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アルス・レトフォードの冒険

作者: 理不尽ではない祖父の足
掲載日:2026/07/13

前世の記憶は、ひどくあっけないものだった。満員電車に揺られ、深夜までパソコンの画面を睨みつけ、ただ消費されるだけの毎日。心も身体もボロボロに磨り減った末の、三十五歳での孤独死。それが俺の人生のすべてだった。

だから、見知らぬ天井の下で赤ん坊として泣き声を上げたとき、神様がくれた二度目のチャンスに胸を躍らせたのは言うまでもない。

この世界は『マナ』と呼ばれる魔力が万物に宿る、正真正銘の異世界だった。

人々は十歳になると、神殿の水晶に手を触れて自らの『魔力属性』を鑑定する。

「火」の属性を持てば宮廷魔術師への道が開かれ、「地」の属性を持てば豊かな大地の恵みをもたらす賢者として崇められる。そんな世界だ。

そして俺――地方貴族の三男として生まれたアルス・レトフォードの鑑定の日がやってきた。

「おい、見ろよ。水晶が変な色に濁っていくぞ」

神殿の神官たちがざわめき立つ。

美しく輝くはずの水晶が、じわじわと赤茶けた、まるで見捨てられた廃墟のような鈍い色に変色していく。

神官が怯えたような声を震わせ、鑑定結果を読み上げた。

「アルス・レトフォード……属性は『さび』。万物を劣化させ、腐らせる、前代未聞の呪われたハズレ属性です」

その日を境に、俺の世界は一変した。

「我が家系から『錆』の呪子が出るとは、末代までの恥だ」

厳格だった父親からは勘当同然に無視され、二人の優秀な兄たちからは「鉄くず」と嘲笑された。何を触っても、どんなに魔力を込めようとしても、俺の手からは赤茶けた不毛の霧が立ち上るだけ。触れた鉄の剣は瞬時にボロボロに崩れ落ち、花は萎れ、果実は腐る。

前世でも使い潰され、今世でも生まれながらにゴミ扱いか。

だが、俺の心は折れなかった。前世で理不尽な社会を生き抜いた泥臭さが、俺の精神を支えていた。

「ただの『劣化』だと思ったら大間違いだ。科学的に見れば、錆は『酸化』。つまり、物質と酸素が結びつく化学反応のはずだ」

俺は屋敷の裏山にある薄暗い洞窟に引きこもり、血を吐くような努力で『錆』の魔力を研究し続けた。

研究を始めて五年。俺は十五歳になっていた。

毎日毎日、自分の魔力を鉄くずに流し込み、その変化を観察し続けた。

魔力をただ垂れ流せば、物質はただ朽ち果てる。しかし、魔力の密度を限界まで高め、その進行速度をナノ単位で制御したらどうなるか。

「……できた」

俺の手のひらの上で、一本のボロボロだった鉄のナイフが、怪しい黒光りを放ち始めた。

錆びの進行を極限まで加速させ、さらに表面を特殊な酸化皮膜――いわゆる『黒錆』でコーティングしたのだ。それは、もう二度と腐ることのない、究極の防錆強度を持つ強靭な刃だった。

