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雪火野  作者: 俊衛門
23/53

二十三

 わかったでしょう、奴らの正体。


 声が蘇った。今まで彼女の口から紡がれたことなどない言葉だった。

 彼女は問いかけた。入り江の夕日だけが知っていたもの――あのとき抱いた微かな疑問や、恐れや、憎悪にも似た激情を。とうの昔に追いやってしまったと感じていたもの、彼女を手放したときに、消えてなくなったと思っていたものが、突として胸を衝いた。


 これで目が覚めただろう。


 そんな調の心の内をえぐるような、彼女の問いかけが、憎々しく、勝ち誇る笑みと、嘲る声は、入り江の少女の体裁を取っていた。


 甘いんだよ、見通しが。


 黙れ。


「調、いるんでしょ」

 壁面パネルに映し出されたヨファが、しきりに声をかけていた。有機フィルムのモニターは、オートロックマンションの来訪者を告げ、なおかつ監視目的のために各部屋ごと据え付けられている。今、調の目の前には、約一週間ぶりとなるハン・ヨファの、焦りの色を浮かべたようなおもてがあり、バイオ素材のモニターにそれはあった。

「いることは分かっているんだからさっさと開けなさい。一週間ずっとこもりっぱなしで、連絡もよこさないで。あなたはそれでいいかもしれないけど、こっちはそうもいかないの。早く開けて」

「どうやってここが分かった」

 調はほとんど顔を上げずに言った。顔どころか、体のあちこちの動かし方を忘れてしまったようだった。ここ数日はスクリーンの前に座り、食事と用足し以外は動かない、動きたくもない。

「教官から聞いたのよ、ここの住所」

 ヨファが告げると同時に、調は舌打ちした。

「あのババア、勝手に喋って」

「何てこと言うの。あんたのこと心配していたよ? 何度も電話したって言ってた」

 電話に出る気などない。誰からの着信だとかも興味がない。またぞろ受話口に耳をつけた瞬間に、慈悲深く哀れみ深い、青く輝く旋法が繰り返されるだけなのだ。誰も悪くないんだよ、調。あなたはちょっと疲れているだけだ、君にはふさわしい道があるはずだ――。

「いいから開けなさいって。それともドア打ち破って欲しいの?」

 調は黙ってコンソールをいじり、扉を「開」の位置につけた。ヨファの姿が画面から消えて、五分もすれば玄関の扉をたたく音が聞こえる。調が玄関の扉も開錠してやると、ハン・ヨファの実体が目の前に現れた。

「引きこもりになってるっていうから、もっと死にそうになっているかと思ったけど」

 ヨファはテーブルの上に紙袋をいくつか置いた。袋からほのかに柑橘の香りが漂った。

「ほとんど死んでいたようだね」

「入ったか」

 調はほとんど目を合わせなかった。すこし顔を上げて、また目を伏せる。磨かれたタイル床の模様を見つめた。

「入ったらもう用事は済んだのだろう、なら後はそのまま帰れ。今来たドアをくぐって」

「そういう言い方していてイヤにならない? あなただって苦しいはずだよ、そんな締め付けるような歌音で」

「歌音がどうしたんだ」

「どうしたって、だからあんたの」

 ヨファは口にしかけて、やがてそれは溜息に変わる。

「また回路外したね」

「ここじゃ俺一人だから」

 悪びれもなく調は言った。取り外した”ピアス”は、テーブルの上に無造作に転がっている。

「歌音を聞く必要はないだろう」

「そういうこと言ってると、あっちで困るよ。本部もちゃんと戻れる算段を取ってくれるはずだから。もうちょっとこう、それに応えようって気にはならないの」

 ヨファはキッチンに入って冷蔵庫を物色し始めた。

「なんだか、何にもないわね。フリーズドライと培養肉とか、もっとまともな食事しなさいよ」

「勝手に探るなよ、というか何しに来たんだそもそも」

「何って、あんたがどうなっているのか見に来たんだけど。来て正解だったね、こんな風に腐っているようじゃ」 

 ゆらりと調は立ち上がった。ヨファは棚を開け、中を探るのに夢中で気づいていない。狭いキッチン内では身動きも制限され、ヨファは移動するにも苦労しているようだった。

 調はキッチンの入り口に立ち、背中を向けたヨファを見下ろす格好となる。手を伸ばせば触れる距離に。無防備な首筋に目を落とし、ラックに収まったキッチンナイフとを、見比べる。

「そりゃ必要な栄養をとっていれば死ぬことはないけどさ、それでも人らしい生活ってものがあるでしょ。食事の効果ってのは単に生命維持のためじゃなくて、もっと文化的で創造的な――何突っ立ってんの」

 ヨファが調の存在に気づいたときには、調はヨファの目の前、半歩の間に踏み込んでいた。

「獣には」

 ぽつりと調がこぼすと、ヨファは眉根を寄せていぶかしむ。

「獣にはちょうど良いだろう」

「何だって?」

「文化も創造性も無い」 

 調はヨファの背後をすり抜けて、冷蔵庫から合成水のボトルを引っ張り出す。

「獣だ」

口をつけると、やたらと冷たいばかりで何の味もしない流体が喉の奥に注ぎ込まれた。

「意味分からない」

 ヨファはやがて諦めたらしく、可動ラックを元に戻した。調が座るのに、ヨファも椅子を引き寄せた。

「用がないなら帰れよ。冷やかしの類ならば」

「冷やかしって、そういうつもりじゃないんだけど」

 ヨファは噛んで含めるような物言いをする。

「異動のことは、すぐに戻るって聞いたよ。記事のことだってあんたが悪いわけじゃない。"イースト・レビュウ"はやり過ぎだし、他の旧人メディアだってそう。本当なら調は被害者なのに、あんなことを」

