第114話 崩れ始めた均衡
お父さんの呻く声に、私はトーストにジャムを塗っていた手を止める。
「どうしたの」
「この付近で起こった事件の犯人が、まだ見つかっていないらしくてな」
齧ったトーストを飲み込んで席を立ち、ぐるりとお父さんの背後から紙面を覗き込む。行儀が悪いと窘めるもお父さんは私が見やすいように新聞を傾けてくれた。
政治や株化が並ぶ記事の中、端の方に第四区で起こった傷害事件が小さく載っている。昨日の夕方に起こった事件だった。ゲームセンターで揉め事を起こした男性客が、通報を受けてやって来た警察に怪我を負わせ逃げたようだ。周囲の話によればどうも様子のおかしい人だったらしい。見た目や言動的な意味か、薬という意味かまでは分からなかったが。
やだなぁ、と顔を顰める。揃って何変な顔してるの、と出勤準備をしていたお母さんが天気予報を見るためにテレビを付けた。ニュースが流れる。明星市内の事件が簡単に報道され、天気予報へと変わる。
二人に見送られて家を出た私は通学路を歩いていた。最近は、毎日とはいかないが学校にもちゃんと登校するようになった。課題をやらなくても授業についていけている。
今日も授業を受けて昨日分からなかったことを復習して……と考えていた私は、ふとポケットに入れていた携帯の振動に気を取られた。メッセージが送られてきたようだ。誰からだろうと見ればあざみちゃんからで、その文面に目を通した私は即座に進行方向を変えた。
学校へ向かう道を外れ駅の方へ。登校してくる道仏高校の生徒達と入れ違うように電車に乗り込み、第八区へ。
向かう先は青空ホスピスだった。
ホスピスに着いた私は受付で病室を教えてもらい、急く気持ちを押さえて早歩きで向かう。静かに扉を開けて部屋に入ると、個室のベッドに座る真理亜さんと、傍らにいるあざみちゃんがこちらを見た。
「本当に呼んだのねあざみ」
「だって酷い出血で心配だったから」
「真理亜さん! 怪我したって聞きましたけど……」
大げさよ、と彼女は肩を竦め左腕を持ち上げる。包帯でぐるぐる巻きにされた二の腕を見た。白い包帯にはガーゼから染み出した赤い色が滲み、痛々しい傷口を思わせる。
あざみちゃんからのメッセージに書かれていたのは、真理亜さんがここに運ばれたということ。早朝から仕事をしていた彼女が敵に腕を負傷させられ、偶然近くで別件を受けていたあざみちゃんがここに運んだらしい。
大したことないのにと真理亜さんは苦笑した。
「見た目と出血のわりにそれほど深手じゃないもの。すぐ治るわ」
「ならいいんだけど…………」
それよりも、と真理亜さんが表情を変えて私達を見た。真剣な眼差しに私達は揃って姿勢を正す。
「私が戦った相手について話しておきたいことがあるの」
「相手? その傷を付けたターゲットのこと? 仕事は完遂したんじゃないの?」
「ええ殺したわ。だけど、予想以上に手強い相手だった。ううん、今朝の相手だけじゃない。近頃凶暴な人間が増えている」
確かに最近物騒ね、とあざみちゃんが同意した。
「一昨日も図書館で事件があったみたいだし。知らない? 閉架書庫に隠れていた不審者が、本を取りに来た司書の人を切り付けた事件」
第一区の図書館で起こった事件のようだ。おかげで臨時休館の一週間勉強する場所が減った、とあざみちゃんは嘆く。
言われてみれば最近事件が頻発している気がする。いや、元から明星市は犯罪のるつぼだが。以前よりも事件が目立っているような……。
強盗、放火、強姦、薬物。全部この半月の間に第四区だけで起こった事件だ。全校集会のときに校長先生が注意を呼びかけていたのを覚えている。一つ一つはこれまでにも発生していたが、こんな短期間で一度に起こるのは初めてだ。
「ターゲットに殺された殺し屋もいるみたい」
殺された? と私とあざみちゃんが怪訝な声を揃えた。
「それって、単に弱い殺し屋だったんじゃなくて?」
「熟練の人よ。少なくとも私よりは強い。そんな人が殺されている」
一筋縄ではいかないターゲットが現れ出している。
