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第13話 東雲さんは眠れない

 人通りの少ない夜の道路に一台の車が止まった。静かに鳴っていたエンジンの音が消え、それから数秒を置いて車から二人の男が降りる。一人は顎に無造作な髭を生やした中年の男。もう一人はおどおどと身を竦めて歩く若い男。

 二人は車が止まった先にある小さなビルへと入って行った。夜だが、その窓に一切明かりは灯っておらず暗いままだ。そこから明かりが漏れ、また消え、男達がビルから出てくるまでに数分もかからなかった。

 彼らの手には先ほどまでなかったものが握られている。黒いスーツケース。髭の男が一つ、若い男が二つ。彼らの動作から見るに中身はあまり入っていないのだろうか、重くはなさそうだ。けれど双方共にその顔は酷く強張り、しきりに辺りを警戒しているのが分かった。

 男達は車のトランクを開ける。そこにスーツケースをそっと置き、その上からトランクの中にあった衣服や工具やゴミなどをぐしゃぐしゃに掻き回した。一見、ろくに掃除されていないトランクの出来上がりだ。


「せ、成功するんですかね……。おれ、こんなことしたの初めてっすよ……?」

「俺もだよ馬鹿野郎。成功以外に道はない、失敗すれば即首が飛ぶに決まってるだろ……言葉通りな」


 若い男がごくりと唾を飲んだ。髭の男は強張った笑みを浮かべ、トランクを閉めながら語る。


「俺達がすべきことは、()()を時間通りに指定場所へ運ぶこと。それだけだ。ただそれだけだ」

「『それだけ』が難しいんじゃないですか」

「泣き言言ってんじゃねえ! おら、早く行くぞ。車出せ!」


 髭の男はそう言って助手席へと向かう。車のドアを開けようとしたとき、不意に彼の動きが止まった。


「あぁ?」


 恐らく彼の行動に理由はない。ただ何気なく、ふと、上を見ただけ。

 それだけ。

 直後、その顔面に靴底が叩き込まれた。



 向かいのビルの二階から飛び降りた私は、その落下の勢いを足に集中させ、そのまま男の顔を踏んづけた。ポカンと半開きの口に踵が入り込み、口をこじ開け、前歯に当たる。根元に当たったのか、上の前歯が二本もげた感触が靴越しに伝わってきた。

 膝を畳み、倒れそうになる男の顔の上でバランスを取る。顔を足場に容赦なく、足の筋肉を爆発させ、跳んだ。

 元々跳躍には自信があった。その上東雲さんとの連日の訓練のおかげで培われた脚力。その結果、足がまるでバネに変わったかのように、私は跳ぶことができる。

 できるだけ高く、できるだけ遠く。空をとぶように。

 体をしならせて着地し、衝撃を殺す。しゃがみ込んだまま顔を上げると、視線の先には、唖然とした顔の若い男が立っていた。


「え?」


 まだトランクの前にいた若い男は突如現れた第三者にきょとんとした目を向けていた。状況が掴めていないのだろう。一拍遅れてからようやく彼がしたことと言えば、血相を変えて髭の男へと指示を仰ぐことだった。


「おいっ――」


 しかし彼の言葉が最後まで出ることはない。唯一頼れるはずの仲間が、口を押えて地面に倒れていたら当然だ。それも、口を覆う両手の隙間からだくだくと血が流れ、髭を真っ赤に染め上げているのだから。

 若い男は愕然と表情を変え、再度私を見る。そのときにはすでに、ナイフを抜いていた私が飛びかかってくる様子しか見えなかっただろう。


「ひっ――ギャ!」


 咄嗟に彼が突き出した右腕をナイフが遠慮なく抉る。肩を跳ね上げて怯えた顔をする彼の目を目がけ、次撃を繰り出そうとするも、彼は必死に顔を歪めながらそれを避ける。汗と血に濡れた手が懐から掴んだのは、一丁の銃。

 その存在を捉えた瞬間私は反射的に体を横に倒す。乾いた音が耳先数センチの場所に弾けた。

 男は身を翻して車の前の方へと移動する。


「待て!」


 追いかけようと車の横へ回り込もうとした瞬間、眼前を銃弾が掠め、足が竦む。その隙に男が運転席へと乗り込み、鍵を回す。エンジンのかかる音にパッと車のかげから飛び出した瞬間、勢いよくバックしてきた車のタイヤが寸前まで私の立っていた地面を轢いた。

