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第101話 ラブラブ同棲生活

 もう半月もすれば春になるだろう。


「空気あったかいなー」


 窓を開けた時に吹き込んできた風は、突き刺すような鋭さも冷気もなく、柔らかな温かさを孕んでいた。

 しかしどうにも勢いが強すぎる。春一番というやつだ。顔に張り付いた髪を払って、風に飛ばされないように干していた洗濯物を室内に取り込む。

 この強風がやめば本格的に春を感じる陽気になるだろうか。それとも一度、寒さが戻ってくるだろうか。

 激しい寒暖差は困るなと思いつつ、天気予報でもやっていないかとテレビを付けた。ちょうどぴったり天気予報をやっていた番組に合わせると、予想通り、しばらくの間暖かな日と寒い日が交互に繰り返されるらしい。せめてどちらかに統一してほしいものだ、と内心考えて笑う。


 昼食でも作ろう。テレビ画面の端に映った時刻で、昼を少し過ぎていたことに気付く。

 どうせ今日は東雲さんの家でもなく自宅に一人なのだから、外食に行った方が楽だし美味しいかもしれない。だけど節約と、あと料理の勉強の意味もある。

 フライパンを出して温め、調味料を混ぜた溶き卵を流し入れる。慎重に焼き加減を見て箸でそっと包めば、綺麗な形のだし巻き卵の完成だ。他のおかずとご飯も用意して一人席に着き、いただきますと手を合わせて箸を取る。


「うん、美味しくできたんじゃないかな!」


 卵焼きは上手い具合にだしが効き、焼き加減も絶妙だった。これなら東雲さんに出しても合格点をもらえるだろう。彼は殺し屋の師匠でもあるが、料理の師匠でもある。これまでずっと厳しく指導されてきた甲斐があったってものだ。

 上手くできたー、と足をパタパタさせて喜んでいると、付けっぱなしだったテレビからニュース映像が流れてきた。


『もうすぐ卒業式。明星市の幼稚園、保育園でも、園児達の微笑ましい様子が見られます』


 市内いくつかの園を回ってインタビューしたのだろう。スモックを着た園児達が賑やかに走り回ったり、卒園式で使うらしき飾りを切ったりしている様子が流れた。

 何人かの幼児がインタビューを受け、活発に、または恥ずかしそうに受け答えている。

 第三区の幼稚園の映像で、わんぱくそうな男の子と大人しい男の子が小学校は楽しみだと答えている。第一区の保育園で、顔に大きな傷を付けた女の子を真ん中に三人の少女達が、友達と離れるのは寂しいと答えている。


『卒業シーズンということで皆さんこれまでの環境から離れる寂しさと、新しい環境への期待がありますね。では次の……』

「卒業か……」


 四月からは私も三年生、最高学年だ。

 けれど卒業。そういえば一年先輩はもう卒業して、道仏高校からもいなくなる。そのことを思い、何とも言えない気持ちになった。

進路は決まったのだろうか。……いや、一年先輩のことは別に私には関係ないのだから、考えなくてもいいことだ。


「……………………」


 彼はこれから、何をするんだろう。






「秋月さん、少しお願いがあるんですが。これを美術室に届けてくれませんか?」


 プリントの束を持った金井先生にそう頼まれたのは、二月の終わりのことだった。デジャブだと真っ先に思った。以前にもこういうことがなかったっけ。確か、一年生のときの冬休み前に。

 私ですか、と固い声で言ってみるも金井先生は私の気持ちを読み取っていないのか、秋月さんです、と薄く笑んだまま答えた。


「他の子じゃ駄目なんですか?」

「駄目ってわけではないですけれど、近くにあなたがいたもので。生憎僕は今手が離せなくて。……都合が悪かったですか?」

「……いえ。いえ別に、大丈夫です、うん」


 自分に言い聞かせるように頷く。金井先生は鈍いのか私の重い反応に気付かず、お願いしますねと言って去っていく。

 渋々渡されたプリントを抱え、美術室に向かった。放課後の廊下にコツリコツリと、私の靴音だけが響く。一歩一歩の幅が広い音だった。

 美術室なんて大嫌いだ。いや、正確には一人の人物と遭遇しやすくて嫌なだけなのだけど……。絵の具のにおいも、油のにおいも、木材のにおいも、鼻に付くたびあの人を思ってしまって顔を顰める。

