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第126話 切れた尻尾

 船がガクリと揺れた。それからすぐ、床から伝わっていた細かな振動が途絶え、波を掻き分けて進んでいた感覚が消える。港に着いたのだ。

 私達三人は顔を合わせて頷く。蒸気に満たされた白い部屋。顔を落とせば目に入るのは、ダラダラと鼻血を流して動かないトカゲさんだ。鉄パイプにくっ付いたままの手からは今も肉の臭いがする湯気が上がっている。切り落としでもしない限りそこからは離れられないだろう。

 部屋の外の様子を窺った東雲さんが、近くには誰もいないことを確認する。だが遠くの方から段々と話し声のようなものが近付いていることにも気が付いた。複数の話し声だ。


「一気に飛び出して逃げましょうか」

「ああ。…………攪乱させるぞ」


 東雲さんは勢い良く扉を開けた。部屋に満ちていた蒸気が一気に外に溢れ出す。部屋を出てすぐの甲板は周囲を濃い霧に覆われたかのようになり、何も見えなくなった。

 室内の蒸気はまだ止まらない。次から次へと噴き出す蒸気は、扉を開けているとはいえすぐに晴れるほどではなかった。


「ステージみたいだな。歌手が出てくるときにほら、モクモクってなるやつ!」


 太陽くんが楽しそうな面持ちで言う。どちらかというと忍者が雲隠れをするときの方が近いんじゃないかと、私は笑った。

 蒸気に気が付いたらしき船員達が声を上げた。だが近付いてくる足音が聞こえるだけで、その姿はモヤに隠されまるで見えない。この煙は十分目隠しにはなってくれる。行くぞ、という東雲さんの声に押されて私達は足音を立てないようにそっと乗務員達の声に背を向けた。

 僅かに霧の晴れた隙間から港が見える。既に乗客は降り始めているらしい。旅行鞄を持った人々と、商品として並んでいた人々の顔がちらほら見える。

 潮風が肌に強く吹き付ける。蒸気が晴れる前に急いで逃げなくては。

 だが太陽くんが足を止めた。太陽くん? と首を傾げれば、彼は無言で私の肩を掴み歩みを止めた。それから私達の横に逸れ、静かに目を伏せる。

 風が彼の髪も靡かせる。生々しい海のにおいがする。その風の中で緩く口元に弧を描いた太陽くんは、囁くような声量で言う。


「犬は耳がいいんだよ」

「う、うん? さっきも聞いたよ」

「でも鼻の方がもっといいんだぜ」


 笑って太陽くんは自身の鼻をトントンと突く。犬は人間の何倍、何万倍も鼻がいいと聞く。それは知っている。

 だけど彼は何が言いたい? 私が訝し気な表情を浮かべると、太陽くんは笑って拳を握った。


「だからさ」


 直後。彼は一瞬で表情を変えた。勇猛なヒーローに似た笑みに、そして獰猛な獣に酷似した笑みに。

 くるりと振り返った太陽くんの頭上に何かが降ってきた。いつの間にそこにいたのだろう。部屋の外壁に張り付いていた何かが、壁から剥がれるように落ちてきたのだった。一瞬で振ってきたそれが何か理解が追いつかない。ただ、大きくて、赤い塊だとだけ判別ができる。その塊から突き出た鋭い刃物が太陽くんを狙っていた。

 太陽くんはまるでそれが降ってくることを予期していたようだった。無言で振り上げた彼の拳が、その塊に叩き付けられる。

 肉塊だ。

 それは太陽くんの拳が当たった瞬間、水っぽい重みのある音を立て、血を飛ばした。所々の皮膚が裂け柔い桃色の肉と白い脂質を血で覆い隠している塊は、それが巨大な生肉だと私に誤認させる。

 トカゲさんであることをすぐには気が付かなかった。


「う、お、おおぉっ!」


 太陽くんが押し殺した唸りを挙げて腰を捻る。地面に叩き付けられたトカゲさんはその身を崩しながらも、ゆらりと立ち上がる。

 私は彼の手を見て戦慄した。片手がないのだ。パイプに押し付けられていた彼の手が、手首から先がスッパリとなくなっている。鉤爪にへばりつく大量の血を見ても、彼が自身でその手を切り落としたのだろうことはハッキリと分かる。

