表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
115/164

第113話 ハッピーバースデー

 けたたましいブレーキ音が響き、私の体が地面に倒れた。大きく車体を揺らした車は止まることなく猛スピードで走り去っていく。

 仰向けに倒れた私のぼうっとした目が空を捉える。視界いっぱいに広がる青空。耳には悲鳴と怒号という野次馬の声が騒がしいのに、それを意にも介さずゆったりと薄い白雲を運ぶ空は、どこまでも呑気に見えた。

 歩行者信号が青になったようで、空だけを映していた視界の端から、何人かが私の顔を覗き込んでくる。不安と好奇心が半々に混じった視線。それに答えるように呻く。打ち付けた背中がジンジンと熱を持っていた。

 けれどそれでも、私は知らず知らず口元に笑みを浮かべ言う。


「……痛いよ二人とも」


 私を抱きしめるように蹲っているお父さんとお母さん。二人の手は随分力強く私を抱きしめ、内臓が飛び出るのではと思うほどに苦しい。

 跳ねるように体を起こした二人の顔は蒼白だった。動揺し、激しく震えた目が私の体に怪我がないかを確かめる。

 上体を起こして地面に視線を落とす。私達の僅か数センチ横にタイヤ痕が残っていた。激しく道路にタイヤを擦り付けたらしく、アスファルトの上に残った痕から、湯気とゴムの嫌な臭いが上っていた。お母さんの持っていた鞄が道路に転がり、そこから飛び出したノートやポーチもタイヤ痕を残していた。離婚届を淹れた茶封筒も轢かれ真っ二つに引き裂かれている。

 怪我は、とお父さんが上擦った声で訊ねてくる。大丈夫だと答えれば心底安堵した表情を二人は浮かべ、だがすぐに顔を真っ赤にして眉を吊り上げた。

 あ、と思った瞬間お母さんの平手が頬に飛んでくる。とんでもない勢いに頭が揺れた。痛みを感じる間もなくほぼ同時にお父さんの拳骨が頭に落とされる。これは避けてはいけないと甘んじて受けたが想像以上に痛い。容赦ない打撃に悶絶する私に、お父さんの大地を震わせるような雷が落ちた。


「馬鹿かお前は!」


 ごもっとも。返す言葉もなかった。

 痛みに潤んだ目で二人を見る。真っ赤な顔で怒るお父さんは凄まじい迫力があった。ある意味では仕事中に遭遇するヤクザや犯罪者よりも恐ろしい。お母さんもまた頬を引き攣らせて強く私の両肩を掴む。感情を露わにしたその顔を見ていると、胸が締め付けられた。


「何を考えているんだ! 急に道路に飛び出すなんて、死んだらどうする!」

「自分から飛び出すなんて、どういうつもりなの!」

「…………私は二人にとっては邪魔なんでしょう?」


 ぼそりと小声で呟いた。聞こえなくてもいいと思ったが、二人にはハッキリ聞き取れたらしい。一瞬呆けた顔をした二人が一層顔を赤くする。


「一体いつ誰がそう言った!」


 クラクションが鳴る。ハッと我に返って周囲を見れば、とっくに赤になった歩行者信号が見える。何台もの車が座り込んでいる私達にクラクションを鳴らしていた。

 慌てて私は立ち上がり、まだもの言いたげな顔の二人も立ち上がる。その際お母さんが自分の荷物を取り、破れた封筒を指でつまんだ。


「……もう少し話し合いが必要みたいね」


 お父さんを見るその目に、微かな悲しみが滲んでいた。細い指先が封筒をぐしゃりと丸める。


「私とあなただけじゃなくて。和子も」


 お母さんの手が私の手を取った。それを見て、お父さんももう片方の手を握ってきた。二人に手を握られ連行されるように歩き出す。

 周りの視線を気にせず二人は歩く。市役所の方向ではなく、家の方向へと。





 待ち望んでいた展開のはずなのに、極度の緊張が私の体をコンクリートみたいにカチカチに固めていた。乾いた喉は唾を飲み込むことさえ難しい。握り締めているだけの拳には手汗が滲み、さほど暑くないはずなのに背中が濡れている。

 この間の家族会議。今はあのときと似ている。もしくは、それ以上に空気が張り詰めている。私の向かいにすわるお父さんとお母さんから向けられる無言の威圧に、ただ、身を縮めて俯くばかりだ。

