第11話 イメチェン
雀の鳴き声が聞こえる。眩しい朝日が顔を照らし、私は薄っすらと目を開いて擦った。
もう朝か……。目覚ましが鳴った記憶もないし、また六時かそこらに起きてしまったんだろう。もう一回寝ようかな……いやでもなぁ……朝ご飯作るの面倒。パスタは飽きたしいっそ抜くかな。今日って何日だっけ、てか何曜日? ゴミの日はまだだよね?
うとうとと微睡みながらそんなことを考えていると、ふと思考の中に違和感が掠めた。ぼんやりとしながらもその違和感を探る。
手に触れる生地の感触。それは柔らかく心地の良いものだったが、シーツの感触じゃない。それからスリッパが床を歩く音。鼻孔をくすぐる美味しそうな匂い。鍋が沸騰する音。
…………他人の音?
「んっ!?」
勢い良く上半身を起こす。眠気も吹っ飛び、しっかりと開いた目が周囲の情報を取り込む。見知らぬ天井見知らぬインテリア見知らぬ部屋。飛び起きたことによって床にずり落ちた毛布を握り直す。
そういえば東雲さんの家に泊まっていたのだったと気付いたのは、それから数秒後のこと。
「起きたか?」
「えと、おはよう……ございます?」
「ああ、おはよう」
キッチンからエプロン姿の東雲さんが顔を覗かせた。遅かったな、という彼の言葉に首を傾げ、壁にかかる時計を見ると「おぉうっ」六時どころか既に一時間目が始まっている時間だった。東雲さんが眠る姿は見ていないが、私よりも後に寝て先に起きたのだろうか。ベッドも枕もしっかりと整頓されていて、夜見たときと変わりがないように思えた。
やっぱり昨晩は色々とあったせいか、疲れていたのかもしれない。今日も学校へ行こうと思っていたのだけれど、これだと着くのは遅くなってしまいそうだ。……いや、今から行けばまだ大丈夫か?
悩みながらとりあえず髪を手櫛で整えようと、背中に手を伸ばす。空気に触れる。
「……………………」
そうだった、髪もなくなっているんだった。
昨日決意したこともあるし、いっそのことイメチェンでもしてみようか。
それにしても疲れていたとはいえ他人の家でぐっすりと眠るなんて。もしかしたら自分の家より気持ち良く眠れたかも。
その事実に思わず苦笑しながらも、同時にそろそろおいとましなくてはと考えた。いつまでもお世話になっていると彼も迷惑だろう。
キッチンで動く彼の傍へ行き、頭を下げながら告げる。
「泊めてくださってありがとうございました。服は次の仕事のときにでも、洗ってお返しします。それじゃあ私はそろそろ……」
「朝は食べていかないのか?」
「いただきます」
即答する私に、彼は可笑しそうにくっと肩を揺らして笑った。少し頬が熱くなる。
「何か手伝えることあります?」
「いや、いい。テレビでも見てろ」
彼の言葉に甘えてリビングへ戻る。正直、手伝いといったってろくなことなどできやしないんだ。じっとしていることが一番の手伝いとも言えるだろう。さっきまで身を横たえていたソファーに腰かけ、リモコンを弄りながらテレビを付ける。
ニュースを見ても、昨日の彼女のことは一切報道されていないようだった。あのとき東雲さんは『片付けは掃除屋に任せる』と言っていたっけ。掃除屋と言えば如月さんの話にもそんな仕事が出ていた気がする。掃除屋さんが片づけてくれたのだろうか。血も、凶器も、死体も。
頭に浮かんだ嫌な想像に首を振る。朝から暗いことを考えるのはよそう。明るい話題でも考えよう。
そう考えながらふとよぎった思いに、はたとリモコンを弄る手を止めた。
いつ以来だろう。朝起きたとき、傍に誰かがいたことは。
いつ以来だろう。目覚めたときに、おはようと言われることは。
「ふふ」
久しぶりに感じたそのぬくもりを噛みしめながら、私は思わず微笑んだ。
駆け足で校門に校舎に飛び込む。下駄箱から上履きを取り出して床に放ったそれに足を突っ込む。息も付かない勢いで廊下を駆ける。廊下を曲がればすぐそこは一年一組、そしてその隣が二組。けれど私は教室に駆け込む前にくるっと体を反転させ、女子トイレへ飛び込んだ。鏡の前に突進する勢いで進み、鞄から取り出したクシで髪を梳かす。それでも外に跳ねた髪は中々真っ直ぐにはならず、数分格闘した末に面倒になってこれでもいいかと考えた。
