十七
一週間ほど過ぎたが、その間にも新たな情報は入ってこない。調から何か通信が入るわけでも、また遺体が見つかったわけでもなく、調の行方は依然として分からないままだった。原野での影たちの動きも掴めず、動きが無い以上はこちらも動けない、ただ待機を命じられる日々――無為な日を過ごしている。
あまりにも動きが遅い。連邦議会が原野での捜索活動を開始したのは、調が連れ去られてから三日後のことだ。それも人によるものではなく、探索ロボットによる生体追跡しか行われていない。調の血液と細胞、現場に残ったわずかな生体を探し、そして跡を追うというのだ。その生体も途切れ途切れで、どこまで追跡が可能なものなのか。
やってらんない。
一人ごち、ヨファは立体図面に対する。空中に浮かぶようにして配置されたモノフィルム上に、原野の地形図が三次元立体で現出されている。当時の状況を、なるべく詳細にシミュレートしようとした。ヨファの指の動きに合わせて映像が上下に動き、中央に位置するビルの映像を見据える。調が消えた、廃ビルだった。他のビルよりも幾分高く、狙撃のポイントとしては最高であるといえたが、屋上に立っているとなれば話は別だ。周囲から狙い撃ちにされ、結局のところはここに立つことはすなわち自殺行為とも思えたが、あの映像に映っていた軽機動兵は違った。
人差し指で映像を下に送ると、ビルの足下が映し出される。赤紫と緑の格子で編み込まれた立体映像上に、やはり三次元立体の機甲兵、羊鹿といった像が写される。今、ヨファが見ているものは音域立体と衛星を元に構築された立体像だ。調が飛び込んだ直後の状況まで分かるはずだ。
「なにしているの」
後ろから声がかかる。エリザベス・ウィードリーが、コーヒーのカップを差し出してきた。
「手がかりがないかと思って」
「手がかりなら州軍が必死に探しているんじゃないの」
「そうなんだけど、そうじゃなくてもっとこう……直接的な」
映像を何度もなぞり、立体を入れ替える。指先の神経が、立体と連動して、像そのものに触れているような錯覚を覚える。否、錯覚ではなく実際に触れているのだ。神経と脳が、そのように知覚する以上、実際に触っているのに等しい。
「連中が消えたのならば、逃走経路があるはず。逃走の手段だって、まさか煙みたいに消えたわけじゃないだろうし。どこかに手がかりが」
「悪いけど、無駄だと思うよ」
エリザベスは机にもたれ掛かり、コーヒーに口を付けた。
「ビルの上に立っていた軽機動兵のせいで、音域立体が乱れていたんだから。ブリーフィングでもそう言ってたでしょ? ビルの半径二キロ圏内は、通信が使えなかったんだから」
「衛星は機能してたはずよ。映像にまで、電磁波が届くものでもないでしょう」
「それでも、その像は不完全なもの。逃走経路がそれで見つかるとは限らないわよ」
エリザベスはヨファの肩に手を置いた。
「心配なのは分かるけど、あまり根を詰めて体でも壊したら意味ないよ。一息入れたら?」
「いや、でも」
「いいから。私はあなたの方が心配よ。そんな刺々しい声で」
言われて初めて気づく。自分の歌音はどうしようもなく尖り、まさしく針の山でも握り込むような感触をしていた。作業に夢中で気づかなかったが、ヨファ自身が発する声と息づかいに、かなりの不快さを内包した旋法をまき散らしていた。
「あなたも少し落ち着いたら? そうそうすぐに結果が出るわけじゃないんだし、あなたがカリカリしても事態は良くならないわよ」
エリザベスは相も変わらずサファイアブルーを湛えている。輝石の歌音が光りを帯びて、しかし寒色の色とは裏腹に、声は仄かに温かみのある立体だった。ヨファの中に生まれた、それが広がりを見せ、ヨファの内側を触覚してゆく。エリザベスの旋法は、完璧な情動を描いていた。
「音奏者は、情動系が敏感だって聞いたけど案外本当なのかもね」
ヨファは背もたれに身を預けながら言った。
「え、何のこと」
「何でもない。悪いね、気を使わせて」
ヨファはコーヒーを口に含んだ。ほどよい苦みが口の中に広がる。合成着色の飲料とはまた違う、天然物の味だった。
「あれから全く音沙汰無いってのも、気味が悪い」
立体映像がゆるい傾斜をつけた状態で回転するのに、ヨファは映像を消した。これ以上眺めていても何の進展もないように思われた。
「原野にいる影が、捕虜なんかとってどうするって話よ。人を連れ去ったとしても、その拉致した人を使って何かの交渉を持ちかけてきたことものない。連中の意図がまるで掴めないわ」
「そう、確かに……調がどうにかして自力で脱出出来るのならいいけど」
少しエリザベスの旋法に陰りが差した。青からくすんだ群青へ、ほんの一部だけ。すぐにまた元に戻る。
「あのヘルメットに映っていた軽機動兵、相当の使い手みたいだったから。自力でってのも難しいかもね。せめて発笛でも鳴らしてくれたら分かりやすいけどね」
「そういえば」
エリザベスが、ふと思い出したように言った。
「いつか、調が雪山で遭難したときのこと、ヨファは話してくれたよね」
「ん、ああ訓練校の」
エリザベスに話したことなど、一度しかない。そんなことをいちいち覚えているエリザベスの記憶力に感心しながらも、応えた。
「調が言ってたんだけど、そのとき発笛を使ってSOSを飛ばしたって」