 永遠に着かなければいいのにそんなわけもなく。数分足らずで私の足は美術室の前で止まった。重い溜息を吐き、扉をノックして開ける。


「失礼します」


 念の為にと声をかけて入ってみたが、中には誰もいなかった。よしっと小声で呟き、そそくさと中に入って机の上にプリントを置く。

 任務終了だ。さあ帰ろうとくるり踵を返した私の目に映る、入口に立って笑顔でこちらを見つめる一年先輩。


「ぴぃっ」


 思わず素っ頓狂な声を上げて飛び跳ねる。その拍子に足を滑らせ、ガタガタと近くの椅子を巻き込みながら床に尻餅を突く。そんな私に先輩はあははと笑いながら、丁寧に扉を閉めてこちらに歩み寄って来た。


「そんなに驚く?」

「おっ…………驚きますよ、そりゃあ」


 だって一番会いたくない人だから。

 差し出された手を無視して立ち上がった私は、すぐにでもと部屋を出て行こうと歩を進める。が、一年先輩がするりと私の手を撫でて引き留めた。


「もっとゆっくりしていけばいいのに」

「結構です。……それより、ここに来るタイミング完璧すぎましたよね?」

「心の中で和子ちゃんが呼ぶ声がしたのさ」

「嘘ばっかり」


 どうせ廊下の窓越しに私が見えでもしたのだろう。ダッシュで来て待ち構えていたのだろうか、もしそうなら面白い話だ。笑えないけど。

 ゆっくりしていけと言われても美術室でどう過ごせと言うんだ。そう思い視線を部屋に巡らせた私は、ふと壁際に置かれたキャンバスに目が留まった。

 イーゼルにかけられたそれに、美しい絵が描かれている。ヒマワリの絵だ。目に眩しいくらい鮮やかな黄色が、キャンバスの中でぐっと空に伸びている。けれど描きかけなのだろうか。いくつも生えたヒマワリのうち色が塗られているのはほんの数本で、残りはまだ線画のままだった。


「それ、同級生の作品なんだ。部の最終課題用のね」


 私の視線に気が付いた一年先輩が答える。同級生? と私は怪訝に目を細めた。


「もうすぐ卒業ですよね? あ、もしかして修了式までに提出する作品なんですか」

「ううん。三年生は卒業式で学校に来るのは最後だから、それまでに」


 卒業式までなんてあと数週間しかない。いくら三年生が受験も終わって色んなしがらみから解放されたとしても、部活の作業にとりかかる時間だって限られている。

 間に合うのかな、と独り言として呟いた言葉に、どうかな、と一年先輩は肩を竦めた。


「現物を見なきゃ描けないんだって」

「何でヒマワリなんか選んじゃったんですか」

「さぁね。でも気持ちは分かるよ。現物を見なきゃ、描きたくても描けない気持ちって」


 絵画についての知識はさっぱりだ。現物が見たいならネットや本で調べればいくらでもあるだろうにと思うが、恐らくそういうことじゃないのだろう。


「でも時間がないからね。なんとか描いて終わらせるよ、きっと」

「先輩は終わったんですか」

「ん、僕の作品見たい?」

「いや別に見たいとは」

「いいよいいよ、おいで、これだよ」


 見たいって言ってないのに……と眉根を寄せつつも、一年先輩が手招く方向へそろりと寄ってみた。準備室にでも連れ込まれたらすぐに逃げ出そうとも思っていたのだが、先輩はヒマワリの絵からちょっと離れたところに置かれていたキャンバスの前で立ち止まった。

 単なる風景画だ。家のベランダから見える風景でも描いたのか、物干し竿を手前に夕暮れの空と電柱が描かれている。向かいの家の屋根に止まったカラスが、じっとこちらを見つめている。色使いが絶妙で、まるで本物の夕焼けを見ているかのようだ。

 上手いですね、と素直に賛辞する。一年先輩は少し恥ずかしそうに微笑んだ。


「写真撮っていいですか? ちょっと、後で見返したい」

「いいよ。でも、あまり褒められると恥ずかしいな」

「……そう照れられるともっと褒めたくなりますね」


 やめてよぅ、と顔を覆う一年先輩の横で、携帯に撮った写真を見つめる。綺麗な風景画だ。これをこの人が描いたのかと思うと驚く。外面だけを見ていればこんな綺麗な絵を描けるんですねと素直に憧れたが、本性をしっている以上こんな綺麗な絵も描けたんですねとしか言いようがない。

