第120話 美しき皮の下
大量の泡が二人の姿を覆い隠す。白い泡はすぐその色を薄い赤色に変えた。泡が弾け、水中の様子が次第にハッキリする。青い水。揺れる海草。水底に舞い落ちていく真理亜さんと蝶さん。
二人はもつれ合いながらゆっくりと落ちていく。ゴボリと泡を吐き出しながら焦った表情の蝶さんがアイスピックを振りかざす。真理亜さんはデリンジャーを放り、取り出したナイフでそれに応戦していた。
真理亜さんの傷口から流れる血は煙のように広がり、周囲の水を赤く染める。その量は想像していたよりもずっと多い。
だけど。負傷しているとしても、二人の攻防は真理亜さんの方が優位だった。
水中での戦いに慣れている人間なんてそういない。蝶さんが焦った様子で何度もピックを振り下ろす。だけど陸地と比べ水中での動きというものはずっと遅い。煌びやかなドレスだってただの動きを制限する邪魔な布にしかならない。蝶さんの刃物も、蹴りも、水中では無意味だ。
蝶さんと真理亜さんの動きは対称的だった。
人魚は水中の方が得意なの、という彼女の言葉を思い返す。
マーメイドドレスが水に揺れる、光に揺蕩う。蝶さんの攻撃をするりと避け、四肢を水に滑らせて、軽やかに、踊るように。
蝶と人魚であれば、圧倒的に水中は人魚の方が有利だ。蝶は羽が濡れてしまえば飛べなくなる。だけど人魚は、水の中であればこそ輝くことができる。
光を浴び輝くマーメイドドレス姿の真理亜さん。それはまるで、本物の人魚に見えた。
真理亜さんが振るったナイフを蝶さんは必死に避けようとした。だが避けきれない。頬に長い切れ筋を受けた蝶さんが悲鳴代わりに大量の泡を吐き出した。息が続かなくなったらしく、彼女は切羽詰まったように水面に上がろうとする。だが真理亜さんがそれを許さない。ドレスの裾を掴み、自分の元に引き寄せ、深く深くへ潜ろうとする。私と東雲さんが急いで一階へ向かうと、水槽の底、真理亜さんが蝶さんを捉えていた。
まるで取り付くように。逃がさないと、人魚は自分の獲物を捕らえて離さない。
蝶さんの口から吐き出されていた泡が段々と少なくなっていく。最後に一度、大きく吐き出された泡を最後に、蝶さんは力を失い四肢を弛緩させた。
真理亜さんはそれを確認し、ぐったりと動かなくなった彼女を抱え上に泳ごうとしたのだろう。だが彼女の傷口から絶え間なく流れていた血は、その体力を酷く奪っていたらしい。真理亜さんの体からもふわりと力が抜け、二人の体がまた水底に落ちていく。
「駄目っ…………!」
このままでは二人とも危ない。急いで助けようと水槽に近付いたはいいものの、どうしていいか分からなかった。私が潜っても彼女達の体を抱えて戻ってくるだけの力があるかは分からない。
どいていろ、と東雲さんが同じく水槽に近付いて私に言った。彼は構えていた銃をしまい、今回のためにと持ってきていた別の銃を取り出した。破壊力の高い弾丸が撃てる大口径の銃。水槽の至近距離ギリギリで構えられたそれを見て、私は咄嗟に両耳を塞いだ。
爆発にも似た発砲音。凄まじい反動だろうそれを、東雲さんは連射する。腕が跳ね、空薬莢が飛ぶ。
蓋ならまだしも水槽はそう簡単には割れるものじゃない。それでも大きな亀裂がいくつも水槽の壁に走り、少量の水があちこちから噴き出している。東雲さんが一番大きな亀裂を目がけ、もう一発撃った。
ガラスが割れた穴から大量の水が噴き出す。圧力がかけられ、周囲の亀裂がバリバリと割れていく。濁流が押し寄せた。至近距離にいた私達は逃げる間もなくそれに飲み込まれた。
ハッと、拳で頭を殴られたような衝撃から回復した私は、飲み込んでしまった水に咳き込みながら起き上がった。
