無視されたから別の男性と踊っただけなのに、謝れとは何事かしら。
「今日はお日柄もよく、こうして野外でお茶会をするにはもってこいの日ですわね」
「……」
「……」
「……」
「本当に気持ちがいいわ」
風がエミーリアの銀髪をさらってふわりと揺れる。髪を抑えるようにして少し手を添えて、それから婚約者のヘルムートを見つめていた。
しかし彼は、ガゼボに用意された椅子の背もたれに寄りかかり、不機嫌そうにこちらを睨みつけてくるだけでうんともすんとも言わない。
その様子に、エミーリアはいつからこんな様子だっただろうかと少し記憶をたどって思いだそうとした。
けれどもこんなふうになるような、喧嘩をしたということでもないし、お互いの家同士の関係も良好で、まったく身に覚えがない。
エミーリアはいつものように、彼と月に一回のお茶会を通じて交流を深めているだけだったのだ。
するといつしかこのようになってしまった。
しかしそれについてエミーリアは特に気にすることはなく、むしろそういうスタンスでいても問題ないのならと思い、うかべていた笑みを消して、ただ静かに紅茶を飲んだ。
「……」
「……」
二人の間には重たい沈黙があるように見える人もいるだろう。しかしエミーリアからすれば、ただ話をしていないというだけでなにも特別なことではない。
……それに春の時期だもの、外にいるだけで心地がいい。
柔らかく温かい日差しを届けてくれる太陽、二人の間に吹き抜ける心地の良い風、たまに花弁が風にのって舞い散りそれを見ているだけで十二分に充実した時間と言える。
……こういう時間はいくらあったっていいものね。
彼がどう考えてそうしているかなど、エミーリアは考えることもなく、侍女に紅茶のおかわりを注いでもらって、時間を過ごす。
もしかすると彼もこういうふうに時間を過ごしたいと思っているのかもしれないと、様子からしてそんなわけでもなさそうなことを適当に考えつつも鼻歌を謳った。
「っ……」
しかしそれを見かねてか、もしくはこの状況に退屈してか、大きな音を立ててヘルムートはテーブルに手をついた。
バンッと大きな音が鳴ってイスを蹴とばすように立ち上がった彼は、最後にエミーリアのことをきつく睨みつけて身を翻してガゼボを後にする。
どうやらもう帰りたくなってしまったらしい、まだなにも話をしていないのに。
……そういうときもあるわよね。
そんな彼に、エミーリアも澄ました顔をして、適当に彼の考えに同意しながらしずしずと後をついていく。
屋敷の中を抜けてエントランスへとやってくる。そこには、丁度外出から帰ってきた父の姿があり、彼は二人に気がついて笑みを浮かべて声をかけた。
「おや、もう帰るところか? ……なにかあったのか」
ヘルムートの表情とエミーリアを見て、父はすぐに何かを察した様子でそう問いかける。
しかし、ヘルムートもさすがに公爵の地位を持つ父の前ではその態度を貫くことはできなかったらしい。
チラリとエミーリアを振り返りつつとても微妙な顔をしてから「いや、そういうわけじゃないですが」と口にする。
その父に媚びる様な態度に、やっぱりエミーリアのことは婚約者としてきちんと囲っておきたいと彼が思っていることが理解できる。
エミーリアは跡取りではないが、それでも立派な公爵家の一員で魔力も多くとても良い魔法を持っている。
ヘルムートの実家であるアンテス伯爵家へと嫁に行き、伯爵夫人として領地を支えるのにふさわしいと多くの人が考えたから、こうしてヘルムートの婚約者としての地位を持っているのだ。
エミーリアも口を開いて、彼の言葉を補足するように言った。
「ええ、そうですわ。お父さま、特になにがあったというわけではありません」
「そうか? ならいいが、悪いな。もう帰るところを引き留めてしまって、いつもこうして娘と交流を深めてくれてありがとうヘルムート、そのおかげで嫁に出す身としても安心できるというものだ」
「はあ、それはもちろん」
「では、気をつけて」
「はい、失礼します」
