汐見七夏 ―The Lovers―
サブタイトル変更です。
本文も若干変えました。
―1―
暗い世界で記憶を失くし、謎の人物から【鍵】探しを依頼された俺の次の出来事は――自分の家の自分のベッドで起きることだった。
特に何もない部屋だが、まぁそれなりに散らかっている。雑誌、漫画、教科書、カバンなどなど、ぶっきらぼうに散らかされたところに生活感がにじみ溢れており、また俺らしいとも思った。さすがに散らかりすぎている感じはあるが……
片付けるのも面倒だ。極端に面倒臭がりの俺、広瀬勇人はそんな思考を巡らせて朝を迎えた。いつもなら余裕のない朝を迎えるのが普通なのだが……
「……朝五時……」
普段あり得ないくらいの早起きだったのだ。いつも学校を出る時間帯の二時間も前だ。当然、いつもの俺なら即刻――再度就寝これ鉄則、とか言って二度寝するのだが、なぜだか今日はそんな気にはなれず、朝日がちらちらとのぞいてまぶしい窓を見ることしかできなかった。理由は簡単。意味不明な話を聞かされてしまったからだ。しかもお告げ通りに俺の記憶が、俺自身以外のことすべてを思い出せなくなっていたからだ。俺の内心は、たちの悪い夢での不快感と謎の人物に対する嫌悪感ですっきりしない混濁したような思いを抱え込んでいた。
(人間として生きてきた記憶を失った人間は、果たして今まで自分を認めた『人の間』に生きているといえるのかな?)
(君には記憶が無いのさ。何もかも全て。この私が奪った)
よく知らない夢の中の人物。そいつの声が頭の中で鬱陶しい呼び鈴のように鳴り響く。
朝っぱらから最悪だ。変な奴が夢に出てきて鍵を探せって……俺もよく考えたなこんなバカな夢。しかもそれに合わせて自分も記憶喪失なんて器用な真似するもんだ、感心するよ自分……面倒臭い……
「……あぁ、いらいらする」
苛立ちを紛らわそうと俺は掛布団を蹴散らして布団から脱出する。夏なため、寝汗でびっしょりとなっていた。昼だけでなく夜までお仕事をする夏の暑さは、いっそう俺の不快感を底上げしたようだ。
「俺ってこんな汗かいたっけ?」
いや、きっと暑さだけじゃない。これもふざけた夢を見てしまったからだ。
物理的にも精神的にも嫌な汗で濡れきった俺の体を、密室状態でエアコンの利いていないムワッとした風が撫でおろす。生暖かいのにもかかわらず、俺の体はぶるりと短く震えた。
嫌だろうが何だろうが、本当に記憶が無いならしょうがねぇか……
そう結論付けて、俺は自分の部屋を後にした。
―2―
「部屋を出たものの、こんな朝早く起きて何すればいいか分からん……」
いや、普段なら着替えて朝ご飯を食べるために一階へ降りるのだが……(記憶は無くともそういった生活習慣は覚えているらしい)
俺はその時、部屋の中でも感じた肌寒さで再度体を震わした。よく考えてみれば、寝汗をこれだけかけば体も冷える。じっとりと体に張り付く地味な白のTシャツを俺はパタパタとはたいて乾かそうとするが、余計自分の体を冷やしただけだった。
「これは人生初の朝風呂かな……」
こうして、俺の朝の予定が思わぬ形で初体験へと通じることとなったのだ。
一階に下りて、俺は風呂場へと向かう。
眠れないとはいえ、寝たい気持ちは変わらないので寝ぼけ眼で向かっていた。風呂場の戸は閉まっている。
「あれ、いつも閉めていたっけ?」
たしか、洗面所も兼ねていたから使いやすいようにいつも開けていたはずなんだが……
「ま、いっか。面倒くさいし……」
疑問には思ったが考えるだけ無駄な疑問だとして思考を放棄した。
俺は一気に戸を開ける。ガラッと大きな音を立てて開ける。
すると、お湯独特のムワリとした温かい湿り気のある匂いが俺の鼻腔を刺激した。だが、それ以上に衝撃的な光景が俺の目を刺激した。
女の子がいた……バスタオル姿で……
「な、な、な……」
「………」
咄嗟には対応できずに、そいつとじっと目を合わせることとなった。
相手の方はみるみる顔を赤らめて恥ずかしさを体全体で表していた。まるでユデダコだ。
対する俺は何が起きたのか理解できず、また眠りから覚めたばかりの倦怠感から未だ抜け出せずにいた。だからなのか、俺は視線をゆっくりと下へとスライドさせる。できるだけその光景を見まいとしてやったことなのだろうが、思考が回っておらず結局は彼女の艶めかしい肢体をなめまわすように見ているようになってしまった。事実、バスタオルからこぼれそうな豊満な胸にくっきりくびれた腰回り。出るとこは出て、引っ込むところは引っ込んだ、いわばスタイル抜群な美少女が、申し訳程度に漂う湯気の向こうにしっかりと!はっきりと!立っていた。
そして、俺は回らない頭の中で確実に一つ悟ったのだ。あぁ……ここが俺の墓穴なんだな……と。それと同時に、ここ俺の家だったよな、どちら様?という疑問が浮かび、それに答えを告げる声が脳内に響いた。
君には記憶がないよ、と。
「何してるんですか!!