 家に帰って来てすぐ始まったこの話し合い。話し合いと言っても二人はじっと私を凝視しているだけで何も言ってこない。


「…………ごめんなさい」


 私もずっと無言だったが、ついに耐え切れなくなり言葉を放つ。本当はもっと前に言うべきだったと分かっていたが勇気が出なかった。

 落とした視線がテーブルの木目を映す。私が生まれたときからある大きなテーブルには、小さな傷痕が至る所に培われている。どっしりと構えたそのテーブルは、子供のときから私を見守ってきた。一人でご飯を食べているときも、いじめられて泣いているときも、こうして話し合いをしているときも。

 濃い色の面に俯く顔の輪郭がぼんやりと浮かんでいた。頑張れ、と言ってくれているように見えた。


「あなたは死にたいの?」


 お母さんが静かな声で聞いてきた。ストレートな言葉に胸を突かれるが、皮肉でも何でもなく純粋に肯定か否定かを問うているのだと理解し、私は二人を上目がちに見て答えた。


「――……思ってたよ。前は、死にたいって思ってたよ。毎日」


 二人には決して言わなかった感情を吐露すると、ぐっと息を呑んだのが空気に伝わった。

 金井先生の言う通り、何も気づいていなかったんだなぁ。

 ぽつぽつと私は二人に今までのことを言って聞かせた。学校でのいじめのことを。それは辛うじて親に言える程度の、表面だけを掬い上げた話だったけれど。一条さんからどんなことをされたかとか、保良さんとのこととか、東雲さんと出会うまでになったこととか、そういうことまでは言えないから。

 死にたいって思っていた。毎日毎日。朝が来ることが怖くて、ずっと夜のままだったらいいのにと何度も願った。

 本当に死のうとしたことだってあるんだよ。


「あなたが」


 私の話を聞き終わったお母さんが、噛み締めるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。


「あなたが死のうと思っていたのはいじめだけ? 私達のことは関係しているの?」

「…………二人がもう少しでも私のことを気にかけてくれていたなら」


 多分ほんのちょっとは楽だったかもしれない。そう言うと、お母さんはテーブルの上に置いた自分の手を擦った。拳を形作るその手には、よほど力が込められているのだろう。指先が真っ白になっていた。

 学校にも家にも、どこにも居場所がなかったから死のうと思った。どちらかにでも居場所があれば良かった。私が存在していてもいいと肯定してくれる場所が、人がいれば、それだけで良かった。

 いつの間にか自分の顔が上がり、まっすぐ二人を見つめていることに気が付いた。お父さんもお母さんも私から視線を逸らさない。目は口ほどに物を言うらしい。だが今の二人が何を考えているのか、私には分からない。


「俺達が結婚したのは、周囲からの勧めと、愛情を理解できるか試そうとしたからだ」


 お父さんがさっきと同じ内容を繰り返した。

 改めて言われると、ズキリ胸が痛む。私を愛していたから生んだのではないとハッキリ突き付けられているから。家族を愛しているわけじゃないと、ハッキリ伝わってくるから。

 結婚してそれでも相手に愛情を抱くことができなかったお父さんとお母さん。その時点で諦めていれば良かったのにと、ほんの少し思った。私を生んだのだって同じ理由なのだろう。子供ができれば愛情を抱けるかと試す思いがあったのだろう。私は実験動物みたいだ。

 いっそ生んでくれなければ良かったのにと思わないでもない。だってもし生まれることもなかったら、私はこんなに辛い思いをしなくても良かった。


「聞いたよさっきも同じこと」

「……できなかった。俺達はお互いのことを愛せなかった。お前のことも愛せなかった」

「……………………」

「だけどお前が生まれたことが邪魔なわけじゃない」


 力強い声が耳朶を打つ。明瞭な輪郭を持った声は私の心を柔く握った。


()()を作りたかった」


 お父さんが言った。それだけでは意味が通じない言葉だが、お母さんは理解したように小さく頷いた。


「親父が作っていたような、幸せな家族というものを俺も作りたかった。当たり前のように過ごしていた実家と同じような家族を自分も作りたかった。……それがこんなにも難しいものだとは思わなかった」

