第110話 家族ごっこ
東雲さんの腕の中はとても安心する。
煙草の香り、彼の香り。それほど熱くない体温はずっとくっ付いているうちに温かくなってくる。
男の人の腕、彼の匂い、耳をくっ付けた胸から聞こえる鼓動。
彼の家。ベッドの上で。私は東雲さんに抱きしめられていた。
「…………ひっく、ううぅ」
「…………よしよし」
東雲さんの大きな手が私の背を擦る。幼子をあやすように慰めていた東雲さんは、ふっと息を吐いて言った。
「そろそろいいか?」
「あともうちょっと」
「…………よしよし」
困ったような顔をしつつも、東雲さんは枕に肘を付いてまた私の背を擦ってくれる。私から頼んだこととはいえ我ながらよく辛抱強く付き合ってくれるなと思った。
突然家にやって来て、大声で泣き出した私に彼も随分驚いただろう。それなのに、抱きしめてほしいとか、背中を擦ってほしいなどと泣きながら我儘を言う私にも彼は優しく応えてくれた。
かれこれ数十分はこうして彼に甘えている。もう十八になるというのにこれでは子供っぽいと言われるのも仕方ない。けれど、今日ばかりは仕方がないと自分の中で納得を付ける。
玄関から鍵の開く音がした。東雲さんはチラリとそちらに目をやるも、私を離そうとはしなかった。廊下を歩く足音が聞え、明るい声が部屋に飛び込んでくる。
「咲ちゃーん起きて…………っとお邪魔しましたー」
「助けてくれ」
くるりと踵を返して戻ろうとしていた冴園さんは東雲さんの言葉にもう一度くるりと反転する。涙に濡れた目をそっと東雲さんの体から覗かせていた私に気が付いた彼は、おや、というような顔をしてベッドの脇にやって来た。
「どうした和子ちゃん。今日は疲れたのかな?」
「冴園さぁん……」
「ん? どうした? よーしよし、お兄ちゃんが何でも聞くよぉ」
上半身を起こしてそのまま冴園さんに抱き付く。髪をくしゃくしゃに撫でて冴園さんは優しい顔で微笑んでくれた。
嗚咽混じりの私の話を、彼は静かに聞いてくれる。聞き取りづらいだろうに文句も言わず。そっか、と柔らかな相槌は私の心をとろりと満たしていく。
ひとしきり泣いて落ち着いた私に東雲さんがホットミルクを淹れてくれた。泣き腫らした目に白い湯気がかかる。こくこくと喉を鳴らす私の傍で、東雲さんと冴園さんもコーヒーを飲んで静かに座っていた。
「疲れちゃった」
溜息と共に言葉を吐き出した。ぐったりと気落ちした声は、ただ疲労感が滲んでいる。
全部意味がなかったんだ。私がどれだけお父さんとお母さんのことを思っていたって、その気持ちは全然意味がなかったんだ。なら、最初から頑張らなければ良かった。
「私、お父さんとお母さんにとって邪魔だったんですね」
いつから。最初から?
