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雪火野  作者: 俊衛門
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 あなた方は特別です。

 一番はじめの記憶の中で、柔らかい羽毛めいた旋律が、いつしか心の内を占めてゆく。

 両親もなく、人によっては兄弟もなく。あなたたちに過去はありません。

 それは不幸なことかもしれません。それでもあなたたちは生きていける――優しさに満ちた旋法を味わいながら。

 その意味を、あの家で聞かされた言葉の真意を聞かされたのは、あの家を飛び出してから三年後。原野に出るまでの間を、州都の優しさに慣れた人間には耐えられない、不快な歌音を味わうために押し込まれる獄の中で。操を喪い、失意を味わい、それからの年月を捧げるのだと決めた日に、知ることになる。

 これから先の人生は、誤魔化しながらは生きてゆけない。

 カミラはひどく真剣な――後にも先にもあれぐらいだったのかもしれない。カミラの、真に覚悟を問うかのような眼差しを目にしたのは、あの海辺の家を飛び出してから三年後のことだった。

「寒いところで、あなたたちは生まれた」

 もし受け入れる覚悟があるのなら。

「あんたの由来を教えてあげる」

 あの時、カミラがいった言葉を思い出していた。重苦しい面もちで語るカミラに、果たしてなんと言ったのか――。


「だからどうした」

 気分を刺激するような、酸味の強い味を覚える。清涼な気、それは感覚ではなく実在するものだった。調がいる医務室は、診察者にストレスを与えない輝く青緑――この街では基本色とも言える旋法に満ちていた。

「どうもこうもない。今度ばかりは駄目かと思った」

 軍医、ニコラ・アヴァエフは呆れた口調でもって言う。最大限の理解を求める風でもって。

「胸骨と肋骨、いくら強化スーツがあってもお前の体はそれをすべて吸収するものではない。何度も言っているだろう」

 アヴァエフの声は少し苛立つ口調に同期した、旋法は苦いものだった。情動をいち早く、察知する疑似回路がはじき出す声は、八角形を重ね合わせて、繊維質、なおかつざらついている。普段はそんな声ではないのだが、ことここに至っては硬質さを隠さない。

「鎖骨と胸骨、今は金属分子で埋めてある。三日もすれば完全に修復される。何もなければな」

「何が言いたい」

「前に説明した通りだよ。折れた骨は順調だが、他の部分、筋繊維が十五パーセントの損傷を受けて、血管が圧迫されている。油断は出きないな」

 アヴァエフは膝の上に分子端末のタブレットを乗せ、何事か打ち込んでいる。半透明のプラスチック板の上を、アヴァエフの指の動きにあわせて符号が並び、文字が行列式を伴って刻まれてゆく。アルファベットに混じって、彼の母語であるロシア語、そして音の高低を表すような線符に、ギリシャ文字の記号が躍っていた。

 調はタブレットの内容を一瞥するが、最後まで読む気にはならず、押し退けた。

「その程度、自然に回復するものだろう」

「あまり楽観はしないほうが良い。お前さんは他の連中とは、体の作りが違うんだから」

「分かっている、そのぐらい」

「分かっているとは、思えないから言っている」

 ぴしゃりと言うアヴァエフの口調に、少しだけ棘が生まれた。突き刺すようではないが、引っかかるような小さな棘だ。いちいち声音からそんなことを感じ取らなければならないという事実にうんざりする。

「私が遺伝子バンクに問い合わせたところ、お前のような旧人のデータは少ないんだ。あっても、実際の本人とDNAを同じくする個体などさらに少数。新人ならば、再生可能な幹細胞も、旧人となると激減する」

「別に幹細胞なんて、俺自身のものを使えば良いだろう」

「やはり分かっていないな」

 アヴァエフは嘆息した。深い戸惑いを伝える、モザイクの色調を湛えた歌音を発する。

「新人の幹細胞と旧人の幹細胞は違うものだ。外力によって細胞を再生させることが出来る新人と違って、君たち旧人は長い時間をかけて幹細胞から生成させなければならない。もし致命的な傷でも負えば、治療も間に合わないかもしれないのだよ」

 アヴァエフはそう言って、机の方に向き直った。調の鎖骨部分が映し出されたX線写真は、打ち砕かれた骨と接合された骨、二つの像が写っている。

「今回は骨だったから、まあ金属分子を導入すれば接合出来た。けど、臓器でもやられればそうはいかない。ここにある生体分子は全部、新人のDNAボットだから、旧人であるお前の体に導入すれば拒否反応を起こしてそして」