「誰かを愛し、愛する子を産み、幸せになるなんて生活を送ってみたかった。同じ思いの彼とならば夢を実現できるんじゃないかってそう思っていた」


 幸せな家族の作り方。そんなの簡単だ。ただ愛すればいい。一人一人、愛していけばいい。たったそれだけのことなのに。でもそれだけのことが、二人には酷く難しいのだろう。

 まるで私が、二人の思いを全て受け継いだかのようだ。私は色んな人のことが好きだ。好きな人、好きな友達、好きな仲間…………。

 好き、愛してる、皆大好き。普段からぽんぽんとそんな思いが溢れる私と、目の前の二人は全然違う。笑えるくらい。


「できなかったの。だから色んなことを試してみた。親ってどんなものなのか、家族ってどういうものなのか何冊も本を借りて読んだ。それでも何も分からないの。家族とか親とかがどういうものなのか、ちっとも理解できないの」

「周りの人間にも聞いた。夫婦というものを作る方法を。家族に対し、どうすれば正解なのかを。だが聞いても分からない。彼らの説明が、やり方は分かっても、呑み込めない」


 二人は交互に言った。本当にやったのだろうと、その真剣な眼差しを見れば理解する。

 思い出す。お母さんが三者面談のときに金井先生に怒鳴っていた内容を、お父さんの部下さんが言ってた不器用なんだよって言葉の意味を。こういうことかと理解した。

 二人は親の立場を放棄していたわけじゃない。ただ模索していただけだ。自分達がどうすれば親であれるのか、家族を形作れるのかと色々考えていた。

 それが表面に見えなかったのは単に私と二人の合う頻度が少なかったからと、二人の表現方法があまりに難しいものだったから。


「……理解なんてできないよ。どれだけいい家族の話を聞いたって、それは自分の家族じゃないんだよ」

「じゃあ、どうしようもないじゃない」

「やってみなきゃ。話に聞くだけじゃなくて、笑って、色んな話をして、傍にいて……もっと、さ。もっと…………」


 言葉が窄んでいく。喉が熱く、声が上手く出てこない。やってみなくちゃ。いくら知識を身に着けたって行動に移せなきゃ意味がないんだから。

 二人が最初から私にそれを伝えていれば。行動に移していれば。こうなることは、なかったのかなぁ。

 ぐっと涙を飲み込む。鼻を啜り、熱い息を吐いて、泣くのを堪えながら私は二人に言った。


「これから家族を作っていこうよ」


 最初から完璧な家族像なんて作れないし、作ろうとしなくていい。三人でゆっくりと、私達なりの家族を生み出していけばいい。

 私の言葉に二人が小さく目を見開いた。お父さんが唇を噛み、ぐっと目を伏せる。口元を押さえる手が小刻みに震えていた。

 お母さんが席から立ち部屋の外に出る。別の部屋から何かを漁るような物音がして、お母さんは何かを抱えて戻ってきた。テーブルの上に置かれたのは見覚えのあるアルバム、それと小さな本と箱。


「アルバム……と?」

「あなたの記念日を形に残した方がいいと言われて」


 お母さんが言いながらアルバムを開いていく。昔の自分達が映った写真を見つめるお父さんとお母さんの目は、懐かしんでいるのか、何も考えていないのか、微妙な目だ。

 アルバムは以前見た。気になるのは本と箱だ。本の方が正体がすぐ分かる。可愛い赤ちゃんのイラストが描かれ、母子手帳と記されているからだ。

 渡された母子手帳の表紙を捲る。生まれたときの私の身長と体重、それからいくつかの記載事項。空欄を埋めていく文字の几帳面さに、昔から変わらないんだ、と微笑みが零れる。

 残りは一つ。お父さんと私の不思議そうな視線が箱に注がれた。白い木箱。お母さんが一瞬だけ口角を緩ませ、箱を開ける。開かれた箱の中にあったのは小さな小さな……。


「何これ?」

「へその緒よ」

「えっ、これが? 私の?」


 お母さんの言葉に目を瞬かせる。へその緒だなんて言われなければ分からなかった。

 灰色の丸まった紐状のもの。知識としては知っていても、見るのは初めてだった。想像するそれはもっと長くてぐにゃぐにゃしていて、臓器らしいものだ。箱の中に保管されているそれとは大分違う。

 でも何だか感慨深いものが込み上げてきた。木箱の中、真綿の上にちょこんと乗ったへその緒。私の生まれた小さな証。

 そっと指で触れてみる。ただ固い物に触れただけの感触だったけれど、ふにゃりと口元が笑む。


「取っておいてくれたんだね」


 場所を取るからと捨てずに取っておいてくれた。今まで忘れていただけかもしれないし、特に思うこともなくただ保管していただけかもしれない。でも、嬉しい。理由が何であれ嬉しい。

