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自殺の波紋  作者: 二階堂真世
3/6

死に切り裂かれた初恋

小島猛は、中山操の葬式が終わっても席を立たないで写真をぼんやり見つめていた。友人たちが、何か言っている。周囲の音が消え失せてしまったように、何も聞こえない。「小島君。今晩も来てくれる?」と言う操の声が聞こえた気がする。葬儀には何故か母親しかいない。父親とは関係が悪いと操は言っていた。「仕事が忙しいだけかも知れない」と首を振る。一部の人にしか知らされていない操の葬式は寂しいくらいだった。情報通の友人が、家族葬だと教えてくれて駆けつけて来たのだが。「学校の誰にも言わないでね」と操の母親は、目頭をハンカチで抑えながら言った。

「癌だったの。もう、手のほどこしようが無いと医者に言われて、ほんの数か月だけ転校して普通の女子学生として生活したいって望みだったの。本当に仲良くしてくれて、ありがとう」と言って、家に招き入れてくれたのだ。それでも、死体を見せてはくれなかった。3日前まで、彼女はここに居たのだ。操と過ごした日々が懐かしく、ほんの少しの痛みを伴って思い出す。一緒にゲームをして、映画を観て、買って来たハンバーガーを食べた。「一人ぼっちで寂しいの。猛君が来てくれて、本当に嬉しい。でも、クラスの女の子にバレたら殺されちゃうわね」と操は悪戯っ子のように笑って言った。「操ちゃんと、付き合っているって知られたら、こちらこそ男子一同に殺されるな」と小島も言った。転校して来てすぐに同じ方向に家があるのがわかって、一緒に下校することが多くなった。「ちょっと寄って行かない?」と誘われて、嬉しかったが親がいたらバツが悪い。どんな顔をして会ったらいいのか?わからない。操はコワイくらい積極的だった。

家に入ると綺麗に掃除されていて、我が家とはまるで違った。「ケーキもあるのよ。飲み物は?コーラがいいかな?」と言って、周囲を伺っている猛を広いリビングに招き入れた。テーブルの上には花が活けてあった。「お母さんって、お洒落なんだね」と褒めると「今日も仕事で帰って来るの遅いんだけどね」と寂しそうに言った。いちごショートケーキとコーラを飲んだ。お菓子受けも、沢山あった。「ポテトチップスの方が好き?」と聞く。「そうだ、映画観ない?色々DVDもあるのよ。部屋を暗くしてポップコーン食べたら最高だよ」と言った。そう言う操はケーキもお菓子も飲み物も、ちょっと口を付けただけで食べてはいない。それでも映画を一緒に観ながらポップコーンを食べ終わると、どちらともなくキスをした。柔らかな唇に唇を重ねる。猛にとってはファーストキスだった。ずっと想像したようなイチゴやレモンの香りはしなかった。代わりに、ポップコーンの塩味がした。「一緒に、ごはんを食べよう」と操は言った。「いつも一人ぼっちで食べるの、寂しいから。お願い」と言われたら、そうするしかない。何しろ猛は操にぞっこんだったからだ。しかし、いつ両親が帰って来るのか?と心配で仕方無かった。

「本当はね。この料理、プロのお手伝いさんが昼間作ってくれているの。両親は帰って来るかどうかもわからない。母も夜勤なんだ。看護婦だから」と寂しそうに言った。そんな、儚くて悲しそうな瞳が、たまらなく愛おしかった。

「ねえ、自殺って考えたことある?」と操は聞いた。その声が冷ややかで、ゾッと寒気がした。美しい笑みだったが故に怖かった。「ご馳走様。あまり遅くなったら、親に叱られるから。また来ていい?」と聞くと嬉しそうな顔をした。可愛い。

最近、女の人の裸にやたらと興味がある。別れ際に、そっと操の胸に触る。ちょっと驚いた顔をして睨んだが「当分、おあずけ」と赤い唇に人差し指を当てた。変な衝動が沸き上がって来たのを知られないようにして、逃げるように家路を急いだ。その夜、初めて夢精した。操を想像しながら。柔らかい唇を思い浮かべながら。そして、果てたら罪悪感に苛まれた。それから、毎日のように操の家に寄り道して、一緒に遊び夕食を共にした。土日も両親の姿は見えなかった。

