13 天国からの手紙
12冊目のルーズリーフ
(宗教という言葉)
映美
今日は宗教という言葉の響きについて私が感じていることを書いてみるね。
映美には今の段階で話すべきじゃないかもしれないと思って悩んだけれど、やっぱり話すべきことは話しておきたい。
宗教という言葉自体は悪くもなんでもないけど、この言葉の響きには独特のものがあるように思えるの。
自分を無くしてしまう。
盲目になって自分では判断できなくなる。
もっとわかりやすくいうと、悪魔的なものに洗脳されて悪い思想に取り憑かれてしまう。
そんなイメージがあると思うの。
映美はどう思う?
世界の人口は約80億人で20億人以上のクリスチャンがいるの。
しかし、諸外国に比べて日本はクリスチャン人口が極端に少ない。
主要先進国では人口の半分位はキリスト教徒です。
日本のように1%しかクリスチャンがいないのはどう考えても不自然すぎるように私は思っています。
ちょっと我慢して聞いてね。
私の本音だから。
世界は日本をどのように見ているのか?
私の正直な感想を言ってみるね。
日本人は確かに礼儀正しく親切ではあるけれど、根本的な部分にはブラインドがかかっていると本音の部分ではそう感じていると思っています。
選挙で極端に票が偏ってしまう国があるよね。
その結果にはちゃんとその理由があることはみんなわかっている。
圧力や縛りがなければそんな極端な数字にはならない。
自由で解放された社会なら、票のばらつきがあるのが当たり前です。
勘違いしないでね。
日本にはそのような宗教的な圧力も縛りもありません。
日本には信教の自由があります。
理由は他にあると私は感じています。
映美
ここはよく考えて欲しいとこなの。
私はね、神などいないという教えは
とっても危険だと思っているの。
人を本当の神から遠ざけてしまう。
その教えは天国や地獄など存在しない、人間は死んだらそれで終わり、すべて無になる。
そのような死生観を持たせてしまう。とても危険だと思っています。
神に敵対する存在からの操作は常に行われています。
1%という極端な数字は正常で開かれた社会の自然な状況下ではありえないと感じています。
世界を見れば一目瞭然です。
無宗教という巨大組織が日本を覆っているというのが私の感じているところです。
決して姿を現さない組織で、集まって集会をすることはない。
何よりも恐ろしいのは自覚がないことなの。
自分がそのような組織に属しているということを感じさせない狡猾さを持っています。
無神論者、不可知論者だと自分を表現する人を批判したくはない。
でも、その教えの源にある存在、人の心を神に向かないように縛り上げている存在には心を研ぎ澄ませる必要があると感じています。
何故、神など存在しないという教えが危険なのかだけど、私はこう思っています。
それはとても騙されやすい状態に自らを置いてしまうことになるからです。
神は存在しないということに人は本当の確信を持てません。
深く根ざす論拠を持つことはありません。
神の存在を完全に否定することは不可能だからです。
神など信じないと口で言っていても心は嘘をつけません。
だからその結果、神を信じることも信じないこともできないでいるのです。
何処にも根を張っていません。浮草のように漂ってしまう。
そのために悪しき者から不思議な体験をさせられたり、見せられたりすると(これはすごい!本物だ!)
