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第125話 痛みの恐怖

 イヌ、と東雲さんが切羽詰まった声で叫ぶ。モヤが揺れ、何かが飛び出してくる。一瞬トカゲさんだと思ってナイフを構えたが、直前でそれが太陽くんであることに気が付き動きを止める。投げ飛ばされた彼の体を受け止めた東雲さんが、おい、と声をかけながら彼をそっと床に下ろした。


「うぅ…………」


 呻き声を上げる太陽くんの顔は赤かった。右頬にできた水ぶくれが酷く、握っていた拳は半分の面積が赤く爛れている。いまだその肌から白い湯気が漂い、どれだけの熱気を受けたかを物語っている。すぐに離れてこの程度。更に肌を当てていれば、蒸気が当たった部分の皮膚は永遠に使い物にならなくなっていただろう。

 水音がした。振り返り、モヤの中から現れたトカゲさんを見る。その姿に思わずひっと喉奥から悲鳴が零れた。

 鉤爪をゆらゆらと揺らし、トカゲさんは微笑んだ。鈍い銀色の先端から黒い液体が滴り落ちる。


「音を聞いて場所を突き止める? 凄いね、そんなの普通は不可能だ」


 彼が近付いてくると酷い臭いが鼻を突いた。油臭い、オイルの臭い。部屋の奥から聞こえてくる、シュウシュウという蒸気の噴き出す音に混じる水音。液体が床に流れていく音がする。

 それと血の臭い、肉の焼ける臭い。縮まった胃が悲鳴を上げるような不快な臭い。

 ぺたり、とトカゲさんが素足でまた一歩私達に近付く。どす黒い血が指の形に合わせて床に粘り付き、紙を破くような音を立てて、足裏の皮膚が少し剥がれた。


「でも君は耳だけじゃないだろう。馬鹿だけど、勘が働く子だって聞いたよ。耳と勘でここまで来れるなんて、野生の獣そのものだ」


 掠れた声は高温の空気をもろに口に受けたからかもしれない。本来喋るたびに痛みを訴えるはずの彼の喉は、その役目を果たさない。

 だから。掠れた声で彼は喋り続ける。


「凄い勇気だよ。周りが見えないこんな状況で一歩進むことだって、普通は怖いはずなんだって。だけどまあ残念だね。本当に残念、惜しい」


 太陽くんの火傷など比ではなかった。トカゲさんの体は酷いことになっていた。

 爛れた皮が捲れ、ピンク色の肉を露出している。その上を這う血管も焼けてしまったのだろうか。赤い汁を滴らせている箇所もあれば、薄い血の膜を張り固まっている部分もある。高温と強烈な噴射が合わせられたせいで捲れた皮膚があちこちでしわを作る。彼の全身を滴る黒い液体は血とは違う、オイルの色だった。

 肌が赤くなるだけの火傷でも痛みは感じる。それなのに、こんなにも酷い火傷を全身あちこちに負って、トカゲさんに苦痛の色はこれっぽっちも浮かばない。

 水音が聞こえる方向のモヤが僅かに消えていた。パイプから噴き出すオイルが周囲に漂う蒸気をほんの少しだけ晴らしてくれているのだろう。下部を綺麗に切断された二本のパイプ。一つからは盛大に蒸気が吹き上がり、もう片方からは黒いオイルが噴水となっている。


「パイプを切断したのか……」

「危険個所の音を判断して近付いてきても、結局、目の前で新しい噴射口を作られたら意味がないよ」

「自分の方が酷いことになると分かって、それでもやったのか」

「死なない限りは平気さ」


 太陽くんがどうにか音を頼りにトカゲさんの元に辿り着いたとしても、目の前でパイプを切られ、攻撃をされたら無意味だ。

 トカゲさんは太陽くんの発言を聞いて、その上で自分の鉤爪でパイプを切断したのだ。真っ直ぐに向かってきた太陽くんを倒すために。距離的に自分の被害の方が大きくなると分かっていても、それでも。

 死なない限りは何でもできる。大火傷を負っても、動くことができれば構わない。

 なんて人だ。


「痛いと感じるのは大変だね。その子、動ける?」


 トカゲさんの指摘に私は咄嗟に太陽くんを見た。赤く充血した目を涙で潤ませ、痛みに喘ぐ太陽くんを。

 意識はあるし、動けないほどの怪我もしていない。だけど火傷の痛みは彼の気力を奪う。水ぶくれが潰れるだけで痛みが走り、赤くなった皮膚は壁に触れただけで痛覚を過敏に伝え、じっと座っているだけでも全身を炙るような苦しい痛みが襲う。

 何よりも恐怖だ。火に触れ火傷をした人が、マッチの火を極度に怯えるように、一度でも火傷の痛みを知れば高温の物体に対し恐怖心を抱くのは当然のことだ。

 今の太陽くんにとってこの部屋は酷い拷問部屋にしか見えないだろう。どこから来るか分からない高温の煙。さっきまではともかく、至近距離で水蒸気を浴びてしまった今、果たして同じように動けるかと言えば首を横に振るほかあるまい。