せいぜい数秒間。視線を巡らせると、大きな穴が開いた水槽からは今だ水が溢れ、床に流れて小さな池を作っているのが見えた。隣で呻く東雲さんも見える。それから、二人折り重なるように倒れている真理亜さんと蝶さんも。
真理亜さん、と駆け寄って彼女を抱き起こす。ぐったりとした体は冷え切っている。水に濡れたせいだけじゃないだろう。頬を叩いて声をかければ、彼女は体を震わせて水を吐き出した。虚ろな目が私を捉える。
和子、とか細い声で名を呼ばれ、何度も頷く。真理亜さんはゆっくりと呼吸を繰り返して体を起こそうとした。震える彼女の手を、東雲さんが取って支えた。
「平気か」
「……………………一人で、平気よ」
力なく言いながら真理亜さんは東雲さんの手を払う。それだけの余裕があれば大丈夫だと東雲さんは微笑んだ。
そのとき、傍にいた蝶さんがゲホゲホと噎せながら意識を取り戻した。濡れたドレスを四肢に張り付かせながら彼女は床に手を突いて起き上がる。
憤慨した彼女が暴れるのではないかと思った私は真理亜さんの前に身を出した。しかし予想に反し、彼女は怒声一つ上げない。ただぼうっと一点を見つめている。鏡の柱だ。より具体的に言うならば、鏡に映る自分の姿を、彼女は穴が開くほど凝視している。
水に潜ったせいで彼女の厚化粧は少し崩れていた。よれたアイシャドウや口紅が陶器のような肌を汚している。だが醜さなどは感じない。少し化粧が崩れた程度で、その美しさは変わらなかった。
けれど。蝶さんはまるで地獄を見たかのように顔を恐怖に染めた。絶望がその全身を震わせる。わなわなと頬に当てられた彼女の指先が、濡れたファンデーションの上をぬるりと滑る。
私が嫌な空気を感じ取った瞬間、
「アアアァァ―――――!」
絹を裂くような絶叫が響き渡った。
取り乱した様子で頭を抱えぶんぶんと振り回す蝶さんを見て、私の足が竦んだ。何度も彼女は絶叫する。ちょうどそのとき私の携帯に新たなメッセージを告げる音が聞こえたが、画面を見る余裕はなかった。
彼女は鏡の柱に駆け寄り、アイスピックで鏡を叩き割った。柱からガラス片はパリパリと剥がれ落ちる。鋭利な細かい破片がピックを突き立てられた傍から小雨のように降り注ぎ、蝶さんの肌を傷付ける。ドレスから露出した足に、腕に、肩に、小さな赤色が滲んだ。それに気が付いた蝶さんは更に絶叫し、行為を止めずに激しく手を振るう。明らかに錯乱状態だった。
困惑する私達に血走った目が向けられた。ハッとすると同時に、彼女が襲いかかってくる。まず真理亜さんを守るように立つ私のところへ。大きく振るわれたアイスピックを避け、腕を捻り上げようとする。だが逆に私が力任せに投げられ、逃げられる。力強い。錯乱しているときの女性の力はこんなに強いものなのかと、呻きながら思う。
東雲さんにも蝶さんは襲いかかる。だが東雲さんは、容赦なく銃を撃った。蝶さんの腕が跳ね、肉片が飛ぶ。悲鳴を上げてその場に崩れ落ちる蝶さんだったが、それでも目に浮かぶ錯乱した光は消えていない。
「うぐぅ…………!」
蝶さんは倒れている真理亜さんへと目を向けた。途端その顔は壮絶に歪む。怒りと、嫉妬の、強い感情の色。
さっき投げられたときに落ちた携帯が震え、思わずそちらに目を向ける。如月さんから送られてきた新たなメッセージ。目で追った文章を、無意識に口に出す。
「芋虫?」
私はただその単語を口にしただけだ。だが蝶さんが顕著に反応を示す。
彼女が私に飛びかかってくる。あまりにも素早い行動に思考が追いつかなかった。だが眼球に突き立てられそうだったアイスピックを、私の脊髄反射が咄嗟にナイフで防ぐ。直後我に返り必死にナイフで彼女の手の平を切り裂く。だが痛みなど感じていないかのごとく、彼女は力任せに私を押し倒そうとしてきた。
