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第102話 我慢

 一年先輩が部屋から出ていった途端、私はすぐに両手首を床に打ち付けた。だが手錠は外れも緩みもしない。柔らかなラグに衝撃が吸収され、ぽふぽふという間抜けな音しか出なかった。何度試してみたところで意味はない。手首にじわじわと鈍痛が広がるだけで、むなしくなってやめた。

 床を這って逃げようとしてみた。けれどそれほど進まないうちに柱に繋いだ鎖がピンと張りつめ、動けなくなる。目いっぱいに腕を伸ばしてみても部屋の中央から数メートル先までは進めず、四方の壁に触れることさえ敵わない。


「クソッ…………」


 どうしてこんなことに。

 頭が痛い、上手く考えられない。だけど誘拐された。そして、監禁されている。その事実だけは分かっている。

 何が目的でこんなことを。大好きだからって……訳が分からない。どうせ他に本当の目的があるはずだ。それが何かは分からないが、とにかく屈することだけはしたくない。


 改めて部屋を観察してみる。広く、綺麗な部屋だ。温かい印象のオレンジ色の間接照明が、部屋全体を照らす。柔らかなラグや大きなサイズの家具はさっきも見た通り。けれど違和感があった。何だろうとしばし考え、その正体に気が付く。

 生活感がほとんど感じられなかった。床に物が散乱していることもなく、棚に飾られているのも小さなインテリア雑貨ばかりで、娯楽品といったものはまるでない。

 モデルルームか、ホテルのようだ。


「ここはどこなの」


 訊ねてみても返事は返ってこない。じわりと手に汗が滲み、眉間を寄せた。




「お待たせ和子ちゃん」


 トレーを持って一年先輩が部屋に戻って来た。私の目の前に置かれたトレーには、湯気の上がる夕食が並んでいた。焼き魚が主菜の和食。私は彼に魚が好きだと言った覚えはないのだが。

 先輩が箸で魚をほぐし、あーん、と甘ったるい声で私の口元に持ってくる。真一文字に唇を結んだ私はふいっと首を横に背けた。


「食べないの?」

「お腹空いてませんから」


 ちゃんと食べなきゃ、と困ったように笑いながらも一年先輩はそれ以上無理に勧めてくることはしなかった。

 無理矢理食べさせられたらどうしようかと思っていたから、ほっと胸を撫で下ろす。変な物が入っていたら困る。薬とか、危険物とか。

 しかし胸を撫で下ろしたのも束の間。次に先輩が言った言葉は衝撃的なものだった。


「じゃあお風呂に入ろうか」


 ビクッと体を強張らせて先輩を見上げた。驚愕に目を丸くする私に、彼は白々しくもキョトンとした顔でこちらを見下ろしているだけだ。


「どうしたの?」

「いや……お風呂って、まさか」


 まさか一緒に入る気ですか、という言葉が喉元まで出かかった。

 だって手足を拘束されている私は一人で体を洗えない。誰かに洗ってもらうしかないのだ。この人ならやりかねない。誘拐し、監禁までしているのだから、それくらい何とも思っていないかもしれない。

 くるくる変わる私の表情を面白そうに見つめていた先輩は、ああ、と合点がいったように微笑みを浮かべ、静かに両手を私に伸ばしてくる。ひっ、と悲鳴を上げて身を強張らせた私の腕が掴まれる。そして、手錠が床に落ちた。

 ぱちりと目を丸くして落ちた手錠を見る。信じられないように腕を振ってみるが、自由になった両手はゆらゆらと滑らかに動く。


「僕は順序を大切にしたいからね。同棲初日から一緒にお風呂なんて、ハードルが高すぎるよ」


 突っ込みどころの多い発言だったが、私は無言の返事を返した。流石に足の拘束は外されなかったが、柱に繋がれていた鎖は外される。走ることはできないがぎこちなくも歩くことはできる。

