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第111話 三者面談

 いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない、と気合を入れ直した矢先のことだった。職員室に呼ばれた私は金井先生の席の前で、彼と向かい合っていた。

 先生は困った表情を浮かべている。どこか弱気な性格が垣間見える顔は今日も変わらず、それがなおさら私の申し訳なさを煽る。


「三者面談の件ですが」

「……分かってます。その、必ず親を連れてこないと駄目ですか?」

「そうですね、三者面談なので、やはり一番身近な保護者の方がいてくれた方が。どうしてもというなら親戚の方でも結構ですが、秋月さんは確か……」


 無言で頷く。親のどちらにも兄妹はおらず、連絡を取っているような親戚は一人もいない。流石に、三者面談に冴園さんや東雲さんを連れてくるわけにもいかないだろう。

 期限は明後日で終わりだ。来週からは予定があった人から面談がスタートする。まだ提出していないのはよく宿題を忘れてくる男子と、うっかりプリントの存在を忘れていた女子と、私だけらしい。

 他の子はもう提出したのか、早いな。一条さんも出したんだろうか。ぼんやりと思いを巡らせてから、私は金井先生に頭を下げて言う。


「明後日までには必ず提出します。すみません」

「い、いえ。出してくれればいいんです。…………秋月さん」

「はい?」

「大丈夫ですか?」


 咄嗟に大丈夫です、と答えてから、それが提出期限のことではなく私の家庭のことを指しているのだと察する。

 大丈夫ではない。正直、離婚問題について協議している二人に三者面談のことをこれ以上切り出すことはできない。

 私はあの日以来最低限しか家に帰っていない。着替えを取りに戻るときとかそれくらいで、あとは全て東雲さんの所で過ごしている。幸いにも両親とは今のところ顔を合わせていないし、連絡も来ない。安堵すると同時に離婚話がどこまで進んでいるか気になる。私がいないから話は一時中断しているのか、それとも既に届が提出されているのか。娘が夜になっても帰ってこないことに気が付いているはずなのに。東雲さんの家に寝泊まりしていることは流石に知らないだろうが、それを知ったら二人は何か反応を示してくれるだろうか。

 あのときの言葉が今も深く胸に突き刺さっている。あなたなんか産まなければ良かった。二人と普段会わない分、親子喧嘩というものもあまりしたことがなかったし、そのときもそんな言葉は言われなかったはずだ。初めて言われた、あんなこと。胸に開いた穴からダクダクと血液が流れ、皮膚を伝い地面に吸い込まれていくような気分だった。


「大丈夫です。二人とも、今日明日は仕事に一区切りつく頃ですから。話をしてみます。大丈夫ですよ」


 口からすらすらと嘘が流れていく。大丈夫なわけがない。我ながらなんて薄っぺらい言葉だろうと思った。

 すぐに嘘はバレると思った。しかし意外にも先生はそれを信じたのか、何度も頷いて胸を撫で下ろした。


「秋月さん、お願いします」

「分かりました」


 ありがとうございます、ともう一度頭を下げて、それから先生に背を向ける。職員室を出ていく際にはぁ、と重い溜息が零れた。

 何をお願いされたというんだ。





 泣いているだけで解決する問題などない。

 七回コールが鳴っても通じない電話を切る。携帯を鞄にしまい、そのビルを見上げる。薄紫色に変わっていく空の下で、窓から漏れる明かりが段々と光を主張していた。

 お母さんの勤務先。大きな建物丸々一個が全て自社のものであるということが、会社の規模がどれほどのものかを物語っているように見えた。

 受付に向かう。柔らかな笑顔を浮かべたお姉さんがいらっしゃいませ、と事務的な挨拶を述べてきた。学校帰りに直接寄ったせいで制服姿の私をどう思っているのか、その張り付いた笑みからは読み取れない。会社という雰囲気に少し緊張しながら訊ねる。


