地獄から帰って来た男
妹の高村里香は、親友の操の自殺以来、心療内科に通っている。兄の勲は、大学受験のために猛勉強中だったので、周囲にかまっていられなかった。おかげで東大に現役合格。一流企業にも就職し、未来は揚々としていた。しかし、3年経って何もかもが嫌になっていた。そして新入社員の中に自殺した初恋の少女とソックリな女性を見つけた。蘇る、あの時の切ない思いと失望。過労のせいか?死のスイッチが入ったかのように自殺願望が沸き上がってきた。一人ぼっちで死ぬのは怖かった。何度も自殺未遂したが失敗。今まで仕方なく生きてきた。しかし、もう無理だ。精神がもたない。自分で自分がコントロールできない。心療内科に通ってても、薬で誤魔化しても辛くて仕方ない。そこで、何気なく覗いた自殺サイトには同じ苦しみから脱出しようともがいている仲間たちが沢山いた。すぐ死にたいと言う仲間が連絡を取り合って一緒に死ぬ。それなら、勝手に引き返せない。完璧に死ねるらしい。練炭での自殺が多いようだったが、後始末する人たちに悪い。しかも、家族たちも苦しめてしまうだろう。そこで、絶対に見つからないという樹海で薬を飲んで眠るように死ぬという選択をした。集まったのは5人。その中の浩と言う男性の自家用車で樹海を目指す。
浩と言う男性は30代だろうか?仕立ての良いスーツを着ている。車に乗ると新車ならではの臭いがする。シートもピカピカで、車内も綺麗に掃除が行き届いていた。どう見ても、成功者の風格が感じられる。なのに、なぜ自殺なんて考えたんだ?思うが、お互い自分の素性やあれこれを聞かないのがルールだった。人に相談するとか、どうにか生きる方法を模索する時期は終わって、ただただ死を願う者に今更理由を聞いてどうなる?他人のことなど気にかけている場合じゃないのだから。しかし、助手席に乗っている女性は、かなり細くて綺麗な顔をしていた。美幸だと名乗った。タレントにもいそうな感じの20代の美しい子だった。ただ、左の手首には無数のキズ痕があった。多分、自分でリストカットを繰り返したのだろう。ちょっと話をしたい衝動になったが、車内は静かだったので辞めておいた。その点、後ろの座席に乗っている勲以外の男女には興味どころか嫌悪さえ感じた。なので、名乗ったかも知れないが名前すら憶えていない。隣にいるのは、疲労感で今にも倒れそうな40代の貧相な女性。その横には髪を伸ばした50代の男性。何日も、お風呂に入っていないのだろうか?かなり体臭がする。綺麗好きなのか?浩と言う運転してくれている男が消臭剤らしきスプレーを車内に吹き付ける。そして窓を開けた。サイトに出してあった写真と同じ人物とは思えない50代の男は、見るからに病んでいた。小刻みに腕や足が震えている。何か、わけのわからないことを口ずさんでいる。『ヤバイ』と思ったが、今から死ぬ身だと思うと、何が起こってもたいしたことでは無いように思われた。数時間、誰も何も言わなかった。隣の人が何を考えているのか?わからないのが怖かった。何に恐れているのだろう?楽に死ねると思ったから参加したのに、それをしくじるのは嫌だった。
精神を明らかに病んでいるらしき人物は、何をしてくるかわからない。勲は、こういう読めない状況が苦手なのだ。世の中には理不尽な虚無に溢れている。東大出の自分に、三流大学出のアホな上司が嫌がらせをする。要領だけいい若手が自分の成功を横取りして来る。ゴマすりの上手い同期は、どんどん昇給して行く。能力も無いのに昇給できる。真面目に努力しても、人一倍仕事を頑張っても認めてもらえない。それどころか嫉妬されて虐げられる。これ以上ガマンしていたら壊れてしまう。皆を斬殺する夢に毎日うなされる。あのハゲ頭を後ろからカチ割りたくなる。血が噴き出し、醜い顔が蒼白になって歪んでいる。『ざまあみろ』と心底嬉しい。そんなシーンが現実かうつつなのか?わからなくなる。