一度、猛の家に招いたことがある。大胆な母は、たいやきを買って来て袋のままテーブルの上に置いて、カップとリットルサイズのコーラをドンと置いて、もてなしてくれた。たいやきなる物を操は初めて目にしたらしい。面白がって、少し口にしたが残りは猛に食べて欲しいと懇願した。『間接キスか?』と密かに喜ぶ。2人でゲームをしていたら、がさつな姉が入って来てニヤニヤしている。「猛の彼女?滅茶可愛いね。転校して来たんだって?」と会話に入って来る。「もう、うるさいんだから。出て行ってよ」と追い出す。

「なんで?面白かったのに」と操は残念そうだ。「ゴメンな。ウチの家族は遠慮なしだから。気を悪くしてない?」と聞くと、「ううん。羨ましいな。いつも一人ぼっちだから、賑やかな家族に憧れていたの。」とほほ笑む。「いやいや、こんな家で育ったら、操ちゃんのような上品な子にはならないよ」と褒めたが「上品なんて、買いかぶり過ぎ」と肩に頭を寄りかかって来て甘えた。そして、キスをしようとしたら、弟が覗いているのが目にとまる。

「コラ!見世物じゃない!」と大声を出したら彼女に爆笑された。猛の母親が夕食を食べて行きなさいと言ったが、操は「お手伝いさんが、ご飯を作ってくれているから」と断っていた。きっと食が細いので、母に悪いと思っているのだ。家まで送る、ほんの5分もかからない場所に操の豪邸はあった。家に帰ると姉が「あの新築の一軒家でしょう?高そう。中も綺麗なの?」と探りを入れる。「知らないよ。送っただけなんだから」と言い訳をする。

「でも、彼女どこか悪いんじゃないの?細すぎるし、顔色も悪いもの」と母親も言った。「同じ女でも随分違うよな」と言ったら怒られた。

ほぼ毎日のように操の家で過ごす。なのに、家族の気配すらしない。次第に操のことが不気味に思われるようになった。死について、よく操は語った。「どんな死に方がいいと思う?」とか、「死んだら、どうなるんだろう?」とか。ある日、右手のブレスレットを外して、キズを見せてくれた。「自殺しようと思ったの。失敗しちゃったけれど。ねえ、猛。一緒に死んでくれない?」と言われた時は、そのグレーの魅力的だと思っていた目が急に不気味に感じられた。逃げるように家に帰って、当分家には行かなかった。帰宅時間を遅らせてみたり、避けていた。キスをしてから徐々に恋人として、二人は互いの体に触り、不器用なまでも一つになれた。

裸にはならないのは、体のキズを見せたくないからだと言った。しかし、体を触るとわかる。お腹に痛々しいもキズ痕に触れる。2か月ほどして体調が悪くてイライラしている操に「子供ができたみたい。生んでもいい?」と聞かれた。「子供?まだ15歳の僕たちに、そんなこと親たちが許さないだろう?」と答えるのが精一杯だった。

「親なんて関係ない。私は猛の子供が欲しいの。お願い、一緒に逃げて。お金なら、あるから。数年は隠れて暮らせるはず」と言われて恐怖のあまり、後ずさりをしてそこから逃げた。世界が突然、崩壊して皆から罵倒される恐怖に、おののいた。

家に帰っても、自分の部屋に閉じ籠り、夕食も食べる気がしなかった。そして、数日「風邪だ」と言って学校も休んだ。操と顔を会すのが嫌だったからだ。まだ、自分の心も混迷していて、どうすべきか決断できずにいたからだ。二人で、どこに逃げるというのだろう?中学生だと、すぐバレて補導されて家に連れ戻されるのがオチだ。子供ができたと知られたら「不純異性行為だ」と世間からバッシングされ、内申書は最低で高校受験にも影響があるだろう。

この年なら子供を堕胎するのが普通だろう。親には何と言おう。堕胎するにはお金がかかるんだろうな。どうしよう。父親に相談して出してもらおうか?そもそも未成年は親がかりじゃないと何もできないんじゃないのか?と家のベッドの中で、自分の保身ばかりを考えていた。  

親と顔を合わすと、何度も真実を話そうと試みたが、結局何も吐露することはできなかった。そんな悶々とした日々が、操の死によって切り裂かれた。自分のせいで死んでしまったのだと思った。操の死を知った朝、長い長い手紙が届いた。宛名の字は操のものだった。右上がりの特徴のある文字だったので、一目でわかった。手紙など、もらったことなど無い。しかも、死んだ恋人からなんて。恐る恐る手紙を開封する。中には10枚近くの便箋にギッシリ操の細かい字が書いてあった。

