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第10話 お泊り

 冷たいシャワーで一通り血を流してから、水をお湯に変える。冷えた体がじんわりと温まっていく。緩んだ息を吐き、目の前の湯気で曇った鏡を手の平で拭いて、そこに映る自分を見た。昨日まで背中まで伸びていた髪は、今では肩までに短くなっていた。

 カッターで切られた髪は所々に長い部分が残っていたりとぐちゃぐちゃだったので、あの後自分で軽く切った。そんなに器用じゃないから上手くはいかなかったけれど。明日、登校前にでも美容院に寄らなくちゃいけない。

 シャワーの雨の中で目を閉じた。ザーッという水音の中で、彼女の死体と保良さんの死体を思い出す。


「……………………」


 目を開け、再度鏡の中の自分を見つめる。ぼんやりとしたその顔が、どうしてか、まるで知らない他人のもののように思えた。

 ふーっと深い息を吐き、シャワーを止めて髪を掻く。ふわりと香るシャンプーの匂いは、普段わたしが使っているものとは違う、男物のサッパリとした匂い。

 ここは東雲さんの住む部屋だ。 



 脱衣所に着替えが置かれていた。下着は流石に道中わたしが買ったものだが、服は東雲さんのお古であろうTシャツとズボン。大分ぶかぶかで、裾を捲らなければいけなかった。

 廊下に出て部屋へ行く。部屋に入ると、キッチンの方で料理をしていた東雲さんがわたしに気付いた。緑色のエプロンをしている。緑色が好きなんだろうか。


「もう少し待ってろ。その間に髪を乾かしとけよ」

「はい」


 タオルで乱暴に髪を拭き、ドライヤーで乾かす。ぶぉうっと噴き出した熱風に湿った髪が激しく踊り、頬に張り付く。わしわしと適当に髪を掻いて乾かしていると、キッチンの方から料理の音が聞こえてくることに気が付いた。ふとドライヤーの手を止め、ソファーにもたれかかりながら目を細める。

 何かを炒める音、冷蔵庫を開ける音、お湯が沸騰する音。わたしが何もしていなくとも、誰かが動いている生活音が部屋の中に聞こえる。音がある。

 ……何だか落ち着くな。



 それからしばらくして、わたしたちはリビングのテーブルに向かい合うように座っていた。テーブル上に並ぶのは二人分の夕食。白いご飯に焼き鮭、ほうれん草の煮浸し、豆腐とワカメのお味噌汁。

 ザ、和食! といった感じの家庭的な定番料理。これを全部東雲さんが作ったのか……インスタントも冷凍食品も一切使われていない、一から十まで手作りの……。

 いい匂いの湯気が鼻をくすぐり、ぐぅっとお腹が鳴った。今まで色々とあったせいで空腹を感じていなかったけれど、もう夜も遅く、普段の夕食の時間はとっくに過ぎている。つい数十分前に殺人の手伝いをしたばかりだというのによくも食欲が湧くものだと自分で呆れた。

 照れつつもいただきますと挨拶をしてからお椀に手を伸ばす。ほこほこと湯気の上がるそれを少し吐息で冷まし、一口啜った。


「…………美味しい」


 ほぅっと囁くような言葉が零れた。しっかりと出汁の効いたお味噌汁が空腹の胃にしみる。トロリと柔らかなワカメと、ほろほろと崩れる豆腐。温かくてホッとする。箸で鮭を一口大に切り分け口に運ぶと、これまた美味しかった。程よく塩気のある鮭に白米を頬張ると思わず頬が緩んでいく。煮浸しもシャキシャキと歯応えが良い。


 何というか、温かかった。こんな温かい料理を誰かと食べるだなんて本当に久しぶりだった。

 何というか、幸せだった。


 美味しい美味しいと言いながら食事を口に運ぶわたしを、東雲さんは何も言わずに見つめていた。けれどわたしがお味噌汁を飲み干したとき尋ねてくる。


「おかわりは?」

「いただきますっ!」


 お椀を手に目を輝かせたわたしに、彼はふっと柔らかく口を緩めた。

 あ、笑った。

 彼の緩んだ表情に一瞬呆ける。その間に彼はわたしから椀を受け取り、キッチンへ行っておかわりを注いでくれる。戻ってきたときにはその表情はもう元の無表情へ戻っていた。




 食後、彼が淹れてくれたホットミルクを飲みながらソファーに座る。砂糖をたっぷり入れた甘い味を堪能しながら、前にファミレスで彼が言った冗談を思い出した。……考えてみれば、さっきの料理にもこのホットミルクにも、彼が毒を入れることはできたんだよな。まあでも、できるならとっくにしてるだろうし、残すのも申し訳ないしね。

 舌を火傷しないように気を付けてミルクを飲みながら、ソファーに背をもたらせる。ぼんやりと上を向けばそこにあるのは淡いオレンジ色の光を放つ照明。目を落とせば、部屋の全貌が視界に入る。