私がいなければ二人はもっと自然に別れることができた。もっと前に、それこそ何年も前にとっくに分かれていただろう。それをしなかったのは私がいたから。
今になってようやく離婚を決心したのは私が大人になったからだと思う。中学校や小学校のときに離婚してしまえば、その後の教育や生活に支障が出るから。だけど高校生にもなればその心配も薄れていくから。
私がいなかったのなら、二人はいつ別れていたのだろう。
「家族でいたいだけだったのに」
東雲さんと冴園さんは何も言わない。ただ一瞬だけ私を見つめる目に、寂しそうな光を灯した。
静寂に甘える。どれだけいいアドバイスや助言をされたって、今は心に留めることはできない。蛇口を捻って水が排水溝に流れていくのを見るように、ただ垂れ流されていくだけだ。
しっとりと重い静寂。また涙が目に滲む。それを、冴園さんの陽気な声が裁断した。
「明日はどこかにお出かけしようか」
キョトンと顔を上げた私の涙を冴園さんが指で拭う。優しいその顔は私のことを思ってくれている笑顔だ。
なぁ咲ちゃん、と冴園さんが東雲さんに顔を向けて頷く。それからもう一度私に顔を向け、頬を両手で包み込んだ。
「和子ちゃんが好きな所に出かけよう。前に行ったみたいに映画館でも、ショッピングでもいい。ドライブでもしようか? それともお家でのんびりするのがいいかな」
「えっと…………」
「明日は君がやりたいことをしよう。俺達は君のご両親の代わりにはなれないけれど。家族みたいなことをしよう。好きなところに行って、好きなことをしようよ」
家族ごっこ。彼がやろうとしているのはそれかと気が付いた。私のためだ。彼は私のために、家族の真似をしようとしてくれている。戸惑いを浮かべた目で冴園さんと東雲さんを交互に見た。
お出かけ。まるで子供に言い聞かせるような口振りは、きっとそんな意図を含んでいる。お出かけ、と言葉を反芻する。
「どこに行きたい?」
――――にちようび、みんなで遊びにいきたい。
ふと、小さい頃の記憶が蘇る。小学校に上がる前の頃、朝食を囲む二人にそんなことを言った覚えがある。行きたいところがあるの、と幼い私は興奮した様子で二人に訴える。
お父さんとお母さんが顔を合わせて何かを言っていた。そして頷いた二人を見て、私は椅子の上で飛び上がって喜んだ。行儀が悪いと叱られたことも覚えている。
だけど本当に、日曜日のお出かけが楽しみで仕方なかったのだ。
「……行きたいところがあるんです」
涙を拭った私は、ハッキリとした声で告げた。
映画だけでなく映画館の雰囲気を楽しむように、遠足当日だけでなく前日の準備を楽しむように。場の空気を味わうこともまた、格別な楽しさとなる。
休日の遊園地は随分と賑わっていた。アトラクションから上がる悲鳴や歓声だけでなく、次の場所に向かう人々の楽しげな声や、カフェで休憩をする人々の雑談、そのどれもに楽しいという喜びの色が溶けている。
門から一歩入った途端にそこはまるで異世界のように非日常感を私達に与えてくれた。異国の街をテーマにしたような外装。太陽の光を浴びて美しい建物たちは壁を白く輝かせる。
明星市の外にある人気の遊園地。電車で一時間弱の場所にあるこの遊園地は遠方からもわざわざ訪れる人がいるほど人気の場所だ。ここで今日一日中私達は遊ぶと決めていた。
「うわ、凄い。うわぁ」
園内に入ってすぐ私は茫然とそんな言葉を口にした。そんな反応初めて聞いた、と可笑しそうに噴き出す冴園さんに頬を膨らませてから東雲さんを見ると、彼もまた笑いを堪えた顔でそっぽを向いていた。
心の中は酷く高揚していた。ぴょんぴょんとその場で飛び跳ねて叫んでも不思議ではないほどに。だけどあまりにも強い感動が胸を打って、かえって、どう反応していいのか分からなかった。
幼稚園の仲良し同士で遊びに来ているのか。三人の幼い女の子達がきゃあきゃあ騒ぎながら目の前を通り過ぎていく。それを親御さん達が早足で追っている。彼女達は近くにあったメリーゴーランドの列に並び、踊る馬や馬車を見て、ほう、と煌めく息を吐いた。