「えっと……秋月沙織様はいらっしゃいますか? あの、経理の」

「秋月ですね、畏まりました。失礼ですがお客様のお名前を伺っても?」

「あっと、和子、です。秋月和子」


 秋月、と繰り返して言ったお姉さんがはたと顔を変える。秋月ってことは娘さん? と、さきほどまでの事務的なものとは違う、多少くだけた雰囲気の言葉に頷く。途端に彼女は自然な笑顔を浮かべた。


「へー、娘さん! 秋月さんの? へー、言われてみれば目元が少し似てるかも」

「ど、どうも」


 お母さんの切れ長の目と、私の丸い目は、一番似てないってよく言われる部分だけど。

 受付のお姉さんはしげしげと私を眺めては頷いている。本当にお母さんと似ていると思っているのか、ちっとも似ていないと思っているか。


「まだ高校生? 若いわねぇ! 今日はどうなさったんですか。お母さんに会いに?」

「まあそんなところです。事前に約束とかはしてないんですけど……」

「親族ならアポイントメントなしでも大丈夫ですよ。忙しくなければね。ちょっとお待ちください」


 砕けた口調と敬語の混じった声を発し、彼女は背後の内線を取って電話をかける。しばしどこかと会話をした彼女は電話を切った後、私に向き直って笑顔を浮かべた。


「ちょうど今手が空いたところだったみたい。すぐ来てくれるそうよ」

「そうですか、良かった……」


 言葉通りお母さんはすぐにやって来た。エレベーターホールから姿を現したお母さんは私を見るなり迷惑がる表情を隠さず、開口一番こう言った。


「どうかした? 手短に済ませてもらえるかしら。まだ、やることは残っているの」

「これ書いて」


 つっけんどんな対応をされることは覚悟していたから、私はお母さんが来るまでに鞄から取り出していたプリントを渡す。三者面談の日程表だった。第三希望までの日時を書く欄。前に見せたものと同じだが、提出を先延ばしにしているうちに埋まってしまった日もあり、実質たった数日のうちどこかからしか選ぶことができなくなっていた。


「三者面談。お母さんが来れる日を書いて」

「そんなこと言われても仕事で埋まってるわよ。それに」

「一時間……ううん、三十分で終わるから。無理を言ってるのは分かるけど、有給でも何でも使って、どれか必ず選んで」


 反論を聞く前に畳みかける。今までと違う反抗的な私の態度にムッとした顔をしつつも、お母さんはそれ以上何も言わなかった。

 その手に無理矢理プリントを押し付ける。ぐしゃりと少し歪んだが、気にしない。


「家のテーブルにでも置いてくれればいい。明後日の朝までに書いて。仕事の邪魔してごめん、もう戻っていいよ」


 お母さんの体を反転させ、背中を押す。あまりに乱暴な態度だったろうかと思ったが、お母さんは仕事に早く戻りたかったのか、私の態度に戸惑ったのか、無言で来た道を戻っていく。

 ここでの要件は済んだ。ビルを出ようとする私は、じっと突き刺さる視線を感じ振り返る。受付のお姉さんが呆気に取られた顔で私を見つめていた。視線を受けて、自分の頬が凝り固まっていることに気付く。無理矢理笑みを浮かべぺこりと会釈をした。ありがとうございました、という見送りの言葉に多少の憐憫が含まれていたのは気のせいではないだろう。

 駅に向かって電車に乗る。少しして降り、駅前のタクシーを拾って目的の場所へと向かった。高いビルの並ぶオフィス街。スーツ姿のサラリーマン達が急ぎ足で通り過ぎていく。

 目的のビルは先程のお母さんの勤務先とどこか似ていた。といっても似ているのはビルの高さや外観だけで、一歩中に入ると先程とは様子がガラリと違う。吹き抜けの天井にガラス窓から差し込む夕日。警備員さんが一瞬私に鋭い視線を向けてきた。渋い顔の男性達がロビーの椅子に座って何かを話し合っていたり、疲れた顔の女性が高い声でどこかへと電話をかけている。