最初の言葉は、「ごめんなさい」だった。本当は子供なんてできていなかったこと。でも、小島との恋は真実だったこと。実は癌が再発して「今度は手術も薬も効かない。手の施しようが無い」と言われたこと。「私、もう長くないの。あと3か月くらいかな?」と書いてある。また次の日でも書いたのだろう。今も死が忍び込んで来るような気がして怖い。一人ぼっちで誰にも看取られず、寂しく死んで行くしかないんだとわかってる。だから、最後に二人きりで旅行したかった。素直に、そう言えば良かったのに、つい驚かしたくなってあんなことを言ってしまった。どう反応するか?知りたかったのもある。小島君の心を試すようなことをして、本当にごめんなさい。もうすぐ、嫌でも別れなきゃいけないのに。あんなこと言うんじゃなかったと後悔ばかりしている。もうすぐ自分で人生に幕を下ろすつもり。でも、会いたいなぁ。最後にもう一度、ポップコーンを食べながら映画が観たいな。痛みが、どんどん強くなってガマンができなくて嫌な所を見せてしまって、ごめんなさい。

最後くらい、笑顔で傍にいてくれるだけで充分だったのに。壊してしまったのは私。キミを試して、キズつけて失ってしまった。でも、大好きだったよ。だから忘れないで。いや、そんな贅沢は言わないから。せめて、2人が愛し合った時のことを後悔しないで欲しいと願うばかり。

最後に、ありがとう。小島君と、いた時だけが生きてるって感じがした。幸せだった。愛してくれて、ありがとう。最後にキミと会えて本当に良かった。たぶん、この手紙を読んでいる時には、この世に私はいないだろうけど。幸せだったよ。だから泣かないでね。」と書かれていた。『試されていたのか?』と怒りにも似た悲しみに胸が張り裂けそうだった。自分の卑小さに。ずるさに嫌気がさした。自分を痛めつけたかった。一目会いたかったが、もう操とは永遠に会えないのだ。


中山操を初めて見た時の胸のトキメキは今でも忘れられない。彼女が転校して来て、学校に行くのが楽しくなった。初恋だった。彼女から目が離せなくなった。登下校が一緒になって、帰宅途中に彼女の家に行くことが多くなった。夢のようだった。しかし、深い関係になると、だんだん彼女の存在が疎ましくなっていった。「好きなのわかっていて、からかうのはよしてくれ」と怒鳴ってしまった。本当はわかっていた。彼女が薬を飲んでいたことも。たまに苦しそうに身もだえしていたことも。

それでも事実に面と向かって受け止められる歳では無かった。初めて体を重ねた時も、泣いていた。それから、また彼女を避けた。苦しい初恋だった。どうすれば彼女を悦ばせることができるのか?経験の無い猛は、頽廃の海に落ちて行くような不安感に怯えていた。操に会いたい。でも、コワイ。死の匂いがする。幸せなだけ、別れを予感して悲しくなる。「一緒に死のうか?」と言うと「うれしい」と泣いた。そして「もう充分」と笑った。心がどんどん荒んで行く。「何かに取り憑かれたみたい」と姉に毛嫌いされるようになった。実際、猛には以前のような明るく活発なところが無くなって、変に老成したような言葉を言ったり、皮肉めいたニヒリストを気取り出したのだ。あまり、操も猛を家に誘わなくなった。家の前に立たずみ、ずっと彼女の部屋の明かりを見ていた。かなり遅い時間だった。

中から怒り声が聞こえてきた。男の声だった。しばらくして、男が家から出て来て自家用車に乗って、どこかに行ってしまった。操の父親なのだろうか?中から女性が出て来た。操に良く似た美しい中年の女性だった。思わず家の影に隠れて見ていた。その女性も、もう一台の車に乗って追うかのようにどこかに行ってしまった。そして、いつものように空っぽになった駐車場が、家には操がただ一人取り残されたことを物語っていた。その次の日に操は死への旅路に出てしまった。

「さよなら」も言わないで。頬にも手にも、柔らかい操の白い肌の触感が残っている。「さあ、どうしよう。彼女のいない世界に、いる意味が見つからない」と、思った。「死んだら、操さんに会えますか?」と目を泣き腫らした彼女の母親に聞いた。「自殺したら、ずっと一人ぼっちで何万回も孤独な死の瞬間をぐるぐる繰り返すんだって。だから追っても無駄なのよ。生きている間、娘を愛してくれて本当にありがとう」と言って抱きしめてくれた。今まで涙なんて一粒も出なかったのに、なぜか涙が噴き出して来て大声で嗚咽していた。彼女の母親から、操と同じ匂いがした。大きく息を吸って「また、来てもいいですか?」と聞いた。「ありがとう。でも、ここはもう売って引っ越すから。操のこと、忘れないであげて。そうしたら、きっとまた会えると思う」と力なく言って、必死で笑顔を作った。その目が操と同じ、グレーで寂しさを湛えていた。