 若い男はルームミラーを見て、わたしを仕留め損ねたことに顔をしかめる。けれどそれ以上執拗に私を狙うことはなく、今は逃げることが優先とばかりに視線を前へ向ける。

 車が激しく唸り、走り出した。地面に倒れてもがいていた髭の男の体を前輪が轢き、後輪が轢く。車はどんどん遠ざかる。

 このままだと見逃す。私はすぅっと夜の空気を肺に吸い込んで、一気に言葉として放出した。



「東雲さん!」

「分かってる!」


 彼の声が上から聞こえた。見上げれば、少し離れた小さなビルの屋上、手すりを越えた縁の所に東雲さんが立っていた。銃を構えて。

 その照準が車に定められる。引き金が引かれた。

 乾いた音が響き、車のタイヤが僅かに浮かんだ。車体がガタンと揺れ、左右に大きく揺れながら速度を緩めていく、ついには完全に止まってしまった。

 運転席から慌てて飛び出してきた男がこちらを気にしながら急いで逃げ出す。初弾でタイヤをパンクさせた東雲さんは、今度は男に視線と銃を向けた。


「あっ……!」


 不意に東雲さんが顔を押さえてよろける。驚きつつ、咄嗟に彼の名を呼ぶと、彼は手すりを掴んだ何とか体勢を立て直した。即座に銃を構え直し撃つ。一発、二発、三発。

 外れたのは一発だけだった。二発目が男の足を射抜き、三発目が頭を貫く。若い男は声も上げずに前のめりに倒れ、動かなくなった。

 ……これだけ距離が離れていてあの命中率。それがどれだけ難しいのか私にはよく分からないが、それでもかなりの技術が必要だろうということはなんとなく理解していた。

 念のためにとナイフを握ったままその場に留まる。数分後、ビルから東雲さんが出てきて、ようやく私は肩の力を抜いた。

 彼は地面に倒れる髭の男を見て、その腹からじわじわと溢れる血の量を見ながら言う。


「あっちの奴と、トランクの中身を確認してこい」

「分かりました」


 言われた通りに車へと向かう。辿り着き、まずは傍に倒れていた若い男を見た。頭から流れる血、大きく見開いた両目、身動ぎ一つしない体。一応とナイフで手を突き刺してみても反応はない。しっかりと死んでいることを確認してから車のトランクを開け、ぐちゃぐちゃになったそこからスーツケースを取り出した。

 中身は下着類やタオルケットや財布などの変哲のない物ばかり。少し探って、奥の方に入れられていた中くらいの大きさの箱を取り出した。鍵がかけてある。それを持って東雲さんの元へと戻った。


「こんなのがありましたけど」

「見せてみろ」


 渡すと、東雲さんはしばしそれを弄る。少し苦戦しているようだったが何とか開けることができた。

 中にはぎっしりと、ビニールに入った乳白色の粉が詰められていた。薬だ。危ない方の。



 今回の仕事は薬の運び人の襲撃。二つの組織の間で交わされる予定だった薬の売買、それをまた別のグループが狙っていたらしく、正式なルートから薬を強奪したらしい。それをグループに持っていく役目を担われていたのがこの二人。しかし当然ながら本来取り引きを行うはずだった二つの組織が黙っているはずもなく、薬を取り戻そうとしていた。そこで依頼されたのが私達だった。

 つまり今この二人を殺したところで薬が処分されることはない。また誰かの手に渡り、売られたり買われたり、違法なことに使われる。誰かが薬の餌食になることに変わりはない。

 仕事だから割り切れと東雲さんには言われたものの、実際に納得することは難しかった。



「いつものように死体は掃除屋に、薬は運び屋に頼んで…………」


 そこまで言って東雲さんが細い溜息を吐いた。眉間にしわを寄せて、疲れたように目に手を当てる。


「東雲さん……さっき、危なかったですよ。もしかして疲れてるんですか?」

「いや……少し眩暈がしただけだ」


 そう言いながらも、その目尻には深いクマが刻まれていた。顔色も青白く、見るからに寝不足であることは明らかだ。

 思わずそのクマに手を伸ばすと、それに気付いた彼はふっと顔を背けてしまう。その反応にチクリと胸を痛ませながらも私は思った。


 仕事を初めて一週間。人間とは意外と図太いものなのか、あれほど拒絶感を抱いていた殺人にも血にも死体にも、いまだ嫌悪感や罪悪感はあるものの慣れてきた。麻痺していると言った方が正しいのかもしれないけれど、躊躇なく人を刺せるくらいには成長した。

