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声よ、君に届け

作者: 七楽丸井


 どこからか蝉の鳴き声が聞こえてくる。もうそんな時期かと、俺は季節の移ろいを感じた。空を見上げれば、昨日までの大雨は嘘のように今日は雲一つない快晴だ。沈んでいく夕日に目を奪われていると、後ろから近づいてくる音が聞こえた。そして振り返るよりも早く、誰かに頭を叩かれた。


「颯〜太」


「お前、毎回言ってるけど俺じゃなかったらどうするんだよ?」


 叩かれたあとになったが、振り返るとそこには俺の予想通り、長い髪の毛を下ろした制服姿の(れい)がいた。俺が目を吊り上げて睨みつけると、彼女は二ヒッと不敵な笑みを見せた。


「”僕”が颯太を見間違えるわけ無いでしょ」


 そう言ったこいつの名前は橘怜。俺とこいつは長い付き合いだ。もうそろそろ十三年になるのだろうか。幼稚園から高校二年生の今日に至るまで、こいつとはずっと一緒だ。そのせいで付き合ってるという噂が必ず流れる。いくら否定しても彼女との噂は絶えなかった。だが、噂は噂なのだ。俺がこいつと付き合ったことは今まで一度もない。



 だって────


「今の人、お前好みの顔だったくね?」


 こいつ、俺の耳元でそんな事を言ってきやがった。てか、耳元で話すな。ゾワゾワする。適当に右手で怜の腹を殴る。「痛ったぁ!?ひどいな、僕のことを殴るなんて」とほざいているが、まぁ目元をこすりながら泣き真似をして俺に目線を送ってきているし、無視だ無視。


「てか、人のことをそんな風に採点してんじゃねえよ。男子高校生じゃあるまいし」


 俺はこいつを男友達と思って今まで接してきてきたのだから。それはそうだろう。こいつの容姿はお世辞にも女性的とは言えない。身長が俺よりも十センチは高いし、体も細身でシュッとしている。制服だからまだ女性と辛うじて分かるが、こいつの私服は男性的なものしか見たことがない。こいつと町中で遊んでいたときには、男と勘違いされて何回もナンパされるし、王子様系とかそっち系の女子だ。そして、俺はそんな怜に女性としての魅力を感じたことは一度も無いのだ。


 俺が怜を無視し続けていると、さっきまで隣にいたはずの彼女は急に駆け出して道を塞ぐようにして立ち止まった。


「これはさぁ?慰謝料としてアイスを貰うのは至極当然なことだよねぇ?」


 悪魔の笑みを浮かべながらそんなことを言い出した怜。俺は慰謝料を払うようなことは一切していない。それに、アイスはお前の好物なだけだろう。 


「誰がお前にアイスを────」


 誰がお前にアイスを買うものか。そう言いかけていた俺の言葉にかぶせるように、住宅街に響くような声で怜は、


「おまわりさ〜ん、ここに彼女の僕を殴ってくるDV彼氏がぁ〜」


 俺は怜の手をつかみ、無言で近くのコンビニへと急いで向かった。てか、俺はお前の彼氏じゃない。


 ***


 結局、コンビニについた俺は慰謝料という理由のわからない名目で怜にアイスを奢らされた。


「明日から夏休みかぁ」


 怜は一人呟いた。そして、コンビニで買ったソフトクリームを舐める。なんとなく、俺はそれに目を奪われた。最近俺の視線は怜を追ってしまっている。授業中も、何かと隣の席の怜を見てしまい、そしてからかわれる。なんで見ちゃうんだろうな。ふと疑問に思った。


 あまりに見ていたからか、怜はなにかついてると思ったらしく、舌で口の周りを舐めた。俺は慌てて何も考えていなかったと伝える。俺が怜の姿に見とれてしまった?いや、そんなはずはない。俺はこいつのことを友達だと思っている……はずだ。なぜか俺の心がざわついた。


 ガードレールに並んで腰を下ろした俺達は、徐々に日が沈んでいく空の下でいつも通り話していた。山の急斜面にあるこの住宅街。今いる階段からは、俺達が住んでいる町を見渡せる。遠くには海も見える最高のスポットであり、俺達以外は知らない穴場スポットでもある。夜空と言うにはまだ早い明るさだが、俺は、俺達はこの時間が好きだった。町に明かりが灯り、時間が間延びしたように感じるこの瞬間が。