 ふと木箱から顔を上げると、お父さんとお母さんが私を見ていた。切なさと真剣さの入り混じった瞳に私を映される。僅かにその白目が赤くなっているのは、照明のせいかもしれない。

 和子、とお父さんが私の名前を呼んだ。一文字ずつ区切るようにしっかりとした声で。


「誰かの和になれる子に。決して争わず、和やかに」

「人と人を繋げる子に。あなたの名前にはそんな意味がこもっているのよ、和子」


 告げられた言葉がサッと心に流れ落ちていく。満たしていく。

 和子、という名前。一条さん達から、和子(かずこ)ってからかわれたり、古臭いって馬鹿にされる私の名前。だけど一文字変えたらネコになるわねって言ってくれた周りの言葉とか、東雲さんに和子って呼ばれたときの喜びとか。色んな思いが心を駆け巡っていく。


 誰かと誰かを繋げる。それはきっと、お父さんにもお母さんにも、決してできない。

 二人にない思いを託すような。

 和子(わこ)という私の名前。


「ごめんなさい。産むんじゃなかったなんて嘘よ。あなたを産んで愛情が理解できなかったとしても、それが間違っていたとは思わない」


 私の手を柔らかな手が包んだ。その上から、一回り大きな手が更にそれを包み込んだ。

 温かい。ああ、こんなに、温かい。


「すぐにはやり直せないし、上手くいくとも限らないけれど。もしかしたらまた失敗してしまうかもしれないけれど」

「もう一度だけやってみよう。今度はもっと、二人で上手くやってみよう」


 その言葉に私は小さく笑った。三人でだよ、と告げた言葉に一瞬瞬いた二人はすぐに笑みを浮かべる。私が浮かべる笑顔を少し不器用にした顔は、やっぱりいつも鏡で見る顔と似ていた。


「これから家族を作っていこう」


 世の中には色んな家族の形があって。きっとこれも、一つの家族って呼べるんじゃないかな。







 目覚まし時計がなった瞬間に飛び起きる。寝ぼけ眼で針を見て、朝の七時だということを確認する。学校に行かなくちゃ。

 準備に余裕がある時間帯だとしても朝はどうしても慌ただしくなる。ベッドから素早く降り制服に着替えた。朝食にはオムレツを作ろうかそれとも魚を焼こうか、と考えながら部屋を出て。


「おはよう」

「えっ、あっ?」


 エプロン姿のお母さんがキッチンから声をかけてきた。目をぱちくりさせて素っ頓狂な声を出す私を、早く座りなさいとテーブルに促す。そこにはお父さんが既に座っていて、コーヒーを飲みながら新聞を広げていた。

 幼い頃に見た光景。まだ夢を見ているのかと思ったとき、昨夜の記憶が蘇った。あ、と思わず声を上げる私にお父さんが新聞から顔を上げる。


「座りなさい」

「あ、はい」


 お父さんの向かいの席に座って姿勢を正す。何だかドキドキして、妙に落ち着かない。

 昨夜三人で言ったこと。上手くやっていけるだろうか。家族のお試し期間のようなこれから、上手くいかなかったらそのときは今度こそ離婚届を提出しに行くのだろう。できるかな。家族らしく……。

 と、バサッと音がして顔を上げた。眉間にしわを寄せたお父さんの目と目が合う。和子、と呼ばれて肩を跳ね上げた。


「なっ、何かな!?」

「……………………」

「……えっと?」

「おはよう」


 それだけ言ってお父さんはまた新聞を開き、黙々と読み進める。呆けていた口がじわじわと笑みを形を描いていくのが見ずとも分かった。おはよう、と弾ませた声は思っていたよりも大きく、お父さんはぐっとしかめっ面をしてしまったけど。