父の言葉にヘルムートはきちんと受け答えをして玄関扉を抜けて去っていく。もう随分と、長いことエミーリアの言葉には無言を貫いているというのに、だ。
しかしだからと言って、なにが困るということもない。
エミーリアは、去っていく彼に少し手を振って「今度はあなたの屋敷にうかがいますわ」と口にした。
彼が去ると父はしばらくその場にとどまってそれから、渋い顔をしてエミーリアのことを見た。
「……エミーリアよ」
「はい、お父さま」
「なにもないとは言っていたが、彼はお前の婚約者だ。うまくやってもらわなければ困るぞ」
「……」
「お前は昔から私を困らせる、幼いころから縁のある相手なのだ大切にしなさい」
「……ええ」
「本当に分かっているのか? ……はぁ、まったく困った娘だ」
父の言葉にエミーリアは最終的に返事も返さず笑みを浮かべた。たしかに少々困らせてはいる気がするけれど、一応、精一杯やっているつもりである。
しかしエミーリアはそれをわざわざ口にするようなことはない。言ったところでというよりも、言うだけの感情を抱いていないので口を動かすことが面倒なのだ。
「……」
「まぁいい、私はこの後も仕事がある、お前も稽古事や勉強があるだろう、きっちりとこなすのだぞ」
父はそう言って振り返り、やっぱりエミーリアはその後ろをしずしずと歩いてついていく。
多少、ヘルムートの態度に思うところはあれど、それでもいつもと変わらない日々である。
とある舞踏会でのこと。
エミーリアはホールの中でヘルムートのことを探していた。
本来ならば共に王宮に向かって、二人で入場し最初のダンスを踊ることが婚約者として当たり前なのだが、その打ち合わせを拒否されてしまいそうする以外方法がなかったのである。
ただ別に慣習的にそうするべきというだけであって、それ以上の意味などないので現地で落ち合うことができるのならば、それでも構わないだろうとエミーリアは考えていた。
それに、こういうことは今回が初めてではない。
ヘルムートは、傍からみればそれなりに美男であり、女性に声をかけられることが多く、逆にエミーリアは無表情無言でいることが多いので男性が近寄ってくることは多くない。
そういった状況なので彼が、女性と仲睦まじげにしていることがエミーリアに比べて多いので置いてけぼりにされることも放置されることも多かった。
それでも最初のダンスだけは、別格で大体は婚約者と踊ることが基本とされている、だからこそヘルムートを見かけて、エミーリアは少しホッとしてそばに寄った。
彼は婚約者のいない令嬢たちと親しげに笑みを浮かべて会話をしている。
「お話し中のところ失礼いたします。ヘルムート、見つけることができて安心しましたわ」
「あら、グリーベル公爵令嬢」
「ごきげんよう」
エミーリアが声をかけると令嬢たちは、すぐに反応してにこやかで愛らしい笑みを浮かべる。
エミーリアも「ごきげんよう」と挨拶を返して、ヘルムートへと視線をやった。
「そろそろ開会の宣言もあるでしょうし、交流も大切ですが参りましょう?」
そう言ってエミーリアは手を差し伸べる。
エスコートをしてもらうためにそうしたのだが、ヘルムートはすぐにフンと顔を逸らして、そばにいた令嬢に声をかけた。
「そうだ。そろそろ開会だろ? どうだ俺と一曲」
「え? あの……えっと」
しかしヘルムートはエミーリアの手を取ることはなく、またエミーリアの言葉をまったく聞こえないものみたいに扱って、その場にいた令嬢にうっとりとしてしまうような笑みを向ける。
するとまんざらでもなかったらしく令嬢はエミーリアと自分に差し伸べられた手を見比べて頬を染める。
彼女たちも、伯爵家の跡取りであるヘルムートをいいなと思って彼と交流をしていたのだから仕方のないことだろう。
「ともかく行くぞ、まったく俺の婚約者ときたら、本当に鈍感でしょうがない」
「……」
「自分の立場をわきまえていないような、馬鹿な女なんだ」
そうして歩き出し、エミーリアのことを無視して彼は去っていく。
