死に魅入られた美少女
中学三年生の春、転校して来た中山操は、高村里香にとっては憧れる大人の女性に見えた。聞けば病気のせいで一年留年したらしく、実際一歳年上だとわかって、少し安心したものだった。色も白く、長い黒髪と少し灰色がかった物憂いた表情は、誰もの心を魅了した。
だから、操の方から里香に話しかけてくれた時は嬉しい反面、周囲の羨望の目が痛くて、思わず赤面して下を向いてしまったほどだ。
里香は背も低いし、勉強だって出来る方じゃない。見た目も、普通。クラスの中で、目立つ方では無かったし、返事だって上手く返せない里香に操が親友のように寄り添ってくれるなんて思いもよらなかった。数日間は、どうして良いのか分からず居心地の悪さを感じていたが、案外気さくで人の良い操に心は解放され仲良くなった。
それまで一緒にいた友人たちは、操が近くに来ると、いなくなってしまう。
紹介しようと思っているのに「あの子、苦手。何だかコワイもの」と言って、逃げるように遠巻きしてヒソヒソ話をして感じが悪い。しかし、操はそんな様子にも気がつかないのか?遠慮なく腕を取って、音楽室まで一緒に移動する。
「今やってる曲、去年先生に褒められたのよ。だから、何だか楽しみ」と言って、実際とても上手だった。リコーダーを吹いている操の目は夢見るような眼差しで、透明な調べに皆もウットリした。「一年上なんだもの。上手くて当然でしょう」と陰口が聞こえて来る。これほど周りから嫉妬されるのはクラスの男子たちが操に好意を持っていて自分たちがないがしろにされているのが許せないからだ。もちろん里香も、憧れの小島猛が操のことを好きなようなので、胸が少し痛むこともあった。しかし、逆に操の近くにいることで憧れの小島と間近で話す機会が増えたことは嬉しいことだった。
いつも操の引き立て役のような気がして、自信を失くしてブルーになったり。それでも美しい友は自慢だった。
家族にも見せびらかしたくて自宅に遊びに来てもらったことがあるが、兄の勲の豹変ぶりは、思い出すたびに噴き出しそうになる。赤面してトンチンカンな応対ばかりしていた。男は皆、美人に弱いらしい。里香も操と一緒にいるだけで、クラスの注目の的で、男子から声をかけられることも多くなった。
実際、どこにいてもオーラがあるのか?つい美しい操に見惚れてしまう。住んでいる家も素晴らしかった。初めて行った時、新築でお洒落な洋館に、別世界に迷い込んだかのような錯覚に陥ったものだった。
しかし、家には誰もいなかった。両親共働きで、いつも夕食は一人で食べるらしい。この日も「お友達が来るからって二人分作ってもらっているの。だから、お願い。一緒に食べて行って?」と懇願された。遅くなると親に怒られるので断ったのだが、容赦ないアプローチに折れてしまい家に電話をかける。「まぁ、ご迷惑じゃないの?」と言う母に「とんでもありません。里香さんが遊びに来て下さるって聞いて、ウチの母も頑張っちゃって、食べきれないくらい作って行っているんです。食べてくれないと逆に困っちゃう」と言うものだから、母も「あまり遅くならないうちに帰って来なさいよ」と言って、許してくれた。
実際、海鮮たっぷりのサラダやビーフシチュー、有名なパン屋さんの贅沢な惣菜パン。デザートもザッハトルテにニューヨークチーズケーキ、イチゴタルトと目にも鮮やかなケーキやアイスクリーム、メロンやイチゴなどのフルーツの盛り合わせと夢のように豪華な食事がテーブルに並んだ。どれも、我が家の食卓には絶対にのぼることのない物ばかりだった。特にビーフシチューの大きくてジューシーで柔らかくてとろけそうな肉に、思わずおかわりをしたほどだった。「お母さんって、お料理上手なのね。羨ましい」とパクパク食べる里香を操は嬉しそうに見ていた。なのに、操は、どれも口をつけずデザートのアイスクリームとイチゴだけを上品に口に入れていた。
