第124話 危険地帯
太陽くんの拳が唸りを上げてトカゲさんの顔面を打ち抜こうとする。トカゲさんは体を逸らしてそれを避ける。太陽くんは力強く床を蹴って飛び上がり、二発目の拳を振るった。鈍い打撃音がして、肩を殴られたトカゲさんはよろめく。
太陽くん一人が相手じゃない。私も彼の背後に回り込み、振り返った彼の脇腹をナイフで切り付ける。今度はさっきのような牽制ではなく、深く肉を抉る。パッと細い皮膚に赤い線が引かれ、一気に溢れた血が衣服を濡らす。
「…………やっぱり」
鉤爪を避けながら飛び退いて、目を細めて相手を睨む。
彼はちっとも堪えた様子がない。咄嗟に怪我を押さえる様子が、傷を庇うように動く様子が、一切ない。怪我などしてないかのように大きく腕を伸ばして攻撃をしかけ、血が溢れていることも気にしていない。
痛みを感じないゾンビのような彼に、太陽くんが吠えながら突進していく。大きく拳を振りかぶった彼を睨み、トカゲさんも腕を振るった。鋭い鉤爪が空を薙ぐ。爪はそのまま、太陽くんの顔面スレスレを通って近くのパイプに当たった。
「あつっ!?」
白い蒸気が吹き出し、太陽くんが悲鳴を上げて転がった。慌てて首根っこを掴んで後ろに引き倒す。頬が真っ赤になっている。高揚による赤みではない。軽度の火傷状態になっている頬を見てから、もう一度顔を上げた。
太いパイプの一部に穴が開き、そこから激しく蒸気が噴き出している。シュウシュウと噴き出すそれは高熱の空気。熱を移動させるためのパイプなのだろう。簡単に壊れるものではないはずだが、トカゲさんの鉤爪の鋭さの前では強度など関係ない。
次の瞬間トカゲさんが地面を蹴った。蒸気の噴き出すその真横を、彼は一瞬で走り抜けた。嘘、と思わず声を零す。振るわれた鉤爪を素早く避け後ろに下がる。と、足元の段差に気が付かず引っかかってバランスが崩れる。咄嗟に近くの鉄パイプに手を伸ばそうとして、高温注意と書かれた張り紙に気が付き手を引っ込める。背中をもろに床に打ち付けた痛みに顔を顰めつつ、上空から私にまっすぐ振り下ろされていた鉤爪を転がって避ける。
でも、ただ避けるだけでは終わらない。転がりながら、私は思いっ切りトカゲさんの踵を蹴った。よろめいた彼は私が掴まろうとして止めたその鉄パイプを掴む。高温注意の張り紙は嘘じゃない。ジュッと肉の焼ける音が耳を突く。皮膚から立ち昇る白い湯気。
トカゲさんは自分の掴んだパイプを見てから手を離した。火傷で赤くなった手の平を拳に戻し、すぐにこちらに振りかぶる。だがそのときにはもう私は彼の射程距離から外れていた。
「…………東雲さん。あの人、変ですよ」
東雲さんの元に下がった私は眉を潜めて言った。東雲さんは言わずとも分かっている、と言いたげに喉奥で唸る。
彼が手の平を開いたとき、一瞬だけ黒い棘が生えているのが見えた。火傷で赤くなった手の平に点々と刺さる黒く、まっすぐに伸びた、太い棘。棘じゃない。釘だ。何本もの釘が、彼の手の平に埋め込まれている。先端を外側に飛び出しているそれは、頭の丸い部分を皮膚に埋め込んでいることを意味していた。
「痛覚がないのか?」
多分東雲さんの言っていることは正解だ。
彼は痛みを感じていない。だから殴られても刺されても火傷を負っても余裕なんだ。
トカゲさんが両手を振り上げ、鉤爪を振り回した。壁に、そしてあちこちに張り巡らされているパイプに、鋭い亀裂が走る。
バターのように滑らかな切断面。そこから何も出てこないものもあれば、オイルが染み出してくるものもある。そして熱い水蒸気が噴き出すものも。
部屋中が白い煙に満たされ視界がぼんやりと曇る。どこから水蒸気が噴き出しているのか分かりにくい。
「うわっ!」
「太陽くん!」
煙の中にいたトカゲさんの影が消えた瞬間、太陽くんの悲鳴が聞こえた。白いモヤがかかった中。彼のいる方向から赤い血が飛んできて私の頬に跳ねた。逃げようとしたトカゲさんらしき影に向けて攻撃をしかけようと走り出したが、指先に激しい痛みを感じ慌てて引っ込める。指先が赤くなりジンジンと鈍い痛みを発している。水蒸気のシュウーッという音をすぐ近くで感じた。迂闊に手を伸ばすこともできず、私はうぅと小さく唸った。