鞄から今度は携帯を取り出す。黄緑色のスマートフォンの電源を入れ、電話帳を開いて名前に目を通していく。お父さん、お母さん、それから中学時代の友達と……東雲さん。
仕事で使うだろうからと入れられた連絡先。彼の黒い折り畳みの携帯電話にも私の名前は登録されていた。
多分たくさんの携帯と連絡先を持っているだろう彼からすれば、私に教えたのはそのうちのほんの一握りの情報なのだろう。
でも私からすれば、これが高校生になって初めて誰かと交換した連絡先だから、嬉しかった。
トイレから出て今度は廊下をゆっくりと歩く。二組の教室の前。先生が授業をする声が聞こえる。結局あの後色々と仕度を整えていたせいで、もう六時間目の後半だ。行かなくてもいいかもと思ったけれど、どうせだったら私の姿を皆に見せつけたい気持ちもあった。
すぅっと深く大きく息を吸って、頬を軽く叩き、気合を込めた。
教室に入るのには勇気がいった。でもできるだけ、俯かずに前を見つめるようにした。
だって私は、これまでのわたしとは違うから。
「よしっ……!」
さあ、行こう。
「このとき、虎となった彼は――――」
「すみません、遅刻しました。おはようございます!」
私の張り上げた声が教室に響く。大半のクラスメート達が声に反応して振り返り、一様にその目を丸くした。その反応に、教科書に目を落としていた残りのクラスメート、そして先生までもが私を見つめ、ぽかんと口を開く。一条さん、恋路さん、瀬戸川さんも目を見開いているのが少し可笑しかった。
誰もが何も発しない。居心地の悪い沈黙の中で、授業をしていた歳のいった先生が唖然とした声で「なんだぁその髪は」と言った。
私は少し困った笑みを零しながら、髪に手をやる。
肩までに切った私の髪。
茶色く染めた、私の髪。
「…………染めてきちゃいました」
おどけたように肩を竦めてみたものの、誰からも反応は返ってこなかった。
「で、誰に強制されたんですか?」
六時間目が終わって放課後の職員室。チャイムと共に教室に入ってきた金井先生は私を見て露骨に驚き、ホームルームもそっちのけで職員室に私を呼び出した。
香ばしいコーヒーの香りが充満する中で先生達はパソコンを前に作業をしている。彼らは時折私に目を向け、ああまた生徒が悪さでもしたのか、と言いたげな顔をしていた。その中に数人、私のクラスで授業を担当している先生達もいて、その生徒が私であることに気付き、驚愕の表情を浮かべている。
職員室の鏡に私の顔が映っていた。光に照らされると少し明るくなる、パッとした色の茶髪。なんとなく髪の先をくりくりと弄りながら金井先生に微笑む。
「強制だなんて……。別に脅されたわけでも強制されたわけでもないですから。自分でやりたくてやっただけです。似合いませんか?」
「似合うかって、そういう問題じゃなくてですね……!」
混乱する頭を押さえながら金井先生は息を吐く。
彼が戸惑うのも当然だろう。ついこの間まで毎日真面目に授業を受けていた人間が、急に休みだしたと思ったら、次に学校に来た時には髪を染めているだなんて。普段から非行に走っている子達が髪を染めるのとはわけが違う。誰かに脅されて無理矢理やられたのだろうと考えるに決まっている。
今朝、東雲さんの家から帰ってすぐ学校に行こうと思っていた。けれど駅からマンションに向かう途中で見た美容院に足が進んだ。イメチェンでもしてみようと思っていたし、どうせならこの機会にやってしまおうかと考えたから。私って形から入るタイプだしさ。
それなりに店内が混んでいたため終わったのは午後になってしまった。それでも鏡に映る自分はどこか自分じゃないように思えて、気持ちが弾んだ。それから急いで家に戻って準備をしてついでに洗濯もして、学校に駆け足でやって来て、そしてあんなに驚かれた。
金井先生がようやく顔を上げた。何かを決心したように真剣な顔をして、ゆっくりと口を開く。
「……大丈夫ですよ秋月さん。俺は教師です。今ここであなたが何を言ったって、他の誰にも何も言いません。安心してください」
「え? いやあの、だから…………」
安心して誰に脅されたか話せと?