 受付には二人のお姉さんが座っていた。一人はスーツ姿の男性と何かやりとりをして笑っている。砕けた笑い声と、男性の首から下がった社員証を見るところ、この会社の人間なのだろう。手が空いている方のお姉さんに近寄って話しかける。


「秋月直人様はいらっしゃいますか?」


 先程と同じような会話を繰り返す。自分の身分も明かしたが、今度の受付の人は特に目立った反応を見せず、淡々と作業を進めていた。私の名前を来客名簿に書いてから電話を取る。


「申し訳ありません。ただいま秋月は外出しております」

「そうですか……何時頃戻るか分かりますか?」

「一時間後の予定です。用件がございましたら、伝言を預かりましょうか」

「んー…………」


 どうしようかと唇を尖らせる。一時間もこのロビーで待っているというのも気が引けるし。

 と、隣の男性がいつの間にかじっと私を見つめていることに気付きドキッとする。短髪の若い男性だ。誰だろうかと思っているうちに、彼はへらっとした笑みを浮かべて頭を下げてきた。


「あれ、もしかして直人部長の娘さん? 部下です、いつもお世話になってます!」


 あっ、と声を上げる。以前駅でお父さんと会ったとき、隣に立っていた男性……。ぼんやりとしか顔を覚えていないが、確か、この人だ。

 さっぱりとした笑顔を浮かべた彼は、受付のテーブルに付いた肘をこちらに寄せてくる。今日はどうしたのと聞く彼に、お父さんに話があって、と答えた。


「部長今外出てるもんなー。そうだ、会社の向かいに純喫茶があるんだけど、どう、そこで待たない? 奢るよ」

「えっ? い、いいですよ! そこまでしていただかなくても。また出直しますし……」

「まあまあ。せっかく来てくださった部長の娘さんなら、おもてなししなくちゃな」

「そんなこと言って、またサボろうとしてるんでしょう?」


 受付のお姉さんがじとりと部下さんを見る。彼はまさか、と笑って軽く手を振った。

 よし行こうかと半ば強引に連れていかれる。会社の向かいの純喫茶。お客として座るスーツ姿の人々の中には、今出てきた会社の人間も何人かいるはずだ。ゆったりと流れるジャズが、交わされる会話を聞き取りにくくさせることに一役買っている。

 窓際のテーブル席に向かい合って座る。水を運んでくれた店員さんが去ったのを確認して、いやぁいい休憩タイムだ、と彼は愉快に言った。やっぱりサボリじゃないか。


「本当だ。このショートケーキ、すっごく美味しい!」

「でしょ? 会社の子達もよくこのショートケーキ褒めてるんだよ」


 しばし世間話をしていると商品が運ばれてくる。オススメだと言われたショートケーキを食べて頬を緩ませた。こっくりとした濃厚な生クリームとシロップを吸ったきめ細やかなスポンジ。じゅわっと果汁の溢れる苺の甘酸っぱさが堪らない。

 ゆるゆるとした笑顔でケーキに舌鼓を打つ私に、お父さんと似てないなぁ、と彼は素直な言葉を述べてくる。よく言われますと笑ってから、ふと聞いた。


「会社でのお父さんってどんな感じですか?」

「めちゃくちゃ厳しい」


 間髪入れずに言った。コーヒーを啜って彼は溜息を吐く。


「ちょっとのミスで叱ってくるんだ。どうしてこんなミスをしたんだとか、十分な確認を行ったか、とかさ。理不尽なお叱りじゃなくて全部こっちの注意不足によるものだから、正しい指摘なんだけど、それでも些細なミスを淡々と叱られるのはくるものがある」

「あぁ……お父さんらしいです。昔、私もよく宿題の間違いを指摘されてた」

「あははっ! でしょう? それに、なんだか堅苦しい真面目な人なんだよね。冗談が通じないっていうかさ。あまり、人とコミュニケーションを取ろうとしてないの? 仕事は完璧な人だから尊敬されることも多いんだけど、怖いとか、頑固おやじだとか、よく女子達が話してたりさ…………ま、まあ一部の人間だけだけどね」