「もういい、何遍聞いたか分からないよ、それ」

「聞いたのならば、行動を伴わせた方が良いな、調。なんでも一人で先走ったというじゃないか」

「先走っちゃいない。誰もついてこなかっただけだ」

「同じことだ。全員が全員、歌音の通りに連携を取っている中で一人だけ違うことをすれば、ついていくもついていかないもない。結局は自分の命を削ることになるんだ」

「軍部でもない奴が偉そうに」

 果たしてアヴァエフは、険しい顔を向けた。

「そういうことを言うものではないよ、調。お前のところの隊長が、いたく心配していた。どうにも、お前は危ういところがあるとな」

 ハマ・マークステインが心配することなど、作戦系統の乱れと原野の"影"どもの動向ぐらいのものだ。そう言ったところで、アヴァエフが考えを改めるとは思えないので黙ってはいたが。

「無理は承知の上だが」

 調は折れた鎖骨に触れてみる。金属分子を埋め込んだとは言っても、違和感はそれほどない。細かい粒子が隙間を埋め、導入したナノマシンがチタンと骨細胞をうまく融合させたせいで、骨そのものは自然治癒を待つよりも数倍早く回復し、そして強度そのものも向上している。

 しかしこの治療自体ももはや化石と化した技術でもある。気の利いた遺伝子医師と健康な新人がいれば、治療などと呼ぶ必要もない作業で事足りる。幹細胞を導入し、そこから先は分子が勝手に回路を開いて細胞膜を形成する。新人の遺伝子に、拒否反応というものはない。いともたやすく同化させ、再生し、それはまさしく新人でなければ成せない

「お前は特殊だよ」

 アヴァエフがタブレットを叩くと、映像が切り替わり、幾何学模様が三次元の変化パターンでもってちらつく。ひとしきり瞬いた後に文字列が、緑の光を伴って現れる。

「決して体の強くない旧人、その中でも特に体格に恵まれているわけでもない東洋系。そんな人間が、州軍から白兵に抜擢されることになるとはな」

 調の個人データだった。体組織の成分分析――DNA型、ブラッドタイプ、骨組織の強度と疾患履歴――そんなものを眺めつつ、アヴァエフは淡々と述べてはいるが、その実感嘆の色を馴染ませている。薄桃の声でもって。

「五年前の計測では軍に残ることも難しいと思っていたからな、お前さんは」

「光栄だ、とでも言っておけばいいのか」

 薄桃色が続いている。調はそろそろこの場を去りたくなった。

「ただし、白兵になった以上は今まで通りとは行かない」

 アヴァエフは少しだけ声を強くする。

「お前さんは白兵になって日が浅いが、州軍に比べれば危険の度合いは比べ物にならない。そのことを肝に銘じておけよ。死に対するリスクは、新人であっても付きまとう。境界警備や哨戒が主の防人なんかとは違うのだからな」

 アヴァエフはぴりぴりとした旋法で、そういった。

 調は黙って病室を立ち去る。

「薬、切らすなよ。まだ痛みがぶり返すかもしれないからな」

 去り際にアヴァエフが投げかける。


「それで、絞られてきたからミーティングに遅れた、と」

 ヨファがフリーズドライのプレートを突っつきながら言った。

「またアヴァエフ怒らせたんでしょう。この間の作戦で、怪我したから」

「あいつが大げさすぎるんだ」

 調が今、ヨファと向かい合っているのは、本部の食堂――ガラス壁で覆い尽くして癒しの空間を演出すべく、ラジオ音源から取った人工歌音の音楽を、嫌みにならない程度に流している。人の情動、心の琴線、そうしたものを知り尽くした音響学者が生み出す歌音は、州都の至る所に存在する。新人たち、あるいは一部の旧人たちが声に出すときに生じる、心に届かせる歌音。それと同等の、色と形と味覚を生じさせる音のすべて。癒し、慈しみ、優しくなでる旋法。今はサファイアブルーの歌音と、夏草めいた甘さを。