全ての人類が無くなってしまえばいいと真剣に願う。母の涙も父の叱責と落胆も、もうどうでもいい。自分は死んでリセットするんだ。早く楽になりたい。せめて自分が罪を犯さず、対面を保たれているうちに。許せない人々。死んだら恨み殺してやろう。いつも、攻撃的になる自分の心を止めることができない。自分を嘲る脳無したち。女の尻ばかり追う、飲んだくれたち。仕事をさぼってパチンコにふける男たち。腐敗と頽廃に満ちた世界に惜別を告げるのだ。ふいに口元がほころびる。こういう破壊的な妄想をしている時が一番楽しい。孤高の精神は今晩、遠く遥かな精神世界に旅立つのだ。そんな夢想を破るかのように隣の女がカバンからケンタッキーフライドチキンを取り出してムシャムシャ食べ始めた。また、車内に臭いが蔓延する。運転する浩が全ての窓を開ける後部座席は息もできないくらい風が直接顔にかかる。我慢ができなくなって「窓を少し閉めていいですか?」と言って、返事も聞かないで窓を半分まで閉めた。もう片方の窓は開いたままなので臭いは外に。操作がわからない50代の怪しい男は、諦めたようでまんじりもせずに強風に当たっている。
しばらくして車は止まった。「この辺りから樹海に入ろう」と浩は言った。人が通った痕があった。道とは言えないまでも、草木に遮られて先に進めないワケではない。川のせせらぎも聞こえて来る。すがすがしい空気。鳥の囀り。草の匂。懐かしい幼児期の思い出が蘇って来る。
あの時は、世界は輝いていた。見る者すべてが新鮮で面白かった。都会の中で自然の息吹を吸っていなかったせいで、体も心も荒んでしまったのだろうか?皆の尊敬と称賛の声。【神童】と呼ばれていた。祖父母の笑顔。優しい父母の目。未来は輝いていた。なのに、いつから道を誤ったのだろう?自問自答の日々。解けない問題ばかり。理解できない矛盾だらけの人間たち。自分が不適合者なのか?頭の中がぐちゃぐちゃで、ただただ空しく情けない。腫れ物にでも触るような母の顔。憎しみにイラだつ父の歪んだ顔。悲し気な妹の蒼白な顔。恩師の戸惑うような迷惑そうな顔。嘲りと無関心を決め込む友人たち。慟哭して睨む恋人。『いったい僕が何をしたと言うのだろう?努力に努力を重ね、勉強に励み、人一倍会社に貢献して来たはずだ。なのに、何故認めてもらえない?』
「さあ、この辺がいいだろう。好きな飲み物を選んでくれ。俺はビールにしようかな」と先に一本取って他の4人にコンビニの袋を渡す。若い美幸はレモンチューハイを。50代の男はジントニックを。40代の女はコーラを取った。勲は喉が渇いたので水にした。ペットボトルや缶に入った飲み物は沢山買っているようだった。気の利く男だと思った。喉を潤し、防空壕の穴を浩は指し示す。「あの中なら、死体も見つからないだろう」浩は率先して、その中に入る。
入口は、植物が、うっそうと茂っていて中に入るのに苦労した。しかし、中は案外快適なスペースだった。敷物も用意してくれていたので、皆で思い思いの場所に座り込んだ。浩は用意万端だった。「覚悟はできているか?もし、死にたくない人がいたら、今すぐ出て行ってくれ」と言ったが誰も微動すらしなかった。「それなら、眠るように死ぬことのできる薬を配るから、好きな飲み物で一緒に飲もう」と言って皆に小さな錠剤を配る。「お先に、失礼」と言って、浩はもう一本ビールを手に取って、豪快に飲みながら薬も、まるでツマミを食べるかのように流し入れた。しばらくビールを飲んでいたが、その手から缶が転げ落ちたかと思うと、倒れ込んできて、もう息をしていなかった。苦しまず、ただ眠りについたという安らかな死だった。それを見て、次々と他のメンバーも、その薬を口に入れた。皆が倒れて行く音を聞きながら、勲も意識が無くなって行くのがわかる。