 娘の前で口を滑らせすぎたと思ったのか、彼はハッとしたように頬を掻いて訂正する。さらっとした言い訳だったが、お父さんなら仕方ないかと私は苦笑した。

 積極的に周りと交流を取ろうとしない人だった。自分の周りさえ良ければいいという考え方らしく、良くも悪くも前だけを見ている人だった。

 でもね、と部下さんが声色を明るくして言う。


「たまに話してくれることもあるんだよ。飲み会とかさ。普段は誘っても来ないんだけど、来てくれるときもあって。お酒が進むと少し自分のことも話してくれるんだ」

「えぇ、なにそれ、見てみたい。お父さんお酒飲むんですね。家では見たことなかったから」

「見てると面白いよ。いつもより饒舌になってさ。色んな人の仕事ぶりを褒めたりしてるんだ。それと、色んな人に質問していたりするね。同期で去年結婚したばかりの奴がいるんだけどさ、そいつの隣の席陣取って、奥さんと円満な関係のコツを聞いたり」


 驚きに目を丸くした。部下さんの言うお父さん像は、私が知っているものと全然違う。

 私が知っているお父さんはもっと近寄りがたい雰囲気の人だ。何を考えているのかよく分からなくて、笑っている顔を見たことも少ない。お母さんや私のことを家族ではなく同居人とでも思っているのか疑いたくなるほどに、自ら交流をしない人だった。亭主関白とは違うけれど。ズッシリと構えた、堅剛な人だ。

 だから、酔っぱらったとしても、お父さんがそんなことを人に訊ねるなんて想像もできない。

 空になった皿を見下ろしてパチパチと瞬きをする。濃厚な甘さは喉を通って消えた。お腹の中に落ちた甘さと疑問を、手の平で擦る。


「不器用なんだと思うよ」

「不器用、ですか」


 部下さんの言葉を繰り返す。

 いまいち意味が読み取れない。仕事第一で、前に突き進んでいる、あのお父さんが不器用。どういうことだろう? しかし訊ねようとしたとき、部下さんがあっと声を上げて窓を見た。

 会社の前に一台のタクシーが停まっている。そこから降りているのはお父さんだ。ごちそうさま、と素早く会計を済ませて外に出る部下さんの後ろをついていく。


「部長ー!」


 振り返ったお父さんは私を見て眉間にしわを寄せた。その反応に唇を噛みながらも、お父さん、と声をかけて私も駆け寄る。

 この間叩かれた頬はとっくに治っているのに、何故か熱く痛んだ気がした。


「どうした。何の用だ」

「これ、書いて。明後日の朝までに家に置いて」


 お母さんに向けた言葉と同じような台詞を言ってプリントを渡す。

 三者面談なんて両親がどちらか片方でも来ればいい。片方に拒否されたときの保険だ。もしどちらからも拒否されたら、そのときはなんとか如月さんに遠縁の親戚役をしてくれる人でも探してもらおうと考えている。

 お父さんは怪訝にプリントを眺め溜息を吐く。


「明後日まで家に行く暇はない」

「じゃあ郵送して」


 自分の言葉を押し通す私に、お父さんは多少面食らった様子だった。部下さんは遠慮よりも好奇心が勝ったのか、丸い目でプリントを覗き込む。


「三者面談? なんだ、大事なことじゃん!」

「しかしこの日付はどれも予定がある」

「この日の予定はズラせるじゃないですか。行ってあげましょうよ部長。大事な娘さんなんですから」

「そうだよ。父親でしょ」


 まだ、と付け加えはしなかった。

 私達の家庭事情を知らない様子の部下さんは、純粋な行為からニコニコとお父さんを促している。当の彼は酷く渋い顔をしながらプリントを睨んでいる。

 これ以上ここにいてもきっと嫌な言葉を言われるだけだ。私は部下さんに頭を下げてその場を走り去る。何か言いたげな顔をしていたお父さんだが、その口からは何も発せられなかった。




