第118話 第十区の入り口で
第九区の港には誰もいない。
明星市内の陸地を通って第十区へ行く唯一の方法は、第九区の端っこから伸びた橋を渡ること。海の上を通る長い橋。昼間ならば海も見えて爽快な景色が広がっているかもしれないが、夜中の今、ただ闇の中にぼんやりとかかる橋が見えるだけだ。
ここまで私達を運んでくれた運び屋さんの車が去り、私達だけが港に取り残される。
「だれも、なにも、いないね」
ネズミくんが呟いた。
港には誰もいない。そして、橋を通る車も、一台もない。
第九区だって十分治安が悪い場所だ。ここまで来る間にも、あちこちで乱闘や騒ぎなどが起こっていた。けれどそれも港が近付くにつれて少なくなっていった。この周囲に住む人々だって第十区には近付きたくないのだろうと思う。
生臭い潮風がぬるりと肌を舐める。決して爽やかとは言えないぬるく、不快な風は、本当に行ってしまうの? と私達を非難しているようにも感じた。
第十区に行くこと自体は簡単だけれども。この橋を渡れば、もう戻ってこれるかどうか分からない。
それでも私達は、もはや一言も口に出さず、静かに橋へと一歩目を踏み出した。
背の高いガラスビルに反射した明かりが、第十区の街を一層キラキラと光らせている。大通りの中央から左右どちらに顔を向けても、大勢の人々の笑顔と賑わいが目と耳に飛び込んできた。
カフェでのんびりとお茶を啜る女性達が、今日の茶葉は高級だと喜んでいる。仕事先へ連絡を取っているらしいスーツ姿の男性が携帯を耳に慌てて走っている。信号待ちをしているオープンカーからは心地良いクラシックが流れ、カップルが静かに曲に聞き惚れている。
本当に第十区なの、とあざみちゃんが吐息を吐くように呟いた。
「普通の街……にしか見えない、よな」
うんうん、と仁科さんが頷く。真理亜さんも神妙な顔で辺りを見回していた。
どう見たってここが第十区だとは思えない。いや、確かに如月さんも言ってはいた。治安が更に悪いラスベガスやシカゴのようなものだと。何だろう。ただの夜の街にしか見えない。
一見、さっき通って来た第九区よりも落ち着いた雰囲気しか感じられない。誰も喧嘩をしていないし、ナイフを持って襲いかかってくる人もいない。強いて言えば夜十二時を回った時間帯であるにもかかわらずお年寄りから若者から、子供まで遊び歩いていることに驚くが、それだけだ。
ビルを見たって明かりが消えている窓の方が少ない。じっと見ていれば、この瞬間に明かりが付いた窓もある。退社の格好をした人と、出勤の格好をした人が同時にビルの正門を擦れ違っていた。
眠らない街。きっとここでは二十四時間営業しているのはコンビニだけではない。飲食店も、駅も、会社も、全てが一日中活動している。
「星みたいな街」
思い浮かんだことをぼそりと呟いた。
今も明星市の夜空にはたくさんの星が浮かんでいる。だけどきっと、夜空からこの街を見下ろしたとき。この第十区は市の中で、星のように輝いているだろう。
いつまでも明かりが消えることがない第十区は、まるで明星市の星空だ。
「それで、これからどうする」
東雲さんが静かな声で言う。警戒を隠した彼の視線が、街の様子を観察していた。
私達の目的地は、第十区を取り締まっている組織の本拠地だ。第十区の奥側にあるということは分かっている。だがそこへ行くまでの正確なルートは不明だ。如月さんから渡された地図にも分かる限りの大まかな道のりしか描かれていない。道中障害があれば時間を食ってしまう。
第十区の組織を壊滅させることが私達の任務だ。挑戦できる期間は恐らく、この一回限り。
殺し屋達が自分達を倒しに来たことを、相手が気付くのも時間の問題だ。情報がどのように流れているかは分からない。が、もしかしたら第十区に足を踏み入れた瞬間から気付かれているかもしれない。ならば一度態勢を立て直してから再度依頼に取りかかるのは難しいだろう。その分相手にも対応の時間を与えてしまう。
チャンスは今回だけ。目的地への確実なルートを見つけなければならない。
「グループに分かれましょう」