猛は、あれから彼女を作らなかった。「恋すると、別れが辛いだけだから」と、いつも言っていた。恋人を急に失った人々は、どうやって恋のキズを癒すのだろう?あれから、猛は孤独な日々を送った。ただ生きていた。操に会いたかった。しかし、死ぬほどの勇気も無い。明るくて若々しい輝く女性たちを別世界の人のように感じる。自分の恋の相手だとは思えない。友人たちに紹介されて、付き合ってもみたけれど、どんどん自分の中に暗黒の穴が大きくなって行く感覚。自分だけが幸せになってはいけないという罪悪感が広がっていくのだ。

女を抱いた。ただ衝動に任せて。何の快楽も感じなかった。荒廃した砂漠に横たわっている感じがした。暖かい部屋にいても、心が寒々しく凍り武者震いをした。口汚く罵る女たち。愛を感じられない関係に未来は無い。果てて目を閉じても、操の悲し気なグレーの瞳が、ずっと自分を見つめていた。

死とは残酷な思いを残す。生きている者よりも、死んだ人の思い出は、どんどん美しくなって消し去れない。届かぬ思いは、ますます恋慕の思いを募らせる。「こんなに苦しいなら、いっそ死んでしまいたい」と思ってつけた躊躇い傷。操の右手にあったキズ痕。『いつか、操のように、自ら死を選択してしまうかも知れない』と、想像すると自然に笑みがこみ上げてくる。自殺サイトを見る機会が増えた。高校受験に失敗し、自殺する理由ができた気がしたからだ。何度かクリックして、次の日には恐ろしくなってデリート。そんな繰り返し。臆病で、それでも操から離れられない。そんな時、予備校の自習室で操そっくりの女性と遭遇した。おもわず猛は、彼女の後を付けた。予備校がある駅から随分離れた隣の市にある有名な進学校の制服を着ていた。

操よりも少しふっくらとしていて健康そうだった。ショートカットでスポーツでもしてそうなしなやかな筋肉が後ろ姿からもわかる。あの可憐で、フェミニンな操とは顔だけソックリで、印象が違い過ぎる。『他人の空似に違いない』と結論づけた。それでも、たまに自習室で見かけると心臓の鼓動が高鳴った。「ねえ、僕は小島猛って言うんだけど、キミは?」と勇気を出して声をかけた。「えっ。田中操ですが。どこかでお会いしたこと、ありましたか?」と聞かれた。声もグレーの大きな瞳も、名前まで同じだった。まるで、操が生き返って目前に現れたのかと思うほど驚いた。「別れた双子とか?いや姉妹とか、いませんか?」と聞いた。操は不思議そうな顔をして「私は一人っ子なんですけど。誰かと、お間違いでは?」と言って笑顔を作った。どこかが違う。でも、ほとんどが同じ。笑顔も赤い唇も、白い肌も。あれから2年経ったせいで、大人ぽくなってはいたが。自分が愛し、触れた柔らかくて香しい体が、そこには現実にいた。そっと手を伸ばすと怪訝な顔で避けられた。

「どこの誰かは存じませんが、人違いです。私は貴方の事を知らないし、そんな風に見られるの申し訳ないけど迷惑です。」と冷たく言い放たれて「すいません。友人に、とっても大切な人にそっくりだったので」と言い訳をした。涙が出そうになって、目を伏せ逃げるようにそこから離れた。それからは、時々、田中操を遠くから眺めるだけで幸せだった。

幼い頃、飼っていた猫がいなくなったことがあった。何日も何か月も探し回った。名前を呼んで、いそうな所を何度も何度も捜した。でも、いなかった。落胆していたら母が「猫って、自分の死体を見せないらしいよ。きっと何かがあって、どこかで死んでしまったんだと思う。だから、もう探すのは辞めた方がいいわよ」と意見してくれた。それでも、猫の姿を見ると飼いネコの名前を呼んだ。ある時、隣町で飼いネコとソックリな猫と遭遇した。名前を呼んでも反応は無かった。それでも何度も声をかけたが、発した鳴き声は飼い猫とは似ても似つかないしゃがれた声だった。そして、よく見ると、しっぽも短く折れていた。全くの違う猫だったが、連れて帰りたくなって追ったが逃げられてしまった。あの時の苦い思いが蘇って来た。