「来年は受験だし、今年こそどっか行こうぜ。海とかよくね?」


 ふと俺はそう口にした。去年は俺が家族の用事で出かけていたため夏休み中ずっとこいつと遊べなかったが、今までは毎日のように公園などに出かけた。一昨年は受験のため、去年と同じ。つまり、夏休みはここ二年間、どこにも行っていない。折角の夏休みだし、こいつとどこかに行きたい。


「海かぁ、いいね。懐かしいね、僕たちもう何年も行ってないよ」


 言われてみれば、確かにそうだ。子供の頃は家族ぐるみの付き合いでこいつとよく海に行っていたな。。なんとなくの記憶だが、こいつと海に行ってどっちが早いか競ったが、ボロ負けした気がする。ああ、思い出したくないことを思い出した。こいつの不敵な笑みは、俺の心に刻み込まれている。


「今年は勝つからな」

「ボロ負けしたのに?僕、一応水泳習ってたからね」


 俺の決意を速攻で煽ってきやがった。くっそ、また悪い笑みを浮かべてやがる。


「あ、美味しそう。一口ちょーだい」 


 俺が食べていたカップアイスを子どものようなキラキラとした目で見つめてそう言った怜。「いやだ〜」と言ったものの、今にもよだれが溢れそうだったので一口あげた。


「うん美味し〜!お礼に一口あ〜げる」


 俺の口元に彼女のソフトクリームが近づけられた。何も考えずそのままかぶりつこうとしたが、一つ気づいてしまった。これ間接キスじゃね?そう思うと俺は近づけていた口を引っ込めて、明後日の方を向いた。ああ、なぜだいきなり。いや、いきなりじゃないな。ここ数ヶ月だ。俺はなにかおかしい。こいつといると今まではワクワクというか、テンションが上がっていたのだが、最近は違う。テンションは上がるのだが、今までのとは別の感情が湧いているように思えてならないのだ。ああやはり、俺の心に何かが芽生え始めている。そう思った。


「ん。食べないの?」


 近づけたソフトクリームを一向に食べない俺の様子を見て、怜が聞いてきた。まずい、ちょっとでも気にしていたことがバレたら、またこいつに煽られる。そう思い俺は慌てた。


「い、いやぁ?た、食べるよ、食べる。うん食べる」


 意を決してかぶりついた。間接キスについて気にしていないのか、怜はそのままソフトクリームを食べた。俺が気にしすぎていただけか。頬張ったソフトクリームは滑らかな舌触りと濃厚なミルクの味が口の中に広がる。夏に食べるアイスはやはりうまいな。ん、夏といえば、明後日にこの町で祭りがあったな。今年はこいつと行くか。


「なぁ怜。夏祭り一緒に行かね?」

「あ!?あ〜〜〜……」


 怜は俺に返事をするのではなく、何か過ちに気づいたような声を小さく上げた。一気に食べ進め、コーンを口に投げ込んだ。冷たいものを食べたというのに、怜の頬は真っ赤に染まっており、目が合うと彼女はすぐさま視線を逸らし顔を隠した。


「もうだめだ。隠し通せないや」


 そう言った怜は表情を隠すのを止め、覚悟を決めた顔を俺に見せた。何を言おうとしてるのか、俺は全く分からなかった。そして、彼女の言葉を聞いた後も俺は自分の耳を疑った。


「”私”さぁ……颯太のことが好き、なんだ」


 彼女のその発言は俺の想像を優に超えており、あまりにも予想外で、思考が止まった。言葉を理解するのに数十秒はかかった気がする。何も言わない時間が俺達の間に流れた。なぜ俺のことを?いや、いつから?その疑問は口から漏れはしなかったが、怜は俺が気になっていたことを淡々と話し始めた。


 初めて自分の気持ちを自覚したのは、小学校の卒業式の日。颯太がそこまで仲の良くない女子に体育館に呼ばれたという話を聞いて、私の感情は大きく揺れた。その時は行ってらっしゃいと笑って言えたが、颯太が教室を離れると心が落ち着かなくなった。それが恋心だと気づくのにそれほど時間はかからなかった。


 彼女の話を聞いて、俺はその時のことをなんとなくだが思い出した。帰ろうとしていると、女子数人が近づいてきた。「このあと体育館の裏に来て」と一人から言われ、去った後廊下から他の女子に「頑張れ!」とエールを送ったのを聞いて俺は心底面倒くさいと思った。なぜ告白に周りの人が絡むのだろうか。まず第一に、俺は応援されていた女子について全く知らない。ちらっと見た限り、そいつは他クラスで、しかも俺と話したことはない。面識のない人から好意を伝えられても、なんと答えればいいのだ。