エミーリアは一人残され、彼の意味深な言葉について考えるべきかと少し思うが、それよりも今度からは声もかけなくてよさそうだと気楽に思った。
別にこうされたのが初めてということもないし、後で父には小言を言われるだろうけれどそれ以外に困ることもない。
そういうわけで、彼も別の女性と踊るようであるし、エミーリアもそうしようとまた会場の端の方へと視線を向けた。
同世代の貴族たちが集まっているのとは少しずれた位置、そこに相手を見つける気もなく退屈そうに壁に体を預けている男性がいる。
彼に視線を向けると、彼もエミーリアのことに気がついて、少し速足で歩いてエミーリアのそばへとやってきた。
「暇か? エミーリア」
彼はかつかつと寄ってきて、それから人懐こい笑みを浮かべてエミーリアに問いかけた。
それはいつもエミーリアをダンスに誘う時の言葉で、エミーリアが頷くと気軽に手を取って、人の輪の中に入っていく。
「今回は、前回よりも多く踊れそうだな」
「ええ」
「行こう」
そうしてエスコートされてエミーリアは最初のダンスを彼と踊る。
彼は、ヴォルフと言うが、エミーリアは彼のことをそれ以上特に知らないし知ろうとも思わない。ただ、踊る相手がおらず大体いつも舞踏会でも夜会でも暇を持て余している人である。
それは、彼が少々他とは違った外見をしているからだと推察できる。
銀髪に赤い瞳、さらには強面ともいえる堀の深い顔つきをしているので人が寄り付きづらいのだろう。
しかしエミーリアにそんなことはどうでもいい、ダンスというのは相手がいないと楽しむことができない。
それを楽しむ相手として、婚約者に置いて行かれたエミーリアに取って彼がちょうどいい、それだけだ。
「やっぱり、体を動かすのは楽しいな。エミーリア、それにしても、今回は最初のダンスも断られたのか? お前の婚約者酷いやつだな」
「……」
「でも、束縛しないっていう意味ではいいってことでもあるのか? 俺はそのあたりよくわからんが、まぁ俺にとっても退屈な時間が減って嬉しいし、別に仲が良くないってのも悪いことじゃないと思っておけばいいよな」
「……ええ」
彼はそうして最初のワルツを踊りながらも、目を細めてエミーリアに話しかける。
彼のリードを受けながら踊ることは、たしかにエミーリアも心地よく、小さく返事をしながらも彼の言葉にも心の中で納得した。
……そうね、お互いにまったく干渉しない、そういう夫婦の形もあるものだし、彼が何を思っていようとわたくしはわたくし。好きにさせて貰う。
だからそうして、今日の舞踏会も最後まで、ヴォルフと踊り倒して時間を過ごした。
エミーリアはあまりおしゃべりな方ではない。だからこそ人と交流して時を過ごすよりもこうして体を動かすことの方が楽しい。
その様子を見て、同世代の令嬢たちが、彼のような人と踊るなんてと視線を向けてくるとしてもそれはさして重要なことではない。
なにも、悪いことをした人というわけではないのだ。赤い目は不吉だと考えるお年寄りもいるけれど、エミーリアは迷信だと思っている。
「それで、この間の魔獣は、なんと貴族の屋敷の中から発生した珍しい事例でな――」
それに無口なエミーリアのことなどお構いなしに好きに語って、けれどもそのリードが鈍ることはない。
それがエミーリアが好んで彼と踊る理由でもあったのだった。
そうして、幾ばくかの時が経つ。こういう婚約関係にもなれて、舞踏会で声をかけることもなく、お茶会では無言が続く日々を過ごしている時のこと。
変わらず舞踏会ではヴォルフとのダンスを楽しんでいると、曲の切れ間に突然肩を掴まれて引き離され、エミーリアは問答無用で振り返ることになった。
そこには、いつもの睨みつける様な視線をさらに鋭くして、怒りをあらわにしたヘルムートの姿があり、彼は拳を強く握って、エミーリアに怒鳴りつけるように言った。
「いつまでそうしているつもりなんだっ!!」
彼の言葉に、和やかな舞踏会の雰囲気は損なわれ、周りにいた貴族たちの視線が集まる。