防ぎきれない。倒れそうになるのを堪え、目の前の腹に膝を叩き込む。一瞬力が緩んだ隙に懐に潜り込み、その胸元をナイフで切り裂いた。
ドレスが破け、彼女の肌が露わになる。
私は息を呑んだ。
「いや……いや、いやあぁぁ!」
彼女が悲鳴を上げる。しかしそれは羞恥によるものではないだろう。
継ぎ接ぎだらけだった。
彼女の体は、ドレスに隠されていた胸部は、継ぎ接ぎだらけだった。乱暴に縫い合わせた痕、色の違う皮膚。形は歪み、それを綺麗に見せようとドレスの中に詰め物を仕込んでいたのが分かる。
腕、顔、肩、足。他の部分は至って普通の美しい肌だ。だからこそ胸部の異様さが強調されてしまう。事故で怪我をして縫い合わせた、という感じではない。言うならば。胸、という部位を無理矢理生み出そうとしたかのような。たくさんの肉からそれを形作ろうとして失敗したような。醜い肉。
「――――芋虫。それがあなたの、元の名前なのね」
真理亜さんが、私の携帯を手に立っていた。青い顔に僅かな憐みの表情が浮かんでいる。
芋虫という言葉に蝶さんは酷く反応を示した。目が血走り、強く噛み締められた歯からギチギチと音が聞こえてくる。
「あなたは元々醜かった」
錯乱した蝶さんの視線を受けても真理亜さんは少しもたじろがず、淡々と如月さんから送られてきたメッセージを読む。
そこに書かれているのは蝶さんの新たの情報。彼女の全てを暴露する、当人からすれば最悪のメッセージ。
「先生にも、同級生にも、親にさえ見限られるほどにあなたは醜かった。容姿を変えるためにあなたは整形手術を受けることにした。
だけどその費用は莫大で、一般の会社員勤めでは何十年もかかるほどだった。あなたはすぐにでも自分を変えたかった。だから人を殺す仕事にまで手を出した。自分を変えるために人を殺した。それが趣味になってしまうほど、たくさん殺して、大金を手に入れた。
今のあなたの体中、どこもメスが入っていない場所なんてない。歪んでいた顔を人形のように整え、体中に付いていた肉を削ぎ、今の姿を手に入れた。そして最後、胸と性器の手術。そこであなたは完璧な体を得るはずだった。長年の夢が叶うはずだった」
黙れ、と蝶さんが低い声で唸る。正気を失った瞳が真理亜さんを凝視する。
真理亜さんがゆっくりと歩き出す。止めようとした私の手をそっと払い、彼女は蝶さんの元へ近付いた。
「だけど最後の最後であなたは騙された。信頼していた病院は裏で酷い取引を行っていた。大量の金と引き換えにあなたが手に入れたのは、体に残った醜い手術痕。整形を繰り返し過ぎたあなたの体はこれ以上メスを入れることに耐えられない。あなたの体には一生その痕が残る」
「黙れ…………黙れよ…………」
「…………あなたが、男性から女性になってまで得ようとした美しさは、夢で終わってしまった」
「黙れ!!」
ドスの効いた声に息を呑む。絶叫した蝶さんは真理亜さんの胸倉を掴み、勢いのままにその顔を殴った。
「その顔で、ワタシのことを語るな。ワタシの絶望を何一つ理解できない人間が、知ったように喋るな!」
携帯に写る写真は、過去の蝶さんの写真。
学校の卒業写真らしき、肥えた体にくたびれた制服を着た男の子がそこに写っていた。何かに怯えているように見える表情。上を向いた鼻に歪んだ頬骨、薄い眉と細い目付き。今の蝶さんとは別人にしか見えない。顔、骨格、体型、雰囲気。目に見えるもの全て、写真の男の子と蝶さんとではかけ離れている。
写真の中の彼はそう。まさに、蝶ではなく芋虫だと、大勢が口にする。
「肌に触れただけで悲鳴を上げられて泣かれる気持ちが……っ。歩き方から姿勢から発音から、一挙一動を笑われる悲しさが。あなたに分かる? 視線を気にしすぎて呼吸一つ満足にできなくなる苦しさが、前を向いて歩くことができず足元しか見ることのできない辛さが、理解できる? ……できないでしょうね! あなたは生まれたときから、顔を上げて歩くことができる人間なんですもの!」