だからいないって言ってるじゃん。そんなに信用されていないわけ、私は。……そもそも金井先生は私がいじめられていることだって知ってるはずなのに、だからこんなことが言えるのに、助けてなんてくれなかったじゃない。それなのに何を今更。
イラッとした。
「とにかく、私は大丈夫です。もう帰っていいですよね? 失礼します」
「ちょ、ちょっと、秋月さんっ」
金井先生の引き止める声に聞こえなかったフリをして職員室の扉に手をかける。と、僅かに引かれる感覚があり、パッと手を離すと向こう側から扉が開いた。
そこから一人の男子生徒が入ってくる。
「あ、ごめんね、気付かなかった」
「いえ、こっちこそ」
互いに小さく頭を下げて、私と彼は入れ違うように通り過ぎる。擦れ違うその中で、私はその生徒を観察した。
黒い天然パーマと、指定外の黒いセーター。男子の冬服は下も黒だから全身が真っ黒に見える。けれど彼から特に重苦しいといった雰囲気が感じられないのは、その柔和そうな顔のためだろう。
見下ろした上履きの青いライン。道仏高校の上履きのラインは学年ごとに違うから、この人は二年生だ、先輩だ。三年生は赤だし、私達一年生は緑だし。
「失礼します。二年四組の――――」
扉を閉めて廊下を歩けば、漂っていたコーヒーの香りは消え去り、代わりのように水分を含んだ空気のにおいがした。
窓から見える空を見上げれば、いつの間にか空には黒い雲が立ち込めている。
「やばっ」
天気予報でしばらくは晴れだと言っていたから洗濯物干してきたのに。数日分溜まってたから結構な量があるのに、やり直しは勘弁願いたい。
私は慌てて駆け出して、直後に湿った廊下の上で滑った。
数分後。土砂降りに打たれて頭から靴までぐっしょりと濡れた私は、重い足取りのままマンションの前に着いた。住民の誰かが呼んだのか、入口の傍にタクシーが止まっている。雨に濡れずに眠そうにあくびをしている運転手を恨めしく思いつつマンションに入り、エレベーターへ乗り込んだ。
学校を出てすぐに本降りになった雨はあっという間に激しくなった。中学生達がにわか雨だと叫びながら傘も差さずに雨に打たれているのを見たが、にわか雨にしては一向に止む気配もない。こんな日に限って折り畳み傘を忘れ、コンビニのビニール傘も売り切れているだなんて。制服はびしょびしょで結局クリーニングに出さなきゃいけないし、洗濯物だってもう手遅れだ。
ずりずりと重い体を引きずるように歩き、部屋の前に着いて鍵を取り出し、開ける。ただいま、と誰にでもなく呟きながら靴を脱ごうと足元に視線を向けた。誰かの靴があった。
「あっ」
玄関のタイル上に置かれた黒いパンプス。爪先が僅かに濡れているものの、あとは乾いている。見覚えがあった。
強盗でも不審者でもない。恐らくこれは――。
そのとき声が聞こえた。
「和子?」
くらりと視界が揺らぐような、そんな緊張と不安に一瞬襲われた。呼吸を止めつつ顔を上げる。廊下の先にお母さんが立っていた。
「……お母さん」
久しぶりに、本当に久しぶりの母子の対面だというのに。すぐ目の前に立っているというのに。その間には、遠い距離が感じられた。
美容院にはしばらく行っていないのか、胸元まで伸びた黒髪に少し白い色が目立つ。薄っすらと化粧は施しているものの、目尻のしわは隠しきれない。それでもしっかりと着こなしたパンツスーツのおかげか、バリバリのキャリアウーマンといった雰囲気が彼女からにじみ出ていた。
お母さんは何故か訝しげに私を見ていた。無遠慮に向けられるその視線の冷たさに耐え切れず、気付けば私は無理やりに笑顔を浮かべながら、口を開いていた。
「久しぶり、だね。あの、今日はどうしたの? 仕事一段落ついたの? その、だったら、今日は家にいてくれるよね! じゃあその……だから…………」
言葉が震える。続ける言葉が思いつかない。挙動不審に揺れる視線が酷く滑稽だと思えど、まともにお母さんを直視することができなかった。
