第105話 あなたの傍にいることは
そこに描かれていたのは私だった。
「……………………」
人物画、というものだろうか。額縁に静かに指を触れる。吸い込まれてしまいそうだ。と感じるほどに、私の目はその絵から離れなかった。
透き通るような広い青空。空から額縁に入る分だけ切り取ってきたのかと見紛う本物そっくりの空。
広い青を背景に笑顔の私が立っている。白いワンピースを風に翻し、靡く髪を押さえながら、とても優しい顔で笑っている。
血色のいい頬。日をまとった髪は一本一本が輝いている。幸福を満たした両の目はまるで宝石のように輝いて。
なにより、自分は幸せだと、目いっぱいに表現している笑顔が眩しかった。
「…………綺麗」
私はこんな表情を先輩の前でしたことはないのに。
彼の目から私はこんな風に見えていたのだろうか。
「あとちょっとで完成するんだ」
振り返ると部屋の入口に先輩が立っていた。一歩部屋に踏み入り、私と私の絵をじっと見つめる。
あとちょっと。塗り残された肌の一部と、空の一角。そこに色を入れればもうこの絵は完成する。きっと半日もかからないだろう。
彼がまた一歩近付いてくる。額縁をぐっと握り、私は身を固くして近付いてくる彼を凝視する。
「一人で逃げられるの和子ちゃん? オオカミさんの力を借りずに、たった一人で?」
「できるに……決まってる、でしょう」
「今まであの人は何度も君を助けに来てくれたよ。今回もきっと助けに来てくれる。それまでは静かに待っていてもいいんじゃないかな?」
一瞬心が揺れた。先輩の言葉に戸惑う。
東雲さんはいつも私を助けに来てくれた。危険な目に遭ったとき、誘拐されたとき、私を守って戦ってくれた。いつだって、どこだって、ヒーローのように私を見つけてくれた。
大丈夫か、和子。
その言葉がどれだけ私の心を救ってくれただろう。
「東雲さんはこの場所が分からない」
「すぐに見つかるさ。いくら隠れた場所にあったとしても、君を攫った証拠を隠したとしても。オウムの情報屋さんが優秀なことは僕だって十分知っている。君のことが大好きな人魚さんやクモちゃんやイヌくん達だって、きっと一緒になって探してくれているよ」
数日もたったんだから、と先輩は言い切る。その言動に訝しいものを感じ目を細めた。
まるで見つかっても構わないと言いたげな態度。こんな所に連れ込んで監禁して。私は一生ここで過ごさなければならないのだろうかと絶望までしたというのに、今の先輩の態度からは、そんな緊張を感じ取れない。
「短い間だけだって分かってた」
私の心を読んだかのように先輩が呟いた。
「君が僕を好きになることないって分かってた。一緒に暮らすこともないって。君と恋人同士になることなんてありえないって、知っていたんだよ」
彼がまた一歩私に近付く。手に持っている銃はまだこちらに向いていない。けれど、私を撃とうと思えば撃てるだろう。
恐ろしい絵の間を通って、ゆっくりゆっくりと近付いてくる。薄暗い部屋の陰の中、歩いてくる先輩の姿は普段より一層恐ろしい。
背後の窓を振り返る。外の光景が僅かに見える。太いたくさんの木々、芝、土の地面。この建物の一角らしき木造の壁。林か森の中に建てられている建物か。
「知ってたのならどうして?」
「単純なことだ。一時でもいいから、僕だけを見てほしかったんだ」
分かるだろう? と先輩は喉から低く唸るような声で言った。
好きだと思ってもらえなくても、一時でいいから自分のことだけを考えていてほしい。好きだから。誰よりも好きだから。少しの間でいいから自分のことを見てほしい。
私が東雲さんに思っていることと同じだ。
「絵が完成するまでの間だけでも君と過ごしていたかった」
先輩の微笑みが胸を突く。唇を震わせた私は、もしかして、と浮かんでいた疑問を吐露する。
「『現実を見なきゃ描けない』?」
ヒマワリの絵を見たときに彼が言っていたこと。現物を見なければ描けない気持ちは分かるよ。そう言っていた彼の、考えるような表情を思い出す。
描きたいと感じた絵を描く。そのために、描きたいものの現物が必要で。そして、この絵の元となっているものは。
…………この絵を描くため。たったそれだけのために、私を攫ったの?
