三十一
港湾にかかる霧の中に、船舶の影が行き来している。縦に並ぶ艦艇が、まるで巨大な燭台であるかのように、そびえ、見下ろす躯体にはいくつもの補給パイプが伸びている。
カミラは細かい水分の含んだ空気を吸い込み、埠頭から身を乗り出した。軽空母"シグナス"が、靄が晴れると共にその全容を現す。角ばった水鳥の背には、鉄の鳥――ステルス爆撃機"カグー"が並び、艦橋を挟んだ艦の先端には、ミサイルの頭が飛び出ている。巡航ミサイル"ケツァール"の、ナイフめいた輪郭、隣に並ぶ巡洋艦にも同様にミサイルが備わる。どちらも侵略性故に封印されかけていた兵器、そのいずれもが堂々と衆目に晒されている。ある種奇妙な感覚だった。
「あれが動くところなど、久しぶりですね」
カミラの後ろから、硬質な声が響き、カミラは声のほうに振り向く。ハマ・マークステインはすでに強化スーツを着て、出撃の体裁を整えていた。
「南アフリカの紛争以来、アジア圏内で運用されるのは初めてのことかな。艦隊が乗り込むのは」
「連邦も本気ということでしょうか」
連邦議会が保有する、唯一にして最大の航空戦力――白兵が、州府に対して陸戦力を貸し与えている存在であるとすれば、航空隊は連邦の強権発動により動かすことが出来る。解決不能な紛争、緊急性を帯びた事例にのみ許される実力装置。
「それで、あとどれくらいで出るんだ」
「丁度十二時間といったところでしょうか。最初に航空部隊が叩き、我々が上陸します」
ハマはカミラの隣で、柵に寄りかかった。
「それで、どうしてあなたはこんなところに」
「いてはいけないか?」
「見送りって風でもありませんから。あなたは現役の頃から、そうしたことに疎い」
ハマの声質が少しだけ、筋ばった旋法を描く。
「それとも阿宮のことでしょうか」
「どうしてそう思う?」
「声が粘土質です」
苦笑する。どうあっても旋法とは馬鹿正直に拾い上げ、情動を伝えてしまう。操が散々嫌っていた理由の一つ、隠し事など皆無で、自らを社会という旋律に当てはめてしまう歌音の響きだった。
「"イースト・レビュウ"の記者にね、会って来たんだよ」
「あの記事の訂正でも、促したのですか」
「そんなことはしない。それじゃあ軍が圧力をかけたみたいになるでしょう。そうじゃなくて、あの記事の真意をね」
「真意も何も、あれが世論の声なのだと、自分は感じましたが」
ハマは怪訝そうに目を眇めた。
「軍の決定が、結果的に原野の脅威を増してしまった。西北のテロも、遠因としては北東からの撤退が大きいと」
「キース・レグナント。あれを書いた記者だけどね」
カミラが声を出す間に、艦はゆっくりと動き出した。巨大な船体を惜しげもなく見せつけるように、舳先を右に振れさせ、ミサイル管の矛先を向ける、その先は原野。
「キースは、調たちと同じ、家にいたんだ」
「連邦の施設ですか。確か生化学実験によって産み落とされた子供ばかりを集めた」
「そう。保護政策から宥和政策に切り替わる頃、原野で人工的に生まれたクローンの落とし子たち。今ではもうないけど、ある意味画期的な試みだった」
「あなたが参加した長征のときに、彼らに会ったのですね」
ハマが見送る先、巡洋艦が鋭角の舳先を沖に向けるところだった。
「キースや他の子供は、よく教えを守っていた。新人たちに受け入れられるために、模範的な旧人になろうとね。でもあの子たちのように、全部が全部そうじゃない」
「あなたと阿宮調の関係を聞かされたときは、正直言って驚きましたよ。あなた自身も、その模範的な振る舞いを行う人間だったから」
「何で問題児の面倒なんて見るのかって?」
「そういうことではありません」
カミラの言うことを、この男はいちいち全力で否定する。硬さは相変わらずだと思った、歌音も声も。
「タイプが違うからね。模範的でないあの子をこの道に引きずり込んだ手前、私にも責任はある」
「手を差し伸べる分にはたやすいことです」
ハマが発する声音がふと、揺らぎ、透明さに困惑の藍が混じる。
「ただ、それに応える方は、そうとは限りません。彼はこの街で当然さしのべられる救いに、応えることはなかった。ここでも、どこの州でも、そうした人間は一定以上います」
「それを正しく導くのも、旧人たちの役目」
カミラは自嘲して言う。
「思想の根拠は同じだね。保護政策のとき、人道支援として旧人たちに回路を施す。誰も疑っていなかった、それが正しいということに」
ハマの旋法の揺らぎが大きくなる。息づかいと声音、あまりにもそれは不安定な旋律だった。言いようもなく誰かを不安にさせる情動でもある。
「昔からね、あいつはそうだったんだよ」
気づけばカミラ自身の声音も、同じような不安定さを描いていた。影響されたのか、それとも最初からカミラが発していたのか、分からなかった。ただ情動は、揺らめいている。
「操がいなくなってから、調は愛情とか、与えるものはすべて拒絶していた。いくら良いものであっても、そこから離れていく。もうそうなったら、手を伸ばすことなんてまるで無意味ね。意地張って、馬鹿みたいに敵対したがる過激派ほどじゃなくても、誰かに与えられることに怯えているみたいに」
そんなことを、話したいのではない。カミラは自分の言葉を留めようとした。止めようとして、それであっても尚もその言葉は口をついた。
「本当は最初から分かっていなかった。私はあいつと同じであるはずなのに。私は何一つ、あの子のためにならない……」
艦艇は彼方へと消え、その影を見送るハマが、頃合いとばかりに身を起こす。
「悪いね、こんなことを」
「いえ」
再び発したときには、ハマの歌音は透明さを保っていた。
「驚きはしましたが。あなたがそんな風に考えていたということが」
「旋法は、なかなか個人の思想には踏み込まないしね」
今更ながら、自分の言ったことが気恥ずかしくなり、誤魔化す意味で咳払いをする。おそらく、誤魔化せてはいないだろうが。
「あんたはこんな考え方、認めないだろうけど」
「自分は軍人です。我々が信じるものは銃剣のみ。それは阿宮も同じです、あなた自身も」
慰めにもならない慰め、気休めもいいところだった。ハマの声音は硬いまま、ダイヤモンドの球を抱く感触。全く変わる気配はなかった。
変わらないことが、なによりも心地よい、そう感じた。
上空から降りてくる、四対翼の巨鳥が連なり、双発のローターが奏でるエンジン音が頭上を通過する頃には、ハマの顔つきは険しくなっていた。これから死地に向かう兵士の気配。
「そろそろ行きます」
ハマは港湾から目を背けた。
「ハマ」
去り際、カミラが声をかけるのに、ハマは振り向く。
「気をつけて」
ハマは、やはり表情を変えないまま言った。
「あなたこそ」
やがてハマの姿が見えなくなり、カミラは踵を返した。