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雪火野  作者: 俊衛門
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五十一

 潮騒の音がする、と思った。

 瞼の裏側に差す金色が、否応なく意識を向けさせてくることが、疎ましくもあった。入り江で佇んだ小さな影と、幼さなど欠片もない冷めた目を、ただ無感動のまま向けてくる。

 鋼めいていた。少女の声音も、視線もすべて。入り江にある光景のどれもが、彼女の硬質な気配をまとう――そういう風情で。

「あの子は死んだの」

 入り江の少女。そう告げられたときも、調は言い返さない。

「夢なんて見るから」

 少女が言う。侮蔑の色を浮かべていた。

「この街で、新人どもと一緒になんて生きられるなんて。そんなことありはしないのに」

 そんなことは知っている。

「散々、苦労したんじゃないの。あいつらのルールに合わせて、したくもない音を奏でて、聴きたくもない音を聞いてきた。あんたも嫌だったんじゃない、獣と同じと思われて。情を解さない獣だって」

 その通りだ。

「じゃあもう止めにすれば良かったじゃん。私の時みたいに」

 それでも俺は――


「危険な状態だな」

 アヴァエフが告げた、その言葉が一番的確だった。一番的確に、状態を伝えてくるものだった。歌音が表す形も色も、よけいなものなど一切混じらない、硬くて、光沢があって、馬鹿みたいにきっちりと象られた鉄の立体だった。四角面を飲み込んだような心地にさせる、今までにない実直さを表す。

「もう手の施しようがない、このままならば確実に死ぬ」

 あれからいくつもの慰めを聞いた。きっと大丈夫とか、気を落とすなといった言葉よりも、端的な言葉が一番の救いだった。皮肉なことに、調は感謝していた。アヴァエフに、本当のことを告げてくれたこの男に。

「何とかならないの」

 黙っている調の代わりにヨファが訊く。左肩を抉られ、満足に腕を動かすこともできない。今はプラスチックカバーで腕全体を固定していた。

「再生細胞とかないの? そのための再生医療なんでしょ」

「新人にとって、はな」

 アヴァエフは首を振った。

「旧人の幹細胞がそれほど保管はされていない。まして、遺伝子型に差異のない新人と違って、旧人は他人の幹細胞を用いることには相当のリスクが伴う」

「だって本人の幹細胞を元に、細胞を修復するんでしょう。だったらあの子の細胞から培養すれば」

「それをしている間にあの娘の体力は保たんよ。損傷箇所が多すぎる。体の中で弾が破裂して内臓を引き裂いている、発火弾頭と同じ理屈だ」

ヨファがアヴァエフと話していることが、どこか遠いところであるかのように思えていた。どうしても自分の身に降り懸かることではないかのような。

 そうではなかった。調自身にも深く関わることなのだ。

「そっくり、取り替えでもすれば別だがな」

 アヴァエフの言うことを、ヨファは理解できなかったようだった。

「それは」

 しかし、調には――アヴァエフが告げるまでもなく、理解していた。

「すぐに出来るのか」

アヴァエフは肩を竦めて言う。少しばかり堅苦しい旋法に薄桃が差した声音で。

「移植手術は、本来は禁止されているがね」

 ヨファはアヴァエフの言うことを、最初は不思議そうな顔で、そして次に深刻そうに調の顔をのぞき込んだ。

「本気で言ってるの?」

「遺伝子型が同じならば」

 自分でも信じられないほど冷静な声で、調は口にする。

「あいつは、俺や操と同じプールから生まれた。適合しないはずはない」

「確かに、君らのように完全なクローンであればね」

 アヴァエフは覚悟を問うように見据えてくる。

「けれど、臓器の移植などとはとっくに廃れた、いわば野蛮な手術だ。それで確実に助かるという確証もないし、もしあの娘が助かってもお前さんはダメかもしれないよ」

 鋭さを増した。ヨファの息づかいが表す旋法だった。針の束を押しつけられるような痛みが、それでもそれが躊躇いとはならなかった。

「それに」

 アヴァエフの声は、ヨファのそれに合わせて徐々に鋭さを増す。

「いくら提供者が望んでも、この手術自体がすでに過去の物だ。行えば命のリスクがある、それは施術する私にも責任が問われる。臓器を移植する法は、無いのだよ。新人フィンチには必要のないことだから」

「それでも」

 調は口にした。かつて口にしかけて、飲み込んだことだった。意志を伝えようともがいて、結局はそれを収めたもの。そこからずっと燻り続け、追い縋ることでしか見出すことはなかった。

「俺はあいつを助けたい」

 だから今、口にするのだ。旋法など描けなくとも、不格好でも、それがただの言葉であっても。

「あんたに迷惑がかかるかもしれない。あんたが罰せられるかもしれない、それは分かっている。でも助けて欲しい、だから」

 調が見据えた先、薄い笑いを浮かべるアヴァエフには、もはや調の意などとうの昔に悟っているかのような表情をしている。

「そういえばあの娘、医者志望だと言ったな」

 唐突にアヴァエフが言った。

「古い友人でね、宥和政策当時、都市に入植した旧人がいる」

 アヴァエフは調に水色の衣を寄越した。簡素な病衣を広げてみると、調の体格に丁度ぴったりと合うサイズだった。

「回路を埋め込まれて、情動系が壊れて。今は厚生施設で眠っている。そうだな、あの子が医療を学んで、原野の技術を持ち込み、旧人の治療を見つけるというのならば……ひょっとしたら奴が目覚めることもありうるかもしれないな」

 声には、もう鋭い気配はない。アヴァエフの旋法は、薄紅の色が差している。

「そいつに着替えて待っていろ。連邦の偉い方に見つかる前に済ませてやらにゃ」

その一時間の後、今の調は病衣に着替え、処置室の前に座っている。傍らにヨファが座っていた。

「呆れたね」

 ヨファは本心ではそう思っていないかのような旋法をこぼした。

「そこまでして助けたいの」

「それだけじゃない」

 処置室は、ガラス張り。その向こうに医療カプセルに浸ったリツカがいる。か細い手足と折れそうな腰、青ざめるほどに白い肌を縦に刻みつける傷。眠るようにたゆたう少女の面差しは、かつての入り江の少女と重なるようで、しかしそれはもう。

「俺のわがままだ」

「知ってるよ」

 すべて手放したというように、ヨファはソファに身を預けた。

「あんたの勝手は、今に始まったことじゃないし」

「すまないな」

「いいよ、もう」

 ヨファは何度目になるか分からない長い嘆息を漏らした。黄土色めいた歌音、呆れの色合い。それでも感触は柔らかい。

「そのために私がいるんだし」

ふと、目の前に金色の光景が垣間見えた。波打ち際、陽光を背にした少女の姿が遠ざかる――そこまでの幻影だった。

 あんたはそこにいるんだな。

 少女に声をかけてみる。もう彼女は、何かを言うこともなかった。

 俺も、ここにいる。

 やがて入り江の光景が閉じ行く様を、眺めながら。調はゆっくりと目を閉じる。

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