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自殺の波紋  作者: 二階堂真世
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美しい物が絶望を遠ざける

音楽でも絵画でも、美術品でも、美しい自然でもいい。ある日突然、学校や会社や周辺の様子が暗転して死にたいと思うことは誰にでもある。しかし、その奈落にばかり意識は行きそうになるのが普通なのだが、ふと黄昏の空に感動を覚え、死を考えるほど今は悪くはないのだと気づく。固まった心をほどいてくれるのは、笑いと感動。生きていたら、山あり谷あり。そんなことは誰だって、わかっている。しかし、周囲で自分を脅かす様々な事象に立ち向かう術を知らない。この心に宿った邪気を、かかえきれない憎しみを。そして、涙も枯れて、空虚で健全な未来を考えることができない日々に終止符を打って、新たな世界へと活路を見出したくなるのも必然だと思う。『155億円の負債だって?』と隆司は失笑するしかなかった。どれだけの成功をしても、一大で富を成せる金額ではない。いわんや、返せるワケがない。父が争っていた賠償金とか、いわれも無い借財とか、隆司は知らない。元より稼業は弟に委ねていた。

幼い頃、霊能者に頼っていた祖母に連れられて行った時「この子が後継ぎになると中山家は、廃れてしまう」と予言された。それを信じ切った祖父母や父は、弟に稼業を継がせることにした。隆司には好きなことをするよう強制した。それは隆司にとってラッキーなことでもあった。後継者になるには大きすぎる事業だったし、それによるストレスは父を見れば計り知れないものがあったからだ。確かに霊能者が言ったとおり隆司が継いでいても未来は無かっただろう。美しい妻の由香里との間には子供ができなかった。人工授精を承認したのは自分だった。子供ができたら、もっと家族の繋がりが強くなると思ったからだ。犬や猫でも良かった。年々会話が少なくなった家庭に一緒に育てるものがあったらいいと安易に考え、妻の希望で美しい娘を得た。幸せだった。娘は愛する妻に似て、とても美しく賢い女性に育ってくれた。あの日、娘にソックリな子と出会うまでは。人工授精の時、精子の提供者のことは教えてくれないことになっていた。しかし、同じ年、同じ名前、同じ顔の女の子がいたら調べずにはいられなかった。彼女の父親は、妻の昔の恋人だった。隆司に子供ができないことを知って、妻は昔の男と不倫したのだと思った。裏切られ、他の子供を育てさせられたのだと思った。次第に娘の操にも辛く当たるようになった。そして、娘はガンに侵され自殺してしまった。自分が悪かったのか?自暴自棄になって毎夜飲み歩き、精神は病んで娘と同じガンだと告知された。その上、勝つアテの無い訴訟の途中で父は急死。蓋を開けてみると、155億円の父の借金だなんて、とんでもない話だった。しかし、父が亡くなった途端、母も弟夫婦も消えてしまった。どこにいるのかさえ検討がつかない。多大な借金に恐れを抱き、自分の財産を守るために姿を消したのだ。しかし、隆司は逃げるわけにはいかなかった。社長は弟がしていたのだが、数年前に父が会社経営から退き、会長職を名前だけだと言って、隆司が引き継いだ所だったのだ。今まで、新聞記者や、政治家や小説家などなど。好きなことをさせてもらった。妻の不倫騒動や娘がガンになって、保険のきかない最新治療に多大なお金を費やしてくれた。思い起こせば父の庇護の元、今まで好き放題させてもらった。ここで、父の後始末をしなければ、何千人もの従業員たちの生活が困窮してしまう。たとえ会社が他人のものになったとしても、父が育てた会社を見捨てるわけにはいかない。関係会社の社長が首をくくったと報告もあった。娘といい、経営者といい、死ねばどうにかなるとでも思っているのだろうか?何もかも棄てて、後始末もせずに逃げ出すのは楽かも知れない。実際、父の遺した負債額の大きいことに、思わず爆笑したほどだった。逃げれるものなら逃げ出したい。でも、束の間一緒に仕事をした仲間の顔が目に浮かぶ。彼等は父の葬儀に来てくれた。そして、不安で仕方ないだろうに、誰も自分を責めたりはしない。それどころか、次々に押し寄せる不幸に同情すらしてくれる。「何もできないかも知れないけれど、無一文になっても俺たち仲間がいる。忘れるな」と言ってくれた友人がいた。「ほら、中山の好きな印象派のコレクションが国立美術館に来てるらしいよ。チケット買ったから一緒に行かないか?」などと何事も無かったように誘ってくれる。元妻の由香里までも「あなたの好きなウィーンフィルのコンサートのチケット買ったから、行きましょうよ。美味しい食事でもしたら、元気になるかも?ううん。あなただけは失いたくないの」と懇願された。「離婚していて良かったよ。