 俺は待ち合わせ場所に行き、四人の女に囲まれ、やいのやいのと囃される女に迷わず告げた。「告白だったら悪いけど、受けられない」と俺が言うと、そいつは顔を真っ赤に染めて涙を流し始めた。周りの女子はサイテーだとか、可哀想だとか、俺に罵詈雑言を浴びせてきたが特に何も感じなかった。だって初対面なのだから。


 故に、今俺が怜から告白されたことは俺にとって動揺を誘うものであった。長い付き合いの彼女からそんな感情を抱かれていたのだと、俺は全く気づかなかった。何を話せばいいのだろうか、それよりも告白の返事をどうすればいいのだろうか。俺の頭は未だ状況の整理に追いついていなかった。


 そんな俺を見かねて、彼女は「この話は忘れてくれ」とこちらに背を向けて立ち上がり、この場を後にする。その背中は、どこか寂寞と愁嘆を語っていた。俺は掛ける言葉が見つからず、ただ呆然とその姿を眺めた。俺の心に芽生え始めていたものが一気に形作られるのを感じる。そして”何か”が巣食った。


 雲一つなかった夜空は分厚い雲に覆われ始めた。


 ***


 その日の晩、俺は大学生の兄に電話をかけた。その兄とは家を出てもう数年経ち、顔を合わせるのは年末くらいだが、何かと相談に乗ってくれるので助かっている。電話をかけた目的はもちろん、さっきのことだ。


 兄の第一声は「告白でもされたか?」で、未来予知でもしたのかと思うくらい、タイミングが良かった。茶化すつもりで聞いた兄だったが、俺が何も返さなかったので状況を察し、すぐさま態度を改めた。兄からどういう経緯で告白されるに至ったのかについて聞かれた。それは別に良かった。幼馴染から好きだと言われたがすぐに返せなかったと言った。誰かに相談できて悩みが少し晴れた気もした。そんな俺に兄はまた聞いた。


「お前はその人のことをどう思っているんだ?」


 兄の言葉を聞いて、俺の心に巣食っていた”何か”の感情の正体が少しだけ分かった気がした。いつもあいつが浮かべる不敵な笑みや、たまに見せる笑顔を見ると、俺はいつもの俺ではなくなってしまう。この”何か”は恋なのだろうか。今まで恋というものをしたことがなく、煩わしいと思っていた俺には、怜に対するこの気持ちが恋なのか分からない。それに、これがただの恋だけではない気もする。言葉では表せないが、他にもまだ何かが絡みついている。そんな感じがした。


 俺の真剣な様子に兄もいつものようにバカにしたりすることはなかった。その後二人はいつも通りの会話に戻り、電話は終わった。


 俺は怜のことをどう思っているんだろうか。この間までは男友達のように思っていた。女ということを意識したこともなかった。だが、兄との電話を経て一つだけ確信した。今の俺は彼女のことを一人の女として意識している。でもそれが恋心故なのか、将又告白をされたという状態からなのか。俺は眠りにつくその時まで悩み続けた。


 ***


 目を開くと、そこはいつもと変わらない学校だった。担任の先生も、クラスメイトも何も変わらないように見える。俺にはいつも一緒にいる”男グループ”があった。変わらない”男”友達。そして変わらない日常。その時間をどれだけ過ごしたのだろうか。満足感はあった。だが、なにか足りない。そんな喪失感が俺の心にはあった。


 隣にいるはずの誰か、いつも一緒にいてくれた誰かが、毎日同じ時間を過ごしていたはずの誰かが隣にいない。そんな喪失感があった。後ろから誰かに呼ばれた。たったそれだけで、先程までの沈んだ気持ちは嘘のように、心が満たされた。


 振り返ると、制服姿の、髪の長くて、不敵な笑みを浮かべた……


 そして目が覚めた。


 ***


 電話が鳴っていた。眠い目をこすりながらスマートフォンを手探りで探し出し電話に出る。今思えば寝るときはいつも電源を切っているのだから電話など来るわけ無いと分かるのだが、この時の俺は寝ぼけていてその事に気づかなかった。


「もしもし〜?今日遊ぶ予定とかなかったと思うけど?」

  

