九
「やり過ぎだ」
敷地内のカフェに入ると、カミラが開口一番叩きつける。明らかな怒気をはらんだ声は、鈍重で苦い、鉛の塊を抱いたような触感がした。巨大なハンマーをそのまま打ち据えるかのような、そういう声だ。
「仕方ないだろう。本気で立ち会えば、ああなるのは」
カミラの声の苦いことをごまかそうと、アイスコーヒーを飲み込む。コーヒーの苦味とカミラの旋法、同じ味覚であってもそれぞれが別のところで感じている。脳が感じる部分が違うのか分からない、はっきり違うと認識できることが奇妙な感覚になる。
「あそこまでやることない。あんた、あいつの声聞いた? ひどい形だったよ、あの悲鳴」
「回路飛ばされたからね。よく分からなかった」
カミラは苦みを残したまま、ため息をついた。それに伴い、歌音が生み出す図形が硬さを増したような気がした。顔にこすりつけられるような鉄めいた塊が、しつこく圧しつけてくる。
「あいつらから何か言われたからって、どうしてあんなにむきになるんだ」
「声が、黄色かっただろう」
そろそろカミラの声に耐えられなくなってきた。"ピアス"に手を伸ばして、回路の感度を一つ落とす。対人コミュニケーションに支障が出る恐れがあるということで普段はインターフェイスをいじることはしないが、今この場にいるのは自分とカミラの二人だけだ。問題はないはず。
「黄色は挑発とか嘲り、あいつは俺が旧人だからって侮っているみたいだったからな」
「何でそういう発想になるかな」
カミラはあきれた声を出した。嘆息したその息づかいが、やや深い青に塗れていた。
「色合いはどれほどのものだった?」
「色合いって」
「前に話したことあるだろう。情動がそのまま色と形になるわけじゃない。旋法によって、色合いが強かったり味の方が強かったり様々なんだよ。しかも、色も味覚も、常に一定というわけじゃない。その変化の度合いも考えなきゃダメだって」
カミラはコーヒーを口に運んだ。中南米で唯一、栽培が許されている嗜好品。貴重な天然物だった。
「情動は、複雑なものだよ。共感覚は常に、歌音とそれによって生まれる旋法の変化によって変わる。あんたが黄色といったジェイクの声だって、実際の色は透明に近いものだった。単純に黄色、イコール嘲りなんてことはない、黄色なんてごくわずかだった」
「ごくわずかでも、俺を馬鹿にしていたのは確かだろう」
「違うんだって。色が少し混じったからって、それがそういう感情と限らないよ。本人の無意識のうちに、嘲りが入ったかもしれないけど、でもそれを以てあんたのこと馬鹿にしているなんて考えるのは短絡的に過ぎる。それに、もし本当に嘲りの色しかなかったのなら、周りの人間が気づかないわけがないだろう。不愉快な歌音は誰にとっても不愉快なんだし、何よりそれを発している本人が不快になる」
「旧人だから、その辺は看過しても良いって思ったんじゃないのか」
調はコーヒーをすべて飲み下した。
「カミラはさ、旧人が旋法を読む方法、教えてはくれたけど。実際に聞けば、色と味覚を頼りにするしかないんだ。新人なら、生まれたときから回路があるから、相手の情動も読めるんだろうけど。俺はそうじゃなかったんだ。手がかりにするべきは、相手の歌音がつくる形とか色とか、それを見て推測するしかない」
「私だって最初は分からなかったさ。それでも何とか読み取ることが出来たんだ。これで」
カミラはネックレスを引き出すと、先端に小さなタグがついている。無線式のインターフェイスだった。髪留めに模した回路と連動し、歌音を読み取るものだった。真実を語ると、告げられたあの日に見たものよりも新しい――調と操の由来と、世界の構造を知った時よりも。
「私たち旧人は、何とかこれで読み取って推測するしかないんだよ、相手の情動を。でなければ誰とも打ち解けられない」
「学生と打ち解けても何の得にもならないな」
電子に裏打ちされたオルガンの音色が、店内に満ちていた。西洋音楽の音律をさらに微く数理的に分割した音律、新人の発する旋法とまではゆかないまでも、心地よく滑らかな旋律を響かせるように設計されたBGMを耳にする。
「大体が、回路をこそこそ隠す奴に言われるのもどうかと思うけど。旧人であることがそんなに恥ずかしいのか? 理解できない」
「恥じるつもりはないけど、喧伝して回る必要もないだけだよ」
カミラは深く息を吐く。調の旋法を気にする風でもなく言った。
「あんたを白兵にしたのは間違いだったのかもしれないね」
「何だよそれ」
棘が鋭利さを増すが、調は構わずに問う。
「操が原野に消えたってなったとき、本当はあんたに、白兵への道を諦めさせるべきだったのかもしれないってね。操が消えて、気が動転しているだけだって、言うべきだったのかもしれないって」
「今更そんなことを」
