第1話 暗い夜の中で
明星市では毎日人が死んでいる。
朝が来るのが嫌だった。
「……………………」
激しい雨音に目を覚ます。視界を遮る前髪を掻き上げながら上半身をシーツから起こし、途端にじわりと滲む頭痛に眉をしかめた。
部屋は暗い。黄緑色のカーテンを開けてみれば、夜のように暗い曇天から、大量の雨粒が街に降り落ちていた。十一階のこの部屋からあまり下は見えないが、たくさんの傘が通りを歩いているのが辛うじて見える。
今は何時なのだろう? と目覚まし時計を見れば、アラームの鳴る更に三十分も前。六時半。家を出るには早すぎる、かといって二度寝するには遅すぎた。
のったりとした重い動きでキッチンへと向かう。少し冷える空気に身を震わせながら、あと数週間もすれば本格的に寒くなるだろうなと憂鬱に思った。冷凍パスタと焦げかけたスクランブルエッグの朝食を終え、蜂蜜を入れたホットミルクを飲みながらテレビを見る。今日もどこそこで知らない誰かが死んでいたと、ニュースキャスターが淡々と報じていた。
部屋に戻り、パジャマを脱いで、この間衣替えをしたばかりのまだ着慣れていない冬服に手をかける。
白いブラウスを着て、首までしっかりボタンを留める。タイツとスカートを身に着けてから灰色のセーターをかぶり、黒いブレザーを羽織る。リボンはどこに置いたっけと辺りを見回して、タンスの上に転がっていた深緑色のそれを首元に付けた。
乱れているところはないかと、最後に姿見の前に立つ。曇った表情と目が合い、自分だと分かっているのに、一瞬ドキリとした。
黒髪の下に見える両目はぼんやりと虚ろで、朝から疲労感を滲ませている。制服から覗く手足は不健康な細さだ。全身に重苦しい空気が漂っているのは、制服や髪、全体的に黒い色が多いから……という理由だけじゃないだろう。
「外、出たくないなぁ」
ぽつりと呟いた言葉が、誰もいない部屋に落ちた。ソファーの上でクッションを抱きしめ、もう一度同じ台詞を吐き出す。行きたくないなぁ、と言う度にどんよりと重い空気がのしかかるような気がした。
外に出たくないのは雨のせいだけじゃない。むしろ雨の方がよっぽどマシだ。
ソファーに寝そべって雨の音を聞く。制服にしわが付いてしまうだろうし、何より行儀が悪いのだが、叱る声は一つも聞こえてこない。虚しくなって、すぐに起き上がった。雨はまだ止まない。それどころか、さっきよりも激しくなっている。
溜息を吐き、鞄を手に玄関へと向かう。乱れてしまった髪を手櫛で整えたが、元より髪質のせいで左右に跳ねてしまうそれにはあまり意味がなかった。引っかけるようにローファーを履く。傘立てにある三本の傘。小さめの緑の傘を手に取った。一番大きな黒い傘はお父さん、レース模様の紫の傘はお母さん。どちらも手持ちの部分に僅かに埃が積もっていた。
行ってきます、と言いながら玄関の戸を開ける。廊下に出て扉がひとりでに閉まるのを見届けた。鍵をかけ、エレベーターへと向かう。
行ってらっしゃいという返事は今日もない。
「――――おはよう。ねえ、今日って朝会だったっけ?」
「いや特に何もなかったはず。それよりさぁ、昨日行った駅前の――――」
生徒達で賑わう玄関。傘立てに水滴の滴る傘を差し込んで、自分の靴箱へと向かう。緑のラインの入った上履き。一応トントンと踵部分を叩き、中に何も入っていないことを確認して、それから履いた。
湿っぽく汚れた廊下に生徒達の靴跡が広がる。朝だから明かりが付いていないこともあるだろうが、雨の今日は特に薄暗く、陰鬱な気分を際立たせた。自然とわたしの視界は床を向き、背も丸くなる。教室の前まで来ると、扉にかけた手が一瞬躊躇するように固まった。