 返答はない。おかしいと思った俺は、誰からかかってきたのかを確認した。電話番号は……文字化け?何だこれ。電話を切ろうとした。だが、切れない。繋がったままだ。何度も通話を切ろうとしたが、切れない。今更気づいたが、いつもなら聞こえてくるはずの秒針の音が一切聞こえない。まるで時間が止まってしまったように、俺の心臓の鼓動だけが頭の中に広がる。そんな時間が数十秒はたった後のことだろうか。電話の向こうからやっと声が聞こえた。


「──神社──」


 たった一言だった。嗄れ声というのだろうか、年を取った男性の声が聞こえたかと思うと、通話が切れた。俺の意識は暗闇に沈んだ。


 ***


 慣れた手つきで俺はベッドの上からけたたましく鳴り続けているアラームを止める。眠い目を擦りながら光る文字盤を確認すると、時刻は六時。あんまり眠れなかったせいか、変なものを見た。確か……ん?何だっけ。思い出せない。二度寝した?あ、そうだ。夢を見たんだ。怜のいない日常。そんな夢。友達と話していて楽しいはずの時間も、俺の心にはぽっかり穴が空いていた。やはり、俺にとって怜は大切な存在だということを改めて認識させられる夢だった。俺のこの感情が恋なのかは分からない。だがそれでも、また一歩”何か”に近づいた気がした。あともう一つ何か見たような気がするが、残念ながら思い出せそうにないので諦めよう。いつも通りの休日が始まった。


 その後もベッドで三十分ほどゴロゴロしていたが、なんとなく、本当になんとなく出かけようと思った。理由は分からないが、なぜかこれをしなければならない気がする。ベッドから降りた俺はリビングに向かう。案の定、テーブルの上には朝ご飯と紙が置かれていた。いつも通り、母はパートに行ったらしい。父は、釣りだろうか。おにぎりを頬張りながら一人身支度をする。


 準備が終わった俺は、行く先を決めていないサイクリングの旅を始めることにした。旅と言ってもそこまで遠くに行くつもりはない。ただ、自分の気持ちを整理するための時間を作ることにしただけだ。まだそこまで気温は上がりきっておらず、空は雲に覆われている。


 俺の町は海辺にある。向かう先はもちろんそこだ。海岸沿いに設置されたサイクリングロードで、潮風を横切って、俺はペダルを漕ぐ。周りに人はいない。ペダルを更に強く踏む。俺の体は風を切り裂いて勢いよくぐんぐん前に進んで行く。体は熱を持ち始めた。額には汗が浮かんでくる。だが、心地いい。服に汗が染みた。それも心地いい。切り裂いた風は、汗を、体を冷やす。夏の朝、自転車に乗って感じるこの感覚が、日中と違い上がりきっていない気温と、潮風と、様々な要因が混じり合いできたこの瞬間が、俺は好きだ。だが、それでもいつもと違い、俺の気持ちは晴れなかった。分厚い雲は未だ空を覆っていた。


 行き先のない旅は、一時中断。暑い。そして喉が渇いた。そう、途中までは良かったのだ。海辺の道を適当に走った後、帰ろうと思った。だが、何を血迷ったのか、俺は全く知らない町の方から帰ろうとしたのでいつもよりも時間がかかり、体からは大量の汗が吹き出ていた。自販機を探して町を走っていると、一つの自販機を発見した。小さな山に作られた古びた神社のすぐそばで動くその機械に俺はお金を入れ、お目当てのスポーツドリンクを購入した。


 太陽は出ていないが、なんとも蒸し暑い。失った水分を取り戻すためにと勢いよく飲んだそれは、乾いた喉を潤した。スマホで時刻を確認すると、すでに十時を回っている。走ることに夢中で時間を意識していなかった。さて、今から家に帰ったところで誰もいないのだから、それならどこかで買って食べるか。少し早い昼食を取ることに決めた。


 まだ半分以上中身を残したペットボトルを自転車のかごに投げ入れて、サドルに跨る。その時、なんとなく神社の方を眺めた。理由はわからないが、風に呼ばれたというのが一番正しい。風が神社の方から勢いよく吹いてきた。瞬きをすると、鳥居の下に老人がいた。杖に体重をかけながら、腰を曲げて何かを探している。