メリーゴーランド。私はぽそりとそう呟いて、東雲さんと冴園さんを見た。
多分今の私はあの子供達と同じ目をしていると思った。
「次! 次あれ乗りたいです、コーヒーカップ!」
「もう三回目だぞ……」
「次はもっと全力で回せる気がする!」
「和子ちゃんゆっくり景色を見て乗ろう? ね、ね?」
メリーゴーランド、ジェットコースター、コーヒーカップ、お化け屋敷。広い遊園地にはたくさんのアトラクションがあって、一日中歩き回ったって退屈しないだろう。
三回目のコーヒーカップを楽しんだ後、休憩にとカフェに向かう。青い顔の二人は椅子に深く腰掛けると、ようやく一息付いた様子で空を仰いだ。
「えへへ、楽しいですね遊園地」
ぽわぽわと胸の奥から溶け出す楽しい幸福感に頬が緩む。東雲さんが何か買ってくる、と立ち上がり席を離れた。その間私と冴園さんはアトラクションの感想だったりを談笑していた。
なんて楽しいんだろう。幸せだ。こうして色んなものを見て、乗って。本当に楽しくて嬉しい。
溢れ出す興奮が体を動かす。大きな身振りでアトラクションの感想を語る私を、冴園さんは心底微笑ましい、と言いた気な目で見つめている。
隣のテーブルに親子が座った。両親と、幼稚園ほどの女の子。三人とも頬を紅潮させ、今しがた乗ってきたらしい絶叫マシンについて語っている。それから地図を広げ、次はどこに行こうかと楽しそうに笑っていた。両親も嬉しそうだが、特に子供の反応が顕著だ。鼻血でも出すんじゃないかと心配になりそうなほど顔を真っ赤にさせて、喧騒の中でも一際目立つ声量を上げている。母親に窘められ僅かに声を潜めても、宝石を散りばめたようにキラキラと輝く笑顔が雄弁に物を語っている。
「和子ちゃん」
冴園さんに呼ばれ、ぼうっとしていた意識が戻る。何となく照れ笑いを浮かべた私に彼は先ほどと同じ微笑ましそうな笑顔を向けていた。しかしその目はまっすぐに私の目を見ている。
「遊園地って他にも来たことあるの?」
「はい。中学校のとき、友達と何度か遊びに行ったりしてましたよ。ここもだし、他の遊園地とかも」
「もっと子供のときとかは?」
「もっと? そうですね、小学校のときの遠足とか。でもこの遊園地に最初に行きたいって言ったのは幼稚園のときだったな」
「ご両親と? いいね、楽しかっただろう」
「それが結局来れなかったんですよね」
にちようび、みんなで遊びにいきたい。
幼稚園の頃、お父さんとお母さんに言った私の願いは結局叶わなかった。前日の夜になってお父さんに急な仕事が入ったのだ。電話を終えたお父さんが私にすまないが、と口にした瞬間、私は大声で泣きながら暴れたのを覚えている。
「お母さんと二人でもいいでしょうって言われたんですけど、私は納得しないでずっと泣き喚いて。最後は我儘を言うなってお父さんに拳骨食らっちゃって。痛かったなぁ」
当時の痛みを思い出して無意識に頭を擦る。勿論手加減はしてくれていたんだろうけど、本当に痛かった。
翌日は雨が降っていたから、どちらにせよ延期だったわねとお母さんは言った。けれど多分、快晴だったとしても私はお母さんと二人で遊園地には行かなかっただろう。サアサアと流れていく雨を見ながら、フローリングの上で膝を抱えて丸まっていた。
お父さんもお母さんも、私が遊園地に行けなかったことを怒っているのだと考えていた。今でもそう考えているはずだ。
違うのに。
「三人じゃなきゃ意味がなかったんです」
私の言葉に冴園さんは顎を引くように頷いた。
元から二人は激務が多く家族の時間なんてあまり取れなかった。たまに休みが被ったとしても仕事が入ればすぐに向かわなければいけないし、たまの休みは溜まった家事や用事を済ませることが優先で、皆でどこかに遊びにいったことも数えるほどしかない。
