畳の上の終幕劇
夕暮れの薄暗い部屋の中。カラスの鳴き声が縁側の方から聞こえてくる。静まり返るプライベートな空間。だだっ広い家の中に独りだけいると、住み慣れた我が家も、どこか廃墟のような怪しい雰囲気を覚える。
物置場から運んできた木製の踏み台。特に使われず眠っていた木台は、カビが付着し、若干朽ちている。
立方体のがっしりとした30cm程の高さの踏み台を、六畳程の和室のど真ん中にドンッと置く。若い頃と違って、重い物を抱え込むと腰にとてつもない負担が架かった。
ぜえぜえと吐息を洩らし、台に両手を付けながら前かがみにして倒れこむ。
「もう年だな……」
ゆっくり首だけをあげると、左右に開かれた黒い扉の間に写る一人の女性の顔が目に入ってきた。
皺が頬に刻む初老の女性。満面の笑顔で幸せそうな表情を浮かべている。その表情は微塵も変わることはない。
「まさかお前が俺より先に逝くとは」
膝を付いて立ち上がり、窓際のタンスに歩を進める。一番下の引き出しを開けると、思った通りそれはあった。
生前、妻が自分の歳も考えず俺のために作ってくれた、虹のような一本の長い七色のマフラー。『こんな歳にもなってそんな派手なものを付けられるか!』。妻が手渡したこのマフラーを、俺はそう言って取った瞬間に床に叩きつけたのは、老いた記憶力でも、はっきりと覚えている。妻はマフラーを拾いあげ、『ここに入れて置きますからね』と、何も悲しむ表情もなく無く、いつも通りの口調でタンスの一番下の引き出しにしまった。
今にして思えば悲しんでいなかったはずがないのだが。
「一度くらい使ってやってもよかったのにな」
マフラーを手に取ったまま拳を握り締めて、慎重に踏み台の上に足を乗せる。
ギシィィ。古い木製の台から、きしんだ床を踏みならしたような音が発した。背伸びして天井の梁にマフラー結び付ける。それから垂れ下がったマフラーでバケツ程の丸いワッカを作る。ワッカの下部を持って、念入り下に引っ張る。
そして全体重を懸けてぶらさがる。マフラーはビンッと生地を伸ばすも、全く千切れることはなかった。いくら夫人が手作りで編んだ柔いマフラーでも、皮と骨だけのひからびた親父の体重では切ぎれることはなかった。
十分にマフラーの強度を確かめてから、再び木製の台に足を戻す。
ピシッ。右足を乗せた瞬間、台の側面に僅かな亀裂が走った。気にせず左足も乗せて立つ。
ふと振り返ればこの半年間、妻が死んでから楽しいことなど何一つもなかった。唯一心を慰めてくれた愛犬のポチも、妻の後を追うように死んでしまった。ポチの散歩をしなくてよくなってからは、自らの足で門の外に出る気は少しも湧かなかった。
それから毎日、居間で横になりながら新聞を読んだり、妻との思い出のアルバムを眺めたり、寂しくなってきては独り酒に溺れたりと、死んだように淡々と時間が過ぎていった。
ワッカに手を掛けて首をその穴に通す。足元の台が少しぐらつき、パキパキと音をたてている。
いなくなって初めてわかった妻の大事さ、妻の有り難さ。目をつぶると、瞼の裏に若かりし頃の妻のあどけない顔が浮かんできた。
後はこの台を蹴り倒すだけ。足を付けている台を蹴り倒す勢い。ただ軽く蹴り倒しさえすれば、俺はこの孤独感と虚無から解放される。妻の元へも旅たてる。台を蹴り倒して首吊りになればいいだけ。
それだけ。たったそれだなのに――。
(動けっ! 動け足!)
心の中で叫ぶも、急に震えだした脚が言うことを聞かない。
もう覚悟は決めたはずなのに。生きていてもなにも無いと悟っているのに。どうしても最後のひと踏ん張りが利かない。
「うっ……ううっ……」
目頭が熱くなり、涙が溢れだしてくる。
「恐い……恐い……」
自分には、自ら死にに逝く――人生から逃避する決断がどうしてもできない。体中が震えてしまう。
「ううっ……うぅぅ……」
俺はまだ、死ぬことができない。
衰弱死という末路を選んだ。死ぬのは後何年後。いや何ヵ月後なのかもしれないが、その時まで、例えこの意味のない余生でも、現実の世界でもう少し楽しもう。どうせどのみち死ぬのだから。
「なにバカな事をしてるんだ俺は……」
首を抜こうとワッカに手を掛けた――と次の瞬間。
バキバキッ!
「え?」
突然の激しい亀裂音と共に足元がぐらついた。そして体が重力に引っ張られた。
依然、首はまだ縄の輪に通したまま――。
なんでこんなシナリオにしようと考えたのかは意味がわからず、思いつくままに執筆を進めた処女作品。感想&批評等、良ければお願いします。