 三者面談日程表締め切りの朝。手間がかかるが東雲さんの家から一度自分のマンションに戻った私は、コンシェルジュさんから郵便物を渡された。速達の表記がされた封筒の差出人はお父さんの名前だった。

 部屋に戻りリビングに入ると、テーブルの上にも似た大きさの封筒が置かれている。私は二つを開け、お父さんとお母さんからの返事、それぞれをテーブルの上に並べた。第一希望の欄にのみ希望の日時が書かれている。


「……………………」


 よい偶然なのか、悪い偶然なのか。五月末、金曜日の、午後四時。

 二人が選んだ日時は、ぴったりと一致していた。






「秋月さ……んん。和子さんは普段の態度がとても真面目です。授業中の態度も勿論ですが、それ以外の生活の中でも友人を思いやる様がよく見受けられますね。教員や生徒で困っている人がいれば自発的に手助けをする、非常に優しい子です」


 隅に机が寄せられた教室の中央に長机と椅子が置かれている。対面に座る金井先生は私を褒める言葉を言っているが、嬉しいと思う余裕はこれっぽちもない。

 私を挟んでこちら側の席にはお父さんとお母さんが座っていた。二人とも互いの存在をできるかぎり目に入れないようにしているのか、体を僅かに外側に向けている。

 教室の前で鉢合わせた二人の顔は見物だった。いや、笑えないけれど。


「しかし欠席、遅刻が少し目立ちますね。最低限の出席日数は稼いでいるので問題はないのですが」


 先生は道仏高校の分厚いガイドブックを出して卒業必須出席日数の欄を示す。わざわざ作ってくれたのか私の出席日数が簡単に書かれた紙と取り出し、照らし合わせた。一年生の秋頃から次第に出席率が下がっている。

 お母さんがチラリと私を見たが、私は無反応を貫いた。黙って金井先生の話を聞く。しばし成績のこと、学校生活のこと。いじめのこととか、急に変わった見た目のこととか、そういうことは流石に言われなかった。


「そして進路のことですが。今のお考えは何かありますか、和子さん?」

「……まだ、考え中です」


 本題が来た。視線を落としぼそっと呟いた私の言葉に先生はそうですね、と頷き、両親に顔を向ける。


「ご両親は和子さんのことについてどうお考えで?」

「私としては、大学に行った方がいいんじゃないかと思います。就職するにしたって、学歴は重要でしょう」

「同意見だな。進学を考えていくべきでしょう。これといった進路が定まっていないなら、今無理に就職する必要はない」

「分かりました。では、お二人が娘さんに選んでほしい学校や学部は……」

「それは本人が決めることです。もういいでしょうか? 進学、ということで」


 お母さんがスパリと話を切り捨てて腰を上げる。お父さんも立ち上がろうとしているのを見て、金井先生が戸惑った顔をした。先生の気弱な性質が表に出ている。野暮ったくゆるりと下がった眉が困惑に震え、覇気のない声で二人を引き留めようとする。