「分かれちゃうんですか? 皆で固まっていた方が安全じゃ……」
「それで迷ってたら意味がないもの。大人数で不審な行動をしていても、怪しまれるだろうし」
そうだねぇ、と真理亜さんの言葉に続けるように仁科さんが言った。
「その建物に行って、偉い奴らを殺すのが目的なんでしょ? じゃあ最終的に誰か一人だけになってもそれが達成できたらいいんだ」
のんびりとした声が空気を撫でる。私は思わず皆と顔を合わせて、それから目を伏せた。
手分けをして正解のルートを探るのが一番効率がいい。それこそ、道中で皆が殺されたとしても。結果的には誰か一人でも建物に辿り着いて、ターゲットの組織を、殺人鬼グループを倒せばいいのだから。
その方法でいいな、と東雲さんが冷たい声で言った。皆は迷う間もなく頷く。勿論私も。
あの、と一度だけ声を出して皆の意識を呼び止めた。
「約束しましょう」
約束? とあざみちゃんと太陽くんが揃って首を傾げる。約束、と微笑みを浮かべて繰り返す。
「必ず皆、戻ってくるって」
私と東雲さんと真理亜さんの三人は、住宅街へ続く道を進んでいた。
木造のアパートから高層のマンションまで色んな住宅が並んでいる。こちらも街と同じく寝静まってはいない。明かりが消えていたり、明かりが付いていたり、犬の散歩をしている人もジョギングをしている人もいた。
東雲さんと真理亜さんは常に辺りを警戒している。私も警戒を怠らないものの、キョロキョロと周囲を見回しては通れそうな道や話を聞けそうな人がいないかを探していた。
公園に差しかかったときだった。そこから焦げるようなにおいと、賑やかな声が聞こえてきた。見れば公園の中央で数人の人が輪を作って騒いでいる。中央には大きな焚火があり、火の粉がパチパチと昇っている。
遊具の付近に建てられた簡素なブルーシートの小屋と、薄汚れた衣服と脂ぎった頬が火に照らされている。私は彼らを見て、パチンと手を打った。
「あの人達なら、道を教えてくれたりするかも。私行ってきますね!」
「おいネコっ!」
東雲さんが止めたけれど、私は気にせず彼らの元に近付いた。不思議と警戒心が薄れてしまっていたのは、彼らがホームレスであったからだ。
普通ならばむしろ警戒するはずの存在が、私には親しい存在に見えてしまうのは、長い間保良さんと親しんできた思い出があるからだ。
それに、意外と彼らの方が、道に詳しかったりもする。
「誰だ姉ちゃん、何か用か?」
一人の男性が近付いてきた私に気付き、話しかけてくる。
距離を縮めれば火の香りだけじゃない、肉や野菜を焼いているようなにおいがした。火を囲んでいる何人かが焚火から火ばさみで焦げたアルミホイルの包みを取り出し、剥いて齧りついている。
お酒の空き缶、カップ、ワインボトルがあちこちに転がっている。半分中身が残ったカップにコバエがたかっていた。誰かがそのカップを手にし、ハエを手で払って中身を飲み干す。
「よう、どうしたその子。知り合いか?」
「いいや知らん」
「あの、突然すみません。道をお訊ねしたくて……」
男性はどうして俺達に聞くのかと言いたげな顔をしていたが、どこに行きたいのかと訊ねてきた。場所を言えば彼はしばし首を傾げ、周りの仲間にも同じことを訊ねる。
何人かは首を横に振ったが、一人の女性が途中までなら知っている、と道を教えてくれた。目的地まではまだ半分ほど距離が残るが、十分役に立つ。声を弾ませて礼を言うと、女性は優しく微笑んで手を振った。
「いいのよ。それよりあなた、お腹減ってない? 今ね、お肉焼いてるのよ」
「え? いや、お腹は別に……」
断る間もなく、誰かが私の前に火から取り出したばかりの包みを放った。指先が焼ける。あち、と両手の間で包みを転がす私を彼らが笑った。
男性が私の手から包みを取った。煤に汚れた皮の厚い手が、緩慢な動きでホイルを剥いていく。ふわりと立ち上がるのは、肉の焦げたにおい。カレー粉でもまぶしたのか、スパイスの効いたツンとしたにおい。
なのに何だか、生臭い。
「ほら」
見せられた。
パッと思わず飛び退いて、口を手で覆ってしまう。喉の奥に熱がせり上がる。サァッと顔から血の気が引いていく。