慰謝料ケチらず出したらよかったな。」と言うと「私は不倫なんてしてない。ずっと、あなただけを愛していたし、今も変わらない。娘を亡くして、あなたまで失ったら私は生きてはいけない」とすがりつく。久しぶりに抱いた肩は小さく、ウエストは細かった。こんな風景を昔見た気がした。同じ場所で、同じ人と。あれは学生時代のことだった。「キミと一緒に歩んでいきたい。何があっても離したくない。キミを失ったら、生きてはいけない」と、すがりついていたのは隆司の方だった。そして、それから何度も何度も諦めずに口説いて自分のものにしたのではなかったか?子供なんて、できなくてもかまわない。由香里さえいてくれれば良かった。なのに、思いもよらずできた娘は可愛いかった。愛らしくて、自分の全てをかけて守りたいと思った。霊能者に「子供ができない。だから、事業を潰すだろう」と言われていたので、嬉しかった。血が繋がっていないから後継ぎにはなれないと言う法はない。娘だから後継ぎではないと言われただけなのだと納得した。『優秀な婿を取った方が、むしろいいかもしれない』とさえ思って有頂天になっていた。『相手が、しっかりしていたなら、中山家のことなど気にせず嫁に行ってもかまわない』とも。親バカだった。弟には男の子が3人もいた。だから『中山家を継ぐ者はいる。今も社長は弟が勤めているのだから』と、将来に何の陰りも感じてはいなかった。幸せだった。しかし、その妄想は打ち砕かれた。他の男の、しかも昔の男の種だったこともショックで妻を怒りに任せて棄ててしまった。種が無い隆司に、「人工授精でも子供を作ってあげたかった」と妻は言ったが、信じられなかった。お金目当てだと思った。その頃の隆司は、財閥で家柄も良く有り余る財産を持つ大金持ちだったから。看護師の資格を持って働く妻をイヤガラセにしか思えなかった。周囲の人にも、そう囁かれて妻への不信感で一杯だった。家にも帰らない。女との乱交の日々。アル中寸前の乱れた日常。世界中で一番不幸を身に纏っているかのようだった。そして、我が子ではないと、わかってしまった娘が自殺して全てが嫌になった。自分の種では無くとも、娘との思い出が、可愛らしかった姿が目に浮かび、苦しんだ。後を追おうとさえ考えた。そんな時、由香里に誘われて行ったクラッシックのコンサートの帰りに、娘とよく行った公園の側を通りかかって満開の桜が目に映った。毎年、花見に行っていた。娘が幼い頃は妻が弁当を作ってくれて、あちこちの桜を観に出かけたものだ。そしてこの公園には、どれだけ来たかわからない。ヨチヨチ歩きをしていた操の愛くるしい姿が、目の前にあった。3歳頃の少しやんちゃになった操が「パパ、大好き」と両手を広げて抱きつきに来たのが昨日のような気がした。ちょっとオマセな操が今流行のブランドに身を包み、桜を見上げている。声をかけると振り向いて、小首をかしげて満面の笑顔を向けてくれる。ああ、桜の下で、あの幸せだった時間が確かにあった。自分の遺伝子を持っていなかったとしても、確かに愛したかけがえのない娘がいた。一緒にいた日々は幸せだった。父親気分を味わうことができた。そう、血が繋がっていなかったことは、そんなに重要なことだったのだろうか?と思うと涙がホロホロと頬を伝わっていく。「あなた、大丈夫?」と由香里が顔を上げる。きっと、涙が彼女にかかったのだろう。「いや、操も、あんな可愛い時があったなって思ったら、勝手に涙が溢れてきて」と言い終わらないうちに強く抱きしめられた。「そう、あの頃は楽しかったよね。あの子がいてくれたおかげで、私たちは家族になれたのに。どうして、誤解が溶けるまで、あなたと話合わなかったのかしら?どうして、離れて行こうとした、あなたを今日のように抱きしめ、すがりつかなかったのかしら?ぶたれても、避けられても、この手を離すんじゃなかった」と由香里も泣いていた。「娘がいたから女ではいられなかった。母親として、家を守ることが必死だった。娘のためにと、頑張り過ぎていた。本当は、あなたの胸で泣きたかった。お願い、私を一人ぼっちにしないで。あなたのことを誰よりも愛している。大好きだよ」と言う由香里のグレーがかった目は娘とそっくりだった。あの夜、留守番電話に残された最後の言葉。「パパありがとう。大好きだよ。ずっと」とのメッセージが由香里の言葉と重なった。思わず強く抱いて号泣してしまう。2人の上に舞う桜の花びらは、強風にざわめき吹雪のように降り注いだ。「きれいだ」と隆司は由香里の目に映る桜を見て言った。由香里も「綺麗ね。来年の春も一緒に来ようね。世界中の人がいなくなったって、きっと来ようね」と空を見上げて言っていた。『何千人もの社員の家族を、その子供たちを守るのが自分に与えられたミッションかも知れない。自分の家族を助けられなかった分、今までの人脈や知恵をふりしぼって、やり抜かねばならない。今度こそ』と隆司の目に光が戻った。