 今ここにあの人を置いて俺は去れるのか?いや、できないだろう。


 自転車を道の端に寄せ、俺はその場所に向かう。近づいてみたが、老人は俺に気づいておらず、何かをつぶやきながら下を探している。


「──り、髪─り、髪飾り」


 どうやら髪飾りを探しているらしい。俺は手伝おうと声をかけた。


「髪飾りを探してるんですか?」


 声に反応して老人はこちらに顔を向けた。颯太はその顔はなぜか、なぜだか、見たことがあるような気がした。だが、一度もその人に会ったことはない。そして、老人は驚いた顔をしながら呟いた。


「これぁは────ってやつか……」


 小さな一言は颯太に届くことはなかったが、老人は何が起こっているのかをなんとなく察したのだった。そして老人は目の前にいる男に、颯太に声をかけた。


「亡き”友人”の遺品を探しとりまして、髪飾りなんですが、どうやらここらへんに落としちまったみたいで」


 老人の話を颯太は真剣に聞いていた。それは大変だ。すぐに探さないと。そう思い、手伝いますよと言ってすぐさま辺りの地面を探すが、手入れされてない神社のようで、草が生い茂っていてすぐには見つかりそうもない。


「若い兄ちゃんに手伝って貰えるのは助かるんだが、いいのかい?」


 手伝い始めてから少しして、颯太からそれほど遠くない位置で草をかき分けていた老人は聞いた。平気ですよと俺が答えると、「そうかい」と言った後、老人は自分語りを聞いてくれないかと提案したので、それも承諾した。


「わしにはいつも隣にいてくれた人がいたんだ。確か、幼稚園くらいからだったかな。相手は女性だったんだが、その頃のわしはどうにも鈍感で、そいつの気持ちに気づいてあげられなかった。挙句の果てには高校生の頃、告白を受けたのに、うじうじと返事を先延ばしにしちまった。それが大きな間違いだった」


 老人の話を颯太は静かに聞いていた。なぜだ、なぜだか話の内容が気になってしまう。ただの”自分語り”のはずなのに、なぜか言葉が心に染みてくる。そして俺の心にあった”何か”の感情が恋なのかの解決に一歩近づいた気がした。


 老人の話を聞いていた颯太は言いようのない不安を抱いたが、静かに続きを聞き始めた。


「後悔したのは全てが崩れ去った後だった。彼女はわしから離れてしまった。残念なことに、学校は夏休みで連絡する勇気もなくて、彼女への思いも分からなかった馬鹿なわしは、彼女との関わりを絶ってしまった。それから一週間くらいしてからだったが、電話が来たんだよ。彼女の友人からな」


 颯太は髪飾りを探す手を止めていた。話はまるで予言をしているようで、颯太は目の前の老人から人ならざるものの気配を感じてさえいた。この話の続きが気になって仕方ない。聞く以外の全ての行為が封じられているかのように、俺の意識は聞くことだけに向いていた。


「聞いたときは嘘だって思ったよ。でもそれが、嘘じゃないって分かった。聞こえる波の音。警察か、救急車のサイレンの音。人の騒ぎ声。信じられなかった、信じたくないことが事実なんだってわしは悟ってしまった。それは────」


 今まで一切動けなかった颯太。だがこの瞬間だけは、非科学的な事象を否定しようとする科学者のように、理由もわからないが聞きたくないと思う話を止めるために、声を荒げた。だが、老人の声は颯太の耳に一言一句違わず、正確に届いた。


「彼女が死んだんだって」


 もしもここに俺以外の人がいて同じ話を聞いていても、所詮は他人事と思ったかもしれない。でも、今ここにいて、この話を聞いたのは俺だ。老人の後悔を聞いたのは他でもない俺なのだ。


 こちらに悲しい表情を見せる老人。俺も探す事を止め、老人と対峙する。何を言えばいいのだろうか。まず第一に、この人とは初対面だ。この話をしたところでわかってくれるわけがない。そんな疑問は浮かばなかった。そして俺は聞いた。


「俺の心の、この”何か”は恋なのか?」


 もしもここにこの人以外がいて、これを聞いたらバカバカしいと言うかもしれない。だが、今俺の目の前に、視線の先にいるのは、他でもない老人なのだ。俺の言葉を聞いて老人は、ほっと顔を緩ませた。


「”俺”には分からんよ。でもなぁ、一緒にいて楽しい。そんな単純なことが恋だったんだなと、俺は思う。そして、それを大切にしすぎてたんだなぁ。んでよ、まだわからないのか?」


