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第107話 生きていてほしい人

 急に降り出した雨が街をしっとりと濡らしていく。

 灰色のアスファルトはすっかりと黒くなり、車のライトが道路に反射する。色とりどりの傘をパッと花開かせる人もいれば、傘を持っていなかった様子で慌ただしくコンビニに駆け入る人もいた。

 帰り道で良かった。

 シャッターが下りた商店の軒下で、雨音を聞きながら買い物袋を揺らす。袋に付いた雨粒は音もなく垂れていく。顔を上げて屋根を見た。雨どいを流れていく水は段々と量を増し、締めきれず水滴が漏れていた蛇口を、ゆっくりと捻って開けていくように増えていく。豪雨のせいで、地面が白くけぶっていた。

 雨どいからザアザアと滝のように水が流れているのを見て、すぐに止むだろうという考えが誤りだったと悟る。幸い傘はある。この豪雨では少し濡れてしまうだろうが仕方ないか。


「ひゃー、雨、酷い雨!」


 誰かが軒下に飛び込んでくる。上に向けていた視界を下げ、その人物に目を向けた。

 黒髪がしとどに濡れている。首元に張り付いた毛を鬱陶しそうに掻き上げ、彼女は唇を尖らせた。じとりと恨めしそうに雨空を見上げていた彼女は、今気が付いたとばかりに横にいる私を見て、パチクリとその目を丸くした。


「奇遇だねあーちゃん」

「あら随分久しぶり」


 あーちゃんはニコリと笑って、はぁい元気? と海外女優のように手を振ってきた。背後にロマンチックな音楽でも流れていたらそれこそ洋画のような演出になっていただろうか。

 傘など持っていないのだろう。どころかバッグすらも持っていない。まるでぶらりと散歩をしている最中に雨に打たれてしまった、という様子だ。

 酷い雨ね、と呟く彼女のまつ毛に雨粒が乗っている。マスカラを塗った長いまつ毛にキラリと光る滴。水を吸って色濃くなった服が、彼女の細い四肢に張り付いている。


「……私の家、ここから近いんだけどさ」


 あーちゃんが私を見る。バッグから取り出した折り畳み傘を開き、彼女に向けて傾けた。

 家に来る? 誘い文句のような私の言葉に、あーちゃんの目に光が灯った。





「あなたの家のお風呂広いのね」


 髪をタオルで乾かしながら、あーちゃんは興奮した面持ちで言った。ありがとうと笑って牛乳を差し出すとあーちゃんは嬉しそうに受け取って一気に飲み干す。

 何してるの? とソファーに座って私の手元を覗き込んできた彼女は目を細めた。雑巾を畳みながら私は答える。


「今日は家の掃除をしようと思って」

「掃除? そんなの親に任せればいいじゃない」

「駄目だって。それにうちの親あまり帰ってこないからほぼ一人暮らしみたいなものなんだよ。時間があるときにしないと、汚れが溜まっちゃうもの」


 仕事が忙しいからと家を放っておいたらすぐに汚れてしまう。東雲さんの家に帰ることの方が多く、自分の家にいることが少なくなったとしてもだ。まめに掃除をしないと虫も出てしまう。

 買い物袋から雑巾や洗剤などの掃除用具を取出し並べていく私を、あーちゃんはじっと観察していた。全部の道具が並べられたのを見て、彼女はふふんと小鼻を膨らませて胸を叩く。


「ならばこのあーちゃん様が手伝ってあげましょう!」

「えっ。いいよ、いいよ。お客さんに手伝わせるわけにはいかないって」

「でもこの広い場所を一人で掃除するの大変じゃないの?」


 確かに彼女の言う通りではある。マンション住まいとはいえ一部屋は広く、それなりに掃除する場所は多い。一人でしっかりと掃除をすることを考えれば数時間はかかるだろう。

 だけど、と遠慮する私にあーちゃんはずいっと顔を近付けてくる。


「掃除して待ってた方が服だって乾くじゃない」


 私の古いシャツを着てあーちゃんが笑う。彼女の着ていた濡れた服は今、乾燥機の中でぐるぐると回っていた。乾燥が終わるまであと数十分といったところ。

 うぅん、と少し悩む。けれどあーちゃんの輝く笑顔に思わず笑ってしまった。なんだか、母親に褒められたくて手伝いを求める子供みたいだったのだ。じゃあお願いしようかな、と私は微笑んだまま言った。