全ての株を売って会長職を退いた。不動産や美術品や家宝を始末して借金を返すために奔走した。将来にかけてもらって寄付や投資もしてもらった。それでも足りない分は、銀行や会社に掛け合って集めた。自己破産も勧められたが、社員たちのことを考えると、自分が楽になるために放棄するのは違うと考えた。途中ガンに侵され、何度も死にかけて、手術や抗がん剤に痛めつけられても執念で頑張り続けた。由香里の献身的な介護のおかげもあって、借金は全て返した。病室の窓から桜の花が見える。あれから2年経っていた。「明日は退院できますよ」と主治医が笑顔で言う。「本当に良かった。とりあえずガンは全て消えました。奇跡みたいに薬も効いて、これからは状態を診ながら用心して行きましょう」と言った。ゲノムとか遺伝子レベルでの治療がリスクばかり高いクスリの効能を発揮できるようになったのかも知れないと、心も平安だった。帰る家も無い。由香里の狭いアパートに、身を寄せる。考えたこともない。全てを失って尚、自分を必要としてくれる女がいるなんてこと。お金が男の甲斐性。女は収入の高い男に惚れるものだと信じていた。大金で女を買って、弄んだことだってある。しかし、由香里はお金が無くなって初めて本性を知った気がする。彼女は隆司の財産や名誉や家柄なんて何とも思っていなかったのだ。出会った時からずっと、自分だけを愛してくれていた。種が無いこと、財産があること。全てが、自分を愛してもらえない理由だと信じ切っていた。自分ではなく、周囲の条件がいいので夫婦になってくれたのだと勝手に卑屈になっていた。

思えば由香里には苦労ばかりかけてきた。娘がガンに侵されても、お見舞いすら行かず、お金だけを渡して自分の義務を果たしていると思っていた。そして、同じ病気になって死の淵を何度も綱渡りしていた時、由香里の笑顔が優しさが救いだった。離婚し、棄てた憎い男なのに。彼女は「やっと、私だけのものになってくれたのね。一秒でも長く、あなたといたい。私は、あの桜の下で、あなたが言ってくれた言葉を信じて生きてきたの。一緒に、来年の桜を見たいの。お願い、それまで私を、あなたの元にいさせて」と懇願された。『自分を信じてくれる社員のために。じぶんを愛してくれる女のために。乗り越えてやる。自分が生きた証を、人脈の全てを使って』と病院から指示をして、やり遂げることができた。しかし、もう住む所も無く生活費も傷病手当を頼るしかない身の上だ。なのに由香里は嬉しそうに笑顔で待っていてくれた。アパートは隆司が今まで住んだこともない狭さだった。しかし、病院の部屋に比べたら充分過ぎる広さがある。むしろ2人なら、この狭さが調度いい。「何もかも失って、逆に一番大切なものを得た気がするよ」と隆司が言うと「占い師が言っていたけれど、お金を取られたり失くしたりしたら、その分いいことがあるんですって。お金が、邪気や悪運を持って行ってくれるからなんですって。155億円も払ったんですから、あなたの命は、それだけ価値があるってことなんでしょうね」と笑って胸に飛び込んで来た。外には桜吹雪。あの川辺に咲く桜の木の下でした初めての接吻。目を閉じれば思い出す。ずっと一緒にいたいと思っていた。2人でいれば何もいらないと思っていた。あの時の熱い感動を胸に抱きこの先、彼女を見逃さないよう、手をつなぎながら歩いていこう。何回もこの桜吹雪に嬌声をあげながら。

アパートの窓から桜並木が見える。一緒に窓の外を見て喜ぶ由香里をギュッと抱きしめながら心が別のことを考えるのを停めることができなかった。『奇跡が起こせるのだったら娘の操のために、お金は使えば良かった』と嘆いても仕方ない。ガンで苦しんでいた時、お見舞いにも行かなかった。あの時、自分の誤解で家族をないがしろにして悲しませてしまった。過去のあやまちにぐっと奥歯をかみしめて泣くのをこらえていた。これから、幸せを感じるたびに、操の声が聞こえてきて隆司を苦しめるだろうか?それとも、操を愛していたことを思い出して届かぬ思いに泣くだろうか?「桜は実がならないから、これほど切なく美しいのかしら?」と由香里が隆司の胸の中で、チラリと窓の外の桜並木に目をやりながら、吐息を漏らしていた。




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