 何のことだろうか。全くわからない。そんな俺を見かねてか、大きなため息を一度吐いた後、今までのしわがれた声ではなく、透き通るような声で俺に言った。


「お前のそれは恋であり、恐れだ。彼女との関係が壊れるかもしれないという恐れなんだよ。


 その言葉を聞いて、俺は分からなかった感情が全て明らかになる。俺の心に巣食っていた”何か”の正体は、老人の言う通り”恋”という感情と、”恐れ”という感情だったのだ。恋だけだと思っていたそれは、恐れもあったのだ。今まで続いてきた関係が、告白された時のように気まずくなってしまう。それは俺にとって最も避けたかったことだった。


「でも、彼女はお前が好きなんだから、告白したんだよ。お前が”橘 怜”を嫌いって思わないのなら、関係は壊れたりしない。だから、」


 なぜ彼女の名前を。いや、なぜここまで俺の気持ちを知っているのか。その答えは分からない、だが、推測はできるだろう。でも今はそれよりも、この感情を定義したい。この溢れ出る感情が、恋なのだと。今までの恐れは嘘のように消えた。老人の言葉は、混ざり合っていた”何か”から、恐れだけを剥がれ落とした。


 途端、風が勢いよく吹いた。瞼が閉じる前にかすかに見えた老人の姿は、今の俺にそっくりで、こちらに見せるかのように差し出した右手には古びた青い花の髪飾りが見えた。


「しっかり気持ち伝えてこいよ」


 男の言葉が風に乗って俺まで届いた。そして次に瞼を開いたときには、男の姿は風に乗ってどこかに消え去った後だった。あの老人は誰だったのだろうか。いや、老人?誰のことだ。というか、なぜここにいるんだ?ここ三、四十分ほどの記憶が思い出せない。だが、今はそんなことを気にしているよりもしなければならないことがある。俺はすぐさまスマホを取り出して、ある人物に電話をかけた。


 ふと耳の横で電話をかけながら、空を眺めた。分厚かった雲は嘘のように薄くなっていく。そして、切れ目ができて、そこから太陽が顔を覗かせた。俺の心から”何か”はもうどこかに行った。そして俺の心には恋だけが残った。


 「もしもし?」と電話の向こうから声が聞こえた。相手は、怜だ。俺があの日、自分自身に向き合えずにひどいことをしてしまった相手だ。俺から電話をかけたというのに、何を、どう話せばいいのかわからなくなって、またも無言の間が続いた。その静寂を破ったのは俺ではなく、彼女の方だった。


「な〜によ、告白の返事でもするために電話したの?まぁ、それは冗談だけど、さっさと要件を────」


 怜は軽口を叩きながら、告白以前のように振る舞った。俺はそんな彼女が言葉を言い切るよりも先に、小さく口を開いた。


「そうだよ。告白の返事をしに……かけたんだよ」


 俺の言葉は無事に聞こえたようで、彼女は戸惑ったのか、「ちょっと待ってくれ。理解できない。これは夢か?」などと混乱している様子。さっきまでの余裕そうな態度は一切見えてこない。それもそうか。あの後一切連絡してなかったし、もう振られたとか別の要件だろうって思ってたはずだ。俺もそうするつもりだった。自分の気持ちを整理できなくて、ほったらかしにしようとしてしまった。でも今の俺には迷いも恐れもない。ただ気持ちを伝えるだけ。それだけの……はずだった。やはり人間は根っこが大事というように、如何に覚悟を決めたところでその人の本質というものは出てきてしまう。つまりだ、


「あの、その、ええっと、」


 所詮、告白の返事をその日にできないような男では、思いを伝えることは難しいというわけだ。彼女は颯太に一旦落ち着くように指示する。せっかく告白の返事をしに来たと言ったのに、電話口でうじうじしている男を情けないと笑う人もいるだろうが、彼女は違った。こいつがこんなんだから、一緒にいたいって思うんだよ、と。自分の気持ちを改めて確認するきっかけになったのだった。


「改めて言うけど、私は颯太のことが、好きだよ」


 怜からの二度目の告白。一度目の告白で大慌てした颯太だが、二度目となれば流石に耐性はつくもので、なんとか冷静さを保てていた。告白の返事を求められているということは流石の颯太でも分かっている。そして、自分の気持ちも整理できている。怜と同じように、俺も怜のことが好きなのだと。今ここで電話口で言うべきか、とも思った颯太だが、気持ちを伝えるなら会って伝えたい。そう考えて怜にこう告げる。