勇人のバカアアアアァァァァァァッ!!」
「ちょっ……まっフロオケッ!!」
朝も早いうちから、女の子の痛烈な叫びと俺の奇怪な悲鳴が青い空に響いたのだった……
―3―
風呂に入ることは叶わず、しかも俺は頭にたんこぶ一つを負うという悲惨な事態になっていた。さらにさらに、知らない美少女に寝起きから怒られるという事態に陥ったのだ。
俺は叫びたい……
誰だっ!早起きは三文の徳とか言った奴!!表へ出やがれっ!!!
そんな、早起きは三度の難に出会った俺は美少女に怒られること一時間で解放されたのだ。どうやらこれくらいで済んだところを見ると彼女とは近しい関係だったらしい。ひどかったら警察行きの事態だ。
もう一生朝に風呂には入らない(もちろん怒られた後も入っていない)と俺は誓って、自室で着替え、朝ご飯を食べに一回のダイニングへと降りるのだった。
ダイニングへ行くと、先ほどの美少女がキッチンでせかせかと朝ご飯を作ってくれていた。先ほどのことがあったからか、彼女は未だに顔を赤くして湯気を立てている。しなやかな黒髪を後ろでくくったポニーテールが、異常なくらい似合う女の子だ。歳は俺とさほど変わらない16、7歳くらいの高校生といったところだろうか。凛とした顔立ちで、夜空に浮かぶ満月のような静かな美しさといった言葉でしか表せないようなクールビューティーな少女だが、今は顔を赤くして少し落ち着かない様子だ。その様子は、彼女の容姿が醸す雰囲気とは違うものの少女らしい可愛らしさがギャップとして映えていた。
その少女が不意に俺の顔をじっと見つめてきた。
「なにじっと見ているの!!」
違った……俺が見つめていた。
「いや、なんとなく君のことが気になって……」
「気になってって……!?それどういうひゃあ!?」
適当に返した俺の言葉を受けてすぐさま顔を茹で上げた彼女は、ウインナーを焼いている途中だったのか急にぱちんっと油のはじける音がして飛び上がる。
俺は存外気にする風もなく、腹減ったと机に突っ伏した。
音で我に返ったのか彼女は落ち着くことができたようで再び料理に集中したようだ。ようなのだが……しばらくしてふと彼女は違和感に気付いたように俺に聞いてきた。
「ねぇ……どうして私のこと『君』なんてよそよそしい感じで呼んだの?
いつもなら七夏って呼んでくれるのに……
それに、勇人が私のこと『気になる』なんて言うのはありえない気がするし……」
「……それは」
話していいものなのか、どうなのか……考えるの面倒くさいなぁ。
俺は、昨夜の夢を思い出して少しばかり考え込んだ。謎の人物に言われた通り、俺の記憶はなくなっていた。現に目の前の少女を俺は知らない。彼女の名前も思い出せない。【鍵】とか力だとかはまだわからないし信じるのも馬鹿らしい。
だが、俺以外について記憶がないのは事実。そう考えれば、今はあの道化の言葉通りにするしかない。
でも、このことをみだりに口外するなとは言われてないしな。話さない口実探すのも面倒だし、ていうか俺の妄想かもしれないし。いいか。
「俺には記憶がないから、君のことがわからない。分かっているのは俺自身のことだけだ」
「え……」
彼女は、一瞬表情が固まった。目に光がなかった。こんな話を急にされてする普通の反応ではないと思う。彼女はぎこちなく笑った。
「そんな……冗談よしてよ勇人。記憶失くしたーなんて、急に信じる人いないよ?