入りたくない。
心から思ったけれど、だからって他にやることも行ける所もない。扉を開ける。途端にがやがやとした話し声がわたしの鼓膜に入り込んできた。
「聞いてよ! 今朝からヤバいの見ちゃってさ、道路で猫が死んでるの見たんだけど。それも木の枝にぶら下がってるやつ!」「ああ、香織の家って第三区だっけ。あそこ最近動物死んでるんでしょ? あんたも気をつけなよ?」「このリボン新しく買ったんだけどどうよ? 指定のは無地だからさ、微妙だよね」「ヤバいどうしようヤバい。数学の宿題やってないんだけどヤバい……見せて!」「暇だねー、この雨いつまで続くんだろうねー」「お前学校で宅配ピザ食ってんじゃねえよ」
楽しそうに弾む会話のどれにも入らず、後ろの扉から入ってすぐの席に着く。鞄を横にかけ、振り向けば届く範囲にある、ロッカーの上に置かれた学級文庫から適当な一冊を取り出した。『生き物大百科』と表紙に大きく書かれたそれに興味があったわけではないけれど、ホームルームが始まるまでの時間、読書でもしなければ時間を潰せそうもない。
パラパラとページを捲る。猫や犬や兎といった動物の愛らしい写真と共に詳しい説明文が載っていた。様々な生き物を探ったようで、ネズミ、ハリネズミ、ライオン、羊、オウム、カラス……などなどたくさんの生き物が載っている。蜘蛛や芋虫、蝶などの昆虫。人魚やチェシャ猫などの架空の生物まで。
ふと、その中の一ページに目が留まる。見開き丸々一ページを使って写真が載っていた。真っ直ぐにその写真を見つめていると、写真の目と目が合うような、そんな気さえしてしまう。
オオカミのページだった。さらりとした灰色の毛並み、凛と立つその姿、威厳溢れるその風格。何より、最も惹かれるのはその瞳だった。
薄い色のその目は、光の影響か、深い森をそのまま映し込んだような深緑色をしていた。綺麗な色のその目からは、写真越しでも鋭く射抜かれるような気が伝わってくる。
僅かな恐怖と、それ以上の高揚が胸に湧き上がってくる。けれどじっくり眺めようとしたとき、教室に担任の金井先生がやって来てしまった。今日もぼさっとした癖毛を掻きながら、覇気のない顔で静かにするよう皆に言う先生を見ながら、わたしは本を閉じた。
パンを齧り、野菜ジュースを飲む。おいしいとかそれ以前に、一人黙々と食べるそれはあまり味を感じなかった。
ほとんどの人が学食に向かったから、教室には僅かな人しか残っていない。斜め前には机をくっつけた女子二人が楽しそうに喋りながらお弁当を広げていた。ふりかけご飯にミートボール、卵焼きとミニトマト。いいな、と心の中で呟いた。ああいうお弁当を最後に作ってもらったのはいつだったろうか。
そんなことをぼんやりと考えていると、急にバチンと激しい音が聞こえ、背中に痛みが走った。
「むぐっ!?」
飲んでいたジュースに噎せ、ゲホゲホと咳き込む。そんなわたしの耳に、聞きたくない声が聞こえてきた。
「やだ、ごめんねぇ? 秋月和子ちゃん」
嫌みったらしく呼ばれたフルネーム。顔を見るまでもなくそれが誰かは分かっていた。だからわたしはその人の名を呼んでから振り返る。
「……何かな、一条さん」
長いつけまつ毛に覆われた目と視線がぶつかった。思わず視線を逸らそうとすると、それを咎めるように横髪を引っ張られる。痛みに顔を顰めたが、彼女は手を離してはくれなかった。
一条えりな。彼女はわたしのクラスメートで、恐らくクラスで一番話すだろう人だ。それは友達としてではなく、いじめる対象、いじめられる対象としての話だけれど。