とすぐに信じてしまい虜にさせられてしまうのです。
不思議に思える体験や奇跡に見えることがその人の心を一瞬で縛り上げるのです。
神に敵対するものは、誘拐犯が一瞬で子供を連れ去るようにいとも簡単にやり遂げます。
無神論、不可知論はそれほど無防備な状態だと誰も気付いていません。
聖書は教えています。
(身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。)
(ペテロの手紙 第一 5:8 )
映美
無宗教は神を否定する教えで、神に敵対している教えだと私は思います。
神を信じない無神論の方は、別に聖書を否定しているわけではないと言います。
神を信じて信仰を持つことは良いことだと思いますと言います。
信仰を持つことは個人の自由なので尊重しますと。
今は科学が生命の誕生もこの世界の誕生も神によるのではないことが既に証明されていると言う人もいます。
人の命も動物の命も何もかも、この世界の全ては神によって創造されたのではなく、偶然の産物だと証明されているというのです。
日本人は無宗教にとどまることがまるで安全地帯にいるかのように感じています。
私にはそのように見えるのです。
自分はどんな極端な教えにも影響されていない。
バランス感覚を持っている。偏った思想に捉えられてはいない。
そんな感じに見えるの。
しかし、無宗教はとても危険な教えで、偶然様という怪物を神として崇拝させ、礼拝させ、知らない間に人の心を縛り上げてしまう。
私はそう思っています。
映美.、考えてみてください。
人間や動物や植物のように命を持つ生命体が偶然生まれてしまうということは、神の知性を抜きにして組み立てられたということになるはずです。
そんなことはありえないと私は思っているけど、仮にあったと仮定して考えてみましょう。
偶然に何の知性も計算も論理もなく組み立てられてしまったとしたら、同じように偶然破壊されてしまう確率も考えなければならない。
そうじゃないと現実的に考えていることにならない。
偶然創造されてしまう確率と偶然破壊されてしまう確率の両方を考えなければならないはずです。
単細胞が偶然できてしまうなら、その単細胞の時点で偶然の破壊も起こるはずです。
偶然は初期段階で別の偶然と衝突して意味のないメチャクチャな結果が出るだけだと私は考えています。
数学には破壊の確率というのがあるの。
いろんな構造物の強度や存続を考える時、その設計や信頼性を評価する時にはとても重要な概念で、破壊の確率を抜きにして考えることは出来ません。
この宇宙の営みや小さな小さな命たちの息づかいを見て、偶然存在し続けているとは私には思えません。
私たちはこの証明されえない世界で信仰によって選び取ることを神は望まれているのです。
神は宇宙の営みを通し、自然界を通し、動物達や植物達を通し、たくさんのメッセージをこれでもかというくらい送ってくださって神ご自身を現してくださっています。
映美
ここでちょっと、母の知り合いの女性の話を聞いてください。
その女性は戦時中、中国の大連というところに住んでいました。
日本国内の様子が知りたくて友人たちと悪霊と関わるような占いをしていたときの話です。
その占いの中で日本にいる友人の状況を尋ねたところ、悪霊は子供が産まれていることとその子供の名前まで告げたのです。
戦争が終わり日本に引き上げて来て、その友人と会うことができたのですが、悪霊が告げた名前の子供がそこにいたのです。
このような話には疑わしいものもあるけれど、聖書はそのような悪魔や悪霊の存在を明言しています。
悪き者にとってそのような情報を手にすることは朝飯前です。
無防備な人間を驚かせ、信じさせることは赤子の手を捻るようなことなのです。
聖書の中にこう書いてあります。
(あなたのうちに、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、
呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死者に伺いを立てる者があってはならない。)
(申命記 18:10-11 )
私は日本人として本当に悔しい。
日本が無垢で盲目な状態に押し込められていることが悔しい。
もうひとつ言っておきたいの。
人は科学的という言葉、証明されているという言葉にいとも簡単に自らをあけ渡してしまいます。
驚くほど疑うことを知りません。
私は数学が専門だったので、証明という言葉に対して少し厳格に捉えているところがあることは認めます。
しかし、科学的に証明されているという言葉はどんな領域でもそんなに簡単に使えるものではありません。
証明は反対の可能性を完全に締め出せる場合のみ成立するものだからです。
映美
聖書には良い木は良い実を結ぶと書いてある箇所があるの。
時間をかけて映美の目と耳で歴史をしっかり確認してみてください。
キリスト教徒が世界でどんな実を結んできたかを。
*
最後に、私の好きな牧師が親不孝について話してくれたことを書きます。
親を親と思わないで汚い言葉で暴言を吐き、親に暴力まで振るってしまう男子中学生の話。
お母さん、お父さんは本当に苦しい。
この息子と一緒にどうやって死のうかと真剣に考える。
ギリギリのところで思いとどまって毎日毎日地獄を見ながら生きている。
息子が寝ている時、お母さんは息子に手をかけてしまいそうになる自分が怖くて怖くて気が狂いそうになる。
この息子さえいなければという思いに取り憑かれて、毎日毎日そんな恐怖と戦っている。
確かにこの息子は親不孝な息子かもしれない。
でも、その牧師はこう言ったの。
本当の親不孝は親を親と認めないことだと。
暴言も暴力も振るわなくても、心の底で親を親と思っていないことこそ本当の親不孝なのだと。
同じように神を神と認めない人。
やはり間違っていると思う。
私はそう思う。
映美はどう思う?