案外死って簡単なんだなと薄れ行く意識の中で、そう思った。幼い頃からの思い出が走馬灯のように駆け抜けて行く。あの物憂げなグレーの目は誰だっただろう?ほんの通りすがりのような一瞬の出会い。東大の赤本を拾う白くて細い指。長い黒髪。転校生だと妹は言った。「東京大学を狙っているんですか?凄い。頭がいいんですね」と、大きな瞳が尊敬の眼差しで見つめている。「いやあ、何になりたいかわからないから、とりあえず大学に行って決めようと思って。」と赤面して赤本を受け取る。「夢を見つけるために東大なんて、憧れちゃいますね」と笑顔が可愛いかった。心臓がドキリと撥ねた。なのに、彼女は急に亡くなってしまった。妹も後を追うように首を吊った。命は救えたのだが、心は今も病んだままだ。目を離すと死のうとする。「操が寂しがってる」と言って。妹が指さす方にうっすら彼女の姿が見えた気がした。しかし、気の迷いだと思って、受験に邁進した。「すごいですね」と言う声が、いつも聞こえる気がしたからだ。しかし、最近は彼女の気配は感じられない。あの切ない恋心。そして、荒んだ生活と、やりがいの無い仕事。希望など抱けない未来が横たわっていた。夢を探すために大学に行ったはずだったのに、ただただ勉強に追われ、結局見つからなかった。いつもいつも、ただ偏差値の一番高い大学、収入の高い会社というように上ばかりを目指して生きてきた。上には上があり、最高峰に立ったからって一人ぼっちで何が楽しい?どれだけ富を得たとしても、それを使う時間も無い。何がしたくて、何が自分の生きがいなのか?前にある問題を解くためだけに、これからも働き蜂のように生き、何の楽しみも得ないまま死んでいくなら、早い方がいいに決まっている。どこから間違ったのか?ボタンをかけ違ったのか?堂々巡りで負のスパイラルに入って病んでしまった今、強制終了して別のゲームに移りたい。マンネリズムで目的の無い日々。誰からも認められず、いいように使われて朽ち果てて行くのは、もうまっぴら。『でも、それも今日までだ。あの美しい少女の元に行けるのだろうか?』と、夢心地で眠りについた。秘書課の田中操の笑顔が目に浮かぶ。あの自殺した少女に似ていた。社員の憧れの的で、高嶺の花だった。思い残すことがあるとしたら彼女を一度でいいから食事に誘いたかった。話がしたかった。でも、根性無しでできなかった。そうやって、苦手なことから、ずっと逃げていた。今も、こうして。目を覚ますと、そこは樹海のド真ん中だった。『あとの4人は、どうしたのだろう?』と思って周囲を眺めると白骨死体ばかりが積み重なっていた。そして、後ろから強打される。「痛っ」と頭を押さえた手が血でベットリ濡れていた。オオカミか?クマか?大きな猛獣がおそいかかって来る。手が食いちぎられた。「やめてくれ。助て」と叫ぶ。『もうおしまいだ』と気絶した。
そこは真っ暗な暗黒。闇の国なのだろうか?火の海、血の海針の山?これを超えれば黄泉の国なのだろうか?49日までに通る懺悔のための?「いやあ、甘い甘い。俺なんて、自分で命を絶ったから、もう800年も、ここから出られない。繰り返されるんだ。何万回も。死の苦しみを嫌と言う程思い知らされるんだ」とボロボロになって血だらけの鬼がギョロリと睨みつけて言う。「長いぞ。自殺したら一番重い罪。親より早く死ぬのも。三途の川は渡れない」とそのへんにいるガイコツたちも言葉を合わせてバカにする。臭い。誰一人、まともな姿をしている者はいない。刺殺される。「イタイ」殴る蹴るされて痛みも麻痺してしまう。「東大出のくせに何もできないんだな」とか「東大では何習ったんだ。役立たず」と、あちこちから聞いたことのある声が、罵詈雑言。心も体もボロボロなのに、死ねない。強制終了できない。「これが地獄の苦しみなんだ」と浩も血へどを吐いている。美幸も裸でさかさ吊りにされて、大蛇に噛まれ、体をぐるぐる巻きにされて叫んでいる。一緒にいた、あの二人の姿は認知できなかった。それほど印象に残らなかったせいか?沢山いる醜悪な人間たちの中で見つけるのは至難の技だった。何度も何度も叫び声を発して、痛みに悶えた。こんな目に合うとは思わなかった。