 三人で朝食を囲むのは本当にいつ以来だろうか。始終笑顔で食事をし、食器洗いを手伝うときも笑顔の私にお母さんが少し呆れた顔をして、それからスポンジを扱う私に言う。


「手慣れてるわね」

「へへ、何度もやってるから。……そうだ。お母さんも毎朝準備するの大変でしょ? 次は私が作ろうか」

「あなたが? できるの?」

「簡単なものなら任せて!」


 料理の先生がいるからね、と手に付いた泡を払って胸を張る。簡単なものなら及第点をもらえるはずだ。野菜スープとか、焼き鮭とか、だし巻き卵とか。

 いつの間に、とお母さんは少し目を丸くした。洗い終わった皿を拭きながらぽそりとした声が聞こえた。


「明日は期待しようかしら」

「明日……明日、ね。うん。任せて」


 明日。明日もまた、二人とも家にいる。お母さんの言葉に私は満面の笑みを浮かべて頷いた。

 食器も洗い終わり、仕度を整え家を出る時間になる。私が登校する時間のちょっと後に二人も出るらしい。廊下に出て玄関で靴を履き、扉を開けて。


「……………………」


 いつものように出る前に。私は振り返って言ってみた。


「い、行ってきます」


 足音が聞こえた。パタパタとスリッパで床を叩く音。それから部屋に繋がる扉が開き、お父さんとお母さんが顔を出す。


「行ってらっしゃい」


 気を付けるように、という言葉を付け足して、二人は私を見送ってくれた。

 嫌になるくらい毎朝目にしていた、誰の声も返ってこない暗い廊下は、今はない。

 くしゃりと顔に笑みを浮かべ、私は二人にもう一度、行ってきますと声を張り上げた。








「――――こっの……馬鹿!」

「ごめんなさぁい!」


 仕事の話だと呼ばれたお喋りオウム。先に待っていた東雲さんは、来店した私を見ると即座に近付いて額にチョップをかましてきた。凄く痛い。

 額を押さえて悶絶しながら蹲る私に、ガミガミという効果音がピッタリなほど東雲さんは怒る。どうやら私が昨日道路に飛び出したことを如月さん経由で聞いたらしい。延々と続きそうな説教を回避しようと飛び出した理由を伝えてみたが、彼の怒りはすぐに治まりそうにはなかった。


「本当に死ぬ気だったのか!? あと少し位置がズレていたらどうなってたと思ってる!」

「本気で死のうとはしてませんでしたよ。ほら、私、反射神経凄いでしょ? いざとなったら避けられるかなって……」

「車と人間の速さを理解してるのか!」

「そ、それにあの車っ! 運び屋さんの車でしたから!」


 はぁ? と東雲さんが疑問の声を上げる。ねっ、と如月さんに顔を向ければ彼もああ、と頷いた。


「運び屋の車を一台依頼されたから、どこか行きたい場所でもあるのかと思ったら……まさかああいう使い方をするとは。初めての使い方だよ」

「あそこの人達皆運転上手いから、人をギリギリで避けるくらい訳ないかなって。あんなに迫力ある走り方をしてくるとは思ってませんでしたけど」


 『道路に飛び出す私をギリギリで避けてください』。私は事前に、運び屋さんにそう依頼した。珍妙な依頼に戸惑うことなく快諾してくれたのは流石プロといったところか。

 一条さんが言っていた親の愛を試す方法。東雲さんに聞いたときに思い付いた方法がこれだった。運び屋さんなら上手く避けてくれると信頼したからできたことだ。

 結果は望んだ通りだった。お父さんとお母さんと話し合いをするきっかけができたし、()を確かめることができた。

 愛が分からないと言っていた二人だけれど。私を守ろうとしてくれる、そんな思いはあるみたい。


「…………つまり、計画して行ったことなんだな?」

「そういうことです。上手くいって良かった! いやぁ、多少は覚悟してたけど本当に死ぬかもって思いましたよ」

「そうかそうか。如月もグルで、知ってたのか」

「あ、まずい」

「勿論知って……ってあれ、東雲さん、何その拳。待ってちょっと本気の拳骨はやめ」



 額を押さえて涙目の如月さんに手を振られ、私達はお喋りオウムを後にする。空はまだ薄らと明るさが残っている。紫色の空は次第に紺色に変わっていくだろう。

 近頃何かと殴られ痛む額を擦っていた私に東雲さんは、今日はもう帰るといい、と告げた。東雲さんは別件で何件かやることがあるようだが、今日は特に私がする仕事はないらしい。お疲れさまでしたと帰ろうとした私に彼は言う。


「両親とは大丈夫なのか」

「はい」


 即答する。無表情でも、彼が私のことを心配してくれていることはひしと伝わってきた。答えるように両手を握り、意気込んだ笑顔を見せる。


「これからは三人で頑張ろうと思ってるんです」


 今までは一人だったけど。これからは三人で。

 東雲さんは私の言葉に納得した様子だった。ゆっくりと、確かめるように頷く。


「そうか。なら、いい」

「はい」

「和子」

「何ですか?」


 言おうかどうか僅かに逡巡した顔をした東雲さんは、ふっと息を吐き、柔らかく微笑んだ。


「誕生日おめでとう」


 場を去ろうとしていた足を止める。一拍置いて、少し離れていた彼との距離を駆け足で縮める。手を取って、喜色を顔に湛えた。子供っぽさの抜けない私の頭を彼は撫でてくれる。

