それが、可愛らしい名前と裏腹にここまで私達を苦しめる敵の正体だ。
あざみちゃんの振るった糸が残りの数人をまとめて薙ぎ消した。部屋は元の森に戻り、私達とキノコさんの姿だけがそこにあった。
肩で息をする私達を見て、キノコさんは可笑しそうに笑う。疲労しているこちらに対し、相手は何一つダメージを受けていない。
「お疲れ様。休憩でも入れようか?」
「ふざっけんじゃないわよ、この、キノコ頭……!」
「そういうと思った。じゃあ、第二ラウンド始めようか」
無慈悲な言葉に顔が強張る。これ以上戦えない。だがキノコさんが待ってくれるはずもなく、パチンとまたも指が鳴らされる。
数人の人影が現れる。その数は先程より圧倒的に少ない。でも、その人達の顔を見た瞬間、私は大きく目を見開いた。
吐息が震える。言葉に出さずとも、酷い動揺が見て取れる。指先が震え、目が揺らぐ。
だけどそれは私の反応じゃない。
東雲さんだ。
「ばあちゃ…………」
ばあちゃん。思わず呟かれた東雲さんの声が、幻覚として現れたおばあさんに向けられた。
凛とした佇まいの着物姿の老女。涼やかな顔と厳格そうな雰囲気は、どことなく東雲さんと似ている。だけどその目はとても悲しそうな色を湛え、東雲さんを見つめていた。
東雲さんの祖母である菊さん。両親を亡くした彼にとっての育ての親。大切な人。
「咲」
「ばあちゃん……」
「どうして、こんな風になってしまったのですか」
ビクッと東雲さんの肩が跳ねる。親に叱られた子供のような反応と、真っ白に血の気の引いた顔。彼が何かを言おうと唇を戦慄かせたが、そこから言葉が出る前に菊さんは淡々と言葉を吐く。
「何故人を殺しているのですか。何故命を奪っているのですか。優しい人でありなさいと、私はあなたに教えたではありませんか」
「あ…………こ、れは」
「失望しました。あなたがこんなに冷徹な人間だと分かっていたのなら、あなたが生まれたその日に見捨てるべきだった」
「…………っ」
いつの間にか菊さんの横に美輝さんが立っていた。その後ろには東雲さんが生まれた日に亡くなったはずのお父さんとお母さんの姿もある。私は彼らの姿をアルバムの中で見た。優しい顔をした東雲さんの指で捲られるページに挟まれた、彼の大切な人々。写真の中の彼らも幸せそうな微笑みを浮かべていた。だけど今見ている彼らにはそんな微笑みなど一切浮かんでいない。
「咲。お母さんのことが分かる? お母さん、あなたがお腹にいるとき、凄く幸せだった。この子は優しい子に育ってくれるはずだって思ってた。でも全部間違いだったのかな。お母さん、あなたを生まなければ良かったのかな」
「悲しいよ。お前がこんな子になってしまって、俺達はずっと後悔しているんだよ。お前はこんなことになって、何も後悔していないのかい?」
「咲くん。あなたは人殺しになんてならなくても良かったのに。私が殺された夜、あなたが私を送ってくれていればもしかしたらこんなことにはならなかったかもしれない。ううん、あなたがどこかで違う選択肢を選んでいれば、きっとこんなことにはならなかったんだよ」
やめてくれ、と東雲さんが声を震わせる。力ない声で何度も彼は懇願する。カタカタと震える銃口で自分の大切な人の幻覚を狙う。
やめてくれ。頼む、それ以上言わないでくれ。聞きたくない。やめてくれ。もう何も言わないでくれ。
東雲さんの元へ駆け寄ろうとした。これ以上彼に悪夢を見せたくなかった。だけど、標的にされるのは彼だけじゃない。
「和子」
「……………………」
私の進行を防ぐようにお父さんとお母さんの幻覚が立っていた。二人もまた私に悲しい目を向けていた。強く目を伏せ、私は二人に向けてナイフを構える。
「どいて」