私は遊園地に行きたかったわけじゃない。三人で、遊びに行きたかった。どうして分かってくれなかったのかなぁ、と呟いて笑った。私の両親はきっと言わなければ分からない。そして、言ってもきっと理解はされない。
「……冴園さん、今日はありがとうございます」
「ん? 何が?」
「私を元気付けようとしてくれたんですよね」
彼は微笑みながら私の頭をぽんぽんと撫でた。
「俺が三人で遊びたくなっただけだよ。ほら、この時期って悩み事も増えるから、気分転換にね」
返事を聞いた私は一呼吸おいてから、そうなんですか、と笑った。
「悩みって例えば?」
「そりゃ色々さ! 仕事とか生活とか恋愛とか」
「一番の悩みは?」
「明日は何をしてすごそうかって悩むこと」
冴園さんらしい、と私は声を上げて笑った。
彼が私を元気付けようとして冗談を言っているのか、それとも本当に悩んでいるのか。どっちもかもしれない。
「冴園さんも家族のことで悩んだりしました?」
「そりゃあるとも。結構頑固な親でね、喧嘩することもよくあったよ」
へぇ、と息を吐く。
一瞬口を開きかけて閉じた私に、冴園さんが不思議そうな視線を向けた。もしかしてなんですけど、と断りを入れて私はそっと彼に体を寄せた。
「間違ってたらごめんなさい。前に聞いた、大学を中退したって話……関係があったり?」
冴園さんは一瞬虚を突かれた顔をした後、恥ずかしいなぁ、とはにかんだ。
去年の夏、肝試しをしたときにあーちゃんがぽろっと零していた冴園さんの話。東雲さんから高校時代の進路の話については聞いたことがあったから、冴園さんが名門大学に進学したということも知っていた。だけど何故そこを途中で辞めてしまったのか。
冴園さんは顔を上げてレジの方を見た。長い行列ができているが東雲さんはもうすぐレジに着くという順番まで来ている。そろそろ戻ってくるだろう。
軽く手を振って彼は肯定を示した。あのときは大変だったよ、と回顧の眼差しを浮かべて口角を引き上げる。
「誰が学費を出してやったと思ってる、ってさ。当然の反応だけど。いやぁ本当に酷かった。父親と殴り合ったのなんてあれが初めてだったよ」
「あは……壮絶ですね。冴園さんの家族ってどんな感じなんですか?」
「普通の人だよ」
普通のね、と繰り替えして言った。自分に言い聞かせているようだった。
「父親と母親と俺の三人家族。二人とも会社勤めの平凡な人達だよ」
「仲は良かったんですか?」
「良いとも言えるし、悪いとも言える」
最後に連絡を取ったのはいつだったろう、と思い出すように目を細める冴園さんを見る。
「あれをしなさい、これをしなさいって押し付けてくるところが多い親だったんだ。勉強とか進路とかだけじゃなくて、服装とか髪型とか、ちょっとしたことにも一言言ってくる。俺には少し窮屈な親だった」
あざみちゃんの両親をふと思い出した。彼女もまた、親に言われた通りの道を進む子だった。それが彼女の心を崩すきっかけになり、今の彼女を作り出している。
冴園さんの親も少し似ているような気がした。けれど二人の違うところは。冴園さんは抑圧されることも荒れることもなく、自分の思うままの道を駆け抜けているように見える。
「昔から反発しては怒られた。何度も喧嘩して家を飛び出したっけなぁ。親に禁止されてたバイトをこっそり始めたりしてさ、勿論見つかって殴られたけど、それでも自分で納得がいくまでは辞めなかった。逆はあったけど」
「逆?」
「自分が納得できないことはすぐやめた。大学もそうだよ。あの人達、俺が本当にしたい将来の夢は全然聞いてくれなかったんだ。進学したはいいけど、つまんなくてさ、すぐやめちゃった。俺が自分勝手に生きてるのは、そうだな、長い反抗期ってやつかもしれないな」
この耳と髪もそう、と冴園さんは自分の毛先を指に絡ませた。
深い海底のような色に、夜空のような黒いメッシュを一筋入れた、ダークブルーの髪。数を減らしたり増やしたりしつつもキラキラと光る両耳のピアス。