何事かとこちらをうかがっている視線、好奇心で聞き耳を立てるもの、交流をしていた年配の貴族たちもその気配を察知して気を配っている。
「……」
突然の言葉にエミーリアは意味も分からずヘルムートを見上げた。
怒鳴りつけられるようなことをした覚えもないし、いつまでそうしているつもりなんだと言われても、妙なことをしているつもりはない。
大体は彼がやっていることと同じように、婚約者以外の男性とよく踊っているというだけである。
しかし、意味が分からないと顔に出ていたのかその様子にさらにヘルムートは腹を立ててエミーリアに言った。
「当てつけのようにほかの男とばかり踊って、俺のことは気にかけていないようなそぶりを見せて! 俺がこんなにお前に対して不満を示しているのにどうして謝罪の一つもすることができないっ!」
「…………」
「そうしていつも黙って、どうしてお前はそうなんだ! こんな場で俺にこんなことを言わせて恥ずかしく思わないのかっ!」
語気荒くそう主張されても、彼は勝手にそうしているだけであり、別にエミーリアは恥ずかしいとは思わない。
むしろこんな場で怒って恥ずかしいのは彼の方ではないのだろうか。
「どうなんだ!」
「……どうと言われても困りますわ」
責め立てるように問いかけられてエミーリアはやっと言葉を返した。
すると、彼は目を血走らせてさらに怒りをあらわにした。
「その態度だその態度! 俺はお前に怒っているんだ! そうして常に俺を見下しているようなその態度! どうしてお前はずっとそうなんだ! 嫁に来る気はあるんだろ?」
「ええ」
「なら、俺の不満のためにお前がやるべきことはこんな、不吉な男と踊る以外にもっとあっただろう!?」
ヘルムートはどんどんとヒートアップしていき、周りの貴族たちの反応も変わってくる。
若気の至りで済まされる範疇で済めばいいのだがと思いつつも、彼が久方ぶりにエミーリアに言うセリフの一つ一つは、今までの彼の心が理解できるようでやっと発されたその言葉に耳を傾ける。
「澄ました態度で、常にそうして随分なご身分だな! 俺がどういう気持ちかも知らないで!」
「……」
「なんとか言ったらどうなんだ! こんな場所で糾弾されてもまだそんな態度を貫く気か!」
エミーリアは彼が謝罪を要求していることだけはともかく理解できた。
もしかすると、こんな場で大っぴらに声を荒らげたのも、その一連のやり取りを他人に見せつけるようにしてエミーリアに反省を促そうとしているのかもしれない。
そこまでくみ取ることはできた。
しかし、エミーリアは他人にどう思われようとどうでもいい。
自分の感情を相手に伝えて変わってほしいと願っているのは彼なのだから、羞恥心でも外聞を気にする気持ちでもなく彼がエミーリアを納得させるべきだろう。
……それに、こんな場で話を始めたのは彼なのだから、すべてを全員に知ってもらえばいいものね。
そう考えて、エミーリアは、やっぱりなんのことだかわからないと頬に手を添えて首を傾げた。
「っ、どこまでも意固地で、お前のような強情な女、娶って貰えるだけありがたいと思えないのか!」
「……なにがそれ程あなたを怒らせているのかわたくしには見当もつきませんわ」
それからたっぷり間をおいて、ゆっくりと頭を振って見せる。
するとそのゆったりとした仕草にさらに腹が立ったのか「ああ! 分かった!」と彼はエミーリアの言葉にかぶせるように言った。
「そもそも嫁にくる身として交流なんかは俺の屋敷にお前が来て機嫌を窺って然るべきだろう、それを交互にするべきなどいって! さらにだ! ほかの令嬢があくせく男に刺繍なんかの贈り物をしているのにお前は素知らぬ顔!」
言われて、初めて聞いたその不満にエミーリアは思う。
……でも、あなたはほかの男性のようにわたくしに贈り物をよこしたりしないじゃあないの。なぜ、なにもせずとも贈られて当たり前だと主張するのかしら。
「挙句の果てには、俺が態度で気持ちを示しているのに、謝罪の一つもない、お前には分かり合おうという心がないんだ! そんなことでは俺に捨てられたって文句の一つも言えないことぐらいはわかるだろうっ!」
