第106話 見送り
『三年間という時はあっという間に過ぎていきました』
普段あれほど騒がしい体育館は、今、しんと静まり返っている。衣擦れの音と、時折聞こえる啜り泣き以外は何も聞こえない空間。その声はよく通った。
『友人達と過ごしたこの学び舎をいずれは巣立つ日がくる。分かっていても、今日この日になるまで、実感することはありませんでした。しかし今日、僕らはこの場所を卒業する。三年間の思い出を抱いて、今、それぞれの道を行くのです』
ぐるりと紅白幕が張られた体育館は、見慣れたいつもの様子と違ってなんだか落ち着かない。スーツを着た父兄が檀上に目を向けている。制服姿の生徒達が檀上を見つめている。
檀上へ続く階段に花が飾られている。白や黄色、赤色。美しく、そしてひっそりと、卒業生達を祝う花がたくさん飾られている。
演台に立つのは一人の男子生徒。きっちりと制服を着こなし、朗々とした声をマイクに通し挨拶を述べる。緊張した様子も台本を見る様子もない。ただ真っ直ぐに前へと視線を向けていた。その目が見ているのは学生達でも父兄でも先生達でもない。視線の先には何もない。それでも彼は顔を真っ直ぐに前に向け、その先を見つめ続けていた。
『自分の入学式を覚えているでしょうか? 美しい校舎を見上げ、ここで様々なことを学んでいくのだと、心を期待に弾ませたことを覚えていますか? 着慣れず、どこか不格好だった制服も今ではすっかり着慣れました。今日でこの服を着るのも最後だと思うと、不思議な気持ちです。あのとき憧れの眼差しを向けた三年生の先輩方。僕らは今、あのときの彼らと同じ立場です。この月日は僕らを少なからず成長させてくれました』
体育祭。綱引きで倒れてシャツを泥だらけにした思い出。日に焼けて顔が真っ黒になって、勝敗に一喜一憂したこと。友達と抱き合って全力で叫んだ記憶。
文化祭。夜遅くまで残って作業をして、皆で協力したときに感じた一体感。暗くなった体育館で演じた演劇。スポットライトを浴びながら感じたあの感動。
テスト。明け方まで勉強をして問題が理解できないことに感じた焦りと怒り。無言の教室に響く筆を走らせる音。返って来た結果に嘆き、または飛び跳ねて喜んだ思い出。
修学旅行。大勢で観光スポットに行き、お寺を見上げて感嘆の声を上げたこと。お土産に木刀を買って部屋の皆でチャンバラをしたこと。先生に怒られて廊下に正座させられたこと。
日常。時間がたてば思い出せもしないようなどうでもいい話をした。パックのジュースを飲みながら皆で笑った。話の内容は思い出せない。だけど笑っていた友人の顔はすぐに思い出せる。
『この三年間、僕らは幾度も辛いことや悲しいことを経験してきました。この先に進んでからもきっと悩みは尽きません』
ですが、と彼は続ける。
『楽しかった思い出が、嬉しかった記憶が、悩みを振り払ってくれる。これまでの思い出が、これからの思い出が、人生を素晴らしいものにしてくれる。僕はそう考えています』
会場に伝わる啜り泣きが大きくなる。彼の言葉に思い出が蘇り、感極まったのだろう。卒業生の子だけでなく在校生までもが泣いている。前方にいた先生の数名が、涙を抑えるように目元にハンカチを当てていた。
辛かったことを楽しいことで上書きする。簡単にはいかない。でも、できないわけじゃない。どうか、と彼が言う。
『僕達が立派に成長できることを願ってください。一人になったとしても前を向いて生きていけると証明できるように願ってください』
辛いことがあっても、悲しいことがあっても、生きていけますように。
独りになっても生きていけますように。
祈っています。
『どうか僕らが大人になれますように』
そして、と彼は言葉を続けようとして一度だけ口を閉ざした。ぐっと目を閉じ、まるで泣くのを堪えるかのような顔をした。拳を震わせて、何かを噛み締めるかのように唇を噛んだ。