 切り落としでもしない限りそこからは離れられないだろう。そう思った。でもまさか、本当に実行するだなんて。


「どうして振り向けた?」


 トカゲさんが太陽くんに訊ねる。喉か臓器をやられたはずだ。喋るたび、その口から泡混じりの黒い血が溢れている。

 コポコポと狂気じみた姿で話すトカゲさんに、太陽くんは平然と自身の鼻を小突いて堪える。


「犬は鼻が利くんだ」

「それで?」

「オイル臭いんだよお前」


 ああ、とトカゲさんが納得したように微笑んだ。

 彼の全身を覆っているのは血だけじゃない。先程体にかかったオイルは彼の服に、そして肌に染み付いている。

 血とオイルの混じったにおいは、潮風に隠れていてもイヌの鼻に届いていた。


「僕達の本拠地はもうすぐそこだよ」


 トカゲさんが遠くへ指を指す。その皮膚さえも、既に赤く爛れていた。


「本当に行くの?」

「決まってるだろ」

「行って、どうするのさ」

「お前達がやろうとしていることを止めるんだ」

「やろうとしていることって?」

「明星市の秩序をぶっ壊して、この街を崩壊させることだよ」

「それがこの街の為になるとしても?」


 は? と太陽くんが眉を潜める。私も東雲さんも同じ反応を返した。

 トカゲさんは何も言わず黙って私達を見つめる。どういうことだよ、と太陽くんが訊ねてもそれに対する答えは返ってこない。


「おれ達の仲間になってよ。そうしたら、どういう意味か教えてあげる」

「…………嫌だって言っただろ」

「やっぱり駄目なんだ」

「ああ」


 トカゲさんは静かに微笑んだ。


「じゃあ死ね」


 鋭利な鉤爪が一瞬で太陽くんの目の前に迫る。咄嗟に体を逸らした太陽くんだが、防ぎきれず、その肩口を鉤爪が掠める。

 パッと飛んだ鮮血が私の顔にまで飛んでくる。目にも止まらぬ速さで繰り出された二発目を太陽くんは防ぐことができない。無意識に振った私のナイフの柄がトカゲさんの爪をガキンと押し留める。間近に接近した血とオイル塗れの肉塊にゾクリと怖気が走った。だが奥歯を噛み締め、太陽くんを守るように前に出て足に力を込める。

 トカゲさんの痩躯を一気に押し倒そうとした。だができない。ふと足元に目を向ければ、彼の足に生えた釘が甲板に埋め込まれているのが見えた。押しきれない。頬に汗が一粒滲む。

 僅かに力を緩めてしまったその隙を狙われる。鉤爪が服を引っ掻き、そのまま海へと投げ飛ばされそうになった。咄嗟に手すりを掴み海に落下することは免れたが、すぐにその手を掴まれ後ろに押される。背中が痛いほど手すりに擦られ、上半身が大きく反り返る。あと少しでも押されれば海に落ちてしまいそうだ。


「っ…………!」


 咄嗟にトカゲさんの首を掴んだ。皮膚が剥げ生肉が露わになったそこはぬるぬるとぬめる。だが怖気を堪え、私はより強く爪を彼の肉に食い込ませた。

 ぼんやりとした彼の顔を見て私は無理矢理笑顔を浮かべた。


「いくら本物のトカゲみたいに手足を千切れるからって、首は切れないでしょう」


 痛みを感じなかろうが首を切れば生き物は死ぬ。こうして首を押さえ付けていれば、彼は逃げようとしてもできないはずだ。

 だが、コプリとその口が微笑む。あどけなささえ感じるような笑みを浮かべた彼の口から、鼻から、そして目から。黒い血が決壊したように溢れ出した。狂気的な笑み。彼は言う。


「君の首を切れば何も問題はない」


 鉤爪が振り上げられる。その切っ先が私の首筋に落とされることは明らかだった。

 首を掻き切られ鮮血を噴き出す自分の死体。そんな想像が頭に過ぎったときだった。

 トカゲさんの後方のモヤが揺らぐ。ぶわっと煙を散らし、飛んできたのは靴だった。擦り切れたスニーカー。その靴底が飛んでくる。

 勢い良く駆けてきた太陽くんの蹴りがトカゲさんに直撃した。


「うおおおお!」


 肉を抉るような鋭い蹴りはトカゲさんの痩躯を簡単に崩した。バランスを崩した体は、そのまま蹴りの勢いに乗せて船から落ちていく。見開かれた彼の目と私の目が合った。咄嗟に彼が伸ばした手は、彼が自身で切り落とした手。そこに鉤爪はおろか、手さえもない。彼の腕は空を切った。