芋虫という名が彼女の元の通称。地を這う芋虫。嫌われることの多い芋虫。その名を付けられたのは、彼女の姿からだったのだという。それが整形手術を繰り返すことで美しい姿に変わり、蝶へと名を変えた。
変態。芋虫が蝶になるまでの過程が、さなぎの期間が、彼が彼女に変わるときだった。
蝶という名前は。彼女の正式な通称は「モルフォ蝶」。世界一美しいとも言われる青い蝶。その美しい青色は鱗粉によるもので、元から羽に付いた色ではない。目が覚めるほどの美しさを持ったその蝶は花の蜜のような綺麗なものでなく、動物の死骸や腐った果実を好む。
蝶さんにとってあの厚化粧は鱗粉だ。真理亜さんに執着しているのは、彼女の、彼の、過去が原因だ。
美しくなった今も彼女は、美しいものへの恨みを拭うことはできない。
汗や水で化粧が滲んだくらいで錯乱してしまう。それがなくたって今の彼女の顔はとても美しいのに。
作られた美しさが僅かに欠けることでさえ、彼女にとっては致命傷なのだ。
「あなた、初めて殺したのは自分の恋人と親友だったそうね?」
蝶さんの馬鹿にしたような言葉に、無言で話を聞いていた真理亜さんが反応を示す。何故それを、と雄弁に瞳が訴えた。
「ワタシ達だって情報を手に入れるルーツはあるのよ。大学時代、恋人を親友に取られて、逆上して殺してしまったんですってね? あなたの顔が美しかったから。それに息苦しくなった恋人が、あなたの親友に誘われて手を出した」
「……………………っ」
「可哀想に。可哀想、とっても可哀想。とっても、とっても……――バッカみたい!」
蝶さんが高笑いをしながら床を蹴り付ける。癇癪を起した子供のように、馬鹿みたいと叫びながら激しく床を何度か蹴った。
それから蝶さんは真理亜さんの頬を撫で、その顔を上から覗き込む。垂れた髪が真理亜さんの頬に流れ、肌に張り付いた。
「恋人を親友に取られた!? なんてくだらない! よくある話じゃないの。そんなことで人生を狂わせるだなんて、どれだけ馬鹿なのよ! 彼氏なんて新しく作ればいい話じゃない。親友とは縁を切ればいいだけの話じゃない! どうしてそんなことで……そんなことで、あなたは…………!」
蝶さんの声が震える。爆発させた感情に歯止めが効かなくなったのか、口端が痙攣するように引き攣っている。舌がもつれるような喋り方で真理亜さんのことを馬鹿にする。
「あなたに分かるわけないじゃない」
蝶さんの震えた声が上手く言葉を発せなくなったとき、真理亜さんがとうとう声を出した。
寂しそうな目で真理亜さんは相手を見つめる。呆ける顔に、分からないわよ、と続けて言う。
「クラスメートが好きだった人に告白されたのがきっかけでいじめられたことも、電車で痴漢に遭って恐怖に泣いたことも、夜道でストーカーされて必死に逃げたことも。あなたには分からないわ」
「…………何それ。そんなつまらないことが何だって言うの。今のワタシの話を聞いた後で、そんなことを言うの」
「ええ。あなたにはそのときの私の思いが分かるわけがないのよ」
「っ!」
カッと怒りに蝶さんが顔を赤く染めた。真理亜さんの頬に添えられていた手がぐっと肌に爪を食いこませる。
「ふざけるな! あなたのちっぽけな思いなんて、どうでもいい! ワタシがどれほど苦しんで生きてきたのか、あなたに…………!」
「分かるわけないじゃない! 私も、あなたも!」
真理亜さんが声を張り上げた。勢いに乗せるように蝶さんの体を押す。バシャリ、と足元の水が跳ねた。水面に生まれた波紋が私と東雲さんの元まで伝わる。