 ほとんどの部屋の掃除を終え、くたくたになった私達はリビングのソファーにどっかりと腰を下ろした。つかれたぁ、と二人分の声が重なる。何度も絞った雑巾は真っ黒に汚れ、バケツの水も濁っていた。

 その分部屋の明るさが少し増したような気がする。ピカピカに磨かれた床を見て満足感に息を吐く。だが、あーちゃんがリビングから繋がる扉を指し言った。


「あの部屋の掃除はまだでしょ? やらないの?」


 そこは両親の部屋だった。あの部屋を掃除するのはなんとなく気が引ける。勿論普段も掃除をしていないわけではないが、他の部屋よりもさっと済ませてしまう。

 あー……、と悩んだ声を上げ、首を振った。


「お父さんとお母さんの部屋だから遠慮しちゃって。また今度掃除するよ」

「でも掃除しないと汚れるんじゃなかったの?」

「それとこれとは……」

「これからどんどん暖かくなってくるでしょう。虫出るわよ、黒いやつ」


 うっと言葉を詰まらせる。それを言われたら反論ができない。以前部屋で遭遇してしまったとき、キャーキャー大騒ぎしながら必死に倒したっけ。また対面するのはご遠慮願いたい。

 ほらほら、とあーちゃんが私の背を押して部屋に押し入った。最初は掃除を面倒だと言っていたあーちゃんだが、一度ノると楽しむタイプなのだろう。

 掃除のときでもなければこの部屋には入らない。久しぶりに入った部屋は相変わらず綺麗に整頓されており、逆に言えばまるで生活感がなかった。ベッドの表面を撫でると薄く乗っていた埃が空気に広がる。

 二つ並んだシックな色合いのベッド。閉じられたクローゼット、壁の棚、テーブル。この部屋にあるのはそれくらいだ。壁の棚には仕事や趣味用なのだろう本がいくつか並んでいるが、最近読まれた形跡などない。ここにも埃が乗っている。


「シンプルな部屋」


 あーちゃんが雑巾を絞りながら言う。全面的に同意する。

 流石にクローゼットは開けられないと、それ以外の場所を掃除した。ベッドを整え壁を拭き、床に雑巾をかける。随分楽に掃除は終わった。せめてシーツでも洗濯に回そうかと考えていると、棚の本から埃を払っていたあーちゃんが、興味深そうに数冊の本を手に取っていた。


「あなたの親面白い本読んでるのね」


 彼女は取った本をベッドに座って読み始める。絵本だ。『不思議の国のアリス』などのよく知った絵本もあれば、『よだかの星』のようなあまり馴染みがないものもある。


「小さい頃に読んでもらいでもしたの?」

「違うよ。多分、仕事先の人からもらったとかじゃないかな。児童出版社と関わることとかもあったみたいだし」


 二人とも色んな業界と関わることが多いから。多分取引先からもらったとか、企業を研究する際に買ったのだろう。

 こんなのもあるの、と楽しそうにあーちゃんが声を弾ませて一冊を手に取った。『ノアの方舟』。聖書を絵本にしたものだ。

 あーちゃんはしばし無言でページを捲る。隣に座り、面白い? と訊ねると彼女はさっぱりとした笑みを私に見せる。


「内容は分かったけど……堅苦しくて、つまんない本ね」


 あまりにも見事に言い切る様子に思わず笑った。あーちゃんはすっかり飽きたようでベッドに寝転がり辺りに視線を巡らせていた。彼女が投げ捨てた本を手に取り、読んでみる。

 ノアの箱舟。大昔、神様が世界を滅ぼそうとした。ノアという人物が神様から命じられた。『箱舟を作りなさい。舟に乗っているものは助かるでしょう。舟に乗っていないものは皆死ぬでしょう』。ノアは箱舟を作り、番の動物達と自分の家族を乗せた。人々にも神のお告げを伝え、舟に乗るようにと言った。しかし人々はノアを馬鹿にした。箱舟に乗ることができたのはノアとその家族、動物達だけだった。そうして、神の言葉通り大洪水が起こった――――。