 まあ性格だけで判断するのも悪いか……と思い直して首を振る。


「本当細かいところまで描いてる、凄い。やっぱり高校生最後の絵だから? 気合い入りますよね」

「まあ勿論それもあるけど。でも最後の絵ってわけじゃないかな、他にもいくつか描いてる途中の絵はあるし」

「ふーん…………」


 と、そこまで話してハッとした。駄目だ呑まれるな。こんな悠長な会話をしていたら、また変なことをされてしまうかもしれないぞ。

 用も済んだのでと私は足早に部屋を出て行こうとする。案外呆気なく足は出口に辿り着いた。扉も閉まってはいたけれど鍵はかかっておらず、難なく開く。

 不服に思って振り返っても先輩が私を引き留めようとしている素振りもなかった。ただ爽やかな微笑みを浮かべてひらひらと手を振っている。


「バイバイ和子ちゃん。またね」

「…………さようなら」


 一応はと軽く頭を下げ、私は美術室を出た。廊下の突き当たりで振り返るも、美術室から先輩がじっとこちらを見ているわけでも、後ろからハサミを振り下ろそうとしているわけでもない。

 何だか拍子抜けだ。いや、別に先輩が私を追ってくることを期待していたわけじゃないのだけれども……むしろ来ない方が嬉しいし、うん、何もない方がいいし。

 前まであんなに和子ちゃん和子ちゃんと人の好さそうな笑顔で私に付きまとってきていた一年先輩も、今ではあまり関わってこなくなった気がする。何だかんだで私に飽きたのかもしれない。他に好きな子ができたのかも。その方がいい。気持ち悪い付きまとわれ方をするよりも、関わりがなくなってくれた方が断然嬉しい。


「あれだけ酷いことしておいて」


 ふと夏場、プールで先輩にされたことを思い出してカッと顔が熱くなる。唇を舐め、恨めしい視線を美術室に向けた。当然先輩がひょっこり出てくることはない。

 せめてもの仕返しにとさっき撮った作品写真を東雲さんに送る。これ一年先輩が描いたんですよという一文を添えてだ。自分の嫌う東雲さんに作品を見られたことを知ったら、一年先輩は怒るかもしれない。……ちょっと申し訳ないから写真を送ってしまったことは内緒にしておこう。

 携帯を閉まって唇を拭う。それから私は階段を下りて一階へ向かった。




 寄り道をした。と言ってもほんの少し、いつもの道を外れただけだった。

 帰っている最中、牛乳が切れていたことを思い出した。今朝飲んだものでちょうど終わってしまったのだ。だからスーパーに買いに行ったのだが、タイミングの悪いことに、午前中のセールで売り切れてしまったらしい。いつもと違いメーカーのものなら残っている。だけど牛乳にこだわりを持っている私としては、同じメーカーのものが欲しかった。結局足を運んだのは普段あまり行かない、家から少し離れたスーパーだった。

 買い物を終えた帰り。春が近いといっても既に空は夕日も沈み、淡い紫から暗い鉄紺色に染まろうとしていた。肌を撫でていく風の生温かさが、何故だか背筋を震わせる。


「早く帰ろう」


 誰に言うでもなく呟いて、買い物袋を持ち直す。

 ぬるりと背後から伸びた手が私の口を覆い隠す。


「っ!?」


 驚愕に体を強張らせた。私の口を覆う手に力がこもり、体の全面に回されたもう一方の手がぐっと私を拘束しようとする。

 咄嗟に身を捩って抜け出そうとした。だが、それを予測していたように背後の誰かは私の体を地面に押し倒す。ろくにガードもできず頬を強かに打ち付け、痛みに顔を顰めた。

 何、誰、何。次々浮かび上がる恐怖とパニックを押し殺し、とにかく逃れなければと私は大きく息を吸おうとした。途端、脳味噌をガツンと殴られたような、刺激的な臭いが鼻孔を貫く。

 薬か、と顔を歪めたときには遅かった。思いっ切り吸い込んでしまった薬のせいか脳が強烈な頭痛に襲われる。眩暈が起きて、世界が回る。


「…………っ」


 必死に背後の何者かを攻撃する。肘でガツガツとその体を押し退けようとするも、ろくに動かせない体勢のせいで、効果的な威力はない。

 地面に押し倒されて、何かを嗅がされて、この状態でどうすればいいのか。思考をフル回転させるも無駄だった。上手く息ができず酸欠状態になっていく。ガンガンという頭痛と共に、心臓の鼓動がドクドクと速くなっていく。