「どれだけ絶望したのか決めるのは本人なのよ。どれだけ苦労したのかの程度なんて関係ない。その人がどれほど苦しんだか、それしかないの。生まれ持った顔も、環境も、全部違うもの。分かるわけがないのよ、お互い!」
真理亜さんが反対に蝶さんの頬に手を添えた。二人の長いまつ毛に飾られる、今にも泣き出しそうに潤んだ瞳が互いを見つめる。
「分からないわよ…………!」
訴えるような声を吐く真理亜さんに、蝶さんは何かを言いたげに口を開いて、空気を吐き出した。
真理亜さんの頬を掴んでいた手が滑るように落ちる。だらりと下げられた両の手。
「苦しかったのよ。私もあなたもお互いに」
真理亜さんが一歩前に踏み出して、蝶さんの体を抱きしめた。ビクリと蝶さんの肩が跳ねる。戸惑いの眼差しが、自身の肩に顔を埋める真理亜さんに注がれていた。
「あなたは、綺麗になってどうしたかったの?」
その質問に蝶さんが僅かに目を見開いた。
綺麗になったその先に。彼女が目指していた場所の先に。一体、何があったというのか。蝶さんは答えなかった。代わりに、その手をゆっくりと真理亜さんの背に回そうとした。
そのとき。水面に、キラリと何かが光る。ふと視線を向けたそこに反射して映っていたのは。蝶さんが手に隠し持つ、アイスピック。
私が気が付いたのと同時に東雲さんもそれに気が付いたらしい。人魚、真理亜さん、と私達は彼女の名を叫んだ。
ドス、と重い音がする。真理亜さんの顔に苦痛の色が滲んだ。
彼女の背中に深く突き刺さったアイスピック。布にじわりと赤色が広がっていく。
避けなかった、動くことさえしなかった。刺されることを承知で、真理亜さんは蝶さんを強く強く抱きしめていた。
意外な反応に蝶さんが戸惑いを強くする。どうして、とその目が明らかな動揺に揺れた。
真理亜さんの抱擁は優しかった。細い腕が蝶さんの体を柔らかく包む。蝶さんの露わになっていた胸部が真理亜さんの肌に触れる。
「…………ワタシが、今の姿でなかったら。昔の醜い姿のままだったら。あなたは、こうして抱きしめてくれていたかしら」
「分からないわ」
「勿論、って即答してくれないのね」
「だって、そんな状況にならないと分からないもの」
真理亜さんは蝶さんに頬を寄せる。蝶さんは激しく狼狽えていた。
その戸惑いは、まるで他人が触れてくることに慣れていないかのようなものだった。自分から誰かに触れることは平気な様子だったのに。誰かが自分に優しく触れてくれることに、慣れていない。
きっと蝶さんは、今までそんな経験をしてこなかったのだろう。
だけどね、と真理亜さんは続ける。
「私が今あなたを抱きしめたいと思った理由は、あなたの外見とは、何の関係もないのよ」
真理亜さんの胸に押し付けられる蝶さんの胸。継ぎ接ぎだらけの歪んだ胸。
蝶さんがその唇をわななかせた。アイスピックの柄を握っていた手が離れ、恐る恐るといった様子で真理亜さんの背を掴む。
ああ、と吐息のような声が彼女の口から零れた。
「ワタシ、ワタシは。綺麗になって。醜くなくなって」
「…………ええ」
「……ただ、誰かに、触れてほしかっただけなのよ」
「…………ええ」
真理亜さんは更に強く蝶さんの体を抱きしめた。蝶さんはヒクリと喉を震わせて、真理亜さんを抱き返す手に力を込めた。
あぁ、と溜息のように、悲痛とも歓喜とも取れる声が艶やかな唇から次々に溢れ出す。
「あ、あぁ……あああぁっ…………!」
爆発させた絶叫と共に、蝶さんはずるずるとその場に崩れ落ちた。二人の体が床に落ちていき、水面が波立つ。
蝶さんが泣き喚く。真理亜さんは唇を噛み締めて腕に力を込める。流れる血が足元の水を汚していく。
血にまみれ、服もズタボロで、涙で化粧が濡れていく。