 六月六日。私の誕生日。

 今日で私は十八歳になった。




「うっわー!」


 家に帰ってきてお母さんの手伝いをしようとキッチンに向かった私は、そこに置かれた大きなケーキに目を奪われた。

 ドンと迫力のある大きさのスポンジに、輝くような白いクリームがたっぷりと塗られている。スポンジの間にも上部にも私の好きな苺が溢れんばかりに飾られていた。何よりツヤツヤと輝くチョコレートの板に書かれているのは、『和子ちゃんおめでとう』というメッセージ。


「お母さん! これ何!?」

「メッセージが書いてあるでしょ。あなたの誕生日ケーキよ」

「誕生日ケーキ……!」

「あの人も今日はもうすぐ帰ってくるらしいから。帰り道でロウソクを……噂をすれば」


 タイミング良く玄関から鍵を開ける音がした。廊下に飛んで行って靴を脱いでいるお父さんを出迎える。


「おかえりなさい!」

「ただいま」


 さっきお母さんと同じやりとりをしたときも思ったけど。たったその言葉だけで胸が熱くなる。行ってらっしゃい、行ってきます。ただいま、おかえりなさい。簡単な挨拶だけど誰かとそんな言葉を交わせることが凄く嬉しい。

 お父さんから小さな袋を手渡された。茶色いその袋を開けてみると、たくさんのカラフルなロウソクが出てくる。愛らしいパステルカラーのロウソクに、キラキラと目を輝かせた。

 夕食後、テーブルに出したケーキにロウソクを立てる。十八本のロウソクは中々に見事なものだった。数字型のロウソクの方が良かったかと言うお父さんに、こっちの方がいいと首を振る。火を付けて電気を消せば、幻想的な柔らかい光がゆらゆらとケーキを覆うように揺れた。

 誕生日ケーキなんて初めてかもしれない。子供のように無邪気にはしゃぐ私に、お父さんとお母さんが苦笑する。


「誕生日プレゼントも用意した方がいいのかと思ったんだけど、高校生が好きなものなんて分からなかったから……」

「明日買ってこよう。何がいい、言ってみろ」

「何でも? 何でもいいの?」


 肯定の返事を聞き、それじゃあ、と興奮した声を上げる。


「物じゃなくていいから。今日、三人で寝たいな。ほら、川の字。子供みたいに」


 家族揃って川の字で眠りたい。もう幼くないのにそんなことを頼むのは恥ずかしかった。それでも頼んだのは、羞恥以上に切望が勝っていたから。

 二人が顔を見合わせる。やっぱり子供だと思われただろうかと顔が熱くなる。だけど取り消しの言葉は言わず黙って見つめ続けていると、その顔に呆れとも微笑みとも判別の付かない笑みが浮かんだ。

 布団を出さなくちゃね、とお母さんが言った。

 途方もない喜びが私の胸を満たした。


「和子、誕生日おめでとう」

「もう十八になったんだな。おめでとう、和子」


 感傷を滲ませたそっくりの微笑みで、二人は私を見つめ、もう一度おめでとうと言った。

 家族。我が家の家族像。まずは、形から。

 誕生日ケーキを用意してくれたのはきっと私を愛しているからじゃない。二人とも歩み寄ろうとしてくれているんだ。形式だけでも私を祝って、そうして、形を作ってからゆっくりと中身を作っていこうとしているんだ。

 それでもいい。今はそれでいい。いつか本当に、私が望んでいた家族ってものを手に入れることができるまで。三人で頑張っていこう。


「お父さん、お母さん」


 目に溜まった涙でぼやけた視界。ロウソクの明かりに照らされる。

 とっても不器用だけど、世界で一番大好きな私のお父さんとお母さん。


「二人とも大好きだよ」


 大きく息を吸い、ロウソクの火を吹き消した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 気づいたら涙で文字がぼやけてました。もう絶対無理って思ってたのに、本当に本当に和子ちゃんたちにとっての『家族』の形を修復することができて良かったです。まさか親の愛を確かめるのに自分の身を犠…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