そして、目を開いたとき。彼は心からの思いを吐露するように、切なく、優しい顔で笑った。
『どうか皆様が……――あなたが、幸せになれますように』
心から祈っています。
言い切って、彼は姿勢を正し、自分の名を口にした。
『卒業生代表。一年昴』
静寂に包まれている体育館。皆の視線が壇上に注がれている。
先輩はその中で、深く、深く、思い出を噛み締めるように頭を下げていた。
美術準備室にやって来た先輩は私を見てうわっと大仰に仰け反った。
「酷い反応ですね」
「いや……え、ビックリして。何で和子ちゃんがここにいるの」
「いちゃ悪いですか?」
そうじゃないけど、とまごついた様子で先輩は視線を泳がせる。珍しい反応に思わず笑うと、彼は何とも言えない表情を浮かべた。
「先輩が戸惑う姿、なんか珍しい」
「だ、だって君がこんな所にいるなんて思わないだろ!」
思わず声を荒げた先輩は、ハッと声を押さえ、落ち着こうとしているのか腕を組む。
「あのときで君と会うのは最後だって思ってたから。今日だって欠席してるとばかり……」
「良かったですよ、先輩のスピーチ」
「それまで聞いてたんだ……」
「私だって先輩がここに来なければ会いはしませんでしたよ」
もしも彼が美術室に寄らずに立ち去るようだったら、追いかける気はなかったし。
でも先輩はここに来た。そして私と会っている。
「卒業したらどうするんですか?」
切り出した私に一瞬目を向けてから、まつ毛を伏せた先輩はぽそりと呟く。
「専門学校に行こうと思ってるんだ。絵画系の」
「凄いじゃないですか。将来は、そういった系統に?」
「できればね。……それほど離れているわけじゃないけど、他県だから、家を出ようと思ってる。あのアトリエも管理ができないから取り壊しかな」
「そうですか」
私が彼に監禁された場所は、そのアトリエだった。
以前先輩が口にしていたアトリエ。叔父さんから譲ってもらったというそれが、あの木造の建物だったのだ。随分資産家の叔父さんなんだろうな。
私が逃げ出したとき。東雲さん達はあの建物を突き止めていたらしい。私が東雲さんに送った先輩の絵、文化祭で彼が話していたアトリエという言葉。たったそれだけの情報だったが如月さんに頼み場所を特定したのだという。
先輩が言っていた通り、あそこで待っていても東雲さん達が私を助けに来てくれたはずだ。本当に少しの間だけだと覚悟していたのだろう。仮初とはいえ、私と二人きりで過ごせる生活を。
「出発は」
「今夜」
「随分急ですね」
「早くから一人暮らしに慣れておきたくてね」
「……私、今日は先輩をお見送りするために来たんです」
見送りか、と先輩は小さく呟いた。ああ、そうだ。引き留めるためじゃない。見送りだ。
「花束でも渡せれば良かったんですけど」
「スノードロップかい?」
「ジキタリスでもいいですよ?」
先輩の誕生花で花束を作りでもしようかと一度考えたけれど。多分、毒が入っていようと嫌な花言葉であろうと、先輩は何も気にせず喜びそうな気がしたからやめた。
「最後に伝えたいことがあったから」
三年生の作品が撤去された美術準備室は閑散としていた。整頓され、換気がされた空間は絵の具の臭いもほとんどなくカーテンも開き、ただの教室と変わらない。そよそよと風が吹き、私達の髪を、服を、靡かせる。
私と彼の始まりはこの部屋だ。だから思いを伝えるのもこの部屋が良かった。
「伝えたいことって?」
「…………私、先輩のこと」
すっと息を吸う。先輩は、私が言おうとしていることが分かっている。そんな顔で、じっと私を見つめていた。
だから、伝える。
「先輩のこと、小学生みたいだなぁって思ったんですよ」
「ぅえっ?」
澄ました顔をしていた先輩が素っ頓狂な声を上げた。
てっきり、『あなたのことが嫌いでした』と告げられるのだと思っていたんじゃないだろうか。それを言おうかとも思っていた。