お花畑の世界をイメージしていた。そして、次の人生にリベンジすぐできるものだと希望に胸膨らませていたのに。そういえば、昔祖母が地獄絵を見せてくれたことがある。その、あまりの残酷さに目を反らして、何日も夢でうなされた。今もそんな感じだ。どれだけの長い時間が過ぎたのだろう?そもそも太陽も登らない、この地に時間の概念なんて無いのだろう。死というものが、こんなに辛いものだとは想像すらしなかった。諦めと、残酷な仕打ちにも不思議だが慣れてしまう。ウンザリする位、同じ苦しみが繰り返され、どれだけ後悔しても、謝っても、泣き叫んでも許してはもらえない。疲れ切っていた。『もう、どうでもいいや』と思っていても、痛みや恐怖には反応してしまう。どうやっても許されないことが、あるとは思わなかった。生まれてこのかた、どれだけ平穏無事な世界で生活していたことだろうと今更、感謝が芽生える。「日本って、餓死する人もいないし、蛇口を開くと飲料水が出る国って、なかなか無いんですがね。それが、当たり前だと思ってる。平和で働かなくても生活保護も国の庇護もあるのに感謝などせず、もっともっとと餓鬼のように要求し、不満不平ばかり言っている」と、どこからかニュースで国会議員が話しているのが聞こえて来る。「生きたくても殺され飢餓で死ぬしかなかった沢山の命。なのに、今この地獄に来ているのは、恵まれた国で何不自由なく暮らしていた者ばかり」と閻魔の横に鎮座していた老齢の鬼が言った。『肉体的な暴力は許せないが、精神的な暴力だって耐え難いんだ』と心の中で勲は言い訳をする。なのに、その言葉はスピーカーから大音量で流される。「ほお。肉体的な暴力を受けている者は精神的な暴力は受けていないとでも?弱いから、嫌われているから、侮られているから標的にされるんだろう?恵まれた国に生まれた使命を忘れて、戦わずして死に逃げ込むなんて。どれだけ言い訳しても最悪な選択だって、心から気づかなければ、この地獄からは這い出すことはできない」と、閻魔様の低い威厳のある声がした。『心の中まで読まれている』とウンザリした。何も考えない。感じないように努力した。しかし、耐え難い恐怖と痛みに声が漏れる。何度も気を失う。なのに意識は、よりクリアになって行く。「勲、目を開けて。お願いだから」と言う母の声が聞こえて来る。「叱って悪かったよ。もう何も言わない。好きなように生きたらいい。だから帰って来てくれ」と泣いている父の声がする。
そこで、ハット目が醒めた。「勲が。先生を呼んで来て」と言う母の声。ぼんやり見えた母の顔は真っ青で、涙でぐちゃぐちゃだったが、安堵のためか笑みが溢れていた。「生き返ったのか?」と父も感動の余り、声がかすれていた。それから医師たちが、駆け付けて来て、次に警察が。「他の4人は亡くなりました」と聞いて、「何故?自分だけがたすかったのか?」と聞くと、皆は5粒のクスリを飲んだようだが、勲は2粒下に落としていたらしく薬の効きが悪かったらしい。GPSで車はすぐに発見されたが、樹海は携帯も繋がらないので苦労したらしい。しかし、ビールの空き缶や酎ハイの空き缶が造作なく棄てられていたおかげで穴を見つけることができたらしい。
あの地獄には、もう二度と帰りたくない。死神や鬼たちの姿が、それでも当分入院している病院のベッドの上で現れては消えたが。心と体が元どおりになって来たら、その気配も無くなった。「嫌なら、会社も辞めたらどうなの?」と母親は心配そうだった。きっと、部屋の机の上に置いておいた日記を読んだのだろう。「いや、もう一度頑張ってみるよ。死んだ気になれば、何でもできる気がするから」と笑って元気なことをアピールした。それは、強がりでも何でもなかった。リフレインされる地獄絵の中で、『こんな苦しみに比べたら、安穏とした日々は、仕事は人間関係は何てことない』と思えてきたのだった。