モヤの中からよろめくようにして太陽くんが現れる。すぐにその腕を掴み、自分の元に引き寄せた。首元を押さえて痛みに顔を顰めている。
「太陽くん、無事!?」
「大丈夫だ…………けど」
太陽くんが離した手の平にベッタリと血が付いている。シワの間を通って手首に流れた一筋がポタリと服に落ちる。首筋にパクリと開いた切り傷は、もう少し深ければ更に酷い出血で大変なことになっていたはずだ。
動けない。トカゲさんを睨み、ナイフを突きつけたところで、その切っ先を彼に触れさせるには、近付かなければいけない。でも、下手に動いたところでこちらがダメージを食らうだけだ。
どこにパイプがありどこから水蒸気が出ているのか。上手く視界が効かないこの空間では把握することも難しい。もしも蒸気が至近距離で直撃すれば……。
「仁科さんと同じですね。あの人も、痛みを感じにくい」
「こっちは感じにくいどころか、一切感覚がないみたいだがな」
まだ多少の痛みを感じる分はあの人の方がマシかもしれない。痛みを一切感じないというのは、どんな気分なのだろう。不思議な体質という点は私と同じかも。でも、私には痛みを感じない気持ちはちっとも理解できない。こういうときに役立つ能力だとは言えるかもしれないけど。
水蒸気を気にして動けないこちらと違いトカゲさんは何も気にせず好きな場所から攻撃をすることができる。壁からでも天井からでも真正面からでも。私達が攻撃をするチャンスは彼から攻撃をしかけられたときだけだ。
「――――来るぞ!」
煙の中からトカゲさんが飛び出してくる。視界が徐々に白くなるせいで直前まで、彼がどこから来るのかそれさえも分からなくなっていく。
攻撃を慌てて避けている最中に彼はまた煙の中に紛れて消える。そしてまたすぐに飛び出し、攻撃をしてくる。横から、上から、次はどこから来る?
目の前の白い煙が、キラリと光った気がした。ハッと目を見開いた瞬間まっすぐに伸びた鋭い鉤爪が私の眼前に現れた。咄嗟に顔を庇って交差させた両腕に、焼けるような痛みが走る。熱い、痛い。
涙を浮かばせた視界に、鈍く光る鉤爪と、舌なめずりをして飛びかかるトカゲさんが見えた。先端の割れた赤い舌がゆらりと揺れている。
横から飛んできた拳がトカゲさんの体をふっ飛ばす。勢いを付けて彼を殴った東雲さんは、更に攻撃をしかけようと前に踏み出した。
「危ない!」
シュウ、という音を耳にして私は叫ぶ。だが東雲さんも音には気付いていた。コートの裾を大きく翻し、噴き出す蒸気から身を守る。白いモヤの中に二人の姿が隠れ、激しい打撃音が数回聞こえた。二人の動きで僅かにモヤが晴れる。頬に赤黒い痣を作ったトカゲさんが鉤爪を振る。東雲さんは取り出した銃の銃身でそれを弾き、くるりと回転させて持ち手部分で相手の横面を殴り付ける。だが頭から血を飛ばしながら繰り出されたトカゲさんの足が東雲さんを蹴り付け、彼は呻いてよろめいた。太陽くんが東雲さんを支え、歯噛みする。
「手ごたえがないっていうのも、苦しいもんだな」
太陽くんが荒く肩で息をしながら言う。ちっとも痛がらない様子に、こちらの疲労ばかりが溜まっていく。痛みを感じない彼が降参することはない。どれだけ攻撃しても表情が崩れていくのはこちらだけ。
船が揺れる。そういえば、岸に着くのはあとどれくらいだろう。さほどの時間戦闘はしていないが、半分は越したのではないだろうか。
「そんなにかからないね」
気が付けばトカゲさんもぼんやりと揺れる天井を見上げていた。キィキィと揺れる船の音。
ふと思い出す。先程トカゲさんが言っていた言葉。彼が私達の前に現れた目的は、足止めではないと。足止めをするのなら私達がこの船に乗り込む前に現れればいい。船内で足止めをしようとしても、結局船が向こう岸に着くことに変わりはない。
目的は何だ?