「ちょっと眩暈がしちゃってさ。いつもの特技で避ければ良かったのに」
「ぼ、ぼんやりしちゃってて……」
ワザとらしい笑顔の一条さんの言葉にぎこちない笑顔を浮かべる。彼女が言っているのはわたしの体質のことだ。でも気付かれないようこっそり背後から迫られれば意味もない。
ぶつかったときに床に落としてしまったパンを見て、一条さんが馬鹿にするような目でわたしを見た。
「パン落ちちゃったわね」
「うん」
「いや、拾いなさいよ。教室の床汚さないでほしいんだけど」
「ご、ごめん」
ブレザーのポケットからティッシュを取り出し、急いで取り除く。斜め前の席の近くまで飛んでしまった。
「ちょっと、パンツ見ないでよ」
「見ないよ!」
いつの間にかわたしの机上に腰を下ろしている一条さんが言った。クラスでも際立ってスカート丈の短い彼女の、際どい太ももが露わになっている。以前男子が彼女のスカートについて盛り上がっているところを目にしたこともあるが、女子のわたしからすれば、寒くないのかなと思うだけだ。
しゃがみながら何気なく顔を上げると、さっきまで談笑していた女子二人が戸惑うような目でわたしを見下ろしていた。居心地の悪い視線を感じながらゴミ箱にそれを捨てに行く。
「勿体ない。食べればいいのに」
からかうような一条さんの言葉に身を竦めた。机に戻り、野菜ジュースを掴んで教室を出ていこうとすると、一条さんの手に捕まる。
「どこに行くの?」
「トイレ」と嘘をついた。
「ジュース持って? ああそっか、便所飯ってやつか。やだ、きったない」
一条さんが首を傾げると、肩の上で内巻きになった金糸が揺れる。淡く紅の引かれた唇から笑い声が零れた。
ふと彼女の後ろに誰かが立っているのが分かった。ひょこひょこと小柄な身長を目立たせるよう、何度もジャンプしながらわたしを見ている。一条さんがそれに気付き笑みを浮かべながら、綾、とその子の名を呼んだ。
「和子、和子。秋月ったら、変な名前」
「……和子じゃなくて、和子だよ。恋路さん」
「漢字は一緒なんだからいいでしょー? 秋月ってば、神経質ーっ」
無邪気な笑顔で笑うのは、一条さんの友達である恋路綾さんだった。どう見ても指定外の赤チェックスカートを翻し、恋路さんはまるで姉に甘えるかのように一条さんの腕にしがみつく。二つに短く縛られた明るい髪の毛がふわふわと跳ねた。
「早く学食行こうよえりな。ハンバーグ売り切れちゃう」
子供みたいな笑顔と声で、恋路さんは一条さんを急かす。そして一変。露骨に不快感を表した顔で彼女はわたしを睨み付けた。
「秋月? そこいられると邪魔なんだけど!」
「ちょっと、いた、痛い。恋路さ……痛いって!」
ゲシゲシと無遠慮に脛を蹴られる。それほど強い力ではないものの、何度も蹴られるとかなり痛い。恋路さんの顔は少し楽しそうに笑んでいて、それはまるで幼い子供が蟻を踏んで遊んでいるときのような笑顔だった。わたしは彼女にとって、人間とも思われてないのだろうか。
「えりな、お弁当。忘れてる」
そのとき、一条さんの頭にコツリと何かが当てられた。赤い布に包まれたお弁当。礼を言ってそれを受け取りながら、一条さんはそこに立っていた女の子に微笑んだ。
二人とは違う、落ち着いた黒い髪の色。肩まで届くポニーテール。どこか涼しげなその表情は、えりなさんに柔らかく微笑んでいた。
「ありがと」
「どういたしまして……」
瀬戸川小夜。彼女もまた一条さんの友達だった。
ふとそこで彼女はわたしに目を向ける。申し訳なさそうに眉根が下がり、肩が落ちた。
「秋月さんごめんなさい、お昼駄目にしちゃった。……そうだ、購買で何か買ってくるよ。何がいい?」