でも先輩が遠くへ行くというのなら。もしかしたらその先で、別の子を好きになる可能性もある。だったらこのことを、私が教えなければいけない。
「先輩は私が好きだったんですよね? 一人になった私に付け入ろうと考えて、私が周囲にいじめられるようにけしかけたんですよね? 小学生ですか?」
尖った言葉で畳みかける。思ったよりも鋭い声に、先輩はビクッとたじろぎ、弱気に視線を彷徨わせた。そんな彼に構わず私は次々尖った言葉を吐き出していく。
「バレてからも先輩はずっと私にちょっかいをかけてきましたよね。しつこいくらいベタベタ構ってきて、何度も拒否してるのに付きまとって。挙句の果てにき……キスまでしてきて! 私の初めて返してよ!」
いつの間にか直立不動で姿勢を正す先輩に、私はぐっと詰め寄った。傍から見れば今の私こそがいじめっ子かカツアゲかに見えそうだ。人がいなくて本当に良かったと思う。
ごめんなさい、と先輩は掻き消えそうなほど小さく呟いた。私の気迫に押されたからか、と思ったけれど、よく見ればその顔には罪悪感が滲んでいた。申し訳ないと、ほんの少しでも、彼は思っていたのか。そう思えば思うほど更に怒りが込み上げる。
「絵の趣味といい嫌がらせといい、私ずっと先輩のこと怖い人だって思ってたんです。だけど違った。……先輩、あなた、今まで誰かを好きになったことってありますか? 私以外で。中学校とか、小学校とか、幼稚園時代とかの話です」
私の問いに先輩はしばし思い出すように口をもごもごとさせた。一度だけ、と遠くへ視線を向けて彼は言う。
「…………小学生の頃、クラスメートの女の子に憧れたことがあったんだ。たった一週間くらい。恋と呼べるかも、微妙な」
「その子にアプローチはしましたか? 告白したり、一緒に遊んだり」
「…………さぁ、どうだったかな?」
「まさかとは思いますけど、虫を持って追いかけたり髪の毛引っ張ったりとか、そんなことはしてないですよね?」
先輩の返事はない。だけど、一瞬、明らかにその顔が強張った。嘘でしょ、とつい零れた私の言葉に、先輩は酷く気まずそうに口端を引き攣らせる。
背けられた顔を覗き込むと、彼はまた反対方向に顔を逸らす。私も追いかけるようにサッと顔を覗かせた。うっ、と先輩が顔を顰める。
「……和子ちゃん。ごめん」
「……………………」
「本当にごめんなさい」
じっと無言で見つめ続けていると、耐え切れなかったようで先輩は顔を覆ってしまった。謝る相手が違う。だけど彼の反応は、私が思い描いていた通りの反応だった。
やっぱり、この人は、子供みたいな人なんだ。
「好きな子をいじめたくなるんでしょう?」
先輩は肯定の意を無言で表した。
好きな子をいじめたくなる。小学生のとき、クラスにもそういう男子がいた。だけど、その男子が好きな女の子は、彼のことが大嫌いだと友人に話していたのを私は知っている。
先輩も同じだ。
好きな子をいじめたくなる。小学生の男子と同じような思考。彼の場合、その思考のまま成長してしまったっていう方が正しいのかもしれないけれど。
好きだから、大好きだから。自分のことを考えてほしいと願う。だからいじめちゃう。
…………それって本当に、
「馬鹿みたいですね」
冷たい声で吐き捨てる。狼狽える先輩を見上げながら、心の中に複雑な気持ちが湧き上がってくるのを感じた。
「好きって気持ちが理由だとしても、誰が自分をいじめてきた人のことを好きになりますか? ありえない。好きの反対は無関心? 嫌われてでも記憶に残りたい? ふざけてるんですか、好きの反対は嫌いだし、好きな人に存在を認識されないことより嫌われることの方が悲しいに決まってるでしょ!」
いじめてきた人を好きになることなんてありえない。ずっとからかってくる嫌な人をそれ以上好きになることなんてない。私でさえ分かっていることを先輩は知らないのか。一つ年上の人間ではなく、小学生を相手にしているような気分になってくる。