 一瞬で消えたトカゲさん。だが下の方から、ガッと硬質な音が聞こえる。慎重に下を覗き込んだ私は、船壁にもう一方の鉤爪を刺してぶら下がっている彼の姿を見た。険しくなった目が私達を睨み上げ、ゆっくりと壁を上ろうと腕を伸ばす。

 私の真横に誰かが立った。


「その怪我ではどうせ助からない」


 東雲さんが銃口をトカゲさんに向けていた。黒々とした銃は、船の細かな揺れの中で、まっすぐ一点を狙う。

 トカゲさんは一度目を瞬いて、それから笑んだ。どんな思いで彼が笑ったのかは理解できない。彼の体中から流れる血とオイルが海面に雨のように落ちていく。


「諦めろ」


 東雲さんは躊躇いなく引き金を引いた。ドンッと胸を打つような音が私の体を震わせる。飛び出した弾丸は狙いを寸分違わず撃ち抜いた。トカゲさんの眉間から頭蓋を砕き、脳味噌を突き抜け、反対側へと突き抜ける。

 痛みを感じなくても首を落とせば死ぬ。出血が酷ければ死ぬ。頭を撃ち抜かれれば死ぬ。

 トカゲさんの鉤爪が外れその体が海に落ちる。水飛沫が上がり海面が激しく波打った。その水は赤黒く染まっているのだろうが、夜の中、ただ水面は黒く深い色にしか見えない。港すぐ傍の浅瀬に、トカゲさんの体は浮き上がってこなかった。


「行くぞ」


 余韻も残さず東雲さんは私と太陽くんに指示を出す。後ろから、物音を聞きつけた人々がこちらにやって来る音がした。

 もはや音を消すことなど無意味だ。全力で甲板の端まで駆け抜けた私達は、壁にかかっていたロープを取って近くの柱に縛り付ける。もう片方の先端を壁から落とし強度を確認して、まず太陽くんが伝い降りた。続いて私、最後に東雲さんが。



 湊にはまだ乗客達の姿があった。不審な行動をする私達に怪訝な目が向けられたが、それを声に出す人はいない。だが一人だけ私達を見て、あら、と声をかけてくる人がいた。船内で出会った婦人だ。


「また会ったわね」

「あ、ええ…………どうも」


 彼女は私達が降りてくるのを見ていなかったのだろうか。もしくは、見ていても何も思わなかったのか。

 ぎこちない返事をする私の視線は、彼女が引くキャリーバッグに吸い寄せられていた。それに気が付いた婦人は微笑んで頬に手を当てる。


「ようやく手に入れることができたの」


 もう一回出してあげましょうか、と彼女は言ってキャリーの鍵を開ける。中から転がるように出てきた女の子はコテンと地面に額をぶつけた。眠っていたのだろうか。ぼんやりとした目を瞬かせ、不思議そうな顔で周囲を見渡す。婦人を目に留めたその子は、とろんと眠そうな声で訊ねた。


「ここで手術をするの?」

「いいえ、これから電車に乗って病院に向かうのよ。体は痛くなかった?」

「ううん、大丈夫」


 良かった、と婦人がその子の頭を撫でればその子は照れくさそうにはにかんだ。一見仲良しな母子か姉妹に見えるその二人が、その実奇妙な契約を結んだ仲だと誰が思おうか。

 私の物言いたげな顔に女の子が首を傾げる。なぁに? と優しく私と視線を合わせてくる婦人に、思わず言ってしまう。


「あの、臓器移植なんですよね」

「ええ」

「その子は手術に耐えられるんですか?」

「耐えられないでしょうね」


 あまりにもあっさりと告げられて、一瞬虚を突かれた気持ちになる。ハッと女の子を見下ろすも、彼女は自分がこれからどうなるか分かっていないかのようにニコニコと笑っているだけだった。