実際、自殺したことを知ってか、無断で会社を一週間も休んだ勲をなじる者も、ばかにする者もいなかった。それどころか、勲の半径3メートルの人が存在に気づき、道を空けてくれるところを見ると、目には見えないけれど『来るなら来てみろ。ひどい目に会うのは、そちらの方だ』という闘争心のようなものがトゲになって近づく者を刺しているのかも知れない。勲の後輩の仁が、廊下で会うと、いつものように能天気に横を歩きながら「最近姿を見ませんでしたね。でも何だか随分印象が変わって近づきにくいオーラがプンプン出ちゃってますけど。滝にでも打たれて来たとか?」と周囲の皆を面白そうに見ている。『この空気が読めない所が羨ましいよ。誰とも話がしたくないのが、わからないんだから』と冷たく一瞥して自分のデスクに座る。『しかし、本当に仁が、鈍感な奴なのか疑わしい』と苦々しく思う。なぜなら、勲が上司から侮られていた時には決して近くには寄らなかったからだ。『どちらにしても、この会社には味方などはいない。どうやって、仕返ししてやろうか?』と、とりあえず、自分のコンピューターの電源を入れる。中には、とっくに済ませておかなければならない案件が山積のまま放置されていた。勲がいなければ、この会社の心臓部は回らないと皆が思い知ったらしい。ハゲ頭の上司が作り笑いをして近づいて来る。「ご両親が、会社を辞めさせると言って来たけれど、そんなことは無いだろうね」と。「辞めるどころか、自殺して、この会社を訴えたいところなんですが」と顔も向けずに言う。「自殺だって?」と言葉を失ったらしい。「そうですよ。バカな上司にディスられ、労働基準法無視で過労で心を病んだものですから」と普段よりも大きな声でフロアの皆に聞こえるように言った。「何を言いだすんだ。そんな事はしていない」と言うので「今月、残業だけで200時間以上ですよ。ほら」とコンピューターの終了時間が載っているページを見せた。「これが、会社に居たことの証拠です。サービス残業にしても、ひどすぎませんか?」と皮肉を言った。「それは、君が能力が無いから時間ばかりかかっているんじゃないか。俺は定時に帰っているので、そんなこと知らん」と言ってデスクに戻った。「それなら、今年分の有給を今日から取らせて頂きます」と言って席を立とうとすると「そんなことは許さない。君が無断で休んだせいで、会社はどれだけ迷惑したと思っているんだ」と怒鳴る。「だったら責任を取って辞めます」と言ってみた。「退職届は3か月前に出す必要がある。だから大人しく仕事をするんだ。」と上から目線で命令する。「どうせ自殺するつもりだったんだから、お前を道連れにしたっていいんだよ」と上司の首元を掴んで殴ろうとしたが、やめにした。「お前みたいなパワハラ上司なんて殴って手を痛める価値も無い」と投げ飛ばした。
勲は柔道の有段者だった。こんな寸足らずの中年男なんて簡単にやっつけられたのに。「じゃあ、失礼」と手を振って、エレベーターに乗ろうとすると、仁が制して「先輩、そんな意地悪しなくたって、いいじゃありませんか?先輩が休むと、この会社はダメなんだ。コンピューターにあるもの全部、すぐに動かして下さいよ。社員みんなの生活がかかっているんだから」と哀願した。「そうでしょうね。この会社のシステムは、全て僕が一人で3年間、作り上げて来たものだ。誰も手を貸してくれなかったし、扱える者もいなかった。おかげで、全てのシステムは停止して、業務は止まってしまっていることだろう。今から、ここ3年で僕が作成したシステムを作れるものなら作ってみろ。たぶん、十年経っても、できないだろうが。」と高笑いをした。ハゲの上司は「せめて、引き継いで辞めるのが社会人の常識だろうが」と侮蔑の目をして言う。「悔しかったら、今すぐ仕事してみろよ。コンピューターすら触れない能無しのくせに。3流大学出のハゲ頭には一生かかっても無理だろうな。いいか、会社も、たった5パーセントの優秀な社員が稼いで、後の95パーセントの無能な社員を食わせてやっているんだ。お前なんかが何か月休んだって、この会社はビクともしないだろう。むしろ、働かず、有能な人物のやる気を失くす上司なんて、いない方が会社は繁栄するかも知れない。さあ、社長をはじめ、幹部の意見を聞こうじゃあないか?」と言って、上司がとめるのも聞かずに社長室に乗り込む。