「好きだって思われたいなら優しくしてくれれば良かった! 絵のことがバレても、それを上回るくらい優しくしてくれれば良かった! どうして好きな子をいじめちゃうんですか。その人を愛しているのなら、泣かせるんじゃなくて、幸せにさせたいって思わないんですか!」
「和子ちゃ…………」
「好きなら好かれる努力をしてくださいよ! 嫌われる努力ばっかりして、どうするんですか!」
ドン、と彼の胸に拳を叩き付ける。目に涙が滲んだ。ぐっと堪え、険しい顔で彼を睨み上げる。
先輩が意を決したように私の両肩を掴んだ。唾を嚥下すると喉仏が隆起する。静かに息を吸い、彼は取り繕った様が一切ない顔で言う。
「僕だって……僕だって、普通に君を愛したかった!」
だけど、と言う声が震えていた。
「好きな子に素直に話しかけられなかった。その上、君が他の人を、オオカミさんを好きになったって知って……時間がないって思って。だからなりふり構わずとにかく君に僕を意識してほしくて! …………結局、上手くいかなかったけど」
「…………思っていたよりも、不器用な人なんですね、先輩は」
「そうだよ」
僕は不器用なんだ。
先輩はそう言って、真っ赤な顔をくしゃくしゃにした。
「どうすれば君に好きになってもらえるか分からなかったんだ」
「……他の子と同じようにすれば良かったのに」
「…………分からないよ」
「優しくしてくれるだけで良かったのに」
優しく、と先輩が私の言葉を繰り返す。はは、と乾いた声で笑う彼はとても寂しそうに見えた。
そうしてくれるだけで良かったのに。どうすれば人に好きになってもらえるかなんて、色んな人から好かれる彼は十分知っているはずなのに。
どうして、本命の相手に限ってそれができないのかなぁ。
「どうして僕は、君を愛することができるのに。どうして…………」
先輩は言葉を詰まらせる。自虐的な、くしゃりと歪んだ笑みが、その顔に浮かんだ。
ああ、どうして。
「君だけに優しくすることが、できないんだろうね」
先輩はそう言って、口元を抑える。あぁ、と溜息にも泣き声にも聞こえる声を零して、彼は静かに目を閉じる。
その問いに答えてくれる人はこの場には誰もいない。
外から聞こえる声が大きくなってきた。名残り惜しく教室に残っていた卒業生達がようやく帰ろうとしているのだろう。
窓辺に寄って下を見ると、卒業生達が集まって賑やかに話していた。卒業証書が入った筒を持ち、最後の高校を感慨深く噛み締めている。
「そろそろ行かなくちゃ」
そう言ったが、先輩はすぐに立ち去ろうとはしなかった。部屋の中央にじっと立ち尽くして私を見ている。改まった彼の様子に、私も窓に背を向けて彼に向き直った。
本当にこの部屋は広くなった。どれだけの絵が飾られていたのかと今一度思う。何もない空間の中央に佇む先輩は、いつもより儚く見えた。
「僕からも最後に一つだけ、いいかな?」
「…………どうぞ」
何を言う気だろうか。私と同じように、今までの思いをぶちまけてくるのだろうか。
先輩が顎を引いて姿勢を正す。卒業式のとき、檀上で見かけた姿よりもずっと真っ直ぐに立った彼は、一度大きく息を吸い込んで、言う。
「和子ちゃん。僕はずっと、あなたのことが好きでした」
それだけだった。
先輩はそれだけ言って、口を閉ざした。
そして、立ち去らないで、私の返事を待っていた。
「ごめんなさい」
迷わないで私は言った。彼と同じように姿勢を正して、ただ簡潔に返事を述べた。先輩も、その答えは分かりきっていたと口元を緩ませる。
好きです。
ごめんなさい。
紆余曲折を経て辿り着いた恋の答え。私と先輩の間には色々あった、本当に色々あった。
だけど、たったこの言葉だけで十分だったのだ。
これだけで良かったんだ。
「…………やっと言えた」
吐息のようにか細い声で言って、先輩は笑った。その目から一筋涙が頬を伝っていく。
昴先輩は笑いながら、そっと、小さく呟いた。
ありがとう、と。そう呟いた。