それはヤクザとか、そういった強くて恐ろしい集団といった意味ではなく、単体で強い人間という意味。一対一ならまず確実に殺し屋はターゲットを殺すことができていた。しかし、最近そうもいかなくなっている。真理亜さんのような素人ではない殺し屋が負傷するだけでなく、ここまで危険視するくらいには強い人間が増えている。
気を付けて、と彼女は腕の包帯を擦りながら言う。
「近頃の明星市はどこかおかしいから」
彼女の忠告を、身をもって体験したのはこの日の夕方だった。
夕方、仕事の時間。私は第七区へ向かう電車に揺られていた。ちょうど帰宅の時間帯だったようで電車は満員状態だ。ドア付近にもたれ、流れる景色をぼんやりと眺める。
いつもの仕事着に着替えこれから行う仕事のシミュレーションを脳内で繰り返す。東雲さんとの訓練で教わったことを反芻し、動き方を考える。
駅に着けばアナウンスと共に反対側の扉が開閉し、人が出て、それ以上の数が乗り込む。その繰り返し。窓外に見える空はまだ明るい。初夏から本格的な夏になろうとしている今の時期、日が昇る時間も長くなっている。眩しい西日に目を伏せた。
しかし私はすぐに目を開く。突如、車内に劈くような悲鳴が轟いたからだ。
周囲の人々の会話や雑音が一旦止まり、ざわりと不安の声が波打った。隣の車両からもう一度聞こえた悲鳴と怒号に、更に波は大きくなる。
「え…………」
誰かが息を呑むような、引き攣ったような、そんな小さな声で呟いたのが聞こえた。
隣の車両から誰かがやって来たと分かったのは、荒々しく扉が開く音がしたから。その近くにいた人々が何故か一斉に身を引き、そのせいで私も人に押し潰されうぐっと呻いた。
揺らぐ人の波の間、ほんの少しだけ開いた隙間から見えたそこには一人の男性が立っていた。姿はすぐまた人に隠され見えなくなったが、一瞬とはいえ、その風貌はハッキリと目に焼き付いた。
立っていた中年の男性は、まるでお風呂上がりにビールを飲むような、肌シャツとハーフパンツというラフな服装。電車内でそんな格好ということも少し目立つが、それは些事でしかない。それ以上に彼を目立たせていたのは、衣服にベッタリ付いた鮮血――それと、手に下げられたスイカのような丸い物体。
人の生首。
「キャ――――!!」
その悲鳴を皮切りに車内はパニックに陥った。反対車両に逃げようとする人々と、いまだ状況が掴めずその場に留まろうとする人がぶつかって、あちこちで怒号が聞こえる。押し潰されながらドアの上部にある電光掲示板を見た。次の駅まであと五分。この状況下では、あまりにも絶望的な数字だ。
反対車両へ一斉に向かっても、狭い通路を一度で通れるわけでもなし、切羽詰まった怒声が増えるだけだ。じわじわと情報が伝染し逃げようとする人の数は多くなっていくが、それがむしろ混乱を増幅させている。
男は生首を持つ手と反対の手に血まみれの出刃包丁を握っていた。錯乱した様子でそれを叫び振り回すたび、血が辺りに飛ぶ。近くにいた女性が自分の服に飛んだ血を見て腰を抜かしたらしくその場に座り込んでしまう。男がそれを目に留めないはずもなかった。出刃包丁が振り上げられる。
「あぶな…………!」
止められるはずがない。
ザクッと肉を切る痛々しい音。私がいくら手を伸ばして声を上げようとしたって、混乱する人が密集したこの空間では、すぐに近付くことも男の意識を逸らすこともできない。
咄嗟に顔を庇って腕を切り裂かれた女性が絶叫する。錯乱する女性を見下ろす男はニタニタと粘ついた笑みを浮かべ、肌に興奮の汗を滲ませていた。
ぶつかり押され、肘を頬に打たれながら、なんとか隙間を掻い潜って彼らの元まで辿り着く。もう一度振り上げられた包丁を視界に入れた瞬間、いまだ泣き喚いてしゃがみ込んでいた女性の襟首を掴んで後ろに引いた。紙一重で彼女の首スレスレを包丁が掠める。
女性の体を引きずるように後ろに下げ、その前に立ち塞がる。男が私を目で捉え、間髪入れずに包丁を振るわれ、腰を捻ってそれを避ける。反射的に指が服の内側に伸びたが、こんなに人の目がある場所で刃物を出すわけにはいかない。