美しい秘書たちが、勲に、引きつった笑みを投げかける。「社長は、お忙しいんだ。アポを取って、出直しなさい」と上司は、うるさく勲を制する。運動部で昔活躍しただけあって根性だけはある。社長が外の騒動に気づき、ドアを開けた。「高村君かな?急に会社に来なくなったという。まあ、中に入りなさい」と言われて、社長室に入る。後から付きそうようについて来た上司を遮るように部屋には入れない。そして、ドアの向こうで暴れている上司を無視して鍵をかける。
社長は不審な顔をしていたが勲が笑顔で「アホな上司は邪魔なだけなので」と言うと頬が和らいだ。「いつも、遅くまで一人でコンピューターに向き合って、何も話さなかったキミが、珍しいね」と社長は椅子を勧めた。電話で秘書に「大切な話があるので、当分人払いをしてくれ」と指示をして勲の前に座った。「一週間、無断で休んでいたけれど、何かトラブルでも?」と聞かれて「自殺して地獄の炎に焼かれていました」と答えた。社長は複雑な顔をして言葉を失っていた。「過労のために鬱になって、樹海で自殺したんですが、助けられて入院してたものですから」と説明したら、「なるほど。でも助かってくれて良かった」と人の好さそうな顔が真面目になった。「キミがいなくなって、実際会社は大変だった。誰もキミのシステムに入れないし、動かすこともできない。全てのスケジュールも会計も、商談の詳細も次にやらなければならないことすら誰も総合的に理解できていなかった。現場は混乱し、クレームの電話は鳴りっぱなしだった。他の会社に取られた仕事もある。プレゼンの最終調整日もプロジェクトリーダーすら知らないなんて事があるなんて。どれだけコンピューターに依存して来ていたことか?改めて、実感したよ。たった一人の社員に、会社がどれだけ依存していたか?知ろうともしなかった。それでも、その道のプロの会社に頼めばどうにかなるとタカをくくっていたのだが、キミの能力の方が上だと思い知らされた。誰も、キミのコンピューターに入ることはできなかった。この一週間、社員各々のコンピューターに残っている報告書や計画書を集めてもらって、わかる所だけ、どうにか仕事を回して来た。すると、余計にスポンサーからクレームが来た。キミは、それぞれの部署から来た企画書まで目を通し、完璧に仕上げてくれていたんだね。今のわが社は、いつ倒産してもおかしくない状況にある。お願いだ。悪いようにはしない。協力してくれないだろうか?心も体も、今も大変なのは理解できた。何なら、優秀なスタッフを雇おう。キミの手足になる者を、すぐにでも用意しよう。」と土下座でもしているかのように、深々と頭を下げた。「条件は?」と社長の顔には悲壮感が漂っていた。「そうですね。役員としての地位と、隣の部屋にいる秘書の田中さんを僕の専属秘書にしてくれれば考えてもいい」と言うと、社長はホッと安堵したように顔がほころぶ。そして、自ら席を立って、社長室のドアのかぎを開けて秘書に飲み物を頼んだ。しばらくして、秘書の田中がコーヒーをトレーに乗せて入って来た。「ああ、田中さんも、ここに座りなさい。コーヒーも3人分、あるだろう。」と言って席を勧める。コーヒーを勲にサーブする手が白くて可憐なのに胸がドキリと撥ねた。長い黒髪、大きな瞳。妹の親友だった操に、どこか似ていた。勲の思いっきりタイプの女性だった。入社してから、ずっと憧れていた。「高村専務だ。今日から田中さんは、彼の秘書に抜擢された。東大出身者同士なので、きっと高村専務の頭脳にもついて行けるだろう。」と社長は言った。