「食が細いのね。だから、そんなにスマートなんだ。そりゃあ、こんなご馳走毎日食べていたら、おデブちゃんになってしまうよね」と笑った。実際、一流のレストランの味だった。もちろん、行ったことなど無かったけれど、雑誌で見たことのある芸術的な盛り付けだったので、そう思ったのだ。「すごい!ウチの兄、ケーキ大好きなんだ。食べさせてあげたいなぁ」と言うと「今日は里香ちゃんが来るって言ったから奮発しちゃった。こんなに沢山のケーキどうせ捨てることになるんだから、良かったらお土産に持って帰ってくれたら嬉しいな。でも里香ちゃん、クリームが髭のようよ」と言って笑う。
里香も鏡を見て笑う。箸が転がっても笑う年頃だった。デザートも頂いて、お土産にケーキまで持たせてくれたのだが、靴をはこうとしたら「帰らないで」と通せんぼされた。「もう遅いから、お母さんに叱られちゃう」と言って、操の手を振り切った。「ごめんね。今日は本当にありがとう」と操の顔も見ずに戸を開けて失礼した。
ふと目に映った操の涙に、後ろ髪を引かれるような思いをした。あたりは新興住宅街で誰も歩いてはいなかった。車で移動しているのか?それとも、まだ会社から帰宅する時間では無いのか?木々の上から羽音だけがバサバサとしている。叫び声のような不思議な鳴き声。目の前を飛んでいたのはコウモリだった。ふと急に恐ろしくなり里香は必死で走った。やっと商店街につくと、人並にホッとしたものだった。家に帰って、お土産のケーキは兄の勲に、あっと言う間に平らげられて、母はお礼の電話をかけたが誰も出て来なかった。「お風呂にでも入っているのかもね」と言って、何度か電話したみたいだったけど、親はもちろん操も電話には出なかった。「明日、会うからお礼言っておくよ」と言って、その夜は寝たのだが。なぜか寝苦しく、操の長い黒髪が首に巻きつく夢にうなされた。
そして次の日、操の席は無くなっていた。先生は「急なんですが中山さんは転校しました」と言った。クラスの子が次々に操のことを聞きに来たが、知らないので言いようが無い。帰宅しようとして運動靴にはきかえていたら担任に呼ばれて職員室に。そして、校長室に招き入れられて、事の重大さを知ることとなった。「昨夜は中山さんの家でご飯一緒に食べたって聞いたけど、彼女の様子はどうだった?」その質問の意味がわからず「別に、変ったところなんて無かったです」と答えるしかなかった。「親友の里香さんにだけ言うんだけど、中山さん自殺したらしいんだ。手首を切ってお風呂は血の海だったらしい」と担任の先生は眉をしかめて低い声で告げる。
里香は声も出ないで、ただ小さな叫び声のような物を発して呆然とするだけだった。その後、担任や校長先生が何を言っていたのかも覚えていない。ただただ涙が溢れて、ガタガタと震える里香を担任が車で家まで送ってくれた。簡単に母親に状況を話しているのが階下で聞こえる。しかし、自分の部屋に入ると、ベッドの布団に潜り込んで息を凝らして泣いた。涙が止まらなかった。昨夜の操は泣いていたではないか?自分がもう少し優しくしてあげれたら彼女は死ななかったのじゃないのか?と後悔ばかりが押し寄せて来る。「帰らないで。お願い」と言うのが操の最後の言葉だった。彼女の願いを叶えてあげたら、今日も変わらず一緒に笑っていられたのだろうか?と。涙が溢れて止まらない。
それから数日は部屋に閉じこもって誰とも顔を合わせなかった。「里香、お手紙が来てるよ。差出人は、書いてないけど。操ちゃんじゃない?」と勘のいい母はドアの向こうでノックして言う。突然起きたので頭がフラついたが、部屋のカギを開けて、母の手にある手紙をむしり取った。そして、またドアにカギをかける。