「まだ子供だし、一部摘出じゃなくて全摘出だもの。摘出後に入れる人工肝臓だって用意していないから」


 摘出後、この子の体はただのゴミだ。

 暗に彼女はそう言った。信じられないものを見る思いで彼女を凝視する。だがその表情に変化はない。

 頭がおかしい。ゾッと背中に走る怖気を感じた私は、いてもたってもいられずしゃがみ込んで女の子の肩を掴んだ。


「ねえ……! 分かってる? あなたがこれからどうなるのか。無事にお家に帰れなくなるかもしれないんだよ!?」

「うん、死ぬんでしょ」


 婦人の言葉を聞いたときと、同じ反応を示してしまう。背後で東雲さんと太陽くんも息を呑んだ気配がした。

 理解が追いつかない顔をする私にその子は笑顔のまま淡々と続けた。


「内臓を取られて死ぬんでしょう。キャリーに詰められて、病院に行って、そこで麻酔をかけられたらもう二度と目覚めないんでしょう。知ってるよ。わたしのこと、幼稚園児か何かと勘違いしてる?」


 小学生の女の子は呆れた表情を隠さず言う。

 分かっているならどうして。口には出さなかったその問いかけにも、彼女は答えてくれた。


「お姉さんはパパの借金を返してくれるの?」

「え…………」

「私の肝臓一個分でパパの借金の半分を返せるの。でもまだ足りないから、次は弟の番になりそう」


 幼い手が、幼い体の上を這う。自分の胸にそっと手を当てて目を閉じる彼女は、ちっとも悲しんだ様子もなく、どころか嬉しそうな口振りで語る。


「パパは殺されちゃってもういないのに、借金だけは残していっちゃったの。ママが生きていくためにお金が必要なんだって。だから私と弟を売ったお金で借金を返して、一人で生きていく予算を作るの」

「それって、待って、あなた…………」

「わたしの家お金なかったからずっといじめられてきたんだぁ。貧乏娘、乞食女ってさ、もう嫌になっちゃうよね。でも凄いの。臓器を売れば少なくてもお金が手に入るし、提供してくれてありがとうって褒められるの。乞食だなんて言われないんだよ。凄いじゃん」

「……………………」

「知ってる? 臓器に身分は関係ないんだよ?」


 私は言葉を詰まらせた。この子は自分の運命を理解して、受け入れている。むしろそれを望んでいる。

 他の子は? と周囲を見た。乗客の中に自然に混じる、商品として挙げられていた人々の顔がいくつか。ほとんどは恐らくこの子と同じような理由で商品になった訳アリだろう。だが何人か、怯え縋るような顔をしている人がいる。

 せめてあの人達でも。そう思いまた女の子に顔を戻した私は、彼女がこちらに向けているナイフを見て肩を強張らせた。


「お姉さんわたしたちの邪魔をしにきたの?」

「あら危ないわよ、そんなものを持って」

「バッグの中に入ってたよ。護身用?」


 婦人と軽いやりとりを交わした後、女の子はゆっくりとナイフを頭上に掲げる。敵意の滲んだ両目がギラギラと光っていた。


「他人が人の事情を知ろうとしないで。邪魔をするなら、どっかに行って」


 ネコ、と東雲さんが私に注意を促す。目だけで周囲をもう一度見やれば、他の人達も同じように包丁やらハンマーやらをこちらに構え、細めた目を向けていた。助けを求めていたのかもしれない商品の人々は、殺意を持った人々に隠され見えなくなる。

 彼女の言う通り、手出しはできそうになかった。

 帰って、と少女は言う。そう言いつつもその武器は今にも振り下ろされんばかりに揺れていた。素直に帰ろうと背を向ければ、その武器は私達へと投げ付けられるだろうか。

 じわりと後ろに下がり二人と横並びになる。太陽くんが砂利を踏み締めて構える。東雲さんがコートの内側に手をやり銃を取り出す準備をする。私もナイフの柄にそっと手を置いた。


「何やってんのよ」


 背後から網が飛んできたかと思った。

 私達の頭上を越えて何かが彼らに飛んでいく。それは銀色の糸だった。数十本もの糸が武器を持つ彼らに襲いかかり、手足に絡まる。突然の攻撃に焦ってもがく彼らだが、一本ならともかく何十本もの糸は互いに絡まり、余計に網となって抜け出しにくくなる。

 弾かれたように振り向く私達の前にその子は立っていた。腰に手を当て溜息を吐く彼女は、しゅるりと糸を手の中でもてあそぶ。


「敵の所に行くんでしょう。早くしなさい」


 呆れた口調ではあるけれど、そう言ったあざみちゃんの唇は小さく弧を描いていた。

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