「待ってください。まだお話の途中です! 次は和子さん自身の意見をもう少し……」

「この子と先生で直接お話なさってください」


 仕事がありますので、と切り捨てる。私はぎゅっと下唇を噛んで二人を交互に見つめた。やっぱり駄目なのか。

 三者面談にはどちらか一人来ればいい。

 だけど私は、二人を連れてきた。

 ……でも駄目だった。


「娘さんの話を聞いてあげてくださいっ」

「和子。じゃあ聞くけど、あなたの意見は?」


 急にお母さんに話題を振られる。言葉に詰まり狼狽える私を見て、静かに溜息を吐かれる。


「ほら、まだ何も分かっていないじゃないですか。話を聞こうにもこれでは何も聞けないでしょう。時間が惜しいんです。私はもう、会社に戻ります」

「しかし、せっかくお二人が来てくださったんですから……。時間がないようでしたら後日また三人でお会いして」

「そんなときは来ないでしょう。妻も俺も、離婚の件や仕事の件で忙しい。本人と先生で相談してくださった方が早いです」

「えっ、り、離婚?」


 金井先生の丸くなった目が私を見つめる。咄嗟に顔を俯かせ、ぐっと肩に力を入れた。顔中に熱が集まり、髪から覗く耳が赤く染まっているのを感じる。知られたくなかった。

 震える私を見た先生は、どういうことですか、と興奮を抑えるような声で言う。そういうことですから、と答えになっていない返事が返ってくる。

 先生の視線を肌で感じながらも、顔を上げられなかった。こうして三者面談に連れてきたことで何かが変わるんじゃないかって期待をしていたんだけど。家の外で二人を会わせることで何かが変わるんじゃないかって思っていたんだけど。無駄だったんだ。

 椅子が引かれる。両隣に感じていた体温がなくなる。だけど、立ち上がった二人が私に背を向けようとしたその瞬間。


「――――あなた達はそれでも親ですか!」


 叩き付けるような声に、その場の全員が度肝を抜かれた。

 椅子を弾き飛ばすように立ち上がった金井先生が体をわななかせ、えらい剣幕で私達を見ている。お父さんとお母さんは勿論、金井先生のこんな姿を見るのは私も初めてだ。


「今までっ! 今まで和子さんがどれだけ頑張ってきたと思ってるんです! 明るく優しい、人を大切にする子。彼女がそうなるまでに、どれだけ努力をしてきたのか、知っているんですか!」

「な…………何をおっしゃってるの。ちょっと、落ち着いてください、先生」

「彼女がいじめられているときに、あなた達は何か彼女にしてあげたんですか!?」


 いじめ? とお母さんが初めて声を上擦らせた。お父さんも丸くした目でこちらを見る。あ、と声をどもらせながら、私は突然の状況に戸惑う。金井先生に離婚を知られたときと同じように顔が熱くなる。

 いじめられていたことを二人には言っていない。だって知られるのが怖かった。仕事を邪魔しちゃ悪いからとか、恥ずかしいとか、そういう理由もあったけど。だけどいじめられていることを伝えて、それでも二人が私に関心を持ってくれないことが何よりも辛いと思ったから。

 ご存知ないんですね、と金井先生が低く声を唸らせる。彼だってまさか二人に娘のいじめについて話すことになろうとは思っていなかったはずだ。教師という体表が剥がれている。衝動のままに思いをぶつけている。


「一年生の頃彼女はいじめられていたんですよ。いえ、他の生徒からちょっかいを出されていたのも目撃している。入学当初は笑顔を浮かべていた彼女が、みるみるうちに元気をなくしていったんです。知っていますか? 知らないですよね? お二人は、娘さんのこと、何も見ていなんですね?」


 教師としてあるまじき発言だろう。けれど平常なら指摘をしていたであろうお父さんもお母さんも、今は無言で先生の言葉を聞いている。

 金井先生がこんなに棘のある言葉を吐くなんて。いや、そもそも、こんなに熱く私のことを語るなんて。一条さん達だけじゃなく、他の人からも色々されていたのを知っているなんて。


「彼女が髪を染めたことも、学校を休みがちになったことも、ええ、最初は心配しましたよ。変な人達と付き合っているんじゃないかって。でもね、それからの和子さんを見ていると心配なんてどうでもよくなりました。また笑うようになったんですよ、彼女が。凄く楽しそうに。それを見て、彼女は学校の外で自分らしくいられるところを見つけたんだなって、そう思いました」

「あなた教師でしょう? 学校に来るよう、説得するべきだったんじゃないの?」

「勿論学校には来てほしかったですよ。本業は学生なんですから」

「でしたら……」

「でも、それ以上に大切なことだってある。俺では……学校では、彼女を救うことができなかった!」


 ぐっと握り締めた拳を震わせ、先生は顔を手で覆った。


「どうしたらいじめをなくせるか分からなかった。悩み事を相談してもらおうにも、原因からなくそうにも、俺には技量が足りなかった。他の先生に相談しても調べても、誰もが納得できる解決法は見つからなかった。結局このざまですよ。三年間、俺は自分の受け持った生徒に何もしてあげることができなかった」