冷たく、しかし決して不快ではない水の感触。カミラは今、憂いを帯びていた。あまりに唐突にカミラの情動に触れ、調は言葉を失った。
「あんたが白兵になれるって思わなかったから、それも私の見通しが甘かったんだろうね。あんたに稽古をつけて、訓練校に入って、でもそこで現実を知れば少し冷静になるだろうとかって思ってたんだよ。現実を知って、それから操の分まで生きてゆく道を模索してくれるだろうって」
「カミラは、俺に諦めてほしかったのか」
憤りではなく、純粋な疑問として訊いたのだが、声の棘は消えてはくれない。音素と連動しているというのは多分にやりづらいものだ、言葉を選んでもなお、それは消えない。
「どうだろうね。もしかしたら、って思いもあったし。でもあんたが苦しむことになると思えば、諦めた方が良かったのかもしれないって思ったし。難しいよ」
「あの時、はっきり言ったはずだ。操を探すんだって」
「探すって言っても、十年も経つ。手がかりすらない。望みを持つことは大事だけど、それ以外のことにも目を向けたら」
「もういいよ」
一方的に調は遮った。ガラスを砕いたような旋法に、斜め向かいのボックス席の女性が振り向いた。
「未練がましいとは分かっているよ。あんな場所で、今も生きているなんて。餓鬼の時分じゃ、そういうことまで頭が回らなかったし」
「だったら――」
「今更止めるのか?」
細かいガラスが喉の奥に引っかかっている。吐き出そうにも吐き出すことが出来ない、疑似めいた感覚に苛立つ。
「あんたの教えたように、俺はやってきたし、原野でやっていけるのはあんたのお蔭だ。それを全部無にして、奴らに迎合しろと」
カミラは、何かを言おうとしたが、それよりも早く調が発した。
「きれいごと言うなよ、今更」
最後に調はグラスを傾けた。
そろそろ店員の眼が気にかかる頃だった。カミラはテーブル脇に備え付けられた球体に手を触れた。黒く磨かれた球は、それそのものが静脈照合のセンサとなっている。連邦の関係施設ならば、登録さえた静脈の照合によってその場で決済される。
店を出てから歩き、その間に二人とも無言だった。どちらから切り出すか、タイミングを計りかねて、気づけば正門前まで来ていた。
「今度の任務は、北東の三エリアだってね」
別れ際、カミラが切り出した。
「州軍の援護でなく、純粋な調査だ。連れ去りの調査だと」
「長征以来だね、そんな言葉聞くのは」
カミラは遠い眼をして、州都の上空を横切る飛行船を眺めた。
「生化学施設は、ほとんど残っていないだろうけど」
「そういうものは、原野の技術レベルが下がってから州府も警戒しなくなった。ただ、企業のボランティアが消えるのは事実だ。連れ去って、またぞろクローンの実験なんかしているんじゃないかって」
カミラの顔つきが変わる。暗い色をした旋法が、カミラの息遣いから感じられた。明らかにそれは調に対してのものである。
「そんな顔するなって。カミラが気にすることじゃないだろう、そのことは」
「私が気にしているのは」
カミラはゆるく息を吐き、どうにか情動を整えようとしている。
「もしかしたら私があんたたちの出自を話したこともあるのかなって。あんたが新人に対して反発するのは」
「関係ないよ、そんなの。親なんて、いないのが当たり前だったし。家の連中も言ってただろ、俺たちに肉親がいないのはふつうだって」
「でも、だから……それだからあんたは操を」
カミラは、それ以上を口にすることなく、無理やりにつくったような笑みを見せた。
「何度もしつこいと思うかもしれないけど」
ぽつりとカミラがこぼした、声はやはり暗いままの、群青の色を成す。
「あまり気張ることはないよ。あんたが思うほど、旧人にとって生きづらいことはないし、襟元を開けば新人たちは受け入れてくれる。そうやって、肩ひじ張っても疲れるだけだよ」
本気で思いやるという旋法だった。カミラの、旧人の疑似鳴官であっても、旋法は情動を色濃く反映する、心の内をさらけ出す。
「新人は皆優しいから」
「知ってるよ」
そんな旋法など、聞きたくはないと思った。カミラにはそんな色合いなど似合わない。歳がいもなく弾みのある、赤みを帯びた燃える声音。それがカミラであるのだ。沈鬱な旋法など、カミラでないような気がした。
「悪かったよ、今日は」
正門の扉が開くとともに調が言った。
「あんな風にするつもりじゃなかったんだけど。カミラの顔を見て、それで終わるつもりで」
「なんだい、随分しおらしくなったじゃないか」
カミラは面白いものでも見つけたみたいに笑った。声に、少しだけ弾力が戻った。
「いいよ、もう忘れたよ。私も調の顔見れたんだし、それで今日のところは良しとしましょう」
またゆっくり、そうカミラが告げたと同時に正門の鉄柵が二人を隔てるように閉まった。カミラに別れの言葉を述べて、調は背を向けた。