 こっちだよ、と一年先輩が私を立ち上がらせて部屋の扉を開ける。扉の先は短い廊下だった。真っ直ぐ進んだ突き当たりにまた扉があるが、そこへ行くまでの左右に扉が三つほどつある。キッチンとお風呂とトイレだろうか。だとすると造りは1DKの家だ。

 それならば突き当たりの扉は出口に繋がっているはず。今、無我夢中で走ったら外に出られるだろうか。飛び出して大声で叫んだら近隣の住民が悲鳴に気が付いてくれるだろうか。


「お風呂はここ」


 先輩が私を誘導して扉を開ける。脱衣所の白い床にひたりと一歩踏み出した。

 ……逃げることはできない。少なくとも今じゃない。上手く走れない状態じゃ逃げたってすぐに捕まるだけだ。一年先輩を殴って逃げようとしたってたかが知れている。先輩だって私が逃げ出さないように警戒はしているはずだ。足の拘束を解いていないのがその証拠。

 ごゆっくり、と一年先輩が脱衣所を出ていく。少し躊躇ってから、渋々着ていた制服を脱いだ。流石にお風呂に細工をしかけてはいないだろう。

 浴室に入ると、バスタブは既にお湯が張られていたようで温かな湯気が顔にかかった。軽く体を洗ってからお湯に浸かるとじんわりとした温もりが体を包む。一瞬だけ全てを忘れて、心地良さにほうと息を吐いた。

 だがこんな場所で身がほぐれるほどゆったり浸かっていられるわけがない。手早く洗い終え、脱衣所に戻る。私がお風呂に入っているときに先輩が置いたのか、脱衣所に置かれていたカゴにタオルと衣服が置いてあった。


「…………うえっ」


 衣服を取りだして思わず唸る。ひらひらとした素材のワンピースタイプの寝間着だ。可愛いし、寝心地も良さそうだけれど、これを選んだのが一年先輩ということを思うと喜べない。

 これを着るくらいなら制服を着た方がましではないかと辺りを見てみるも、脱いだはずの制服は忽然と姿を消していた。犯人なんか決まってる、一年先輩だ。

 仕方なく寝間着を着て脱衣所を出る。気持ち悪いことにサイズはピッタリだ。制服をどこにやったのか、と一言文句を言ってやろうと勢い込んで扉を開けたはいいが、目の前に立っていた先輩を見て、ギャッと声を上げた。


「もう上がったの? 早いね」

「ず、ずっとここに!?」


 当然だとばかりに先輩は微笑む。本当に気持ち悪いと心の中で思った。こっそり私が逃げ出さないように監視していたのか、それとも……。

 部屋に戻った私は先輩に髪を乾かされた。一人でできると突っぱねたものの、彼は半ば無理矢理私の髪を梳かす。ドライヤーの温風と、髪を撫でる先輩の細い指を頭部に感じ、思わずギュウッと強く目を閉じた。


「他の服はないんですか?」

「ん、もっと可愛いパジャマが良かった? ネグリジェとか、ベビードールとか」

「これで十分です」


 無言でいると背中の一年先輩の存在を感じてしまう、と適当に言葉を発してみたはいいが、余計気分を滅入らせただけだった。

 長い時間をかけて髪を乾かされた。上手くできた、とご満悦に先輩が声を弾ませる。自分で梳かすよりも綺麗に仕上がっているのが腹立たしかった。

 夕食、お風呂、とくれば後は寝るだけだ。先輩が私の体を横抱きに持ち上げたかと思うとベッドに下ろす。そしてこともあろうに隣に潜り込んできた。


「ちょっと!」


 驚いた私は後先考えずに一年先輩の体を叩いた。いてて、と顔を顰めながら先輩は窘めるように私の手を払う。


「大丈夫だって、何もしないよ」

「今何かしてるじゃないですか! 何で入ってくる!?」

「一緒に寝たいから」

「私、床で寝ます!」


 駄目だよぉ、と笑いながら一年先輩は私の体を後ろから抱きしめた。ひっ、と喉を引き攣らせ、体を硬直させる。くすくすと甘い笑いが首元をくすぐる。

 先輩はまるで懐いていない猫を相手にしているかのようだ。今抱きしめている相手が猫ではなく、自分と一つしか歳の変わらない女だと、本当に分かっているのか?