 その一週間という期間は同時に、東雲さんと私が共にいる時間。初仕事のときから、仕事のときはほぼ毎日彼の家に泊まっていた。仕事が大抵夜だから終電を逃すという理由が多いけれど、本当は私が彼の家にいたいから。彼もなんだかんだ言って私を追い返そうとはしないのだからお互い様だった。

 その間ずっと私はソファーで眠っている。家主がベッドを使うべきだろうと思っているし、東雲さんも私にベッドを貸そうとはしないからだ。あのソファーは大きくて柔らかくてぐっすり眠れるから別に構わない。でも、てっきり東雲さんはベッドで寝ているのだろうと思っていたけれど、それは間違いだったかもしれない。

 思い返せば彼が眠っている姿を見たことがない。私が寝て起きたとき、彼は既に起きていたのだから。シーツも毛布も乱れた様子はなかったからてっきり早く起きて整えているのだと思っていたけれど。……もしかすると、あれは私より早く起きていたんじゃなくて、一晩中眠っていないだけなのかな。

 何でだろう。




 どうしてかそれを言及するのがはばかられ、帰宅途中私は口を開くことがなかった。それは東雲さんも同じで、私達は無言のまま東雲さんのマンションへと帰ってきた。

 三階まで上がり、部屋へ入る。交互にシャワーを浴びて、食事を取って、次の仕事について少し話して、あとは寝るばかり。いつものようにソファーに横たわりながらも目を閉じずにじっと東雲さんを見つめていると、彼がこっちを見た。


「寝ないんですか?」

「やることをやってから」


 いつものようにテーブルにパソコンを置き、コーヒーを飲みながら画面に目を向ける東雲さん。いつもなら私は納得して寝てしまうけれど、今日はパッチリと目を開けて彼を見つめ続けた。その様子に彼も怪訝に思ったのだろう。どうしたんだ、と溜息を吐いた。


「たまには早く寝ませんか? 疲れてたら、終わるものも終わりませんよ。今のところ、明日仕事ないでしょう? 休みだし」


 東雲さんは私の言葉に瞬いた。自分の寝不足を勘付かれたことが嫌だったのか、苛立ったように目を細め、頬を掻く。


「早く終わらせたいんだ。俺の好きにさせてくれ、関係ないだろう」

「で、でもっ」


 棘のある言い方。反論しようと思わず上半身を起こすと、露骨に不快な感情を表す彼の目が見えた。不穏な空気が漂う。

 そのときだった。ピンポーンという、気の抜けるようなチャイムが部屋に響いた。

 私と彼は同時に玄関の方を見る。ピンポーン、と再度チャイムが聞こえてきた。


「こんな時間に……?」


 思わず呟きながら時計を見る。午前一時半。来訪には無遠慮すぎる時間帯だ。

 ガチャガチャとドアノブを回す音が聞こえ、私は咄嗟に枕元に隠していたナイフを取り出す。不審者か、強盗か、それとも襲撃者か。警戒心を露わにする私の横で、東雲さんが椅子から立ち上がる。

 と、鍵が開けられる音がした。ナイフの柄を握る手に力がこもる。と、


「――――やっほー咲ちゃん! 今日も起きてるぅ?」


 場の緊迫を崩すような軽い声。東雲さんがふっと警戒心を緩め、私にナイフを下ろすようにと言う。その声に柔らかさが含まれていることに不思議に思いつつ、私はナイフを下ろして部屋の扉を見つめた。

 そこから一人の男の人が入ってきた。



 まずその髪の色が目についた。深い青色に染まった髪、前髪一房にアクセントのように入れられた黒いメッシュ。白いワイシャツの上から黒いコートを羽織った二十代中頃の男性。