「調がそんなこと言ってたの?」
「ええ、それで助かったんだって」
途端にヨファは、頭を抱えたい衝動に駆られた。嘆息した、その声が自分でも驚くほど濃い色合いであるのに、エリザベスが慌てて問い直す。
「私、聞いちゃいけないこと聞いちゃった? ひょっとしてあまり触れちゃいけないところだったのかな」
「いや……ただ調には余計なこと言わないようにって、後で釘刺しておかなきゃと思って。まあ、無事ならだけど」
エリザベスのなめらかな旋法を聴きながら、徐々にヨファは自分の旋法をあるべき方に修正しようと、努めた。
「不協和ぎりぎりの旋法だったんだって?」
「そうだね。あんまり思い出したくない音かもしれない、何せ聴いていられるものじゃなかったし。何というかこう……どうひどいのかって、説明出来ないんだけど。触感がとにかくひどい。全身が舐め回されるというか、虫が這うというか。普通の人間が聴いたら間違いなく倒れるね」
「どういうものかってよく分かったわ」
エリザベスは少し眉根を持ち上げて困惑したような笑みをつくる。
「あなたの声を聴けばね」
「理解が早くて何より」
ヨファのディスプレイに浮かんでいる、格子立体が切り替わる。代わりに浮き出たのは、映像は連邦の記章だった。オリーブの葉と白い鳩の図柄が、三次元の像を結び、それが連邦議会を表す唯一の物だ。
ヨファはカップをボックスに投げ捨てた。
「けど、今回は多分無理ね。一個人の発笛でここまで届かせるのは難しい。”ハミングバード”か通信塔の鳴盤でも使わないと」
「それ、素人でも扱えるものなのか」
「訓練が必要になるね。それと、人並みのセンスは欲しいところ。調は多分、無理なんじゃないかな? 旧人には少し」
口にしてから、エリザベスはあっと声を上げた。自ら発した言葉を恥じるように、下を向く。
「こんなこと、言っちゃいけないよね」
「別に悪いことじゃないでしょ、事実なんだし」
エリザベスの声に、負の要素は全くなかった。旋法は、形が歪んだり、色がくすんだり、そうした要素が無い限りは正常な情動を表す。
「旧人だ新人だ、意識しても仕方ないよ。調に対して何か思うことがあるわけじゃないんでしょ? じゃあ別にいいんじゃない」
ヨファが映像に触れると、記章が消え、再びビルの格子映像が現出される。掌で画面全体を撫でると、今度こそ完全にかき消えた。
「そんなに意識することないよ。新人は新人、旧人は旧人、それでいいんじゃない」
そのとき、画面の端がちかちかと光っているのを見つけた。本部内の通信アイコンだ。
「どうしたの、メール?」
「リィドからだ」
メール画面を開くと、一言だけ記されている――ニュースを見ろ。
「ニュースって何」
「あいついっつも一言足りないから……ニュースね」
画面を消す。ウェブにアクセスし、ニュース映像を取り込む。ほどなく立体画面が立ち上がった。
男が立っている。覆面を被り、小銃を持っている。その後ろに機甲兵――ヨファが知っているものとはだいぶ違う、軽機動兵よりは重装備だが通常の兵よりは軽装だ。兵はニ体立ち、そのニ体に挟まれた位置にひざまづいた人物。
「調じゃない」
エリザベスが身を乗り出した。中央の人物はまさしく阿宮調に他ならない。小銃を突きつけられ、身動きをとれず、ただ目だけはこちらを向いている。ここ数日の間に随分やつれた感があった。
「リアルタイム映像よ、これ」
ちょうど映像の後ろに時計がかかっているのが見える。アナクロなデザインの、二つの針が交差するタイプ。現在時刻は、正午を少し回ったところだ。
覆面の男が何かを口走っている。聞き取りづらい現地語だった。何とか自分の知っている単語をつなぎ合わせて男の言うことを理解しようとした。
「何て言っているの」
エリザベスが身を乗り出し、聞き耳を立てている。がなり立てるような口調は、彼女にとって一番縁のないものなのだろう。
「人質のつもりらしい」
ヨファの言うことを、エリザベスは奇妙なものでも見るみたいに眉根を寄せた。
「どういうこと」
「そのままの意味よ、つまり調の命と引き替えに、あの地区から手を引けって。そういうこと言ってる」
「何のためにそんな」
「言葉使いからして北東エリアの旧人ね、あの辺りに住む現地人だわ」
像が切り替わった。ニュースキャスターの能面が映し出された瞬間、ヨファは映像を切る。
「北東に、まだ人が住んでいるなんて」
「信じられない? 旧人はみんな州都にいるか、あるいは原野にいてもボランティアの保護下にあるって思っていた?」
「そうじゃないけど……私も知っているけど、そういう人たちのことは」
完璧な曲面が、いざヨファの言葉を聞けばすぐにでもいびつな形に変化する。エリザベスの声に、戸惑いの旋法が浮かんでいた。原野において、連邦議会や企業のボランティアの影響にない旧人たちがいることを、たとえ知識として知っていたとしても、エリザベスには信じられないかのようだった。
「まあいいや、ともかくそういうことだね。調を出汁にして、交渉のテーブルにつかせようとしている」
「応じなかったら、どうなるの」
エリザベスの声に朱が混じる。そんなことを訊かずとも、すでに理解している証だった。
「どうもしないでしょう」
ヨファは自分の声が、ひどく冷たいことに気づいた。
「応じなければ斬って捨てられる、それだけよ」