ほら、言ってみなよ。私の名前」
そういう彼女は一切動揺と不安が隠せていなかった。笑って誤魔化せていなかった。目が笑っていなかった。声が震えていた。何より、彼女の一瞬作った空白が、確認までする不安が証拠だ。まるで俺の言葉が凶器となって彼女を一突きに殺してしまったようだった。
俺は何がそんな不安なのか、何にそこまで恐怖するのか、分からなかった。ただの冗談でしょ?と笑って流されると思っていたのだからこっちも面食らう。そしてそんな不安が俺にも伝染したのか、俺は何だかいらいらしてしまって少し強い口調で彼女にあたってしまう。
「……だから記憶がないんだ。君が誰かも、俺にとってどういう人なのかもさっぱり覚えてないし、それに違和感もない。君に関する記憶は、俺にはないんだよ!」
彼女は持っていた菜箸を力なく落とした。からんっ、と乾いた音が床に当たって響く。ウインナーの油が焼き過ぎを告げるかのようにパチンパチンと爆発するかのようになっているが、今の彼女はその音すら聞こえてないようだった。
「そんな、そんなのって……!」
彼女が、明確に絶望の色をその目に宿した。
信じたくない、嘘だ、嫌だ!!そんな風に彼女は首を振って、俺の言葉を払いのけているように見えた。そんな現実はありえない。あってほしくないと。
七夏と名乗る少女は膝から力が抜けたようにへたり込む。そこまで見て初めて俺は、言ってはいけないことを口にしたように思った。言ってもいいのに、誰よりも彼女には言ってはいけないことだったと思った。
「……くそっ!!」
後悔しても同じだということは分かる。けれど……
俺はそこまで考えて、悩むのをやめた。『けれど』も『でも』もない。そんなのは言い訳の接頭語だ。あるのは事実。後悔するころには罪になってしまっている。俺はそれを感じたに過ぎないんだ。
この世界で最初に得た記憶は、女を泣かせたことか。最低だな……俺。
そんな風にどこか冷静に客観視して彼女を宥めない自分を、俺は最低だと思った。
罪悪感を抱いた。彼女を傷つけ、あげく何もせずに静観する怠惰な俺に。
その時だ。世界が変わったのは……いや、世界に入ったのは……!!
俺の周りの世界が急にスローになったかと思うと、体にずんっと衝撃が走った。
頭に鈍痛が走り、体中が衝撃でしばらく動けそうにないほどの衝撃。まるで急に巨岩を投げつけられたかのようだ。体を動かすにしても全身に砂袋をつけられている気分だ。そんな体の重みも数秒後には引いていった。
「なんだったんだ、今のは……?」
鈍痛の後遺症で軽い眩暈に襲われる。それから回復した俺が次に見た光景は、にわかには信じられないものだった。
「何だ……これ!?」
まるで生き物が存在できそうもない世界。それどころか全てを拒絶しているかのような歪んだ世界。歪んだといっても、家が急に風化したりはしていない。整然とした普通のダイニングルームだ。歪んでいるのは、物じゃない。概念みたいな形而上の存在だ。
ここは全てを拒絶している。何もかも全て!
異常だ。異常なんだ。言葉として伝えようとしても、この程度の言葉しか思いつかない。
足りない。足りな過ぎる。この異様さを伝える言葉としては!
血塗られた時間。鮮血に染まった空間。赤錆のように濁った空。居るだけで気持ちが悪くなりそうな……そんな世界だ。その表現すら完璧にこの世界を表せているのか疑わしい。
混乱しながら俺はひとしきり部屋全体を見回し、それ以外に異常がないか確認する。こんな異常に囲まれて異常だ異常じゃないなんて関係ない気もするが、俺はそうすることしか頭に置くことができなかった。そして、異常を見つけてしまったのだ。
「時計が……止まってる!?」
壁掛けの時計も、俺の腕時計も、据え置きの電波時計もみんな止まっていた。
「時間が止まってる……?まさか、そんなことが……」
「あるのよ。勇人」
不意に声がした。彼女の声だ。
さっきまでずっと床に伏していたのに、もう立ち直ったみたいにきりっとした声で俺に告げた。
「まさか、こんなタイミングで【裏】世界に入るなんて思ってなかったけど、でもここに勇人がいるってことはそういうことだもんね。……そういうことだよね……!!」
違った。
立ち直ってなんかいない。今にも壊れてしまいそうな弱弱しい張りつめた声。
大丈夫であるはずもないのに無理をして張った声だ。座り込んでいた彼女は、力なく立ち上がって真っ直ぐ俺をみた。声もなく泣いていたようで目じりが赤い。少し目にたまっていた涙を白くて細い指で拭い去ると、彼女は自分の頬を両手でパチンと軽くはたいた。
「……私の名前は、汐見七夏。
あなたの幼馴染で、今は母親のいないあなたの代わりに家の家事を任せてもらっているの」
弱弱しくて今も折れそうな彼女は、それでも何とか言葉を紡ぎだそうとかすれた小さな声で俺に伝えた。ただ、俺を見る視線は、虚ろながらも少しばかりの光が見えた気がした。それが、彼女を支える最後の光かもしれない。
絶対に泣かせない……!
俺は、七夏という少女に大きな罪を犯した。その罪は全力で背負う。
絶対に彼女をまた泣かせたりはしない。
その瞳の小さな光は全力で俺が守らなければならない!
赤く染まった世界で、俺と七夏は無言でしばらく立ち尽くしたままだった。
それは、お互いにとって大切な何かを決意するため、整理するために必要な時間だったのかもしれない。