 くそ、と脳内で悪態を付き、次第に霞んでいく視線を動かして、背後を見た。

 見えたのは、黒いセーターと。

 人の好さそうな笑顔と。





「おはよう」


 目の前に一年先輩の顔があった。

 大きく仰け反って逃げようとして、途中でそれが叶わないことを悟る。背に回された両手首から鎖が伸び、部屋の柱に固定されている。足も同じだ。両足首にはめられた足錠は手にはめられたものと同じだろう。おもちゃではないかと馬鹿にしたくなる、ふわふわの蛍光ピンク色の枷。だけど手足に力を込めても枷は外れなかった。

 私は床に横たわりラグの毛を頬に感じていた。一年先輩がソファーに座り、悠々とした顔でそんな私を見下ろしている。

 ここはどこだ。ぼんやりとした間接照明で照らされる空間は、誰かの部屋のようだった。大きなサイズのベッド、ソファー、観葉植物、棚。はっはっ、と息を荒げながら視線を泳がせる私に、どうかな、と一年先輩は楽しそうに微笑んだ。ギロリと睨み付け、背中に回された両手を振る。


「外せ」

「言葉使いが悪いよ。もっと優しく言おうか」

「うるさいっ!」


 怒りに任せて床を蹴る。怖いなぁ、とちっとも怖がってない素振りで一年先輩が眉根を下げた。


「どこですかここ。何のつもりですか……!」

「どこってそりゃあ……」

「帰してください!」

「……帰してって、どっちに?」


 え、と虚を突かれ戸惑う。先輩が立ち上がってこちらにやって来たかと思うと、私の頭を撫でて優しい顔をする。

 全身に鳥肌が立った。今すぐに手を振り払いたいのに、拘束されているせいでそれも叶わない。


「自分の家か、東雲さんの家か、どっち?」

「……………………」

「ふぅん。答えられないほどなんだ」

「……し、東雲さんに、何をする気ですか」


 前に誘拐されたときも、相手の狙いは東雲さんだった。私を囮に東雲さんを捕らえようとする作戦で。そのせいで彼は危い状況に追い込まれてしまっていた。二度も誘拐されるなんて不甲斐ない。けれど今回は一年先輩一人、私だけでも何とか対処できるかもしれない……。

 しかし先輩は何を言っているのかと不思議そうに目を丸くした。それから、大丈夫だよ、と怖いくらい優しい笑みを浮かべる。


「君の大好きなオオカミさんには何もしない」

「本当ですか?」

「だって僕が何かしたいのは君だけだから」

「え…………?」


 一年先輩の手がするりと私の頬を包み込む。温かい手。けれどゾクリと、肌が粟立つ。

 彼は笑顔を浮かべている。心底嬉しそうな、幸せそうな笑顔。

 どうして、こんなに笑っている?


「帰れないよ。和子ちゃんの家は今日からここになるんだもの」

「は?」

「ずっと一緒に暮らしたかったんだ。嬉しいな、念願叶って」

「…………ちょっと」

「お腹空いただろう? もうすぐ夕飯作って持ってくるから、待っててね」

「ちょっと、待ってください!」


 張り上げた声が上擦った。カチ、と歯の根が合わない音がする。薬が残っているのか、それとも精神的なものなのか、ふらつく視線を先輩に向ける。

 あなたは何を言っているの。そう聞こうとした。だけど私が口を開く前に、先輩がにぃっと歯を見せて、告げてくる。


「ラブラブ同棲生活だよ和子ちゃん」


 意味が分からなかった。分かりたくなかった。ラブラブという言葉の甘さも、同棲という幸せな単語も、全く理解できなかった。

 何を言っているの。もう一度そんな意図を込めて先輩を見る。けれど彼は、二度目の視線には答えてくれなかった。

 一年先輩の手が私から離れていく。そのまま部屋の扉に向かっていく彼に、待ってと叫んだ。


「何のために。こんな、私を」


 恐怖で口がもつれる。それでも先輩は、笑顔でこう答えた。

 決してこんな状況で聞きたくはない答えだった。


「決まってるだろう? 大好きだからさ!」

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[一言] ひぇぇぇえー!先輩何もしてこないんだ、へーくらいにしか考えてなかったのに何たる仕打ち……! 何回も思ってますけど、先輩の和子ちゃんへの「好き」は絶対にベクトルが反対方向になってるし、何なら折…
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