操に似た同じ名前の女の子は一つ年上で高校3年生らしかった。耳をそばだてて聞いていたら、東大を目指しているという天才のようだった。高校受験に失敗して二流校にしか入れなかった猛には高嶺の花。相手などされないだろう。そして、どんなに頑張ったって、今から同じ大学にも入れそうにない。自殺を考えた中学三年生の冬。将来を諦めた、死に逃げようとした高校一年生の春。咲き誇る桜の花びらが吹雪のように散っていた。何も実をつけない桜の悲哀が、まだ寒い春の陽ざしの中で揺れていた。躊躇い傷を隠したテニスバンド。後ろから、同級生の友人が肩を叩く。ふと我に返る。「テニス部に入ると、女の子のスコート姿が見れるぞ。早く部室で着替えて、テニスコートで集合だってさ」そんな能天気な男友達に促されて『まあ、いいか。とりあえず、いつでも自殺なんてできるんだから』と吐息を漏らして、駆け出した。あれから『あと少しだけ』と今まで死なずに生きて来た。そして、これからも。誰かに助けて欲しい。「死なないで」と言って欲しい。「あなたのせいじゃない」と誰でもいいから言って欲しかった。そして、今「自殺って誰でも一度は考えたことあるんじゃないの?」と操そっくりの子が言った。「でも、死を考えた時、生きてる今が、より輝いて見えると思わない?」と女友達に言って、視線を猛の方にチラリと向けた気がした。口角が上がっている。「よく思うのよね。腹が立って殺したいくらい憎む相手でも、明日死んでしまったらひどいことをしたと思うんだろうなぁって。だから、明日死ぬかも知れないって思って、今優しくしてあげるようにしてるんだ」と言って爆笑していた。「確かに。『死ね』って思うより、相手の死をイメージして優しくなれる方が生産的だよね」と友人らしい太った女の子が言って笑っていた。『死って何なんだろう?』と、そんな会話を聞いて、ふと思う。死があるから、生を真剣に思う。終わりがあるから、今この時が愛おしいのかも知れない。『いつでも死ねる。でも、今この時は二度と来ない。どうしようもできない過去に捕らわれて、そのせいにして逃げて来ただけなのかも知れない。自分が死んだって、操が生き返るわけでもない。死に取り憑かれた彼女を救うことも、助けることもできなかったのに。何を悔やみ、何を悲しみ、未来から光を取り去ろうとしているのだろう?時と共に薄れいく記憶。腕に残る躊躇い傷さえ薄らいでいると言うのに。久しぶりに、猛は空を仰いだ気がした。

受験の失敗も、希望の無い未来も操の死のせいにしていたのではなかったろうか?窓の外を眺めている猛の机の前に誰かが立っている気配がした。田中操だった。「ねえ。私で良かったら、勉強教えてあげようか?先生が言ってたの。他人に教えると、より深く学べるんだって。私の勉強の復習にもなるしね。特別だよ」と悪戯そうな笑みを投げかけて来た。「本当に?俺頭悪いから。びっくりしても知りませんよ」と言うと「頭は悪いんじゃなくて、使っていないだけだから」とキッパリ言われた。それからの操の厳しい課題に忙殺されて過去のキズが癒されて行った。「できるかできないかじゃなくて、するか?しないかが問題なのよ」と一切の甘えを許さなかった。愛した操の思い出が塗り替えられて行く。そして、前だけを見ることができ未来をイメージするようになった。

そして、別れの時。東大に見事合格した操が笑顔で、「キミは、もう大丈夫。操の死の余波から抜け出せたはずだよ。もし、また死に取り込まれそうになったら会いにおいでよ。シゴいてあげるから」と言ってくれた。「ありがとう」という声は、今にも消え入りそうだった。何度別れを繰り返したら、平気になれるのだろう?いつの間にか、いるのが当たり前になっていた。恋愛感情が無いと言ったらウソになる。それは彼女も同じだったのかも知れない。ちょっと悲しそうな顔をして「秘密の話だけど、キミには特別教えてあげる。操は私の双子の姉なんだ。会うことも相手の存在を知ってることさえ隠さなければならない複雑な関係だけどね。ねえ、姉はどんなだった?」と言って、同時にその言葉を打ち消すように「この事実を私が知ってるなんて親にも内緒だよ」と耳元で囁いて頬にキスをしてくれた。桜舞い散る河川敷で。一瞬のことだったが、胸に熱い残り火が燃え上がったかと思うと、かき消された。強風に煽られた桜吹雪に二人は思わず嬌声をあげたからだ。



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