避け続けていれば五分は稼げるかもしれない。男の注意を私に引き付ければ周囲に被害は及ばない。
だが男は突然包丁と同時に足払いをかけてきた。包丁に気を取られ不覚にもバランスを崩してしまう。膝を折ってしゃがんでしまった私はすぐに立ち上がろうと顔を上げ、迫ってくる切っ先を目にした。
「ぐっ!」
咄嗟にパーカーの裾を顔の前に引っ張る。ピンと張った布を包丁の切っ先が裂いた。眼球ギリギリ寸前で止まった刃先にゾッと肝が冷える。すぐに服を引っ張って距離を取ると、いかにも不満気な男の顔が見えた。
素人じゃない。こういった荒事に慣れている。
薬でもやって錯乱した人物かと思っていたが、もしかしたら違うかもしれない。でもだったらこの人は自分の意思でこうして電車に乗り込み、冷静に人を刺して、楽しんでいるただの異常者だ。
男は生首を振り回す。断面から飛んだ血が頬に付き、もう半歩男から距離を取った。長い髪をした女性の首。誰の首なのか、いつ死んだのか、もしかしたら隣の車両にいた乗客か。
一瞬背後を見てみたが近くに人はいなくなっていた。まだ車両には大勢の人が残っているが私達の周囲からできるだけ遠ざかろうと、小さな空間ができていた。さっき後ろにいた女の人も、心優しい誰かに介抱されているようで私達からは離れた場所にいた。
次の駅まであと一分。
「…………ほら、来いよ!」
男に向き直りわざと乱暴な口調で煽ってみた。案の定、男は興奮した様子で包丁を大きく薙いだ。顔に当たる寸前、大きく体を沈めてそれを避ける。
ギィンと甲高い金属音。包丁がドア付近の手すりにぶち当たった。振るった力の全てが自分に返ってきた男は、ぶるりと衝撃に体を震わせた。
その隙に彼の懐に潜り込んだ私はバネのように跳んで頭突きを顎に食らわせる。見事な音がして彼の顔が仰け反った。手から離れた生首が床に落ちるまえに掴み取る。不快感を押し殺しぐっと喉を震わせて、私は背後の座席に飛び乗った。男がハッと顔を戻した瞬間、ごめんなさい、と心の中で謝りながら生首を彼に向かって投げ付けた。
「おりゃっ!」
当たりはしなかった。が、彼の気を少しでも生首に向けられればいい。男が思わず、飛んでいく生首に視線を向けた一瞬。
電車がホームに着くアナウンスが流れる。窓の外、電車を待つ人々がみるみるうちに後ろに流れていく。まだ速度が落ちきっていないこの瞬間、私の行動が見られていなければいいのだけれど。
座席の手すりとドア付近の手すりの隙間。そこから飛び出し、男の顔面に靴底を叩き付けた。
仰向けに倒れた男の胸に踵をねじ込むように着地すると、うっと苦痛に呻いてその顔が歪む。包丁を蹴って遠くへ飛ばし、トドメに腹部を強く踏み付けた。
電車が完全に止まり、ドアが開く。途端わっと車内にいた人々がホームに駆け出した。全員が全員叫びながら、ホームにいた人を押し退け逃げていく。人が殺されたぞ、という叫びを聞き近くの駅員さん達が青ざめた顔で駆け寄ってきた。
サッとフードで顔を隠し人混みに紛れるようにしてこの場から逃げ出す。私のことを見ていた乗客がちょっと君、と呼び止めてくるも、無視をした。事情聴取なんてされたらナイフが見つかってしまう。
しばらく電車は控えなければ。
ああもう、と嘆き私は一層フードを深く被った。
「――――っていうことがあって」
待ち合わせ場所で東雲さんと合流した私は、お喋りオウムに行く道中、さっきの出来事を彼に語った。
思い返してみればあの人は新聞に乗っていたという傷害事件の犯人だったのだろうか。まだ捕まっていないと新聞では言っていた。確信は持てないけれど恐らくは彼だろう。
大変でしたよとボロボロになったパーカーを見せながら嘆く私に頷き、東雲さんは神妙な顔をする。
「おかしいな」
「何がですか?」
「最近変な事件が多い」
「あ、それ真理亜さんも言ってました。物騒なことが増えてるって」
あと敵が強くなってるとも、と言えば彼はその目を一段と険しくした。私よりも数多の案件に関わっている東雲さんは、真理亜さんの言葉の意味をより身に沁みて理解したのかもしれなかった。