「アヴァエフは確かに神経が細かいけど、あなたもあなたよ。突っ走るのはいつものことだけど、今回はさすがにどうかと思ったよ」

「お前も大げさだな、存外に」

 歌音が濃いブルーへと変化する。情動は、常に変化して、その変化にあわせて質感と色合いが移り変わる。歌音が生み出す旋法は、共感覚として現れる――うんざりするほど味わう旋法だった。

「私程度で大げさだと言うなら、ちょっとあなたは無神経すぎる。自分の体質をよく考えた方がいいよ。そうやって油断しているとすぐにスイッチを切ろうとするし」

 ヨファが言うのに、調は耳元に伸ばしかけた手を止める。左耳にひっかけるようにして”ピアス”などと呼ばれる機械が、青白い光を点灯させていた。

「うるさいから、さっきから」

「好きでこんな旋法になっているわけじゃないんだけど」

「いや、ヨファの声もだけど。さっきからこの辺、甘ったるくてしょうがない。ブラックコーヒーが砂糖まみれになっちまう」

「うまいこと言ったつもり?」

「いや」

 実際甘ったるく、どうしようもなく主張する味わいだった。新人ならば、あふれてくる旋法をいともたやすく選別し、回路が拾い上げるのだろう。甘さも癒しの色合いも、それそのものではなく、快楽をそのまま刻みつけるものとなる。それが出来ない今、全ての判断は調の左耳に備え付けた機械にゆだねられる。鳴官から奏でられる歌音を、旋法を、共感覚的言語に変換し、脳に送り込むインターフェイス。スイッチを切れば、そんな歌音など拾うことはなく、共感覚も生じさせない。しかし。

「それを切ったら、あんたは相手の情動なんて分からなくなるから、それは切っちゃいけないって何度も言われてるでしょう」

「分かったから、なんかさっきから声だけで刺せそうだよ、ヨファ」

「私だって刺さる気分よ。文字通りね」

 そうは言っても、あまりに強い歌音であれば誰もが発することは出来ないはずだった。不快な旋法は、発する者まで不快になるのだから、それを口にする者などいない。

「大体、俺が無茶しようが何だろうが、何でお前がいちいち言うんだよ」

「放っておいたら誰も言わないでしょうからね。その傷だってそう、放っておけば同じことする」

 調には望むべくもないことだった。だから無理をするなと言われて、その理屈は分かる。分かるのだが。

「大体が、リィドの奴がしくじるからだ」

「しくじったのはあんたのせいじゃん」

 声の質が変わったと、思った。声が、少し弾力を帯びたものになる。咎めるまでもないが相手に強く訴えたいものがある、そういうときに出すものだ。

「あのときあんたをサポートしたのは私だったしね。一人いきり立ってやられそうになっていたのを、命拾ってあげたんだからね。あんたはその辺、昔と変わらないよね」

「いちいち昔のことを引き合いに出すな」

 ふと自分の声音が、青みを帯びているのを感じた。感情の奥底の色合いを表す、深い藍色と、声の形は丸みを表している。その色と形をいち早く察知したらしく、ヨファが果たしておもしろいものを見つけたというように笑いかけた。

「まあ、リィドはあれでベテランだから、うまいようにやるんだよ。あんたはもうちょっと、リィドを信頼してもいいと思うよ。あれで結構気を使っているんだから、あいつ」

「気を使っているなら、歌音を発するだけで終わらせるのか」

「そりゃあね、そっちの方が慣れているし。大体、あんたの存在自体が異質なんだから。ちょっとはその辺、意識した方がいいよ」

「俺の回路は不十分なんだ。正確に声を読みとるには不足しないが、それが原野でとなれば話は変わる。お前たちみたいに、頭の中に直接響かないから。一度、その情報を解釈する必要が出てくる」

「だからそれを読むのに時間がかかるって、それは分かるけど」

「分かっているなら、言うなよ」 

 実際に旋法回路と鳴官がなければ、旧人として生まれたものは新人と肩を並べることは出来ない。歌音を発する鳴官と、歌音を読む回路。回路を持たない旧人が唯一、歌音を解するためにはインターフェイスで知るより他ない。侵襲型のインターフェイスが禁じられた宥和政策以来、旧人たちは不格好な非侵襲型の回路を身に着け、新人たちが言葉の端々に忍ばせる旋法を翻訳させなければならない。細胞シートを導入すれば簡単に形成できる鳴官と違い、回路に関してはいちいち固形の機械に頼る必要がある。

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