「……たった少しの間で良かったんだ」
僅かに、彼の言葉尻が震えた。
髪が風に舞う。サラサラと流れた横髪が視界を覆い隠した。そうしてまた見えた視界の先で、先輩は笑っていた。
口端を引くつかせた、彼にしてはとても不自然な顔で。伏せたまつ毛を小さく震わせて。
「それだって許されないことなの?」
縋るような声音に息を呑む。
許されない、と断言できなかった。彼の言葉に即座に頷かなければいけないと思っていたのに。だって、まるで子供が先生に訊ねるような声音で問われて。
そんな顔をしないでほしい。そんな声で聞かないでほしい。許してしまいたくなるから。でも、許しちゃいけないことだと、許せないことだとも、思っているから。
「和子ちゃん」
一歩、先輩が近付いてくる。彼と私の距離は、少しずつ縮んでいく。このまま動かないでいたらどうなるだろう。彼の持つ銃に撃ち殺されるだろうか、それとも抱き締められるのだろうか。
「もう少しだけでも僕の傍にいてくれないかな」
「…………できません」
否定することが随分と辛く感じた。今でも心底、先輩のことは拒絶している。けれど表面に拒絶を出すことに、酷く胸が痛んだ。
先輩は私の言葉を知っていたように笑っていた。細めた目に薄い水の膜を張って。不器用に、笑っていた。
「そうか」
何を言えば正解だったのか分からない。もしかしたら、何を言っても彼の満足する答えにはならなかったのかもしれない。
たくさんの絵画が無言で私達を見つめていた。ほどほどに広い部屋は空間を埋め尽くす絵画のせいで随分と圧迫されている。絵画に描かれた目が、描かれていない絵画からまで、視線を感じる。
大勢の目が私達を観察している。
いくつもの視線に晒されながら、先輩は大仰に首を振った。右手がゆっくりと上がる。その手に握られた銃がゆっくりと持ち上がる。
「いつまでも君と一緒にいたい」
私は答えない。
震える銃口が私の方向を向く。
「君を殺して僕も死ねば、きっといつまでも一緒にいられるよね……?」
映画でよく聞く台詞だと、場違いながらに思った。
洒落にならない台詞だなぁと、そう思った。
銃口が仮に私から狙いを逸らしているとしても。ぶるぶると震えているそれは、一歩間違えば、私の体を貫くだろう。
先輩。
先輩。
先輩。
はぁ、と口から息を吐く。喉に詰まっていた不安を溶かすように。
視界がぼやける。何度も瞬きをすれば、熱いかたまりが目尻から、目頭から、頬や鼻筋を伝い落ちた。
「先輩。私は」
声が震える。泣いているのも、体を震わせているのも、恐怖のせいじゃない。勿論銃を突き付けられることは怖いけれど、この状況が怖いけれど、そうじゃない。
ただ悲しかったから。
「ずっとここにはいられない。無理なんです。ずっと考えちゃう。あなたといても、あなた以外のことを考えてしまう」
学校の子達とか。先生のこと。勉強のこと。
お父さんとお母さんのこと。家のこと。仕事のこと。
真理亜さんとかあざみちゃんのこと。太陽くんのこと。仁科さんとネズミくんのこと。如月さんのこと。冴園さんのこと。
東雲さんのこと。
「私は先輩だけを見ることはできない」
脈打つ胸に手を当てる。悲しみを堪えて、私の描かれた絵画を見る。絵の中の私は真っ直ぐな目を外に向けていた。その目が見ているのはきっと、先輩のこと。
どんな風に彼はこの絵を描いたのかと想像する。絵の具で辺りを汚して、体中ベタベタにして、それでも長い間筆を走らせていたのかな。どんな目でこの絵を見ていた? 難しい顔をして? 固い顔をして? いいや、きっとキラキラとお日様を浴びて輝く朝露のように、輝いた目で描いていたんだろう。
そうでなければこんな絵は描けない。
怖い絵とか、残酷な絵とか。私には理解できない絵を描いていた彼の作品の中で、唯一、今の私が好きだと思える絵だから。
「あなたの傍にいることはできない」
だからこそこう答える。私はこの絵のように、優しい顔をあなたに向けることができないから。
だけど、と続けて声を発した。縋るような目をしている先輩にこの言葉を言うのは酷かもしれない。だけど、言わなければ気が済まない。
「私があなたを一生好きにならないとしても。絶対死なないでください」
「…………っ」
先輩が大きく目を見開いた。
私は殺される気はない。だけど先輩は仮に私を殺せなくても、本当に自殺してしまうのではないかと思った。笑顔で自分の胸を刺す先輩の姿が安易に想像できた。
もしも彼が死ねば私の心には一生それが影となって残り続ける。それを知っているだろうから。
私が今こんなことを言ったのはそれを止めるためだ。
この言葉が彼の心の足枷になるかもしれないことを、私も分かっているけれど。
「先輩……これが、私の答えです」
ネコとカラスは仲良くなれない。
だから私は彼から逃げるのだ。
絵画から手を離し、先輩に背を向けて駆け出す。目の前の窓に向かって走る。