不快感に湧いた生唾を飲み込む。明らかに気分を害した様子の私に、なんだ食わないのか、と言って、男性が平然とした様子でその包みの中の肉を食らった。さも美味そうに。獣のように。
「歳を取ってないのが美味いんだよ。これなんかまだ生まれたばっかりだもんな。肉が柔らかい」
「あら、私は筋張った固い肉も好きだけど。好みよ好み」
「なあ醤油くれよ。腐っててまともに食えたもんじゃねえ」
「夏場だからなぁ。朝捨てられたばっかみたいだけど、一日で悪くなりやがる」
肉を齧り、ビールを飲む。和気あいあいとした彼らの宴。
だけど。ついさっきまで楽しそうに見えていたその宴が、包みの中を見た途端、おぞましいものにしか思えなくなった。
ひゅうと掠れた息を吸って後退り、逃げようとする。その腕を男性に取られビクリと体を震わせた。
「姉ちゃん。お礼はないのか?」
「え…………?」
「対価をくれよ。こっちは道を教えてやったんだ。そっちも寄越すもんがあるだろうよ」
火に照らされる脂ぎった男性のニヤニヤした笑顔。歯茎に付いた肉の破片。口端から拭いきれていない鮮血が顎を伝って滴った。
彼が食べていたのは。あの包みに入っていたのは。今彼らが焼いているのは。ゴミ箱に捨てられていた期限切れの肉とか、野菜とか、それだけじゃなくて。
小さくて。幼い。ひ、人の――――。
「姉ちゃん。あんた、美味そうだな」
悲鳴を上げて男性の手を振り解く。逃げようとする私にもう一度男性の手が伸びてくる。だけど捕まる寸前で、私の体は大きく誰かに引き寄せられた。
真理亜さんが私を自分の後ろに隠し、手を伸ばしてくる彼らを睨んでいた。それでもなお迫ってくる彼らに、彼女は近くに転がっていたワインボトルを振り下ろす。ガシャンとボトルの破片が地面に散らばり、赤い液体が飛んだ。どよめきが起こる。その隙に真理亜さんは私の手を取って公園から逃げ出した。
公園の外で、コートの内側の銃に手をかけ待っていた東雲さんが、急げと声を上げる。そう言われる前に私達は全力でその場から走り出し、後ろを警戒しながら東雲さんも走る。
追う気はなかったのか追手は来なかった。それでもしばらくの間走り続け、体力の限界を感じたところで崩れるようにその場に蹲る。心配そうに真理亜さんが私の背を擦ってくれた。
「まだ行けるなネコ」
「…………大丈夫、平気です。行けます」
東雲さんの声に気力を振り絞って立ち上がる。まだ胸には不快感が残っていたが、無理にでも立ち上がる。こんなことで足を止めるわけにはいかないのだから。
先程の彼らの行為が、この街でも異常なことだとするのなら。とっくに騒ぎになっているはずだ。それをあれほどまでに平然と行っているということは……。
「服がびしょびしょ」
ふと真理亜さんの声に意識が戻る。
真理亜さんの服がワインでぐっしょりと赤く濡れていた。発酵した果実の香りが鼻に付く。不機嫌そうな顔で彼女は汚れを拭おうとするが、当然汚れが落ちることはない。
「そのままだと目立つな」
「どこかに服屋でもあるといいんだけれど」
「とりあえず進みましょう。目的地までの間に、一軒くらいはどこかあると思いますし……」
経緯がどうあれ道を知ることはできたのだから。とにかく進めばいい店が見つかるだろう。
しばし住宅街を歩き続ける。教えてもらった道順は嘘ではなかったようで、行き止まりに当たることはなかった。
そうこうしているうちにまたも街の周囲に出てきたらしい。賑やかな声が聞こえ、車の行き交う通りに出る。ちょうど教えてもらった道の最終地点まで辿り着いたようだ。
第十区のおよそ真ん中の地点だろうか。入って来た場所よりも、いくらか賑わいが増しているように思えた。色んなにおいが混ざっている。アルコールのにおいとか、食べ物のにおいとか、化粧のにおいとか、人のにおいとか。
「あら、斬新なデザインね」
一軒の黒い建物の外に立っていた女性が、真理亜さんを見て可笑しそうに笑った。
美しいドレスを着た女性だった。これから舞踏会にでも行くのですか、と思わず訊ねてしまいそうな、煌びやかなドレス。