一層二人の顔が歪む。悲しそうなその顔を見るだけで、私の足は竦んでしまう。奥歯を噛みしめ首を振り、牽制するように大きくナイフを振った。
「お願い、どいて。消えてよ。邪魔をしないで」
「邪魔? 私達があなたにとって邪魔なの? どうしてそんなことを言うの。和子は私達が嫌いなの?」
「嫌いじゃ…………あなた達はお父さんとお母さんじゃない。早くどいて。私にはやるべきことがあるんだ」
「やるべきこと? 人を傷つけることがお前のやらなければいけないことだと言うのか」
本当は、こんな問答などせず早々にこの幻覚を切り付ければいい。だけど、考えるのは簡単でもそれを実行することは難しい。お父さんとお母さんに刃物を刺すなんて、そんなの簡単にできたら苦労はしない。
私は冷静に二人を説得しようとした。でも全身に嫌な汗が滲み、心臓が激しく鼓動して苦しい。
馬鹿馬鹿しい。なんで幻を説得しようとしているんだ。何を言ったところで彼らが素直に道を開けてくれるわけがないじゃないか。心の中の私が呆れる。私の体はそれでも動かない。
「――――何してるのよ!」
鋭く飛んできた声と糸。あざみちゃんの糸は私のお父さんとお母さんの体を切り裂き、煙にしていく。私を叱咤するように睨んだあざみちゃんは、そのまま端で私達の様子を笑っていたキノコさんに向けて糸を飛ばした。
おっと、とキノコさんは糸を避けてにんまりと唇で弧を描く。あざみちゃんに向けて興味深そうに喉を鳴らした。
「どうやら君は少し強いみたいだね」
あざみちゃんの前にも彼女の両親や友人の幻覚が見えていたのだろう。だけど私達の中で冷静に混乱から脱することができたのはどうやら彼女だけらしい。糸を構え鋭い眼光を光らせる彼女にキノコさんは言った。
「凄いな、まだ小さな子供のくせに」
「子供だと思ってなめてると痛い目見るわよ」
からかわれたあざみちゃんは険しい顔で糸を投げる。銃弾のような勢いで飛ぶ細い糸。それはまっすぐキノコさんめがけて飛び――その手でガシリと捕まれた。
そのままキノコさんは大きく床を蹴る。あざみちゃんの糸を逆に利用し、彼女の目の前に飛んできた。あざみちゃんが慌てて糸を離す直前に、キノコさんは大きく膨らませた頬から大量の粉を吐き出す。ぶわりと舞った粉があざみちゃんに直撃してしまう。
「くっ!」
目を瞬かせながら彼女は攻撃をしかけようとする。しかしその前にキノコさんの体はまたしても消えてしまった。どこに行った、と辺りを見回す私達の、その頭上。くすり、と小さな笑い声が聞こえた瞬間あざみちゃんは獣のように目をギラつかせる。
「そこか!」
ダンッと激しくあざみちゃんが床を蹴り上空へ腕を振り上げる。
腕に巻いていた糸が、周囲に張り巡らせていた糸が、逆さまの雨のように天井へと降り注いだ。何本何十本もの鋭い槍の雨。固い天井を糸が貫き、剣山のごとき姿にする。
天井に磔になった、老人姿のキノコさんがいた。おびただしい糸に貫かれた小さな体は、目を背けたくなるほどに痛ましい。
だがそこから血は流れない。笑い声は止んでいない。ぐるりと百八十度に回転した顔が私達を見る。しわくちゃの顔がニヤニヤとあざみちゃんを見つめる。
「子供だなんて言って悪かったよ。君はとても強いね。だから、おまけしてあげる」
おまけ。その単語にいい意味を感じ取れないのは、きっと正解だ。
キノコさんが指を鳴らす。その姿がまた消えた。そしてまた、幻覚が現れる。
今度は大切な人の幻覚でも、私達の心に傷を負わせた人達の幻覚でもない。いや、どころか、人間じゃない。
「――――……あっ」
大量の動物の死骸が天井に張り付けられていた。ぐたりと力を失いその四肢を揺らす動物達が、あざみちゃんの糸一本一本に貫かれて天井に縫い付けられていた。
一瞬の間を置いて、あざみちゃんの絶叫が部屋に響き渡る。