「……」
「だからこうして、お前に罰を与えていたというのにどうして一つの謝罪をすることもできないんだ! まったく剛毅でお前のような女、本当ならば捨て置きたいなんだぞ!」
……罰…………ああ、あなたがそうしてだんまりを決め込んでわたくしを無視するのはそういうつもりだったのね。
今まで、なにか怒っているような様子だということはなんとなく分かっていたし、関係はたしかに悪化していた。
けれどもまさか彼が、その態度自体をエミーリアに対する罰のつもりだなんてことは予想もしていなくて、そしてそれを堂々とこの場で言った彼の様子に、自分は圧倒的に正しいと思っているのだとも知る。
「……」
相手は爵位継承者で、エミーリアは嫁に貰われる身でありさらに、女でそうして男に尽くして当たり前、もしかしたらそう思う人間がこの場の大多数なのかもしれない。
必ずそうするようになどとは教えられていなくても、心のどこかでそうするべきだと思っていて彼の主張に納得している人が一般的でそれに準ずるべきなのかもしれない。
なんせこんなに自信満々に彼がそう主張しているのだから。
それにエミーリアは多くを口にしないし、彼とそばにいてここ最近黙っていたし、家族にもあまり自己の主張はしない。
……でも……。
それは彼のように、相手に対する罰だと思っているなんてこともなく、さらにはそれを察してほしいなんて思っているわけでもない。
ただ主張がないからしていないだけなのだ。
けれどもその主張があるにも関わらずなにも言わずに、大勢の前でそうしてくれないことを大きな声でわめきたてて、察して敬うことが当たり前でできないなら、謝ってほしいと言うなんて……なんて……。
「…………ずいぶん、幼稚なことをおっしゃるのね」
「な……なんだと」
「言わなくてもわかってほしくて、怒って無視をして、怒鳴って駄々をこねて……まるで小さな子供みたい」
エミーリアはいつも通り表情を変えないまま、彼をまっすぐ見つめていった。
それにたしかに嫁に貰われることは事実だけれど、だからと言って隷属する気などない。
彼のような幼い主張をする人間に、お願いだから養ってほしいと思っているわけではない。
エミーリアは、父に小言を言われようとも世間が何と言おうと、どうでもいいのだ。一人でだって生きられる。
それだけの資質を持っているし、仕事をして一人で生きたっていい、端から誰かに養ってもらうためだけに存在しているつもりはないのだ。
結婚をして尽くす生き方もあるだろう、けれどもそれだって”お互いに”そうして尽くし合ってこその形だろう。
対等以外の関わり方などエミーリアはやってあげるつもりがないし、やりたいとも思わない。
それで誰とも結婚できないならば結婚しなくたっていい。
「捨ててくださっても結構です。ただそうされずとも構いませんわ。むしろこのままでもいいぐらいですもの」
「なにを、強がって――」
「無視されていても困りません、わたくしはそれを罰だとは思いませんもの。あなたが勝手に一人で怒って、勝手に無視して、子供のような日々を過ごしているだけですから、どうぞお好きになさってね」
このまま結婚したって別にいいだろう、結婚してもエミーリアはこんな人のためになにかを変えてやろうとは到底思わないが。
ぜひともそうしてずっと独りよがりで、幼い精神のまま生きて行ったらいいのではないだろうか。
そう思って笑みを浮かべた。
しかし、彼はその言葉が勘に触ったらしく、一歩踏み出してエミーリアを力任せに掴もうと手を伸ばした。
このまま腕を掴まれて、そうしてどこぞに連れていかれて何かされたら魔法で対処すればいいとエミーリアは気楽に構えた。
けれどもエミーリアの体は後ろに引かれて、ヘルムートの手は空ぶって、宙を掴む。
その血走った瞳はさえぎられ、エミーリアは背後に庇われるような位置に立っていた。
もちろんかばったのは事の成り行きを後ろから見ていた、ヴォルフであった。
その背中は妙に大きく見えて、後ろからではヴォルフの表情は見えなかったけれど一つだけたしかなことがある。