さらに、俺は気づいた。

『錆』とは、不要な不純物を削ぎ落とし、物質の「本質」だけを残すプロセスでもあるのだと。

鉄が錆びてボロボロになるのは、不純物が多いからだ。俺の魔力で徹底的に不純物を「酸化」させて排除し、純度一〇〇パーセントの鉄分子だけを再結合させる。

シュイン、と心地よい風切り音が洞窟に響く。

俺の手元には、かつて誰も見たことがないほど半透明に透き通った、美しく、それでいてどんな大剣をも一刀両断にする『純鉄の魔剣』が完成していた。

「ハズレ属性なんて、誰が決めた。この力は、世界を研ぎ澄ます刃だ」

その時だった。地響きと共に、山の麓から悲鳴が響き渡った。

空がどす黒い雲に覆われ、不気味な咆哮が木霊する。

王都の周辺にしか現れないはずの、特級危険魔獣『地脈喰らい(アース・イーター)』が、突如として我が領地に現れたのだ。

麓の村へ駆け下りると、そこは生き地獄だった。

体長数十メートルを超える、岩石の鎧をまとった巨大なミミズのような魔獣が、村の家々を次々と踏み潰している。

火炎嵐プロミネンス・ストーム!」

長男の兄が必死に最上級の火魔術を放つが、魔獣の強固な岩石の皮膚には傷一つ付かない。

「バカな、俺の炎が通じないなんて……!」

次男の兄は大地の障壁を張るが、魔獣の一撃で粉々に砕け散った。二人とも血を流し、地面に這いつくばっている。

「ガァァァァオオオオ!」

魔獣が大きく口を開け、兄たちを文字通り「喰らう」ために狂暴な一撃を振り下ろした。

誰もが諦め、目を背けたその瞬間。

キィィィィィン――!!

鋭い金属音が戦場に響き渡った。

「なっ……何だと!?」

兄たちが目を開けると、そこには、ボロボロの作業着を着た俺が、一本の透明な細剣で魔獣の巨体を受け止めている姿があった。

「アルス!? なぜお前が……逃げろ、その鉄くずの力じゃ一瞬で肉塊にされるぞ!」

兄が叫ぶ。だが、俺は不敵に笑った。

「兄さん、よく見ておきなよ。あんたたちがゴミだと笑った、この錆の力を」

俺は魔力を全開にした。両手から立ち上る、濃厚な赤茶色の霧。それが津波となって、魔獣の巨体を包み込んでいく。

「グルゥ!? ガァァァア!」

魔獣が苦しみに身をよじる。魔獣の武器である『絶対に砕けない岩石の鎧』が、みるみるうちに茶色く変色し、ボロボロと崩れ落ちていくのだ。

「そんな……あの魔獣の皮膚は、どんな魔法も通さないダイヤモンド並みの硬度のはずだぞ!?」

「硬ければ硬いほど、不純物が多いのさ」

俺は冷静に魔力を操作する。

魔獣の皮膚を構成する鉱物成分を、超高速で『酸化・風化』させる。数百年かけて風化するはずの岩石の寿命を、俺の魔力がわずか数秒で使い切らせたのだ。

鎧を完全に失い、柔らかい肉質が剥き出しになった魔獣が怯え、後退りする。

「これで終わりだ」

俺は自作の純鉄の細剣を引き抜き、魔力を注ぎ込んだ。

剣の表面に、青白い超高熱のプラズマが帯びる。『酸化』とはすなわち化学発熱。その熱量を一本の刃に集中させ、限界まで熱を爆発させる。

「ハズレ属性の、底力を見せてやる! ――『錆界・一閃さびかい・いっせん』!」

閃光が走った。

一瞬の後、魔獣の巨体は真っ二つに裂け、切り口からボロボロの灰となって崩れ落ち、サラサラと風に吹かれて消えていった。

静寂が村を包み込む。

呆然と立ち尽くす兄たちと、恐怖で腰を抜かした神官たち。

俺は剣をサヤに収め、軽く息を吐いた。

「アルス……お前、本当にあの『錆』の能力なのか……?」

長男の兄が、震える声で尋ねる。そこにはかつての蔑みはなく、圧倒的な強者への畏怖だけがあった。

「あぁ。世界を腐らせる、最低のハズレ属性さ」

俺は振り返り、夕日に向かって歩き出した。

「でも、使い方次第で、どんな盾も腐らせ、どんな剣も研ぎ澄ますことができる。前世のサラリーマン時代に学んだんだ。無駄なスキルなんてない。活かせない奴が無能なだけだってね」

この日、一人の「鉄くず」と呼ばれた少年が、世界の常識をひっくり返した。

後に、あらゆる障壁を無に帰し、大陸最強の魔王軍をも一瞬で風化させた伝説の英雄。

『真鍮の魔術師』アルス・レトフォードの冒険は、まだ始まったばかりだ。


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