気がかりは如月さんによって明確化された。お喋りオウム、カウンターに肘を突く如月さんは私の疑問に笑顔で頷いた。
「その通り。近頃猟奇性の高い事件が頻発している。第八区や九区だけではなく、第一区や二区や……とにかく明星市全体にね」
分かりやすく最近の犯罪数が図式化された紙を渡され、私も、そして東雲さんも目を見開いた。
この数ヶ月でぐんと市内の犯罪数が増えている。その数はいままでの二倍。ありえない、とかぶりを振るも本当だよと如月さんは現実逃避の暇さえ与えてくれなかった。
「どうしてですか? ここまで事件が大量発生したことは、今までないのに」
「今までとは違うんだよ」
「え?」
如月、と東雲さんが低い声で詰め寄る。オオカミの刺すような眼光を前にしても如月さんは態度を変えず、何かな、ととぼける。
「情報はいくらだ」
「今までよりちょっーと素敵な情報だからね」
「前回の報酬分から引いておけ」
よぅし、と声を弾ませて笑顔を浮かべた如月さんはすぐその顔を引き締める。すっと温度の変わった冷たい顔を見て反射的に身を固くした。
「確かに事件は増えた。だがこれまでだって犯罪数が今と同じくらい、もしかしたらもっと増えていたっておかしくなかったんだ」
「これまで? って、いつからいつまでのことですか?」
「いつからいつまでも。十年前だって三十年前だって一年前からだって、いつでも今と同じ状況になっていたかもしれないのさ。そうならなかったのは君達が真面目に仕事をしてきたからだ」
「んぅ?」
「如月、もう少し噛み砕いて説明しろ」
ごめんごめん、と如月さんは笑った。くるりと人差し指が宙で弧を描く。空に浮かぶ情報をかき混ぜるようにくるくると動く。
「君達殺し屋は怨恨や金で人を殺すときとはまた別に、犯罪者を始末する依頼を受けることもあるだろう? 表立って事件を起こす前に、もしくはこれ以上被害を広げる前に、犯人を殺す役目を与えられるのが殺し屋だ。裏の世界から表の世界に溢れそうになる汚れを掃除する処理係。だけど、最近はゴミが表社会にも溢れてしまっている。どうしてだか分かる?」
「処理係の人手が足りなくなっている、とか?」
「ある意味正解で、ある意味間違いだ」
教えてくださいよ、と言いかけてふと今朝のことを思い出した。
腕に包帯を巻いていた真理亜さん。ターゲットに殺された殺し屋の話。
――気を付けて、近頃の明星市はどこかおかしいから。
「足りない、じゃない。――――少なくなっている?」
「正解」
は? と東雲さんが眉を潜めた。聡明な彼は即座に意味を理解し、唸るような吐息を零した。
「それからもう一つ。第十区の人間が徐々に他の区で暴れるようになっている」
なんだと、と東雲さんが僅かに語気を荒らげた。私も言葉には出さなかったが、ぎゅっと身を強張らせた。
「強いターゲットが増えているって? そりゃ正解だ。何事にも素人がいれば玄人がいる。それで言えば第十区の住民達はほとんどがプロの犯罪者だ。今まで通り簡単には倒せない、返り討ちにされる可能性だって高くなる」
殺し屋が少なくなっている。だから凶悪犯罪を止める人間がいなくなり、結果として犯罪が表にも広がっている。
なるほど。図書館の事件、真理亜さんの怪我、私が遭遇したあの男、殺された殺し屋。全てが繋がってきた。恐らくその犯人のほとんどが第十区で過ごしていた人なんだ。
「明星市の犯罪者の多くは刺激に飢えている。もっと強烈なことがしたい、もっと過激なことがしたい、そう考えてより治安が悪化した場所へ行こうとする。だけど第十区で長いこと暮らしているのが飽きる奴もいる。他の場所で暴れたいって願って、他の区へ出てこようとする奴がいる」
それを止めるのが殺し屋だ。
だけど、第十区から出てきた人達だって殺されるために出てきたわけじゃない。
「殺されないようにするにはどうしたらいい? 好き放題暴れるにはどうすればいい? 簡単さ、邪魔する連中を先に殺してしまえばいい」
「そんな無茶苦茶な…………」
「現にそれが起きている」
如月さんはくるりと回していた指を止め、その指先でピタリと、私と東雲さんを貫いた。
「『殺し屋殺し』さ」