この場にいる多くがヘルムートと同じ固定概念を持っていてエミーリアのことを悪者だと思っていたとしても、ヴォルフだけはそうではないと思ってくれたことだ。だからかばってくれた。
それだけはたしかで、一人だっていいのだと思っていたエミーリアだったが妙にそれが心強く思えた。
「おっと、女性に乱暴をするのはどうかと思うな。それになにもエミーリアは間違ったことは言ってないよな」
「お前には関係がないだろ、どけ!」
「まぁまぁそう興奮するな……それに……」
ヘルムートはヴォルフの肩を掴み、拳を握って忌々し気に彼を見つめている。
しかし、どうやらヴォルフはヘルムートの方を見ているのではなく、その後方からずんずんと近づいてくる男性を認識していた。
すでに舞踏会の優雅な雰囲気は損なわれ、次の曲は流れることはなく大半がこちらを注視していて、今日この日の舞踏会に参加していた父の耳にも届いたらしい。
父はああして小言を言うが、それでも彼が心の底でエミーリアをどう思っているかそれは、長年共に過ごしてきたエミーリアにとっては疑う余地もないようなことだった。
「……ある程度の喧嘩ならば親が口を出すことではない目をつむろうと思っていたが、まさかこんなろくでもない思想を持った男だったとは……ヘルムート」
地を這うような低い声で言われ、ヘルムートは弾かれたように振り返りぎこちない笑みを浮かべて父の言葉に返した。
「い、いや、グリーベル公爵閣下。ろくでもないだなんてそんな、男ならば誰しも、こうして女を制して時に厳しく、自分の立場というものを教えてやらなければ……」
「なにを言っている。うちの娘をなんだと思っているんだ男だろうと女だろうと、その立場を貶めて幼稚な要求を呑ませて言い訳がないだろう、愚か者め」
彼はまずいと思いながらも、それでも心の奥ではみんなそうするべきだと思っているだろうと問いかける。わかってもらえると考えて言ったようだった。
しかし父は、舌打ちをしてまったく信じられないものを見る様な表情で彼の言葉を真っ向から否定する。
様子をうかがっていた貴族たちは、父の言葉を聞き、口々に周りで声をあげた。
「グリーベル公爵閣下の言うとおりね、なんて愚かな人」
「そうよ、あんな考えをこんな場所で披露するなんて商機かしら?」
ひそひそと、ヘルムートを批判するような声が上がりその様子に「なんだと!?」とヘルムートは周りに食って掛かる。
そんな様子を見て、フンと鼻を鳴らし父はエミーリアを呼んだ。
「おい。帰るぞ、エミーリア。気分が悪い」
「ええ、お父さま」
呼ばれてヴォルフの後ろから出ると、ふと手を取られて、エミーリアは振り返りヴォルフを見た。
彼は、いつも通りの笑みを浮かべて、ぱっと手を離しそれから「またな」と短く言ったのだった。
かばってくれたことをきっかけとしてエミーリアとヴォルフは文通する程度にまで仲を深めたのだが、そうする理由としてエミーリアの婚約が破棄されたという事柄があった。
エミーリアは特にヘルムートに対してなにかをしてやろうという気は特になかったのだが、父は怒り心頭でエミーリアをあんな男に嫁がせてたまるものかと慰謝料と婚約破棄を申し込んだ。
すると、舞踏会での一件で彼の考えが露見し、多くの貴族からかかわりを絶たれているアンテス伯爵家はこれ以上、体裁が悪くならないように即座に対応した。
そしてエミーリアはまったくの自由の身となった。
となればこれから一人で生きていくためになにから始めようかと気楽に考えたエミーリアだったが父から早速次の婚約相手を紹介したいと打診があった。
なので父としては結婚してほしいと思っているのだなと考えを改めた。
別にそうして欲しいならば、もちろんそれで構わない。
エミーリアは育ての恩ぐらいは返すつもりでいるのだからと、彼らが待っている応接室に入室し、次はどんな男性かと視線を向けた。