発砲音がして弾丸が飛んでいく。耳を掠めて、窓ガラスにぶち当たった。亀裂が入った部分からバリンと風船が割れるようにガラスが砕け散る。もはや窓の機能を果たしていないそこは、ただの外に繋がる穴となった。
窓枠に手をかけて向こう側に跳ぶ。残っていたガラスが手の平に突き刺さる。刺さった大きな破片を折って、私はそのまま下へと落ちた。三階分の高さから。
「和子ちゃん!」
危ないという意味か、待ってくれという意味か。先輩が叫びながら手を伸ばしたのが一瞬だけ見えた。
私がその手を振り払うと、彼の目が大きく見開かれ、くしゃりとその顔が歪んだ。
「…………せんぱい」
空中でくるりと体を捻った。握っていたガラス片を、壁に思いっ切り突き立てる。
鋭利な破片が手に深く刺さった。肉を寸断されるような痛みに歯を食いしばり、真っ赤に染まったガラスから手を離さないよう更に強く握る。
人一人の体重をこんなガラス片で支えられるはずもなく、一瞬止まったかに思えた体はすぐにまた落ちていく。しかし地面にぶつかる寸前、もう一度体を捻り前転するように地面を転がった。衝撃を逃がしたお蔭でダメージはほとんどない。ただ手の平がヒリヒリと痛むだけだ。
死ぬ気なんてない。
仮に東雲さんが助けに来てくれるとしても。大人しくそれを待っているより、自分の力であの場所から逃げ出さなければ意味がなかった。
私のためにも、先輩のためにも。
バッと即座に顔を上げる。窓枠に乗り出すように、先輩が私を見下ろしていた。安堵と悲しみの入り混じった複雑な瞳。彼は笑顔を浮かべようとして失敗したような顔を浮かべていた。一瞬だけ、目と目が合う。
追ってはこないと確信した。彼から顔を背け、走り出す。林の中に飛び込んで息を切らして全力で走った。
靴なんて履いていない。枝や石を踏み、すぐに足裏が傷だらけになる。あんなに白く綺麗だったワンピースは泥あそびをしたかのように汚れ、枝に引っかけて破けていく。
綺麗だった体や服がボロボロになっていくごとに頭の中にある先輩の姿が薄れていく気がした。あの部屋で過ごした日々が、今まで先輩と話した会話が、段々と、他の思いに塗りつぶされていく。
早く。早く。
林の出口から勢い良く飛び出した。
明るい日の光が、私を眩しく包み込む。
「……………………」
歩道を歩く私に奇異の目が刺さる。素足で歩くボロボロのワンピース姿の女は、幽霊か気のおかしい人間だと思われても仕方がない。可笑しくなって思わず苦笑すると、さっと近くにいた青年が目を逸らす。
お金も携帯もない。第四区まで歩いて帰るのは面倒だなぁ、と考えながらもぼんやりと歩く。林から出たときには夕方前になっていて太陽が沈みかけていた。ヒヤリと冷えるアスファルトが足から体温を奪っていく。
夜遅くに出歩くのは不安だなぁ。早く家に着けばいいけど。空を見れば、沈む太陽、それと電柱の上に止まるカラスが見える。
考えながら歩いていると、目の前に立ち止まっていた人に気付かずぶつかった。よろめき、ごめんなさいと声をかけながら通り過ぎようとした私の腕を、その人が掴む。よく見れば、それは息を切らして唖然と私を見る、真理亜さんだった。
「和子!」
「真理亜さん?」
赤い目の真理亜さんが私を力強く抱きしめる。無事で良かった、と絞り出すように声を震わせる真理亜さんに、私はただ戸惑った。人が見てますよ、と言ってもしばらくの間彼女は無言で私を抱きしめる。彼女腕の中で私は訊ねた。
「私を探していたんですか?」
「当たり前じゃない! オオカミから連絡をもらって、探してくれって頼まれたから」
「東雲さんが……」
「あいつの頼みは嫌だけどあなたが関わってるなら別だから。皆、ずっとあなたを探していたの。それでさっき如月から追加の情報があって、第六区の林が怪しいって…………それより和子、全身ボロボロじゃない! こんなに汚れて。何かされたの? 私の家が一番近いから来なさい。シャワーと傷の手当てをするから」
真理亜さんが気遣うように私の手を取る。温かい手。じっと無言で手を見下ろしていると、不意にぼろりと大きな涙の粒が零れた。
「和子…………?」
「違う。大丈夫です、何でもないんです」
自分でも涙の意味が分からずに、慌てて目尻を拭う。けれど涙はボロボロと止まらず、拭っても拭ってもキリがない。
ずるりとその場にしゃがみ嗚咽する私を、戸惑いつつも真理亜さんが支えてくれる。大丈夫、大丈夫ですと答えても説得力はないだろう。だけど本当に涙の意味が自分でも分からなかった。
安心したのか、怖かったのか、悲しいのか。どんな理由の涙なのか分からない。
和子、と背中を擦ってくれる真理亜さんの服にしがみ付く。うわあん、と泣きじゃくる私はどう考えてもおかしくて。それでも真理亜さんは黙って背中を擦り続けてくれた。
電柱にいたカラスが羽ばたく音が聞こえた。カァ、と一声鳴いて、黒い鳥は飛び立っていく。