「何も間違っちゃいない。歌音が分からない奴は、等しく野蛮で、下卑ている。そういう当たり前のことを当たり前に認識しただけだろう。あんた達新人にとっても、無知蒙昧な獣に過ぎない俺を厄介払いできたじゃないか」

 調の言葉を、ヨファの回路は律儀にも拾い上げる――不快感を露わにした表情で以て詰め寄った。

「またそういうことを」

 ヨファがテーブルの上に手を伸ばした。伸ばした指先がもどかしく空を掻き、テーブルの端に置いてある"ピアス"をつかむ。

「こいつをつけなよ、調」

 断固とした口調で告げた。

「あんたは今、疲れている。だからそんな考えにとりつかれるんだ。誰もあんたを責めたりしないし、あんたのことを獣だなんて呼ばないよ」

 ヨファが手を伸ばした。

「皆はそんな風には思わないから」

 苛立ちがある、それよりも深い同情がある。最大限の哀れみを込めたヨファの瞳、その中に調の面がある。憔悴した顔を。獣の気を帯びた面を。

 その目を見る。慈悲深く、優しい。誰もが愛を受け入れ、愛を紡ぐことに何の疑問もない。優しく、ただひたすらに優しく、奏でる音色――押し付けて、受け入れられることを前提にした、進歩的で創造的な優しさ――ハビタットに満ちる甘い音――無条件に注がれる愛情を。

 手を払いのけた。

 ヨファの手から、"ピアス"が、弾き飛ばされる。ヨファは面食らったように目を瞠る。

「貴様らはいつも――」

 手を伸ばしてヨファの手首を握り締める。複管機銃なんてものを振り回す割には華奢な腕だと思った。力を込めるに、調の五指が食い込み、ヨファの腕を締め付けた。 

 小さく悲鳴。ヨファが発する。

「調、手を」

 懇願するように、ヨファは声を絞り出した。

「手を、離して……」

 初めてヨファの面が苦痛をあらわす。それでも目の中にある光は消えない、哀れみを含んだ光が。

 ――止めろ、その目。

 ヨファの襟首をつかんだ。締め上げ、ヨファを壁に押し付ける。調の手が細い首にかかる。

「声、出せよ」

 自分でも予期しない、低い声音でもって調は言う。

「叫んでみろよ。俺が不快なら。それで認めろよ、野蛮な獣だって」

 ヨファは何も言わない。怯えている風でも、また嫌悪に彩る風でもなかった。驚き、声を、出しかけて、そのまま固まってしまう。

「叫べないか。そうだよな、お前たちは優しいわけじゃないんだ。自分が苦痛なだけだ、不快な歌音を聴けば自分が不快になるだけ」

 ヨファの首に、指をかけ、徐々に力を込めた。

「本当は自分が痛みを受けたくないから、あたりさわりのない旋法を描くことに努めて。汚いものも、どぎついものも、飲み込むことを嫌うだけで」

 ヨファの視線とかち合った。見開いた目が、調を見つめていた。哀れみの色が消え、空虚な視線を漂わせている。

「哀れんでみろよ」

 ヨファの上着に手をかけた。思い切り引きちぎる、ボタンが弾け飛び、白い胸元がさらされた。白い布地を押し上げる二つの膨らみが露わになっても、何の感慨も沸かない。ただ、こいつも女なのだと、漠とした思いでもってそれを見つめた。

「出せよ、声。今叫んでも、俺はお前の痛みなんて分からない。歌音が分からなきゃ、俺は誰を殺すことも躊躇いがない」

 ヨファの膚をなぞる。喉から鎖骨にかけて、指先を這わせ、肩紐を掴んだ。そうまでしてもヨファは何も口にしない。青ざめた顔で、視線だけはそらさず、唇を固く結び、何かに耐えるように。

「はっきり言えよ、本当のことを」

 目だけは、見据えている。中身のない目だと思った。侮蔑や恐怖の色が、少しでも垣間見えるのならば、それでも良いと思っていた。そうかといって、哀れみでもない。一切の拒絶や、嫌悪といったものから一番遠いところにあるかのように、ただ見据えていた。

「言えよ、ヨファ。お前の痛みなど、何一つ解さない獣に。哀れみをかけるくらいなら、嫌悪の言葉一つでも投げかけてみろよ。俺はお前に語ることなど、何もないんだから」

 力を込める。指先が、膚を浸食する。

「言えよ!」

 ふとヨファの眦に光が差す。にじみ出た滴が、溢れ、ヨファの膚に涙の筋をつくった。

 微かに、ヨファの肩が震えていた。どうあっても自覚せざるを得ない、確実な震えを、調は感じ取った。非力さを表したような線の細さを自覚した。力を込めれば壊れる、その脆さを今まさにさらけ出している。今更ながらその事実を、見せ付けられた気がした。

 調は手を離した。首を締め付けていた縛めが解け、ヨファは思い切り咳き込む。

「もう来るなよ」

 背中を向けたまま調が発する。目を合わせることもなく。

 背後でヨファが立ち上がる気配がした。ぱたぱたと駆けてゆく音が遠ざかり、扉が閉まると静けさが戻った。

 テーブルから落ちたオレンジを拾い上げた。少しだけ潰れて、果汁が染み出していた。調はそれを放り投げると、果実は音もなくダストシュートに吸い込まれていった。

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