田中が東大出身者とは知らなかった。「田中さんには、私と我が社のスケジュール管理は全てやってもらっている。なので、田中さんが秘書課から抜けるのは、イタイ。しかし、それ以上に、高村専務の一週間の業務の遅れは、我が社の存亡に関わる最重要な業務になるので、ぜひ協力して欲しい」と社長は、また頭を深々と下げる。「かしこまりました」と田中が勲の方に目をやって、やがて姿勢を正して「田中操です。よろしく、お願いいたします」と笑顔で言った。
自殺した妹の親友と、同じ名前だった。何か因縁めいたものを感じながら、恋の予感に胸は躍っていた。専務になって、ハゲの上司は左遷した。とにかく、足を引っ張る無能な人材は別会社に割り振った。人柄がいいとか、根性があるとか、飲みにケーションを猛進して社員に無理強いする者は、地方の営業所に転勤してもらった。
自分の理想とする精鋭チームが揃った会社は、利益を出し、グローバルに成長しつつある。勲が特に大切にしているのは【人材】だ。それぞれの個性と才能を見抜き、アスペルガーでも障害者でも雇用する。欠けているから素晴らしい才能があることを知っているから。絶えず、皆の働きを注視し、認め尊重し、その働きを称賛することを忘れない。人は一人では生きて行けない。成功も仲間やチームがなければ、ありえない。過酷な仕事に独りぼっちで挑んだ経験があるから、わかる。誰かに認めてもらえるだけで、愛されるだけで、人は頑張れる。
田中操と二人三脚で事業は思いも寄らな業績を上げた。社長の娘との結婚をせがまれたが、勲は田中にぞっこんだった。将来は、いや今すぐにでも結婚したいと思っていた。プロポーズしたら、快諾してくれた。夢のようだった。早速家族に紹介することにした。操と会った時、妹はどうなるのだろう?と少々心配ではあったが、田中の聡明さに妹も救われるのではないかと思った。
妹は親友だった操と同じ名前の田中を好意的に受け入れてくれた。むしろ、自殺の呪縛から解き放たれたように、笑顔でいることが多くなった。最近は自傷行為は無くなった。美しい田中と、まるで親友が戻って来たかのように楽しそうだった。「勲さんは、2歳下の私のことは、大学が同じでも、ご存じなかったでしょう?でも、私はずっと前から高村家の方々のことを知っていたんですよ」と田中は言った。「中山操は私の姉。双子なんです」と笑った。「えつ?意味が、わからない」と言うと「母が同じなんです。悪いのは全て田中の父なんです。昔の恋人だった由香里さんを忘れられなくて、子供のできない中山家に人工授精を提案したんです。そして、双子の女の子が生まれて、私は産婦人科医の父の子として田中家で祖父母に育てられた。姉は中山家の一人娘として互いの存在すら知らずに別々に大きくなった。母にも私の存在は知らされなかったらしい。中学生の私を、中山の父が、どこかで見て、同じ顔、同じ名前の私が母の不倫によって生まれた片割れだと思ったんでしょうね。中山家は、離婚騒ぎに。そして、家庭の不和のせいか姉の操はガンに侵され手術も何度もしたと聞いてます。病気が良くなったから一年留年して隣町の中学に転校したんだって思ってた。会うことは許されなかったから。自殺の噂を聞いて、さすがにショックで。でも、姉を知る人たちと出会えて、確信しました。死の恐怖に自分で命を絶ってしまったけれど、最後にずっと自分を忘れないでいてくれる親友や恋人に出会えて、きっといい人生だったって思うんです。だって私も、姉の愛した方々の中でこんなに幸せなんだから」そこには、美しく成長した里香の親友の姿があった。そして、里香も長い長い悪夢から醒めたように微笑して、田中の手をギュッと握っていた。あの日、親友に、してあげれなかった愛情をいっぱい込めて。