彼の整った顔立ちをより目立たせるその色と光は、今時珍しいものではないといえ、親からすれば十分に吃驚ものだろう。
「学校だって塾だって仕事だってオシャレだって、何だって。本人が良しとしなければなんの意味も持たない。俺はそう思っている。両親は違ったみたいだけどね。そういうところ以外にも色々とぶつかる点は多かったよ。要するに、合わなかったんだ」
でも、と彼は笑う。軽やかな声で。
「深刻な悩みってほどではない。誰だって必ずしも親と反発することはあるだろう? 一度も家族に対して嫌だと思わない子供なんて一人もいない。和子ちゃん。君や、君の周りの子だって、そうじゃないのか?」
私は黙って頷いた。
あざみちゃんのように心を壊してしまった子もいる。だけど彼女だけじゃない。例えば太陽くんだって妹や両親、祖父母と喧嘩したと愚痴を吐くこともある。鈴木さんや早海さんも親が自分の趣味や恋愛を認めてくれないのだと憤った様子で私に話してきたことがある。瀬戸川さん、恋路さんも。一条さんだって。
一人一人家族に対して思っている悩みは違う。強制することを嫌い、放任されることを嫌う。互いを嫌い合っているからこその悩みもあれば、互いを好き合っているからこその悩みもある。貧乏であることの悩み、裕福だからこその悩み。
正直なところ冴園さんは悩みとは無縁そうな印象があった。何事もそつなくこなしている彼は悩みが起きる前に原因を排除していそうだと。
しかしそれは違う。冴園さんも、そして私や他の人々も。大小様々あっても、皆必ず悩みを抱えて過ごしている。
「家族って難しいな」
「難しいよ、人間って」
冴園さんはまだ三十年も生きていない。私からすれば大人だけれどまだまだ若い。にもかかわらず私を諭すように言ってくれる言葉は、深く心に沁みていく何かがある。
「家族のことも、進路のことも。勿論それ以外の悩みだってさ、全部聞くよ」
彼の手は東雲さんより少し大きい。その手が私の頬を包み、温かな温度を伝えてくる。
「辛くなったらいつでも俺や咲のところに甘えにおいで」
冴園さんの声は温かく、柔らかかった。その温度は少し東雲さんと似ていて、やっぱり二人が長い時間を共にした親友なのだと改めて感じる。
じわりと目が潤む。何だか私はいつも、泣いてばかりだ。いつまでたっても泣き虫で大人になれない私だけれど。だからこそ、皆のぬくもりを、素直に受けとめることができるのかもしれない。
冴園さんの手に自分の手を重ねる。一回り、いや、二回り以上大きさは違うだろう。大きく頼もしい手が私は好きだった。
「冴園さんと東雲さんが私の家族だったら良かったなぁ」
家に帰ってきた幼い私を、おかえり、と迎えてくれる二人の兄。学校はどうだった、とかどうでもいい話をしながら三人で食卓を囲むのだ。
いつも仲が良くて、一緒に遊んで、一緒に出かけて。たまに喧嘩をしてもすぐに仲直りをして、いつも一緒にいる。私は自慢のお兄ちゃんとして二人を友達に自慢したことだろう。
ああ、本当に、本当にそうだったら良かった。
そうしたら私は長い間一人でいなくても良かったのに。
「そっか、俺と咲が和子ちゃんの家族か……」
とろりと冴園さんの目が蕩ける。嬉しそうにはにかんだ後、彼はニッと愉快そうな笑顔を浮かべる。
「家族ってことは、咲は和子ちゃんのお兄ちゃん? それとも旦那さん?」
「…………は!?」
顔を真っ赤にして硬直した私は、待たせた、という背後からの声に悲鳴を上げた。驚いた顔の東雲さんが何をしてるんだ、と呆れた声で私を見る。
肩を揺らして笑う冴園さんをじとりと睨み、もう、と怒った声を上げる。だけどその声には隠し切れない笑いが零れていた。
こんなに長い時間遊園地で遊んだのは初めてかもしれない。
様々な乗り物に乗ってショップを眺めショーを見て、気が付けば空はとっぷりと深い夜の色に染まっていた。