「ねえ」

「ん?」


 本を閉じあーちゃんに顔を向ける。彼女は仰向けになって天井を見上げている。黒髪が波のようにベッドの上に広がっていた。


「親が帰ってこないって、最後に帰ってきたのはいつなのよ?」

「いつ…………いつだろう。私がいない間に帰って来てたかもしれないし分からないけど。最後に会ったのは数ヶ月前とかかな」

「多忙なご両親なのね」

「それもあるけど。二人とも仲が悪くて、意地でも顔を合わせたくないんだよ」


 そ、とあーちゃんは目を閉じて頷く。黒髪が少し波打った。話題を振ろうと私も尋ね返す。


「あーちゃんのお家は?」

「私は今親と暮らしてないから」

「一人暮らし? へぇ、大変だね」

「似たようなもんじゃない」


 くっと笑ってあーちゃんが肩を揺らした。確かにそうだと私も笑う。

 親と子の関係が希薄なことなど珍しくもない。今の時代も、明星市の中でも、問題のある親子は数限りなく存在する。一条さんの家庭のように親が問題を抱えていたり、または子供に問題があったり。私は恵まれている方だ。広い家に住むことができているし、生活費だって振り込んでくれる。快適な一人暮らしライフ。

 自由は楽でいいわ、と私の心を読んだかのようにあーちゃんが言った。だがそれは読心術でも何でもなく、自分が思っていることを述べるような口振りだった。


「自由気ままに過ごすのが一番いいわよ。親なんて鬱陶しいだけだもの」

「そうかなぁ」

「そうよ」

「でも育ててもらってるし」


 私の言葉にあーちゃんが反応した。ニヤニヤとした笑みを消し、鬱陶しさと嫌悪感の混じった瞳で私を睨む。

 だから何、と彼女は唾を吐き捨てるように言った。


「育ててもらったから、生んでもらったから。だからって子供の人生に干渉するような親は鬱陶しいだけでしょ」

「…………あーちゃんの所はそんな感じだったの?」


 沈黙の幕が下りる。顕著な反応からして、そうなのだろうと予測が付いた。

 あーちゃんが一変して屈託のない笑みを浮かべた。よく表情が変わる子だ、と自分のことを顧みず思った。


「家族と合わなかったの」

「合わなかった」

「ええ。うちってば親も兄貴もクソ真面目な奴らばっかりで、口を開けば現代の育児がどうのこうの、規則正しい生活が健康をどうのって……」


 頭のおかしい会話ばっかり。と、あーちゃんは肩を竦めて鼻で笑う。意外だと彼女を見て目を丸くした。そんな私の視線を見た彼女は、ニヤリとからかうように肩を突いてくる。


「今、『そんな家でどうしてこんな馬鹿が育つんだろう』とか思った?」

「いやそこまでは」

「軽くは思ってたの?」


 違うよと慌てて首を振る私にあーちゃんは肩を揺らして笑った。

 まあ、遠からずというところではある。奔放な性格のあーちゃんの家族は同じように奔放な人達かと思ったから。真面目な家族というものは悪くない。だけど自由を求めるあーちゃんにとって、その家はまるで牢獄のように映っていただろう。


「兄貴が真面目でしっかり者だった分、こっちが色々言われてさー。本当参っちゃう。お前ももっと真面目になれとか、門限を守れとか、うるさいってのよ。つまんない奴らだったわ」