かなり分厚い手紙だった。スマートフォンがあるので、最近手紙なんて出すことなど無い。いわんや受け取ることも無い。でも、この右肩上がりの文字には見覚えがあった。左利きの操の文字は全体的に右上がりで、なんだかカッコ良かった。誰もノートなど取らないのに、0.3ミリのシャーペンで、とがった小さな文字が端整なまでも美しく並んでいたものだった。封筒を開けると、やはり操からだった。びっしりと書かれた小さな文字。「ごめんね。この手紙を受け取っている時には、私はこの世にはいないかも知れないけれど、悲しまないでね」と始まる悲惨なストーリー。
美しい親友は、里香の思いも寄らない悩みを抱え苦しんでいたことを初めて知った。両親の不和。そもそも病弱で不治の病と宣告された操の苦悩。お手伝いさんに食事だけを頼んで帰って来ない両親。あと数日で、また誰も面会にも来ないホスピスに連れ帰される孤独と恐怖。誰からも愛されていないという寂しさ。痛み止めも、効かなくなって身悶えする日々。里香と笑っていた、あの瞬間が束の間の幸せだったと。そして、里香は前の学校で一番仲良しだった友人に似ていたこと。誰よりも好きだったこと。「短い間だったけど、一緒にいてくれてありがとう」と締めくくられた十数枚にものぼる手紙には涙の痕が残っていた。それを指でなぞらえながら、ポタポタと涙が手紙を濡らす。操の涙の痕に里香の涙が重なり、まるで一緒に泣いているかのようだった。『何故?あんなに美しい人が誰からも愛されずに死んでいかなければならないのだろう?』と切なくて仕方なかった。
あの夜のご馳走は、まさに最後の晩餐だったのだろうか?せめて、あの手を振りほどかないで握りしめてあげたら良かったと。操は、あれから手首を切り、温かいお風呂に腕をつけたまま眠りについたのだろうか?彼女の死体を誰が見つけたのだろう?何度も母がお礼の電話をかけていたけれど、そのベルを疎ましくは思わなかったか?
それから何日も操の夢を見た。彼女は笑っていたが、目にはいっぱいの涙を浮かべていた。「何?笑い過ぎて、涙が出てるよ」と笑う里香の目にも涙が。「もう、ぼやけてしまって操の顔が、見えないよ」と言うと、そのしなやかな手が首に絡まって来て、締め付ける。
右手には、そういえばいつもブレスレットが光っていた。あの太いブレスレットはカミソリのキズを隠すためではなかったのだろうか?「一緒にいたいよ。お願い、一人にしないで」と言う操の声に、「ウン。ずっと一緒に居てあげる。ごめんね。たった一人で、寂しかったでしょう?」と号泣していた。腕かと思っていたら、それは長い長い操の黒髪だった。
「しっかりして。何してるの?」と言う母の絶叫に我に返った。スポーツタオルをドレッサーのドアノブにかけ、首に巻いて宙ぶらりんのまま横になっていたからだ。体を起こされて、救急車のサイレンの音が耳の奥で遠のいて行く。目が醒めたら白いカベ。ピーッ、ピーッという電子音が規則正しく聞こえて来る。息が苦しい。酸素吸入を無理矢理外したら、サイレンのような非常音が部屋中に響いた。看護婦が、病室に駆け込んで来る。そして里香の姿を認めて、機械のスイッチを切ったようだった。すぐに医師らしい男性も駆けつけて来た。脈を測る、聴診器を当てる、目に光を当てる。そして、声をかける。「大丈夫ですか?」と。頷くけれど、声は出ない。やっと看護婦と医師は笑顔になって、「親族の方を中に入れてあげて」と指示をしていた。両親が心配な顔をして病室に入って来た。母は今にも泣きそうだった。
白い壁を見るとグレーの目が浮き出ていた。『操?』と思った。やがて輪郭が見えて来た。赤い唇、長い黒髪。『里香は皆に愛されていて羨ましいな』と思っているような泣き笑いの顔がクスリッと笑った。
バイバイと手を振る腕には、あのブレスレットが光っていた。