最後の乗り物として私が選んだのは観覧車だ。昼は遠くの街が透き通るほどに、夜は美しい夜景が見えるこの遊園地の見せ場の一つとされているだけあって、随分と大きい。夜の間は観覧車自体が点灯されるようで、次々と色を変えて輝く様がまた美しい。
観覧車の中から見える景色がのんびりと上昇していく。静かに地面から離れていく感覚は、カゴの中に入っているとしても足元がおぼつかなくなる。
向かいの席で冴園さんが子供のようにはしゃいであちこちを指差していた。少しは落ち着けと窘める隣の東雲さんも、普段より視線を動かして景色を眺めている。頂上に近付くにつれて遠くの夜景がハッキリと見えてきた。私達は思わず感嘆の息を漏らした。
天に向かって高く伸びる、ホテルや、ビルや、タワー。そこから発せられる青やオレンジの光が暗い夜の中で眩いほどに輝いている。ぼんやりとした空気の中、海や川の水面でゆらゆらと揺れている光。
人工的な星空。
命の光だ。
皆がそこにいるから明かりがついている。この明かりの一つ一つの先に誰かがいる。家でくつろいでいたり、まだ仕事中だったり、夜の街で遊んでいたりと色々だろう。それを考えるとなんだか不思議な気持ちになる。
「綺麗」
綺麗な光を見ていると心が締め付けられる。美しさに圧倒されて、ただ、泣きたくなる。
観覧車の頂上に着くと街が一望できた。ガラス窓にぺたりと額を押し付け、その冷たさの向こうの景色をじっと目に焼き付ける。私達は三人とも無言で、静かに宝石のような明かりを見下ろしていた。
来て良かった。
独り言のように細く囁いた声は、二人にも届いたらしい。声はない。けれど確かに二人が微笑んだ様子が、ガラス窓に映っていた。
『お降りのお客様は足元にお気を付けて、お忘れ物がないよう、ご注意ください』
電車の揺れに身を任せ、向かいの窓に見える夜景を眺める。暗闇の中、ぽつりぽつりと家の明かりやビルの窓の照明が見えていた。
明星市まではまだかかる。行きはともかく、帰りの電車は空いていた。明星市方面の電車に乗る人はもともと少ない。座れて良かった。満足するまで遊んだおかげで、私達の体力は底を尽きている。三人とも帰りは口数少なく、静かな空気の中に、遊園地の思い出を巡らせていた。
不意に左肩が重くなる。東雲さんが目を閉じて私に寄りかかっていた。すぅすぅと聞こえる寝息に、むず痒さに似た思いを感じ、ぐっと口を引き結ぶ。私の右横に座っていた冴園さんが覗き込むように東雲さんを見た。
「咲寝ちゃった?」
「疲れましたもんね」
「俺も、あは、あんなに遊んだのは久しぶりだ」
疲れの滲む、けれどうっとりとした心地良さを含んだ溜息を冴園さんが零す。彼の目はキラキラと輝いていた。私も多分同じ目をしている。今日一日の出来事を頭の中で何度も繰り返す。
お父さんとお母さんのこと、進路のこと。それら全てから逃げたくてやってきた遊園地だった。気分転換。現実逃避。問題はちっとも解決していないけれど、今、私の心はただ楽しかったという思い出で満ちている。
明日になればまた嫌なことがあるのだろうけど。またすぐに落ち込んで泣いてしまうだろうけれど。今日は純粋に楽しい気分のままで終わりたい。
「和子ちゃん」
「なんですか?」
「また、三人で遊ぼうね」
冴園さんが子供のような顔で笑った。思わず頭を撫でたくなるような、無邪気な笑顔。一瞬だけ、私よりもずっと年下に見えた彼の顔に、私も大きく頷いた。
電車が揺れる。ガタゴトと音を立てて、私達をあの星空の街へと運んでいく。
しばらくすると、カクリと揺れた冴園さんの頭が私の右肩に乗る。冴園さん? と小声で尋ねてみれば、返ってきたのは静かな寝息だった。私は無言でそっと前に向き直る。窓ガラスに映るのは、誰もいない長椅子に座る私と、私の両肩に寄りかかって眠る二人の姿。
目的の駅まではあと十五分はかかるだろう。さて、既に痺れている私の肩はもつだろうか。ふふ、と笑いを零し、目を伏せて囁いた。
「…………また、遊びましょーね」
二人分の寝息に、とろりと優しく蕩けた声が重なった。