 言いながらそのときのことを思い出したのか、あーちゃんは苛立ちを顔に浮かべる。

 話を聞きながら兄弟がいるっていいなぁ、なんて見当違いのことを考えた。もしも私にお兄ちゃんがいたら。きっと、今より寂しくはなかっただろう。


「わたし、箱舟には絶対一人で乗るわ」


 すぐにはその言葉の意味を理解できなかったが、彼女が絵本を撫でるように言っているのを見て、さっきの本のことかと知った。

 ノアの箱舟。滅亡する世界の中で、生き残る人々を選ぶ舟。

 それに一人だけ乗るとは何とも豪胆なことを言う。


「他の人は誰も乗せないの。新しい世界でわたし一人で生きていくのよ。それって、最高の自由じゃない?」

「寂しくならない?」

「ならない。むしろ最高よ。食料だって住み家だって、一人でも何とかなるわ。すっごく楽しい生活が送れそう」


 天井を仰いで彼女は大きく息を吸った。胸を上下させ吐いた溜息には恍惚とした夢の香りが混じっている。

 あーちゃんならば本当に一人でも暮らしていけそうだ。新しい世界に海ができたら彼女は海に飛び込んで何時間でも泳ぐだろう。山ができたら何日かかろうと頂上に向かうだろう。確かに、ちょっと楽しそうだ。

 和子は? とあーちゃんが訊ねる。そうだなぁと顎に手を当てて考えてから答える。


「私は一人だと寂しいから乗せられるだけ色んな人を乗せたいかな。友達とかだけじゃなくてクラスメートとか学校の人全員とか……明星市の人全員。いやできるならこの世の全員」

「ただの大規模な引っ越しじゃない」

「そうかもしれないね」

「親は乗せるの?」


 くっと目尻が吊り上がった目で彼女は私を見つめる。どうなのよ、とうつ伏せに転がった彼女が顔を迫り出してくる。

 ただの雑談のはずだ。けれど、妙に責められているような気がしてしまい一瞬言葉を詰まらせた。


「…………乗せるよ。親だもの」


 結局私はそう答えた。あーちゃんはパチパチと何度か瞬き、無言でまたベッドに寝転がる。

 親だから乗せる。それ以上の理由は、私には咄嗟に思い浮かばなかった。


「服、乾いたかな」


 ふと見上げた窓の外、雨がやみ、雲の切れ間から光が差しているのを見つけ、私は言った。




「ありがとう、助かったわ」

「こっちこそ掃除手伝ってくれてありがとう」


 マンションの外であーちゃんを見送る。すっかり乾いた服を着て数歩歩いた彼女は大きく伸びをし、心地良さそうに空を見上げ日差しに目を細める。

 雨で空の汚れを洗い流したように、雨上がりの空は綺麗だ。春の青空。照った日は、日向ぼっこをしたくなるほど気持ちがいい。

 あーちゃんが靴のかかとで地面を鳴らすように振り返る。その顔は、今広がる空のように綺麗な笑顔だった。


「またね、和子」

「またね、あーちゃん」


 戸締りには気を付けるのよと言い残して彼女は去って行く。その背が見えなくなってから私もマンションの中に戻った。

 部屋に戻ると静寂が私を迎え入れる。普段通りの光景であるにもかかわらず、さっきまであーちゃんがいたからか、いつもより静寂が身に沁みた。あーちゃん元気だからなぁと少し笑う。

 そういえば、とお父さんとお母さんの部屋に向かった。ベッドに投げられた絵本を片付けるのを忘れていた。一冊ずつ手に取って片手に抱える。


「……………………」


 最後に手に取ったノアの箱舟の絵本。海の上に浮かぶ箱舟の絵と、それに乗る人間や動物達の絵。自分があーちゃんに言った言葉を思い出した。この世の全員を乗せる。現実的に考えてきっと不可能だろう選択肢。

 もしもの話だ。

 もしも、この舟にたった数人しか乗ることができないとしたら。そのとき私は誰を選ぶだろう。

 棚に本を戻す。最初の順番がどうだったか覚えていないから適当に戻していく。だけど二人はきっと気にもしない。配置が変わったことさえきっと気付かない。

 多分こうして綺麗にしても、すぐにまた、埃が積もる。

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