「それについてなんだけど、俺は怜にそう思ってもらえて嬉しいし、好意的に思ってる。だから、明日の夏祭りの後に返事してもいいかな?電話で言うのは、なんか違う気がして」


 そういう流れになった二人は、明日の夏祭りに一緒に行くことになった。怜の方はといえば、夜になっても中々寝付けず、枕に顔を埋め、やがて眠りに落ちた。


***


 次の日の夕方、颯太と怜は家の近くの小さな公園で待ち合わせをしていた。近くのコンビニは多くの人で賑わっていたので、場所を変えた。ベンチに腰掛けながらスマホを弄りながら待っていた颯太だったが、ふと携帯電話が振動する。それは怜からの電話で、すぐさま出ると、「後ろだよ」と言われた。振り返ると、着物姿の彼女がそこにいた。紺色の布に無数の花火が刺繍されており、薄黄色の帯を身につけた怜。髪の毛を大きくまとめて編み込み、俗に言うお団子ヘア。”青い花の髪飾り”がチャームポイントで、いつものかっこいい系と違い、


「今日なんか可愛いな、お前」


 颯太が過ちに気づいたのは、言葉を聞いた怜が赤面し、「それは禁止」と顔を隠しながら言った後だった。あまりにも意識せずに言ったので、最初はなぜ彼女がそんな反応をするのか理解できなかったが、自分が何を言ったのかを思い出し、二人共顔を隠しながら笑いあった。


 その後二人は祭りに行って、焼きそば、たこ焼き、きゅうりの一本漬け。くじ引き、射的、ピンボール。ありとあらゆる出店を楽しんだ後、二人だけの特等席である階段上のガードレールにりんご飴片手に移動した。


 「楽しかったね」と彼女は口角が少し上がった顔で言った。俺の心臓はたったそれだけで鼓動を早く鳴らし始める。辺りは静寂とまではいかないが、祭りの音色が程よい音量で聞こえてきて、空は真っ黒に塗られたキャンパスで、月と沢山の星だけが俺達の目の前に描かれている。雰囲気がいいというやつだ。


「「あのさ」」


 被っちゃったね、と二人は顔を見合わせながら笑い合う。そして、お先にどうぞ、と譲り合いが始まる。そして、俺は怜に言いたいことがあると告げた。怜は一瞬だけ目を大きく見開いた。何を言うかは察してくれたらしい。元々告白の言葉は決めていたが、本番になって全て吹き飛んでいる。少しだけ時間がかかったが、大きく息を吸ったあと、俺は自分の気持ちを怜に伝えた。


「俺、怜に告白されたとき、お前との関係を壊したくなくて見ないふりしようとしてた。でも、もう自分の気持ちは分かってて、怜の気持ちに応えたいと、そう思ってる。だから、俺と────」


 颯太が少しずつではあるが自分の気持ちを伝えていたその時、祭りの会場のスピーカーから花火の打ち上げが告げられた。海から花火玉が空に打ち上げられる。導火線に火のついたそれは、高く高く天へと登り、そして火薬にまで着火した。 


「付き合ってほしい」


 花火の破裂する大きな音が颯太の告白を包み込んだ。その音に二人は反応し、音がした方向を見てみると、さっきまで真っ黒だったキャンパスの上に大きな花が咲いていた。無数の火で構成されているそれは十秒にも満たない間に花弁全てが枯れてしまう。その僅かな時間に、二人は目を奪われていた。そして次々と咲き出す花は、大きな音を空に響かせる。


 俺の告白は怜に届く前にかき消されたか、と残念がった颯太だったが、頬に柔らかい感触がした。それに慌ててバランスを崩しかけたが、なんとか立て直した。横を向くと、また「してやったり」と言いたげな表情をした彼女がこちらを見ていた。


 俺の体は勝手に動いていた。 


 もう何も考えられない。今までにないほど早く動いた心臓の鼓動と、鳴り止まぬ花火の音だけが耳に届き、感触から意識が離れない。怜は、目を閉じていて、その目元からは涙がこぼれている。頬は赤く染まっていた。俺の目からも熱いものが流れ落ちた。


 顔が熱い。全身が燃えるように熱を帯びていた。


 怜を思う気持ちが、彼女に届くことを颯太は祈っていた。


 俺の心の声が、君に届きますように、と。 

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