「えっ、いいよ、いいよ別に。気にしないで!」
「でも……」
「大丈夫っ。そんなお腹空いてるわけじゃなかったし」
へらへらと笑ってみると、瀬戸川さんは困ったような表情を浮かべた。財布に触れていた手が戸惑うように指先をチャックに滑らせる。
「本人がいいって言ってるんだからいいじゃない。あ、それともオレンジジュースでも買ってきてあげようか」
「……いいよ」
一条さんの言葉に苦笑した。わたしが柑橘系の味が苦手なのを知っているんだ。
「ね、早くいこ?」
一条さんが笑って瀬戸川さんの腕を引く。足をもつれさせかけながら瀬戸川さんが廊下へと引っ張られていき、途中で一度わたしの方を向きながら消えていった。それを見届けてからわたしは静かに息を吐く。
残りの昼休みは何をしようか。まだ時間はあったけれどわざわざ学食や購買にまで行って何かを食べようという気はしなかった。元から食欲がないのも本当だし。コンビニのご飯にも飽き飽きしていたところだ。
まだ掴んでいた野菜ジュースを思い出し、少しぬるくなったそれを啜る。そんなに中身のなかったそれはすぐに底を尽きた。
「ただいま」
家の電気を付けながら言う。静まり返る廊下を歩き、リビングのソファーに鞄を放り投げ、自身も飛び乗った。柔らかく沈む体。僅かに湿るソファー。
制服はびしょ濡れだった。下校の際、傘立てに置いていたはずの傘がなくなっていたから。盗られたのか隠されたのかは分からないけど。不幸にも職員室の貸し出し用さえも尽きていたらしく、他人の傘を盗ろうという考えは最初からなかったわたしは、ビニール傘を買うためにコンビニに向かうまでのそれなりの距離、豪雨に打たれる結果となってしまった。
お風呂に入らなきゃ。それと、制服を干して……廊下も拭いておいた方がいいのかも。
ああ、面倒くさい。
わたしの手がゆっくりと、サイドテーブルに転がっていたリモコンに伸びる。テレビを付けると、そこに神妙な顔のアナウンサーが映し出された。どうやらこれから地域のニュースでもやるようだった。
『今日昼一時頃、第八区にて暴力団の銃撃戦が行われ、流れ弾により駆け付けた警察官一人が射殺されました。応援要請を受けた警官隊により暴力団は鎮圧されましたが、いまだ数名は逃亡中とのことです』
『第五区では先日、保育園に侵入した不審者が園児に刃物で襲いかかるという事件が起きました。児童数名が重傷を負ったこの事件。保育士によると犯人の顔は隠されて分からなかったとのことですが、体格から見て女性のようだったと』
『十六歳の少女が先月末から行方不明になっていることが分かりました。名前は加賀美ありささん、住居は第一区。警察はありささんが事件に巻き込まれた可能性もあると見て捜索を進めております』
『第三区の街並みを汚すように、今、多数の動物不審死が問題となっています。これまでにも猫や犬を主とし、ペットの小鳥や兎などが相次いで殺されています。全ての動物に共通するのは全身に細い糸のようなもので縛られた痕があるという点で』
いつも通りに物騒だ。
ひとしきりニュースを眺め、それから画面を暗くしてソファーの上で仰向けになった。白い天井は無機質にわたしを見下ろす。外から聞こえる雨の音が、わたしをモヤのようにぼんやりとした膜に包み込む。
傷害事件も、動物が死んでるのも、殺人も。全部この街では日常茶飯事のことだ。
「どうせ殺すならわたしを殺してくれればいいのに」
自虐的な笑みが零れ、ふっと悲しい気持ちになった。
目を閉じ、雨の音を聞きながら、クッションを抱きしめてわたしは静かに泣き続ける。
静かな部屋にひとりきりで。