「君は頑張った、偉いよ。もう勇気を振り絞らなくても十分だ。――おれと手を組もう。君達がおれと手を組んでくれたら、もう他の仲間に君達を襲わせないし、どちらもこれ以上痛い思いをしなくて済む。だって痛いのは嫌なんだろう?」


 優しい声音でトカゲさんは言った。痛いという感覚が分からない彼にとって、もう痛くしないという言葉にどれほどの価値があるのか、それは知らない。


「おれの仲間、痛いことをするのが好きって奴いっぱいいるからさ。笑いながら刺したり、わざわざ痛覚を増幅する薬を作る奴を作る奴もいるんだよ? もう止めようか。もう怖がらなくていいんだよ」


 その薬でも元からない痛覚を作ることはできないようだけどさ、とトカゲさんが舌の上で微笑みを転がした。冗談と思って言ったのだろうか。

 あと何人の仲間がいる? 少なくとも、残るはボスだけということではないみたいだ。これから会う全員が拷問大好きの変人だとしたら。そう考えるだけで怖気が走る。


「耳を貸すな」


 と東雲さんが前に出て言う。私達を庇うように立った彼は、音で気が付かれるからとそれまで隠していた銃を取り出し前に構えた。


「もうじきこの船は港に着く。そうなればもう、お前に構うこともない。船から降りて俺達を追いかけてみろ。痛みを感じようが感じまいが、関係ない。脳天を撃ち抜くぞ」

「今やれば?」


 トカゲさんは東雲さんを煽るように顎を持ち上げて笑う。東雲さんは表情を変えない。だが銃口の狙いはピタリと彼の頭に向けられていた。

 オオカミ、と太陽くんが小さく呟いた。東雲さんは答えない。オオカミ、ともう一度太陽くんが口にしたときに、何だ、と視線は向けずに答えた。

 おかしな空気を感じ私はそっと太陽くんの顔を覗き込んだ。その瞬間に感じたのは、驚きだった。


「…………何だよそれ」


 東雲さんまでもがハッとした様子で太陽くんを見た。

 犬。太陽くんの通称である動物の名前。彼はたまに、子犬みたいだとからかわれたりすることがあった。犬なんて弱いじゃん、どうせならライオンとか強そうな名前が良かった、とよく口にして。コロコロ表情が変わるところとか、人懐っこいところとか、向こう見ずでまっすぐ突き進むところとか、そういうところが犬っぽいのよなんてあざみちゃんに言われたりして。

 彼は犬だ。

 けれど。今私達の目の前にいる彼は、まるで闘犬だった。


「オレが怯えているみたいな言い方をするなよ。もう動けないって、どうしてお前が決めるんだよ」


 太陽くんが腕を振り上げて立ち上がる。火傷で痛むだろう真っ赤な手。それを力強く握りしめ、甲に血管を浮かせる。

 ギラギラと闘志を燃やす目は、オオカミさんの鋭く恐ろしい目とは似ても似つかない。大きく丸く、少年らしい元気な目。なのに、今の彼は東雲さんと同じくらい恐ろしい光を放っている。

 空気まで裂きそうなほど剥き出しの犬歯、怒る肩、地を踏み締めて立つ両足。


「オレがいつお前に負けた!」


 ドスの効いた声が部屋を震わせる。満ちた蒸気を払拭しそうな、重さと熱を持った声。

 意識せず自分の足が竦みかけているのを感じた。太陽くんの身長は私とそれほど変わらない。というのに、どうしてだろう、こんなにも彼の体が大きく見えるのは。

 太陽くんが東雲さんを押し退け前に出る。トカゲさんと対面した彼は、拳で力強く左胸を叩く。心臓の鼓動が私にまで聞こえてきそうなほどに彼の挙動は力強い。ドクリ、ドクリと。その心臓は強く鼓動する。熱く、熱く。太陽よりも。

 言ったよな、と太陽くんは拳をトカゲさんに突き付ける。そして肺から空気を振り絞るように大声を放った。


「今ここで、オレはお前を倒す!」


 威勢のいい宣言に、トカゲさんはニッコリと優しく笑った。その目だけは爬虫類の形を保ったままで。

 トカゲさんは笑ったまま後ろに下がる。モヤの中にその姿が消えた。直後、パイプの壊れる音がまたどこからか聞こえ、噴射音が増えていく。太陽くんはそれを追うようにモヤの中に飛び込んだ。


「太陽くん!」


 太陽くんの目はトカゲさんしか見ていなかった。もはや音を頼りに動こうという気もないのではないだろうか。一人だけ危険に晒すのは危ないと私も咄嗟にモヤに飛び込む。小さく悪態を付き、東雲さんも同時に飛び込んだ。