時間をかけてゆっくり慎重に考えてみてね。
(さらの言うことが心に刺さってくる。
私もずーっと宗教的な匂いのするものに警戒心を持っていた。
正しい警戒心を持って行動して生きていかなければならない。
いつまでも石橋を叩くだけの人生では真実に辿り着けないことをさらは私に伝えたかったのだ。)
*
海の上はるか上空を飛んでいるこの飛行機の中で、私は空の鳥のように羽を広げてこの人生を生きていく決心を固める。
私はイエスキリストを信じる日本人として誇りを持ってこの日本で生きていくよ。
実は私が神を信じていない時は、死をもって全てが終わるという死生観も私は嫌いではなかった。
終わりがあるので、今という一瞬一瞬を大切に生きてゆける。
日本人の感性に合ったいさぎよい生き方で素晴らしいと感じていた部分も確かにあったように思う。
しかし、キリストの死んでも生きるのですという言葉はそれとはまったく違う。
完全に真逆だ。
クリスチャンは本当に心からそんなことを信じているんだろうかと疑問に思っていたこともあった。
人間が天国を心の支えにして生きるため、昔の人が聖書というものを作ったのではないかと考えていた。
この世がすべてではないという聖書の死生観は生きている今をどのように捉えて生きているのか最初は何もわからなかった。
しかし、さらやさらのご主人、お父さんを見ていてそれがはっきりわかった。
死んだら全てが終わるという死生観と決定的に違うのは消えることのない希望をもっていることだ。
大切な人の死を前にしても打ち負かされる事がない強さだ。
この世の苦難や悲しみを希望をもって受け止めて行くことが出来る力を見た。
今、私は死んだらすべてが終わるという死生観にはもう戻らない。
そんな生き方には何の根拠もない。
さらのご主人が最後に目を瞑って何も語らない妻と魂の会話をしていた時、信仰者の神髄を見た思いだった。
信仰者の現実の姿に震えた。
生きて行く力やエネルギーの源が信仰のあるなしではやはり全く違う。
今という生きている瞬間を大切に生きることは尊いことだ。
しかし、死ねば何もかもなくなってしまうから、今しかないから、今を大切にというのでは、本当の生きる力は湧いてこないと私は思う。
さらのご主人のこの世において妻を諦めるという究極の悲しみはあっても、心の態度が崩れないのは、我慢していたのではない。
希望を持っているからだ。
希望に支えられている涙がそこにあった。
天国にある永遠の世界での再会は揺らいではいなかった。
今の私にはわかる。
私は天国を信じる。キリストの死んでも生きるという言葉を信じる。
私は喜びと決して消えることのない希望を持ってこの人生を歩んでゆく。
さらの天国からの手紙を読んで、今私は心の底から神に感謝している。
さらと巡り会えたのは決して偶然なんかではない。
神に導かれたと思っている。
窓から白い雲が太陽に照らされて光り輝いているのがすぐ下に見えている。
雨が降っても、どんより曇っている日でも雲の上はいつも光り輝いているんだ。
さらが教えてくれたことのひとつひとつを私は宝物のように大切に大切にして生きる。
光輝く雲が涙を通して私の心のひだに優しく浸透している。
天国からの手紙をそっと箱に収めてもう一度抱きしめた。胸がいっぱいだ。
*
天国からの手紙を読んで、さらの信仰に対する思いの深さに身震いする。
身体を少し浅くずらして窓を見た。
機体の翼が見える。
この翼が頑張って乗客の命を支えてくれているんだ。
私もこの翼のように誰かを支えていけるような人になりたい。そう思う。
