十
フルフェイスヘルメットの内壁を覆う、壁面フィルムに定着した分子が、今は周波をあわせるための円と、関数を表すグラフ平面の像を結んでいる。音律を表し、緑色に縁取られた円周上を紫めいた波長が、時折点滅しながら周回し、波打つ。協和する音を見つけ、一番響く旋律を奏でるための作業だった。
絶えず相互に発信する歌音は、白兵たちにとってもっとも響くものでなければならない。グラフ平面には音階の高低差が表れ、弦楽器の弦のごとく揺らいでいる。音律を調整する円周はそれそのものが奏でているかのように光り、律動するように紫が明滅していた。
音階のグラフが三次元に体現される図を、調は想像した。対数が空間上にいくつも現出され、それらのうねりが連続して響かせると、やがて一つの立体が生まれる。上から見れば山脈の地形図でも見るような、凹凸激しい複雑な声紋が現出される。その凹凸は歌音の音程であり、生まれた地形図は旋法に他ならない。そうして生まれた図形が、波の起伏がなだらかであれば静情、激しければ激情となる。突き詰めれば情動の流れをコントロールするのは歌音による旋法であり、それらはすべて旋法回路で調整するものなのだ。
なだらかな情動が続けば、なめらかな曲面を描き、旋法回路がはじき出す共感覚はそうした図面の触感を伝え、あるいは歌音の音階にも温度差が存在し、音階が高ければ熱を、低ければ冷気を決定づける。そして熱には赤く、冷たさには青くと色分けがされている。それらの音の高低によって色合いが定まるものだと。だから、変化の激しい旋法は怒りや興奮を、静かな旋法は癒し(ヒール)と憂いというような情動を形成し、それらが色と形を伴う――持てる者はそれを当たり前のものと受容し、持たざる者もやがてその音を受け入れる。受け入れた子供たちは、進んで原野に出て旧人たちに州都のすばらしさを説いて回る、サワキタ氏のような大人になる。
四十八時間前、北東三エリアで活動しているという、非政府組織の代表だというその男の話を、調たちのチームは狭苦しい部屋の中で聞かされていた。
「原野の連れ去りは、ここ数年で増加傾向にあります」
サワキタは初老のアジア系。元々はシアトルのサリスタ社でバイオテクノロジーに関わっていたらしい。数年前にサリスタ社が人道支援プロジェクトを立ち上げたとき、立候補したのだという。以来、原野に出て旧人の子供の保護活動と、サリスタの農業種を使った緑化プログラムを行っていったということだ。
「十年前の、あの不幸な事故があって以来、軍の活動によってボランティアの進出領域も増えましたが、それでもボランティア要員が連れ去られることは多い。安全区域とされる場所でも、それは続いています」
連れ去り。連邦の、原野における宥和政策を停滞させ、州都の人間が原野の恐ろしさを再確認させるには十分すぎる。リーガル・クロウの墜落事故ほどの直接的な恐怖ではないにしても、安全領域とされるボランティアの活動域にあって、不可解な行方不明、そして連れ去られた人間は大抵、戻っては来ない。そのせいで企業も、原野へのボランティアの派遣を躊躇している。
「調査目的は、連れ去りが行われる個所での活動となる。投入場所は、ここより内陸、五百キロ地点」
「山地かよ」
リィドがぼやきたくなるのも無理はない。完全に山で囲まれた、北東ではありがちな山岳地帯だった。標高の低い山が連なり、平地と呼べる場所はない。
「防人がやるんじゃないのか、こういうのって」
「防人はあくまでも国境警備、原野に潜り込むのは我々の仕事だ」
ハマが四角四面な声音で言うと、リィドは首をすくめた。
「原野近くまでは我々が先導します。その説明を――」
サワキタ氏が音域立体を前にして説明を始める、その襟元に細いケーブルが見え隠れしているのを、調は見た。知らない人間が見たらそれが何であるか分からないだろうが、同じ旧人、あるいは旧人と何度も接したことのある者だったら分からないはずはない。"ピアス"とはまた違う回路だった。
旧人が身に着けるインターフェイスは、多くは機器を装飾品に偽装したり、衣服の下に隠しており、その場合は彼や彼女が旧人であることを指摘してはならない。自分が旧人であることを知られたくないから、そうしているのだから。公の場で旧人であることを暴露することはその人間に大変な不名誉と屈辱を与える行為になる――終始、飴玉を口に含ませたような歌音でもって話すこの男も、自分が旧人であることを知られたくはないのだ。調はもちろん、おそらくチームの全員がサワキタの素性を悟ったが、誰もそのことについて触れるものはいなかった。