「音を聞けば少しは動けるだろ」
不意に太陽くんが力強く言った。突然何を、と彼を見る。爛々と輝く目を持った少年は、強く握った拳を胸の前に掲げて前を見つめる。
音。周辺の音を頼りに動けば平気だと、そういうことだろうか。水蒸気の噴き出す音。確かにシュウシュウと煙が噴き出す音はあちこちから聞こえてくる。どの辺りから煙が出ているのか、広い範囲でなら見当は付く。だが正確な位置までは分からない。それに蒸気が噴き出す箇所は一つや二つではなく、十も二十もある。その全部の位置を正確に把握するなど余程耳が良くなければ不可能だ。
「無茶だよ。一発でも当たったら大火傷だよ? 全部避けるなんて、できるわけない」
「大丈夫。犬は耳がいいからな」
太陽くんは自分の耳朶を引っ張って笑った。その理屈で言うのなら、犬より猫の方が耳はいいのだが。
煙が揺れ、隙間からトカゲさんの顔が見え隠れする。爬虫類のような目がチラチラと私達を見つめ、消える。僅かに喉が締められたような不安が生まれる。
太陽くんは私と同じ気持ちを感じたのだろうか。ほんの少し退けぞるように、体を後ろに下げる。だが次の瞬間、大きくその体が前のめりになり、彼の靴が地を蹴った。
弾丸のように飛び込んだ彼の体で湯気が舞い上がる。言葉通り音を聞こうと耳を澄ましているようだ。水蒸気の噴き出すパイプを避け、拳を握りしめトカゲさんに向かっていく。
彼に蒸気が触れそうになるのを見れば、私と東雲さんが避けろと声を飛ばす。太陽くんは大きく跳び上がり、ときには体を捻り、まっすぐトカゲさんに向かっていった。
避けきれなかったのか、トカゲさんはその顔に太陽くんの拳を受けた。まっすぐ顔を貫くような力強いパンチ。
「ぎゃっ!?」
悲鳴は太陽くんのものだった。
殴られた衝撃で眼球が潰れたのだろうか。ポンプで押し出されるように、トカゲさんの目から噴水のように血が飛んだ。
ワインのように赤い液体が太陽くんの顔にかかる。驚きに仰け反った太陽くんの目の前で、トカゲさんは両手の鉤爪を振り上げた。
「いぎっ!」
黒板を爪で削ったときのような嫌悪を具現化した音。それに似た音が部屋に響き渡った。太陽くんが音に思わず立ち止まったせいで煙が晴れず、またも私の視界は真っ白になる。キイィという獣の鳴き声にも似た音に混じって微かに聞こえるのは、シャキシャキという、鉤爪同士が擦れ合う音。
パイプが折れる音がした。
あ、と思う間もなく、蒸気が吹き上がる音。そして、苦痛に満ちた声で吠える太陽くんの声を聞いた。