怪訝な視線を向ける真理亜さんを手招いて、その女性は言う。
「いらっしゃいよ。あなたに似合う服、用意してあげるから。そのままだと美人が台無しよ?」
どうやらそこは服屋のようだ。ショーウィンドウに飾られたマネキンが、高そうな洋服に身を包んでいる。けれどそれ以外、窓は暗いカーテンで閉じられ、店内が見えない。
扉にはCLOSEDの看板が下げられている。パピヨンとオシャレな筆記で書かれているのが、店の名前なのだろう。
おいで、と女性が扉を開けて私達に微笑む。真理亜さんは少し警戒の様子を見せていたが、確かにこの服のままでは歩けないと、仕方ないという様子で店に入っていく。私と東雲さんもそれに続いた。
店内に明かりが付くと数々のドレスが光を反射して煌めいた。店内に敷かれた絨毯は、踏むと靴が埋まるほど柔らかい。
普通の服屋とは少し違う。ショッピングモールに入っているような店よりずっと広い。二倍、三倍、いやもっとあるかもしれない。広い店内に並ぶ衣服は上品なスタイルでどれも高級そうだった。メンズ物も少し取り扱っているようだが、ほとんどがレディース物だ。
店内の装飾も黒を基調としたシックな中に、キラリと光る銀や金の宝石のようなものが飾られていたり、私にはよく理解できないが随分と洒落たデザインに思える。それに柱や壁のあちこちが鏡でできているため、一瞬自分がどこに立っているのか分からなくなってしまう。冗談抜きで迷子になってしまいそうだ。
何より一番目に付くのは店の中央に飾られた巨大な水槽だ。床から天井を突き抜けて伸びる円柱状の水槽は、イルカくらいの大きさの生き物だったら十分に飼えそうなほど。ブルーライトに照らされた水中には、デザインとして作られたらしい大きな真珠やヒトデ、鮮やかな海草が揺れている。水槽の立つ部分の天井だけに穴が開き、恐らく二階の天井まで到達しているのだろう。あまりにも水槽が大きいせいで、店内全体がほんのりと青い光に包まれていた。
「素敵なものばかりでしょう? 自慢のお店なの」
そう言って微笑む女性の顔は、あまりに美しかった。
さっきは暗い場所にいたから分かりにくかったけれど。こうして明るい場所で見る女性は、真理亜さんと同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に美しい顔をしていた。
青く濃いアイシャドウがこれほどまでに似合う女性など見たことがない。濃すぎるほどに塗られた化粧は、しかし女性のハッキリとした顔立ちに見事に合っている。顔のライン、鼻筋、顎、唇、まつ毛。全てにおいて完璧だと言わざるを得ない。それは、本当に人間かどうかを疑うほどに。
その顔と同じくらい美しいドレスは鮮やかな水色をしている。ラメが付いているのか光に当たるたびに美しく輝き、彼女の美しいスタイルを際立たせる。長い爪を彩った青のネイルが、水槽のライトに輝いた。
「ドレスは何色がいい? ……いいえ、やっぱりワタシが選んであげる。あなたに一番似合うドレスを見繕ってあげるわ」
「……動きやすければ何でもいいわ。申し出はありがたいけれど、急いでいるの」
「あら勿体ない。いい? 美しさの要素って、顔だけじゃないの。中身も、メイクも、服だって大事なのよ」
真理亜さんの話を聞いているのかいないのか、女性は嬉々とした表情で真理亜さんをドレスのコーナーに引っ張っていく。渋々と言った様子で真理亜さんがその方向へ消えていった。
せっかくだからあなた達も好きな服を見ていって、と女性が言い残していったが、私はそわそわと近くの服を眺めるだけしかできない。生地を見ただけで普段着ている服とは何段階もランクが違うのが分かる。飾りに付いている宝石だって、きっと本物だ。迂闊に触って壊してしまったらと考えただけで身震いする。
東雲さんも一切警戒を解かずじっと真理亜さんが戻るのを待っていた。真理亜さんが服を着替えればすぐにでもここを出る。ここから先の道は分からないが、さっきと同じように誰かに道を尋ねることもできるだろう。
「……………………」