 広々とした部屋。フローリングの上に敷かれた森色のカーペットも、中央に置かれたダイニングテーブルも、小難しそうな本やファイルや紙束が押し込められた棚も、ダブルベッドとほどに大きいベッドも、何もかもが大きい。一人暮らしがどんなものかわたしには分からないけれど、それにしても悠々としすぎている。


「広い部屋、ですねぇ……」

「金だけは無駄にある」


 恐る恐る呟いた言葉にそう返事をしてくれる。無駄、と言えるくらいの大金は考えるまでもなく殺し屋の報酬のことなのだろう。

 テーブルに置いたパソコンを前に何やらしかめっ面をする東雲さん。そんな彼を、これまた大きなふかふかするソファーに座ってぼんやりと眺めていた。

 部屋はとても綺麗に掃除がされていた。床に本や服が散らばっていることも、ゴミが散乱していることもないし、埃もほとんど落ちていない。わたしの家は散らかってはいないけれど生活感がないだけで、生活しているのに綺麗な部屋というのは、結構凄いことだなと思った。キッチンの方は角度的に見えないけれど、恐らく同じように手入れが行き届いているんだろう。

 きっと東雲さんは綺麗好きなんだ。料理も美味しいし、家事が得意なのかもしれない。……うぅん。何だかとっても負けた気がする。


「どこで煙草吸ってるんですか? 部屋の壁、真っ白ですけど」


 実際このリビングの壁は真っ白だった。ヤニ汚れなどなく、綺麗なままだ。部屋のにおいは煙草の臭いではなく香ばしいコーヒーの香り。だから喫煙者の彼が煙草をどこで吸っているのか、何となく気になった。

 東雲さんはパソコンから目を上げ、ちらりと視線をベランダへと向ける。


「ベランダで。隣の住民も喫煙者だから、特に苦情は言ってこない」

「ホタル族?」

「……古い言葉知ってるなお前」

「敷金のためですか?」

「まあそれもあるが、部屋を汚したくないからな」


 そこで東雲さんは大きく伸びをした。疲れたように目を擦り、話してたら吸いたくなってきた、と椅子にかけていたコートのポケットから煙草の箱を取り出して立ち上がる。同時に壁にかかっている時計に目を向けながら言う。


「そろそろ終電の時間じゃあないか?」

「あ……そう、ですね」


 言われてみればもうそんな時間だ。どうせお父さんもお母さんも帰って来ていないから怒られる心配はなさそうだけど、終電を逃してタクシーを使うのは出費が痛い。

 コップに半分残ったホットミルクを飲み干そうとして、ふとその手が止まる。ソファーから浮かしかけた腰をまた下ろす。


「あの」


 ベランダの窓に手をかけようとしていた東雲さんが振り向く。もじもじと躊躇するように視線を惑わせるわたしに、「何だ」と不思議そうに聞いた。

 僅かに気圧されるような空気を身に感じつつ、わたしは喉を震わせ、上目遣いで彼の表情を窺った。


「今夜、ここに泊っちゃ駄目ですか?」

「はぁ?」


 彼が握っていた煙草の箱がぐしゃりと歪んだ。躊躇うように視線をベッドとわたしの間で泳がせる。


「いや、お前……それは…………仮にも男の部屋だろう」

「わたしは気にしませんよ?」


 そういうことじゃなくてなぁ、と彼が呆れたように口角を引くつかせた。

 時計の針の音だけが響く部屋で、鼓動を早めるだけの静寂に耐え切れず、わたしは即興の言い訳を述べる。


「今からじゃあ終電間に合わないかもですし、そういえば財布の中身もロクに入ってないですし!」

「タクシー代ぐらいは出す。それに、ご両親が怒るだろう」

「どうせ二人とも今日も帰ってこないですよ。知ってるでしょ? ……勿論ベッドじゃなくてソファーで寝ますから!」


 生まれてから今まで十六年間過ごしてきたわたしの(へや)。たった数時間しか過ごしていない彼の部屋。

 家に帰ってもどうせ誰もいない。ただいまと言いながら部屋に入っても、待っているのは暗く冷たい壁だけ。無駄に広い部屋だからこそ孤独感は毎晩のように胸に沁みた。

 こっちの方が温かい。人がいて、ホッとして、寂しくない。こっちの方が居心地がいい。


「駄目、ですか……?」


 最後の問いかけを投げつけた。同時に見上げた彼の顔はやけに困ったように眉が寄っていた。だけど彼のまつ毛がゆっくりとその目を覆い、再び開いたとき、その深い色をした眼差しの中にチリチリと炎の熱が浮かんだ。

 失敗した、という感情が心臓を潰す。言葉はなくとも、彼が言わんとしている意は痛いほどに伝わってきた。この目の色は今までに何度も見たことがある。一条さんや恋路さんのような、わたしを嗤う子達とおんなじ。