 部屋はすっかり深い霧に覆われたようになっている。視界は白く何も見えない。すぐ隣にいる東雲さんの姿だって、辺りから漂う蒸気で薄く覆われてしまうほどだ。

 名前を呼んでも返事は返ってこない。拳が空を切る音、壁を殴る音、そして金属が擦れ合う音がどこからか聞こえてくるだけだ。その音は右から聞こえたと思えば左から聞こえ、前から聞こえ後ろから聞こえ、どこから聞こえてどこへ向かっていくのかも分からない。

 モヤの中で太陽くんらしき姿が一瞬見えてはすぐに消える。トカゲさんも同じだ。私は蒸気の音を避けるだけで精一杯だ。

 ふと東雲さんの足元のモヤが揺らいだことに気が付いた。太陽くん? いや、これは。


「くっ!」


 思わず彼の前に飛び出しナイフを突き出す。弾丸のように素早く襲いかかって来たトカゲさんの鉤爪をナイフの刃で弾く。だが柄を持つ指を爪先が掠った。飛んだ血はトカゲさんの丸々と見開かれた目に入る。しかし彼は瞬き一つせず私の体を強く押す。

 上手く避けきれず転んでしまう。しかも傍にいた東雲さんを巻き込んでだ。床に額を打ち付けた痛みを感じつつ、ゾッと首筋に走った感覚に跳ね起きようとする。だけどトカゲさんの方が早い。鉤爪の先端はもう私の目と鼻の先に迫っていた。

 肌を爪が僅かに掠め――横から跳んできた拳が鉤爪を殴り飛ばした。鋭い刃物で自分の皮膚が傷付くことも構わずパンチを繰り出した太陽くんは、その拳から血を飛ばしながら、勢いに乗せてトカゲさんを突き飛ばした。

 二人の体がもつれ合いながら転がっていく。高温注意と書かれた鉄パイプの前で何とか止まった二人は、絡まりながら互いを殴る。太陽くんは拳で、トカゲさんは鉤爪で。

 皮膚が裂ける、血が飛ぶ。圧倒的に不利なのは太陽くんだった。痛覚を感じず刃物を持つ相手は攻撃に一切の容赦がない。とうとうトカゲさんがまっすぐに繰り出した鉤爪が、太陽くんの太腿を突き刺した。


「あがっ……ああああっ!」


 太陽くんは咄嗟に太腿に刺さった相手の手を掴み、痛みに吠えた。トカゲさんの顔に憐みを含んだ微笑みが浮かぶ。

 痛みに脂汗を滲ませ、太陽くんはトカゲさんの爪を引き抜いた。溢れる血に耐え切れないと言わんばかりに悲鳴を上げ、太陽くんはトカゲさんの手を振り回して悶える。


「痛いっていうのは分からないけど、痛そうだなっていうのは分かるよ。痛そうだねぇ」


 トカゲさんは呑気に笑う。あまりに場違いな笑い声に脱力さえ覚えてしまう。悶え苦しむ太陽くんにあははと笑って、トカゲさんはもう一度鉤爪を振り上げようとした。できなかった。


「ん?」


 湯気が上がっている。水蒸気ではなく、さっきも嗅いだ肉の焼ける音が二人に近付く私の鼻孔にも届いていた。

 肉が焼ける臭い。それは次第に、肉が焦げる音へ。

 トカゲさんがもう一度手を振り上げようとして、その手が動かないことを知る。不思議そうな顔が横を見て、状況を悟って目を見開いた。

 高温注意と書かれた鉄パイプに押し付けられたトカゲさんの手の平。ジュウジュウと肉を焦がす音を立て、熱で溶けた手の皮膚が、パイプにベタリとくっ付いていた。


「怖いっていう感情はな、危険が迫ったときに咄嗟に動けるようになるための知識なんだ。痛いっていう感情はな、怖いって気持ちを生み出すきっかけになるんだ」


 いつの間にか太陽くんは痛みに吠えるのを止めていた。額には脂汗が滲み、その手も震えている。だが彼はトカゲさんの手を押し付け続け、決して離さなかった。

 太陽くんの言葉にふと前に行った仕事のことを思い出した。製薬工場に行ったときのこと。仁科さんが敵から毒薬を注射されたときのこと。あのとき仁科さんは逃げようと思えば逃げられただろうに、毒薬が自身に注射されるのをぼんやりと見つめていた。

 痛みに慣れていると恐怖を感じにくい。恐怖とは逃げるための大事な感情だ。


「熱さも痛さも怖さも、全部、自分の強さになるんだ」


 太陽くんは最後に目一杯手をパイプに押し付けた。ジュウゥと激しく煙が上がる。爛れくっ付いてしまった手。トカゲさんが手を引き剥がそうとしても、すぐに抜け出すことはできない。

 トカゲさんの顔に初めて恐怖と呼べる色が浮かんだ。


「痛いっていうのはつまり、こういうことなんだよ! 爬虫類!」


 太陽くんの拳はまっすぐにトカゲさんの顔面を振り抜いた。

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