 白いシーツは洗い立てらしく清潔で、毛布も肌触りが良く温かい。ふかりと身が沈む感覚は思わず溺れてしまいたくなるほどだ。ただ、こんな状況じゃなければの話だけど。


 嫌いな人に抱きしめられて眠ることがこんなに辛いことだとは思わなかった。意識せずとも全身が張り詰め、恐怖と苛立ちが脳味噌を沸かす。

 夜の間に逃げられるものなら逃げたかった。けれどこんなにガッチリと密着されていると、難しい。どれだけそっと抜け出そうとしても、きっと彼は気が付いてしまうだろう。

 一晩こうして眠らなければいけない? 本当に? 生理的な嫌悪感に強く唇を噛む。これが東雲さんだったらどれだけ嬉しいことだろうか。逆の意味で緊張して眠れないだろうけれど、今よりも遥かにいい。あっちが天国だとしたらこっちは地獄だ。


「せめてもっと離れてくれませんか」

「やーだ」


 無邪気な笑い声に怒りしか湧いてこない。むしろ一層抱き付く力を強めてきた一年先輩を、今すぐ振り解きたい。


「オオカミさんの前とじゃ大違いだね」


 ピクッと肩を揺らし、険しい目で一年先輩を睨み付ける。彼は愛おしそうな表情で私を見つめていた。

 まるで思考を読み取っているかのような言葉に思わず反応してしまった。……いや、違うか。私が常に考えているのかもしれない。東雲さんのことを。


「あの人とあなたは違う」

「…………知ってるよ」


 すり、と手の甲で頬をなぞられた。東雲さんと一年先輩は違う、何もかも。

 間接照明に照らされた部屋で、先輩の顔は暗く映っていた。黒々とした目が、どことなく恐怖心を煽る色を湛えて私を凝視していた。


「前言撤回しようかな」

「なに?」

「オオカミさんにも何かしちゃうかも。和子ちゃんの態度次第で」


 咄嗟に振り上げようとした拳を上から押さえ付けられる。声色を変えず、いつまでも変わらないね、と先輩は囁くように言った。

 何度、何度言われたことだろう。私自身ではなく他の人間を狙うぞという脅しを。友人、両親、彼らを狙うぞと言われると勿論視界が真っ赤になるほど激昂する。だがその中でも東雲さんを狙うと言われることが、一番最悪だった。

 言葉だけ、かもしれない。ヤクザや殺し屋が束になってかかれば当然東雲さんも危ない。だが一年先輩、カラスという学生の殺し屋一人、東雲さんならば余裕で対処ができるかもしれない。

 けれど。一年先輩の性格ならば、残虐なことも平気で行いそうだった。例えば幼子など関係のない人間を盾にして東雲さんを傷付け、用が済めば盾にした人間を平気で殺してしまいそうな……。例えば周囲の親しい人間から狙って東雲さんを精神的にも痛めつけそうな……。


「和子ちゃんが素直でいてくれれば何もしないよ」


 一年先輩の甘い囁きが耳朶に響く。数秒置いて、私はゆっくりと拳から力を抜いた。唇から血の味がした。

 よしよし、と子供を褒めるかのごとく彼の手が私の頭を撫でる。できるだけ反応しないように、目を閉じ、枕に顔を押し付けた。そうでもしなければ今にも怒鳴り散らしそうだったから。

 大丈夫。一年先輩一人、私でもなんとかなる。こんな所すぐに出られる。

 だから。


「おやすみ和子ちゃん」

「……………………」


 だから。そのときが来るまで、じっと耐えていよう。

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