さらはその命を終えて、この地上にはいなくなってしまったが、あの優しい声がまた聞こえてくる。
さらが言っていたように、教師が生徒に教えるようなやり方ではなく、本音でさらの信仰についての解釈を書いてくれていた。
気付いたことがある。
さらが信仰をもった故に通過しなければならない戦場があったこと。
さらの手紙の中でははっきり書いてはいなかったが、信仰を持たない講師の中からの薄笑いの態度に晒されていたことが感じ取れる。
おそらく毎日のことだったと思う。
私が見る限りこのミッション系大学の中でさえ、本物の信仰を持っている講師は少数だと思う。
そんな環境の中でさらは生きていたのだ。
私が神を信じる前に、この大学の理念のようなものを感じることが出来なくてこんなことでいいんだろうか?と感じていたことがあったが、さらはその何十倍ものもがきの中で講師という仕事をこなしていたのだ。
大学が悪いのでもない。
ミッション系大学も例外ではなく、この日本の縮図なんだ。
この手紙はさらが私に話そうとする前段階の原稿のようなものでまだ修正中のものだと思う。
それだけにさらの信仰上の痛みや思いがストレートに伝わって来た。
私には想像もできなかった苦しみがあったのだ。
さらはどんなことでも何でも心のうちをイエスキリストに話していると言っていた。
その時は気が付かなかったが、さらはいろんな種類の苦しみと戦っていたのだ。
それを親友のイエスキリストのところに持っていってギリギリのところで戦っていたのだ。
さらの最後の授業で私はイエスキリストこそ唯一の救い主だと信じていますと言ったあの迫力の裏にはさらの口では言えない痛みがあったに違いない。
またさらはこの大学に来てキリスト教信仰について真剣に聞いてくる生徒にめぐりあわせて下さいと祈っていたと言っていた。
その願いの裏には真逆の現実があったのだ。
生徒たちからの困らせる質問を浴びせられていたはずだ。
さらもそのようにはっきり言っていたことがある。
だから信仰について真面目に知りたいと思っている生徒を待ち望んでいたんだ。
その答えが私だったことに今は震えるような思いだ。
すべて読み終えた今、いろんなことが見えてくる。
さらが大学を去った日、最後の授業の終わりに見せてくれたあのお辞儀の美しさを私は一生忘れない。
少数派になることを恐れないような人になってね、とさらが言っていたことを思い出す。
美しさは恐れない人に宿るんだ。さらが教えてくれた。
あなたのメッセージしっかり受け取ったよ。
さらの母さんの体調がよくなったら一度会いに行きたいと思っています。
さらが私に優しくしてくれたこと、教えてくれたこと、お友達になってくれると言って私がどんなに嬉しかったか...。
全部お母さんに伝えたい。
お母さんの力になれることがあったら何でもしたい。
さらがお姉さんのように接してくれたように、さらのお母さんに優しくしたい。
さらの小さい頃の思い出話もいっぱい聞かせてもらいたい。
さら
貴方のお父さんお母さんに私にできることがあればなんでもするよ。
お母さんが少し落ち着かれたら、連絡して必ず会いにいきます。
*
機内がざわついて来た。
雲の切れ間から日本の陸地が見えている。
さらのいないこの日本で生きてゆくんだ。
ポシェットからさらに貰った十字架のネックレスを取り出して、優しく両手で包んでみた。
車輪が滑走路に接触して機体は振動しながら地面を走る。
私は母国であるこの日本を愛している。
この日本で本物の信仰を持って生きてゆくんだ。
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