 冷たい蔑みの炎だ。


「お前、単純だって言われないか」


 目に浮かんだ炎とは裏腹の、背筋から凍えていくような冷たい声。心の寒さに身を強張らせながらソファーの裾を握る。

 東雲さんの冷ややかな視線がわたしを貫く。彼が僅かに手の位置を動かすだけで顕著にもわたしの肩は跳ねてしまう。それに小さく舌を鳴らし、不機嫌そうに彼の眉間にしわが寄った。


「俺がお前に何をしたのか忘れたか」


 あの夜のことだ。保良さんが死んで、わたしが殺されそうになったあの夜。

 東雲さんが保良さんを殺した。さっき見た銃で、保良さんを撃ち抜いた。

 恨んでいないといえば嘘になる。彼に対する怒りはふつふつと胸の底に湧いているし、それは忘れたわけではなかった。

 だったらどうして今まで、わたしが東雲さんの傍にいたのかと言えば、それは――。


 沈黙をどう受け取ったのか、東雲さんは深い息を吐いて、帰れ、と言った。ソファーに膝を抱えて丸くなるわたしを拒絶した。

 嫌だ。

 嫌だ、帰りたくない。


「……ひとりになりたくない」


 声が震えていた。俯いているせいで、東雲さんの顔は見えなかった。

 ただ、わたしの言葉に、僅かに彼が息を呑むような気配がした。


 一人に、独りになりたくない。ひとりぼっちはもう嫌だ。

 寂しくて、怖くて、辛くて、悲しい。そんな思いはもう耐え切れないんだ。

 誰でもいいから、傍にいて。


 それが、東雲さんのような、酷い人間だとしても。

 わたしには他に縋れるものがないから。




「『ネコ』」


 東雲さんの強張った声が聞こえて顔を上げた。彼はわたしから目を背け、窓の外を見つめていた。ひゅうと吹いた風がカタカタと窓ガラスを鳴らす。

 窓に反射する彼の表情。酷く遠くを見るような、悲しそうな、それでいて嬉しそうな。複雑な切ない顔。

 彼の言葉の意味が掴めずにいると、彼が振り向いてわたしを見つめた。一瞬前まで浮かべていた感傷的な表情はなくなっていた。


「お前に仕事名を付けてやる。『ネコ』だ。反射神経も瞬発力もいいんだろう? 牛乳が好きなところだって、似てるじゃないか」

「……凄く、適当じゃないですか?」


 ふにゃりと力の抜けた笑みが浮かぶ。東雲さんもまた少しだけ目を細めるように微笑み、言う。


「和子。お前は変わらなくちゃいけない。今までのように甘い人間ではいられないんだよ」


 諭すように優しく、突き付けるように強く、悲しむように切なく、

 言う。


「強くなれ」


 強くならなくちゃいけないんだ。

 そんな東雲さんの言葉が耳に滑り込んできて、思わず唾を飲み込んだ。


 強くならなくちゃいけない。変わらなくちゃいけない。

 独りが怖いなら、強くなって、一人じゃなくなればいい。

 そういうことだろうか。


 選択肢は一つしかない。



「東雲さん。わたしは――私は、強くなりたい」


 変えなくちゃ、弱い自分を。

 変わらなくちゃ、強い自分に。


「できますか。あなたといれば、私は強くなれますか」


 一言一言に熱い思いが込み上げる。縋るように、決意するように、私はしっかりと彼の目を見据えた。

 東雲さんは静かな目で私を見下ろしていた。『オオカミさん』の鋭く冷たい目は、今だけはどうも優しいものに見えた。


「お前次第だ」




 潰れた煙草ケースを机に放り、彼がクローゼットの奥から一枚の毛布を取り出す。薄い黄緑色のそれを広げ、ソファーに座る私へと手渡す。遠慮がちにそろりと手を伸ばすと、ほわほわとした滑らかな手触りが気持ちいい。


「ソファーで寝ろよ」

「え、泊まっていいんですか?」


 ぼんやりと聞き返すと、彼は怪訝そうに「帰ってもいいが」と言った。全力で首を横に振り、毛布を鼻先まで持ち上げる。


「いえ! 泊まらせていただきます! ……東雲さんはまだ寝ないんですか?」

「……仕事を終わらせてからな」


 そうですか、と呟いて私はソファーに横たわる。あくびを一つ。彼の言う通り夜も遅い、今になってようやく今日の疲れがどっと出てきた。

 滑らかで暖かな毛布にとろとろと目を閉じそうになりながら、じっと仕事を続ける東雲さんを見つめる。視線に気が付いた彼が顔を上げる。


「どうした?」

「い、いや、言ってなかったなー……って」

「何を」


 うとうとと本格的に途絶えそうになる意識。懸命にゆるりと唇を開き、力ない笑みを浮かべながら、ぼんやりとした声を彼に告げる。


「おやすみなさい」


 言って瞼を閉じた。心地良い微睡みに身を委ねるそのときに。

 おやすみ、ととろけそうに優しい返事が聞こえた。

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