それでも、二人の姿を醜いと思う人はきっと一人もいないだろう。
蝶さんが教えてくれた道を進めば、殺人鬼達の本拠地に辿り着くだろう。
「気を付けて進むのよ。この街は危険なんだから」
蝶さんが笑いながら私達に言った。濡れたドレスからはいまだ水が滴り、セットした髪もぐちゃぐちゃになっている。けれど鏡だらけのこの店で化粧が崩れた自分の顔を見つめても、先ほどのように錯乱した様子は見えなかった。
簡単な手当てを終えあちこち包帯でぐるぐる巻きになった真理亜さんがふっと小さく笑った。私はそんな彼女の体を支え、三人で店の出口に向かう。
蝶さんは柱にもたれかかって立っていた。濡れたように光る眼差しは鏡に映る自身を見つめている。もはや彼女に敵意はない。私も真理亜さんも、彼女に背を向けた。一歩進むごとに水を吸った絨毯が濡れた音を立てる。蝶さんの優しい声が背にかかる。
「……どうかあなた達は、自分が綺麗であることを忘れないでいてね」
最初に気が付いたのは東雲さんだった。最後まで警戒を解かなかった彼が、ぐっと身を硬くした。私達もすぐに気が付く。柱だ。柱の全面を覆った鏡が、それを映し出していた。
蝶さんの持ち上げたアイスピックが鏡の中に光っていた。鋭い切っ先が向いているのは、私達の方にじゃない。それはまっすぐに彼女自身の胸へと振り下ろされる。
腐りかけの肉を切りつけるときの音。私達が唖然と目を丸くする前で、蝶さんの胸に何度もアイスピックが突き立てられた。ドレスが破れ舞い落ちていく。溢れる血が継ぎ接ぎに沿って流れ、膨らみを帯びた肉が赤く染まっていく。
真理亜さんが弾かれたように走り出した。力が抜け倒れそうになった蝶さんを受け止めるも、そのまま揃って倒れてしまう。足元の水が赤く染まる。おびただしい量の鮮血は、みるみるうちに二人の体を濡らしていく。
「どうして!」
真理亜さんが怒鳴る。困惑する彼女に、蝶さんは楽しそうに微笑んだ。
「もう遅かったの」
水っぽい咳をした蝶さんの口から血が溢れた。ぐちゃぐちゃになった胸と、みるみるうちに血の気をなくしていく肌が、もう何もできないことを告げていた。
「初めて体にメスを入れたときから、もうどうしようもなかったの。戻ることも、進むこともできなかった。これからもずっとワタシは昔の自分を忘れることなんてできない。それに惨めに負けた無様な姿で、あの人の前に出れないもの」
蝶さんの体が真っ赤に染まっていく。青い髪や青いドレスの美しい色が消えていく。
待ってよ、と真理亜さんが叫んだ。待って、と。何に対して言っているのか自分でも分からない様子で、彼女は叫ぶ。
蝶さんは、そんな彼女の様子に、とても嬉しそうに笑った。
「どれだけ美貌を追求したって老いがそれを奪っていくのなら、ワタシは長く生きたくはなかった。ワタシが一番綺麗なときに死んでしまいたかった」
「それがっ、今だって言うの?」
「誰かに触れてほしかっただけなのよ」
蝶さんの目から涙が零れる。悲しい涙ではなく嬉し涙だろうと、美しく輝く笑みが語っている。
綺麗になって、誰よりも美しくなって。そうしてまで求めていたのはただ誰かに触れてほしいという単純な思いだったのだ。
それが叶った今。蝶さんにはもう、生きる意味などない。
「初めて顔を変える前に、あなたと出会っていたならば良かったのに」
蝶さんの目から光が消えていく。彼女の手が真理亜さんの顔を覆う。まるで眩しい太陽を見ないようするときみたいに。
息を吐くような小さな声が、空気を震わせた。
「ワタシとあなたは違うのよ」
真理亜さんがくしゃりと顔を歪める。蝶さんの手が床に落ちる。濡れた絨毯の上に倒れた腕は白く、ピクリとも動かない。
辺りに散らばる青いドレスの切れ端は。水に濡れ、重く床の上に広がっている。