さっきの光景を思い出しまた気分が悪くなってしまった。青い顔で口元に手を当て目を伏せる。と、待たせたわ、という真理亜さんの戸惑いを含んだ声がして、目を開けた。
「どうかしら? 凄く美しいと思わない?」
ニコニコと笑む女性の隣で、真理亜さんは少し気恥ずかしそうに俯いていた。その姿を見て、私はうわぁっと歓声を上げる。
彼女が着ているのは青いグラデーションのかかったマーメイドドレスだった。痩躯な体を引き立て、太ももからとろりと流れるようなラインのドレスが、真理亜さんの美しさをぐっと上げている。靴も変えたらしく華奢で華やかなヒールになっている。
デザインのせいだろうか、パーティーのときに着るようなドレスではなく、結婚式の花嫁衣装に見えた。
「凄い……真理亜さん、綺麗!」
「こんなドレスじゃなくて、もっと普通の服が良かったんだけど……」
「でも動きやすいでしょう? 意外と伸縮性があるから、激しい運動だってできるのよ」
より目立ってどうする、と東雲さんが呆れた様子で言った。真理亜さんが少しムッと頬を膨らませる。あら、と女性は軽やかな笑い声を上げて真理亜さんの肩に両手を滑らせた。
「こんなに美しくなった女性にその言い方はどうなの? もっと、言いようがあるでしょう。それとも、恥ずかしいのかしら」
くすくすと笑いながら女性は真理亜さんの頬を撫で、ドレスに触れた。
目を輝かせている私に微笑み、美しいでしょう、と言う。それは真理亜さんの美しさを褒めているのと、自分のセンスを褒めているのと、両方にも感じ取れた。
「一番似合う服を見繕ったのよ。あなたには青が似合うでしょう。マーメイドラインも、素敵だわ」
「…………そうかしら」
「ええ。シンプルな服も十分美しさを引き出してくれるけれど、豪華な服だって悪くないのよ。もっと、色んな服を試してみるべきだわ」
「そうね。でも、今は試している余裕はないの」
「あらどうして?」
「急いでいると言ったでしょう?」
「どうして?」
「急いで行かなければならない場所があるからよ」
「それは、殺人鬼達がいる場所のこと? 人魚さん」
「――逃げろ人魚!」
東雲さんが撃った銃弾が女性の真横を通り過ぎた。鏡でできた柱に当たり、パキンとその部分にひびが入る。
撃たれることを予期していたのか女性は余裕の笑みで身を捩って弾を避けていた。険しい顔をした真理亜さんが床を蹴るように女性から離れる。傍で放たれた轟音に身を震わせた私も、すぐに我に返ってナイフを構えた。
柱の陰に隠れた女性が美しい微笑みを覗かせて言う。
「いきなり撃つなんて酷いじゃない」
もはやこの場で、彼女に好意的な目を向けている人はいない。
真理亜さんがデリンジャーを取り出し女性に向けた。けれどもう一度女性が柱の陰に隠れてしまえば、撃つことはできなくなる。
「お前は何者だ」
東雲さんが低い声で尋ねる。怖い怖い、とちっとも怖がっていないような声だけがどこからか返ってくる。
「俺達を招き入れたのは策があってのことか」
「ワタシはただ、綺麗な服を彼女に着せてあげたかっただけよ」
「お前、組織の一人だな?」
「なぁにその言い方。映画みたい。面白い」
東雲さんは無言で銃を構え続ける。いつどこから女性が出てきても即座に撃つだろう。
そうよ、と答えが返ってくる。楽しそうな笑い声が空気を震わせた。
「上はとっくにあなた達がこの街にやって来たことを知っている。あなた達が別々に行動をしていることも知っている」
「そうやって少人数ずつ、足止めをするつもりですか? だからあなたはこうして私達の前に?」
「いいえ? まさか。ワタシ達にそんな協調性はないわよ。好きなときに、好きなように行動する。それが殺人鬼達のルールだもの。ワタシがここにいるのは足止めでも何でもなくて、ただ自分のお店を経営していただけのこと」
ふふ、と女性は笑う。甘い笑い声は急にドロリと溶け、嫌な重みを持って私達に向けられた。
「だけどこうして出会ってしまったからには、あなた達を止めればあの人も喜んでくれるのかしらね?」
彼女がそう言った途端。店の照明が落ち、辺りが真っ暗になった。