どうしてこんなに緊張しているんだろう。母親なのに。私のお母さんなのに。どうして、どうしてこんなにも上手く話せない。
お母さんはずっと黙っていたが、ようやく口を開く。そこから飛び出した言葉はたった一つだけ。
「その髪は何」
笑みが凍り付く。
ぎし、と軋む腕が、ゆっくりと自分の頭部に触れた。短くなり、染まった髪色。
……ああ、タイミングの悪い。
お母さんは呆れたように溜息を吐いた。ぐしゃりと前髪を掻き上げると、黒い瞳が私を射抜く。
その顔は酷く疲れ切っているようだった。血色も悪く、目元のクマも濃い。一日にどれくらいの睡眠しか取っていないのか、ちゃんとしたご飯は食べているのか、私は自分のことを棚に上げて、そんな不安を抱いた。
「担任の先生からこの間連絡が来たの。あなた、最近学校を休みがちなんだってね。おかしな人と友達にでもなったの? お母さんの仕事の邪魔だけはしないでちょうだいよ」
「ち、違うよっ! じゃあお母さんもしかして、それで帰ってきた……」
「いや、着替えを取りに来ただけ。外にタクシーも停めてあるし、またすぐに会社に戻る」
「そっ……か」
あのタクシーはお母さんが呼んだのか。すぐにまた会社に戻ってしまうのか。
少しくらい家にいてよと言ったところで、どうせ頷いてはくれないんだろう。
「洗濯物、干しっぱなしだったから取り込んでおいたわよ。畳むのは自分で。それと今月分の生活費も振り込んでおいたから。あと、最近テレビでやってる動物が殺されてる事件あるでしょ、昨晩この近くにも出たらしいから、夜は出歩かないようにしなさいよ」
「うん……」
濡れネズミ状態の私と擦れ違うように、パンプスを履いてお母さんは玄関の戸を開ける。そのまま出ていこうとするその背に向けて、私は縋るように言葉を吐いた。
「次はいつ帰ってこれる? ちょっと寄るだけじゃなくて、一日中家に入れる日とか、取れないの?」
「取れないことはないけれど、帰る暇があるなら仕事をしてたいのよ。もうすぐ出世できそうだし」
「…………じゃあお父さんは。お父さんはいつ帰ってくるの」
「は? 知らないわよあんなの。会社も違うんだから私が知るわけないじゃない」
吐き捨てるように言ってお母さんはマンションの廊下に出る。扉が閉まるその前に、声が聞こえた。
「和子。あなたももう高校生なんだから、一人で平気でしょ?」
扉が閉まってもしばらく私はそのままで立っていた。ガツンと頭を殴られたような衝撃に動けなかった。
それでもようやく重い足を引きずって部屋に上がる。ぴとぴとと制服から滴る水滴が床を濡らした。リビングへ行くと、お母さんの言った通り、ソファーに洗濯物が無造作に積まれていた。それを畳むことも制服を脱ぐこともせず、その場に静かに座り込む。
「……寒い」
濡れた体を制服の上から抱きしめる。酷く寒いと感じるのは、雨に打たれたからか、それとも別の理由からか。
雨音が聞こえる。窓の外、見下ろす街に降り注ぐ冷たい水。
リビングの中、ふと幼い頃の光景を思い出した。まだお父さんもお母さんも家にいたころの懐かしい記憶。
ソファーに座って新聞を読んでいたお父さん。よくわからない経済の話題に頷きながら唸っていた。私はお父さんの隣でテレビのリモコンを握り、アニメを見て笑っていた。エプロンを付けて料理をしていたお母さんが皿を抱えて持ってきながら、『ご飯だから新聞もテレビも止めなさい』と静かに窘める。
それこそ二人とも笑っていたことは少ないけれど、それでも二人とも家にいた。
だというのに、それを今の私は望んでも得られない。
いつから二人はあそこまで仲が悪くなったんだっけ? だんだんお父さんが家に帰ってくる日が少なくなって、お母さんの顔にしわが増え始めて、そして二人とも家に帰ってこなくなって。
この広い家から会話がなくなったのはいつからだっけ。
「東雲さん」
何故か彼の名を呟いた。熱く吐いた息に混じるように、頬から一滴の水が流れ、滴り落ちた。