 人懐っこそうな丸い目が東雲さんを捉え、その顔が柔らかくほころぶ。女性の大半が見惚れてしまいそうな魅力的な笑顔だった。


「久しぶり! 会いたかったよ咲ちゃん。ごめんなー、色々忙しくってさー、全然暇が取れなかったんだよ」

「咲ちゃんって呼ぶな、抱き付いてくるな、鬱陶しい」


 長身の東雲さんよりもう少し背の高い彼。男性は東雲さんの名を呼びながら抱き付こうとして、東雲さんに押しのけられる。それも構わないようで無理矢理に東雲さんの頭をワシャワシャと撫で、今度は頬を叩かれていた。けれど東雲さんが本気で嫌がっているわけではないと、なんとなく分かった。

 男性がそこでようやく私に気が付き、おっと声を上げる。思わず体を強張らせてぱちくりと瞬きをすると、彼は朗らかな笑顔を浮かべ、東雲さんに尋ねた。


「どっから誘拐してきたの?」

「違う。こいつは……オレのサポート役だ、仕事の」

「ああ、殺し屋の」


 納得がいったように頷いて、男性は私に近づいて手を差し伸べてくる。緊張しながらその手を握り返すと、大きくゴツゴツとした骨の感触が伝わってきた。

 殺し屋だなんて知っているということは、この人もお仲間なのだろうか。

 彼が小首を傾げて笑うと、両耳に付けられたピアスがキラリと光る。右耳に一つ、左耳に二つ。


「初めまして、俺は冴園さえぞのゆう。君は?」

「秋月和子です、初めまして」

「和子ちゃん、初めまして。可愛いね。今いくつ?」

「十六です。六月に誕生日過ぎたから……」

「へー、俺の飼ってる猫も同じ! 十六歳なんだよ、人間の歳で言えば」

「お前猫なんて飼ってたか?」


 東雲さんの問いに、最近拾ったんだよ、と冴園さんが手を振った。


「元々どこかの飼い猫だったらしいんだけど逃げ出してきたみたいでね。夜道でぼんやりしてるところを拾ったんだ。ほら、明星市の夜なんて危ないだろう?」

「そうですね、最近、生き物が殺されるの流行ってるみたいですし。……でも私と同い年の猫ちゃんかぁ。ふふ、ネコって仕事名付けられたから、なんだか親近感湧いちゃうな。名前は何て言うんですか?」

「アリサって言うんだ」

「可愛い名前ですね!」

「でも生意気で困っててねぇ。……それにしても十六歳か。俺より九つ下? 咲ちゃんは早生まれだからまだ二十四だけど、それでも八つ下……」


 そう呟いてから東雲さんに目を向け、


「年下趣味?」


 冴園さんの顔面にティッシュ箱が投げられた。

 いてて、と赤くなった鼻を擦りながら冴園さんが私に向き直る。


「いや、咲ちゃんのサポート役かぁ……大変だろ? こいつぶっきらぼうだしさ!」


 困ったように笑いながら、昔から不愛想なんだよなー、と続ける。その台詞が気になって尋ねてみた。


「二人は……お友達なんですか?」

「小学校時代からの大親友さ! こいつのことは何でも知ってるんだ。おばあちゃんっ子だったことも、ゴキブリが苦手なことも、字は上手いのに絵が下手なことも、ぜーんぶ」

「ペラペラ喋るな」


 東雲さんが不服そうにしかめっ面をする。冴園さんは笑ってそれを受け流す。

 何だかその光景がとても温かなものに思えて、ふふっと微笑みが零れた。


「本当に仲がいいですね」


 そう言うと二人は一瞬目を合わせて、冴園さんが笑い声を上げ、東雲さんは黙って溜息を吐いた。




「で、咲ちゃん。俺が来ない間寝れた?」


 会話が一段落ついたころ、冴園さんが東雲さんの顔を覗き込みながら尋ねた。目敏くクマを見つけたようで、やっぱりね、と困ったように肩を竦めた。東雲さんはまるで叱られる子供のように、気まずげに視線を逸らす。