もっとも、自分が旧人だと公言する者の方が稀である。調のようにインターフェイスを見えるところにつけている旧人の方が、珍しい。通常は隠すものだ――カミラがそうであるように。
出撃までの間、自由行動が許された。白兵たちはめいめい引き上げ、ホテルに戻るものと街に出るものに二分され、調はというと食堂に赴いた。
ランチを受け取り席につこうとすると、エリザベス・ウィードリーの輝石めいた涼しい声が降り懸かる。向かい側に座るのに、調は一旦席を立とうとした。
「なによ、逃げなくてもいいじゃない」
「別に。ただあんたもわざわざ俺のところにくることないだろう」
「いいじゃない? コミュニケーションを円滑にしておくことで、作戦の成功率が上がるなら」
どうやらそこから動く気はないらしく、エリザベスは食事を始める。調はいすに座り直した。
「今日、ヨファはどうしたの」
エリザベスが訊いたとき、調はちょうどプレートの培養肉に手を付けるところだった。
「ホテルだ。何だか体調崩したみたいで、まあ風邪だとよ」
「そう、まあ寒くなってきたしね」
そう言って窓の外を見る。灰色の空を背景に、小さくちらつく雪片が、窓に張り付いては消えていた。食堂の隣には倉庫が隣接していて、作業する紺色パーカーのボランティアたちがいるのを認めた。背中を丸め、寒さに耐えながら、倉庫からシートに覆われた何かを出し入れしている。効率農業をこの地に進めるために、大型栽培機械を導入するプロジェクトがある、とサワキタ氏の話を思い出していた。
「風邪程度で休むなんて、どうかしている。少しの熱なら動いているうちに治るってのに」
「どうしてそういうことを言うの、調」
エリザベスが憂いを混ぜた旋法でもって語りかける。サファイアブルーの色合いが濃くなった気がした。
「誰だって体調崩すときはあるのに、それをあなたの主観で治るはずとか。そんな冷たいことを」
「ああ、はいはい。失言でしたよ、すまんね」
自分の声が鉄っぽい味を帯びているのも構わず、投げやりにそう言い捨てる。エリザベス・ウィードリーのような人間には、どんなわずかであってもネガティブな情感はタブーだ。休日を使って原野の人道支援プロジェクトに顔を出す善意の人には。
「調、あなたはもう少し気をつけた方がいい。自分の旋法によく耳を傾けて、自分がどういう感情で、相手がそれを聞いたらどんな思いになるのかってこと、よく考えないと」
「だから悪かったと言ってるだろうが」
旧人たる自分と新人とで、認識の差があることを、どう気をつければ良いのかも分からない。いくら気をつけても、なかなかその間は埋まらないものだ。
「まあでも、変な感じよね」
エリザベスは、ようやくパックの中身をすべて飲み干した。
「何が」
「調とヨファっていっつも一緒だった気がしていたから。二人とも、つきあい長いんでしょ?」
「腐れ縁だな。別に一緒になるのは偶然だ、任務が違えば単独行動だってする」
「でも、ヨファが言ってたわよ。調をフォローするのは、訓練校のときからそうだって。何だっけ、雪山訓練のときも遭難した調を助けてやったんだって」
余計なことをあの女。そう口にしかけたのを、どうにか堪えた。またぞろ悪態をつけば、調の醜悪な旋法にこの善良なる新人は眉をひそめることになることは分かっていた。彼女の前では、どうやら常に完璧な形を描き出さないといけないらしい。
「ヨファには、昔のことをあんまり触れ回るなと言っておこう」
「でも雪山訓練って相当すごいことするのね。遭難したって言うけど、どうやって助かったの」
「特別なことはしなかった。発笛で波長を合わせて、即興の旋法を作った。救援の旋法を」
「発笛じゃ十分な立体は出来ないでしょう」
地形を読み、疑似歌音から音域立体をプログラミングし、白兵たちに送り込む――音奏者、エリザベス・ウィードリーにとっては、何ら労力を必要とすることではない。白兵たちが常日頃持ち歩く電子笛と違う、"ハミングバード"に備え付けられた大がかりな装置を、この女はたやすく扱う。
「それで助けられたんだね。腐れ縁てそういうこと」
エリザベスは良いものを見たというように、顔をほころばせた。淡いバイオレットの声まで出して。調は箸を置き、プレートを手に席を立つ。
「あまり変な邪推はするものじゃない」
ちくりと、刺さるように告げる。冷たい針を複数飲み込んだ感触の、自分の声。黒ずんだ、不快さを露わにした旋法を描く。エリザベスの顔が途端に曇るのが分かった。
構うものか。
調は乱暴に椅子を押し込め、その場を後にした。