 悔しそうに肩を震わせる金井先生を私は茫然と見つめていた。

 ずっと、先生は私を助けてくれないって思っていた。余計なお節介をかけてくるのに、肝心なところで何もしてくれないと。

 だけど教師一人がどうやってクラスのいじめをなくせられるだろう。努力とか熱意とか、そういうことでは解決できない。ちょっと触れただけで破裂してしまいそうな繊細な問題を、第三者が解決しようとするのはとても難しい。ましてや気が弱い彼のことだ。担当するクラスの生徒の問題であろうと、自分のことのように思っていたかもしれない。

 三年間気を揉んでいたのは私だけではなかったんだ。


「親としての自覚を持ってくださいよ!」


 散々言葉をぶつけた金井先生は、そこでようやくハッとしたように目を見開く。興奮で赤くなっていた顔が一瞬で青くなり、申し訳ございません、と酷く震えた声で謝罪する。

 ぼうっとしていた私も我に返り、先生、と小さく呟く。今にも倒れてしまいそうな彼を支えてやりたいと思った。

 椅子から立ち上がって先生、ともう一度言う。それからお父さんとお母さんを交互に見た。お父さんは珍しく、かなり狼狽え、何かを言おうとしては言葉が喉につっかえるように唇を動かしていた。お母さんは――


「親の自覚って何ですか!」


 隣から上がった声に肩が跳ねた。お母さんが茹で上がったみたいに顔を真っ赤にさせて金井先生を睨んでいる。またしても私は呆けた顔をせざるを得ない。


「親、親って、何なんですか! 私達がこの子に対して何をすれば正解なんですか!」


 先生の失礼な態度に怒っているわけではなさそうだった。唾を飛ばして声を上げるお母さんを見て、それから慌ててお父さんを見る。けれど彼は感情を露わにする妻に何をするでもなく、ただ、今までに見たことがない複雑な思いを噛み締めた顔で凝視している。


「あなたの考える家族って何なんですか。父親らしさって、母親らしさって、何なんですか!」

「……おかあさ」

「親らしさなんて分からない!」


 荒れた空気を裂くように携帯の音楽が鳴り出した。お母さんのスーツのポケットが震えている。誰もが静まりかえって突っ立っていると一度目の着信は切れた。すぐに二度目の着信が鳴る。ゆっくりとお母さんの手が伸び、口の中で溜息を飲み込んでから、お母さんはそれを耳に当てた。


「……もしもし。…………ああ、大丈夫。すぐ戻るから。……仕上げておくわ。…………ええ、ええ、じゃあまた」


 仕事が忙しいというのは本当なのだろう。電話を切ったお母さんはしばゆっくりと肩で息をして、最後に大きく溜息を吐いた。

 予定されていた時間はとうに過ぎている。失礼します、と深々と頭を下げて今度こそお母さんが教室を出ていった。その背を見送っていたお父さんが、じっと私を見下ろした。

 視線が交差する無言の時間。たった数秒で終わったその時間。お父さんもまた、失礼、と言葉を残して出ていく。残された金井先生は力が抜けたように、ずるずると席に座って頭を抱えた。

 教室はさっきと打って変わって静かだ。静寂を飲み込んで、先生、と私は顔を上げない金井先生に告げる。


「次の人呼んできますね。きっと、待っているだろうから」


 予定されていた時刻をとうに過ぎた時計を見て言う。先生は無言で、大きく一度だけ頷いた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 金井先生の言葉に涙が出そうになりました。先生、ちゃんと見ててくれたんだ……教師っていじめとかの問題には関わりたくないからか、いざ相談した時に「何となくそんな感じはしてた」って分かったように…
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