 何となく話しかける気にはならず、されど一人寝る気にはなれず、私は黙ったままぼんやりと二人のやり取りを見つめていた。

 冴園さんはテーブルの書類を隅に避け、パソコンを畳んで東雲さんの手を掴む。そのまま半ば強引にベッドへと座らせる。


「まだ仕事終わってない……」

「今は寝ることが先! ほら、早く寝なさい」


 優しく言い聞かせるような声で冴園さんは東雲さんの肩をそっとベッドに下ろし、毛布を被せる。東雲さんの不満そうな顔が枕に埋まり、すり、とすり寄せられた。

 その目は閉じない。どこか虚ろな目が、何かを願うかのように冴園さんに向けられる。ふぅっと微笑んで東雲さんの頭を撫でて冴園さんが呟く。


「大丈夫、寝るまでいてやるって。子守唄でも歌ってあげようか?」

「……いらない」

「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹……おっとハリネズミが乱入!」

「真面目にやれ」


 冴園さんが滑らかな声で羊を数える。ふわふわ白い毛の羊が柵を飛び越え、野原を踊るように駆けていく。

 三十匹ほどの羊が柵を飛び越えた頃、東雲さんの瞼がとろんとしていることに気が付く。しばしばと瞬き、寝ることを渋るようにしつつも、次第に彼の瞼は重くなっていく。そのうちすぅすぅと深く静かな寝息が聞こえてきた。

 おやすみ、と囁くような小声で冴園さんが言う。それからゆっくりとベッドから立ち上がり、椅子に座って大きく伸びをした。



「東雲さんが寝てるとこ初めて見た」


 思わず私はそう呟いた。

 眠りこける彼の姿はどこか子供のようにも見えた。眉をしかめていないからかもしれない、キツイ目付きじゃないからかもしれない。力の抜けた顔からは普段見たことのない幼さを感じ取れる。

 冴園さんが微笑する。けれどそれは、少し切なさを帯びている微笑みだった。


「こいつ、不眠症だからね」

「えっ?」


 予想だにしていなかった言葉に冴園さんを見た。その表情が嘘ではないことを語っている。


「不眠症って言っても色々あるんだよ、ただずっと眠れないだけじゃない。咲の場合は寝ても疲れが取れなかったり、夜中に何度も起きたり、眠りが浅かったり。医者にはストレスのせいだって言われたみたいだけど」

「じゃあ今もそうなんですか?」

「ううん。俺がいると上手く眠れるらしい。だからこうしてたまにやって来て寝かしつけるんだ。咲は強情だから直接頼んでくるわけじゃないけど」


 合鍵もくれたしね、と冴園さんが鍵を取り出してくるくると回す。


「東雲さんは冴園さんのこと、とっても信頼してるんですね」

「……そうかな」

「そうですよ。だって、親友なんでしょう? それに今日の東雲さん何だかいつもと違いましたもん。邪険にしてるけど、冴園さんのこと凄く好きなんですよ」


 そういうのって羨ましいな、という呟きは心中に飲み込んだ。

 幼馴染とか親友とか、そういうのは私にとって無縁のものだったから。だから二人の関係は本当に素敵だと思ったし、ちょっと憧れる。

 冴園さんがチャリ、と音を立ててを鍵を手中に収める。彼はふっと微笑んで、そうだといいな、と言った。その笑顔にどこか影が差しているように見えたのが、少し不思議だった。



「和子ちゃんは咲のこと、どう思ってる?」

「え? どうって?」

「そのままの意味で。やっぱり好きなのかなー?」

「はっ!?」


 ニマニマと愉快そうにほくそ笑む冴園さん。思わず顔を真っ赤にしながら違う、と否定しようとして、ふと唇の動きを止めた。

 東雲さんのことをどう思っているか? そんなこと考えたことなかった。

 ……私は東雲さんを?


「…………多分、どちらかというと、嫌いなのかも」

「えっ?」


 私がぽつりと呟いた台詞に冴園さんが拍子抜けした声を出す。自分の手元を見下ろしながら、私は淡々と自分の思いを吐露する。


「私、その、東雲さんに初めて会ったのが一ヶ月前なんですけど……そのとき東雲さんが私の大好きな人を殺しちゃって。だから、そのことが凄く悲しかったっていうか、許せないっていうか……」