「来たか。では、私はもういくぞ。今更紹介するまでもないだろう。お前の人柄については、心配する余地もない……だが、私の可愛い娘に理不尽を働いてみろ。今度は婚約破棄では済まさんからな」
父は、エミーリアがヴォルフを視界に捕らえてすぐに彼の肩に手を置き、なぜかヴォルフを脅した。
そしてエミーリアの肩にも手を置いて「なにかあったら私にすぐに言いなさい」とだけ言って部屋を出ていく。
その様子にエミーリアが目を丸くしてると、ヴォルフはソファーから適当に立ち上がってエミーリアの方へとやってきて、手をとった。
彼の赤い瞳はゆっくりと細められて、なんだか嬉しそうであることは理解できる。
……でもそれなら、言ってくれたら良かったのに。手紙ではこんなこと……。
「とても家族思いの父上だな。エミーリア、俺が相手で驚いているか?」
「……」
「それとも少し怒っているか? 先日の手紙ですら俺がなにも言わなかったから」
「……怒ったりしないわ。でも言ってくれたらいいのにと思ったのよ。とても驚いたもの」
「そうか、驚かせてすまない。まさか俺も、自分の娘を俺のような人間に嫁がせても構わないと考える親というものがいるかとても疑問だったんだ」
たしかに彼はその目のせいで、同格で人気の高い令嬢と普通の結婚をすることは難しいだろう。
だからこそ信じられなかったから、なにも言わなかったのだとすればそれは責められることではない。
けれども、エミーリアは信じられないと思うような女性ではないと正直なところ思っている。
だってあの舞踏会の日にわかったのだ。
究極的に言うとエミーリアは多分きっと、どうでもいいことが多い癖に、こだわりが強いのだ。
無視されて傷つくような相手に対する信頼する気持ちも持ってない上に、相手に合わせてあげられるだけの柔軟性も皆無である。そんな人間は、素晴らしい結婚相手にはなれないだろう。
「……俺のようなとは言うけれど、ヴォルフ。むしろわたくしのような女であなたは問題がないのかしら。……ヘルムートの言ったように思いやりが欠けていて、無口で無感情な頑固者というのもあながち間違っていないわ」
「……」
「そんなわたくしは、良い妻にはなれないわ。機嫌を取れないわたくしを腹立たしく思う時が来るかも」
情熱はなくても不安は心の中にあるらしく、エミーリアは珍しく自分の感情を吐露して彼を見上げる。
するとヴォルフは意外そうな顔をして、それから少しエミーリアに目線を合わせるためにかがんで言った。
「そう思ったらまずはきちんとお前に話すよ、俺は話をするのが好きだし、それから問題解決をしたらいい。そう思わないかもしれないし」
笑みを浮かべて首をかしげて言う彼に、彫が深くて強面なのに、その少し幼いしぐさがなんだか可愛らしい。
「俺らの欠点は他人からしたら大きなものかもしれないが、人間、大小差はあれど必ずそういう特徴を持っているもんだろ」
「……」
「それらの相性がいいか悪いかだけの違いだ。欠点の大きさなんてさして重要じゃない。やってみて不満が出たら関わり方を変えればいい」
彼の言葉はとても現実的で論理的だった。
エミーリアをそれでも心底愛するとか、どんなエミーリアでもいいんだという言葉ではない。
けれどもその事実をとらえただけの言葉にとても納得できる。
「それに、それなりに交流しているが、俺はお前がそうでも今まで困ってない、エミーリアはどうだ?」
「わたくしも、あなたの目の色なんて心底どうでもいいわ」
「ど、どうでもいいって」
「ただ、あなたの瞳はいつも楽しげに細められていて、そのおしゃべりな口がなにを言うか楽しみだと、いつもそればかり考えているのだもの」
ヴォルフはこうして直接会っても、手紙でもおしゃべりで、いつだってたくさんのことを言葉にしてくれる。そんな彼とのこれからなら少なくともヘルムートとの関係のようにはならないだろう。
そう思ってその手を握り返す。不安要素がないわけじゃないでも、不思議とヴォルフと関係を結べることは嬉しかったのだった。
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