 東雲さんが保良さんを殺したときのことは今でも鮮明に思い出せる。その怒りはまだ胸の奥で燻っているし、これから先許すこともない。

 だって保良さんのこと、私はまるで自分の親のように慕っていたのだから。唯一の友達で、唯一の理解者だったあの人。

 そういえば公園にあれから行っていない。あそこでは、保良さんのことはどうなっているのだろう。


「あ、でも、東雲さんと一緒にいる方が学校とか家にいるより落ち着きますし、仕事も何とか上手くやれてますし、その……んん? えっと、東雲さんのことは嫌いだけどでも嫌いじゃないし……? いい所もあるし、意外と優しい人だし、ご飯美味しいし泊めてくれるし……えぇっとぉ?」


 良く分からなくなってきた。くるくると目を回していると、冴園さんがくはっと息を漏らしたように笑う。それから少し困ったように眉根を寄せた。


「でも、特に好きでもない男の家に泊まるのは気を付けた方がいいよ。一応、男女だし、子供ってわけでもないんだから。咲だってオオカミなんだぞ」

「あ……はい。――そういえばオオカミって、冴園さん、殺し屋のこと知ってるんですよね? まさか仕事仲間なんですか?」

「いや違うよ。俺はれっきとしたただの一般人。動物の名前は付いてない、ただの人間さ」


 ひらひらと手を振りながら呆気なく否定される。じゃあどうして? と首を傾げた。


「俺と咲が幼馴染だって言ったよな? それで、昔から咲のことは結構よく知ってるんだ。本当に。信じられる? 昔は咲、大人しくて気弱な子供だったんだぜ?」

「え、そうなんですか?」

「マジマジ。一人で本読んだり、からかわれて泣き出すような子でさ。でも人一倍優しい奴なんだ。自分のばあちゃんにも、俺にも、それに…………」


 そこでふと言葉を止めて、冴園さんは空に目を向けた。昔を懐かしむような……というにはどこか寂しさのこもった切ない目だった。

 言葉を途中で中断し、彼はゆるりと首を振って話を変える。


「高校のときからだったな、咲が変わったのは。卒業してからも色々あったみたいでさ。――ある晩に電話がかかってきたんだ」


 夜の遅い時間帯。電話を取った冴園さんが聞いたのは、震えた東雲さんの声だったという。

 切羽詰まった様子が伝わってくる電話越し。嗚咽交じりに繰り返される東雲さんの言葉は、冴園さんにとって信じ難いものだったという。

 『人を殺した』。という幼馴染の言葉が。


「まあそれから咲はどんどん冷たくなっていった。不愛想に、ぶっきらぼうに、乱暴に。どんどん厚い鎧でも纏っていくみたいでさ、見てるだけでこっちが泣きそうになった。それでも俺に悩みを打ち明けてくれることがあって、その中で、あいつが殺し屋なんてものになってしまったのを知った」


 そう言って冴園さんは唇を噛んだ。その表情には、親友を止められなかった悔しさなのか、苦い思いが溢れていた。

 彼は拳を自分の額に当てる。息を吐くように静かな声で、私に語る。


「本当は誰よりも優しくて、誰よりも弱い奴なんだ。だから誰かが傍にいてやらなくちゃ駄目なんだ。……なあ、和子ちゃん」

「は、はい?」

「君が咲の傍にいてくれないか?」


 そんなことを言われるとは思わず、ぱちくりと目を丸くした。挙動不審になりながらも慌てて答える。


「わ、私が? 傍にいるなら、冴園さんの方が適任なんじゃ……」

「俺は無理だ」


 キッパリと冴園さんが言い切る。その言葉に強い意志が込められているのだと、妙に真剣な目が語っていた。


「俺はずっとあいつの傍にいたのに、あいつは何も相談してくれないままああなったんだ。俺があいつを支える資格なんてない」


 寂しそうな言葉に返事ができなくなる。そんな私に彼はふふっと笑い、声色を軽くした。


「まあ男には色々あるんだよっ。和子ちゃんも、いずれ分かるさ!」

「は、はぁ……?」


 無理矢理話を終わらせる冴園さんを不思議に思いながらも、これ以上言及してはいけないような気がした。

 長年の親友というのは色々とあるのだろう。

 だから、仄暗く見える冴園さんの笑顔にも、私は何も言わずに笑い返すだけだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 伏線探すのめちゃくちゃ楽しいです!! [一言] この時の冴園さんが言ってた『和子ちゃんと同じ十六歳の猫のアリサ』って本当は猫じゃなくてあーちゃんだったりしますか?二人がいつから一緒にいるの…
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