29 不安と絆
夜、夫婦の寝室から窓の外を覗く。
はらはらと降り注ぐ雪をぼんやりと見ていると、リカルドが部屋に入ってきた。
「マリア」
わたしがそれでも窓の方を向いていると、リカルドはわたしを後ろから抱きしめてきた。
「リーディアが心配していた」
「……そう」
「すまない」
その小さな声に、後ろを振り仰ぐと、気遣う紫色の瞳がそこにあった。
「君にそんなふうに、心細い顔をさせたくなかった」
「そんな、こと……」
ぽろぽろと零れ落ちる涙を止められなくて、結局わたしは、リカルドに抱き着いて自分の顔を隠す。
「わ、わたしが悪いの」
「マリア、違う」
「違わないの。だって、わたしが全部、原因で」
「違う」
泣きぬれるわたしに、リカルドは目を見て、はっきりと告げた。わたしは縋るようにして、彼の言葉を待つ。
「ルビエールはこういう土地だ。人と、価値観が入り乱れる。だから、いずれ起こったことだ。今までに例がないことの方が不思議なくらいだな」
「リカルド」
「最初の例が、領主一族に類する我々でよかった。民にこんなことを経験させるものじゃない」
その優しい言葉に、わたしが力なく微笑むと、リカルドは力強くわたしの名を呼んだ。
「マリア。私はこの勝負、必ず勝つつもりだ」
「……ええ」
「だが、もし仮に敗れたとしても、君を他の男に渡すつもりはない」
目を見開くわたしに、リカルドは微笑む。
「もし負けたら、私はこのルビエール辺境伯家と縁を切る。それで足りなければ、伯爵位を返上してもいい」
「だ、だめよ。そんな……そんなこと」
「リキュール伯爵家は、他国からも常に求められてきた。いつも不遇ばかりなんだ、こういうときにこそ血筋の有利を使わなければ」
珍しく片目をつぶり、茶目っ気のある笑顔を浮かべるリカルドに、わたしはただ、はらはらと涙を落とす。
だって、そんなのだめだ。
負けて、草原の文化を無碍にして、国を追われるように出ていくなんて、そんなことは。
だけど、どうして。
どうして口から、その言葉が出てこないの。
「……わたし、リカルドが好き」
「うん」
「リーディアと、離れたくない」
「うん、知っている」
「わたし、分かってるの。このレヴァルに負けたときに、レヴァルを無視することの重さを」
草原の掟。
多数の部族をまとめて来た、大きな決まり事の一つ。
領主一族がレヴァルを無視し、敗北を握りつぶしたとなれば、それはもう、ルビエールの地の問題だけでは収まらないかもしれない。
それなのに、わたしはこの手を離すことができないのだ。
リカルドとリーディアのいない人生を考えることができない。
「なのに、わたし。ちゃんとした答えを出せない……」
「マリア」
「わたしを叱って、突き放してほしいの。伯爵夫人として、ちゃんとしろって。……あなたが言うなら、わたし」
そこまで言ったところで、ふわりとリカルドの唇がわたしのものと重なった。
目を見開くわたしを、彼は優しく抱きしめる。
「絶対にしない」
「だ、だって、リック……」
「マリアは、私を見くびりすぎた」
リカルドは、いたずらをした少年のような顔で、楽しそうに笑っている。
「私は優先順位を間違えたりしないよ。大切なのは家族で、他はその次だ」
「家族……」
「私達は、大切な家族だ」
瞼に頬にキスを落とす夫に、わたしはされるがままになっている。
「君が、血の繋がりなど関係なく、リーディアの母でいてくれるように。私は君の、ただ一人の夫でありたい」
「……!」
「愛しているんだ、マリア。君とリーディアがいてくれるなら、あとは私がなんとかする」
「なんとか?」
「こうみえても、領主としてはそこそこ優秀なんだ。他の国でも、子爵位くらいは貰えるさ」
爵位をお菓子か何かのように言う様に、思わずわたしは笑ってしまう。
ようやく笑顔がこぼれたわたしに、リカルドは蕩けそうな笑顔を浮かべた。
余りに眩しい笑顔に、わたしは顔を逸らそうとするけれども、それとなく頬に添えられた手がそれを許してくれない。
悔しくて、「子爵じゃなくてお洋服のモデルでも、稼げちゃいそうね」とつい、悪態をついてしまう。
「マリアがそうしてほしいなら考えよう」
「だめよ。わたし以外の女の人に、あんまり見られないで」
吐息が触れそうな距離で、わたしはいつしかの彼の言葉をなぞるように、小声でねだる。
「わたしの夫だもの。リックを一番愛して、近くで見ているのは、わたしよ」
妻の言葉に、わたしの夫は本当に嬉しそうに微笑んで、同じく小声で返事をしてくれた。
「分かった。マリアだけが、私を見ていてくれ」
そのまま、わたしは思う存分、夫の愛に溺れたのである。
~✿~✿~✿~
十二月の頭、草原にて、部族を飛び回るように早馬が駆けた。
早馬が広めたその知らせは、あらゆる部族の興味を惹き、その場へと足を運ばせる。
その日、知らせを聞いたキルベイル族の族長の孫キリクは、晴れ渡る空の下、浅く雪の積もった草原を駆けていた。
目指すは父と共に羊の群れに草を食ませているはずの客人。
ふとましい客人は好奇心旺盛で、今も父達と共に羊の番をしているのだ。
「マッティ! おーい、マッティー!」
黒髪の多い草原の民の中、珍しい柔らかい茶色の髪を見つけ、十二歳のキリクは、パッと笑顔になって走り寄った。
キリクは、この客人が好きだった。
野菜が好きで、野菜のことになると延々話が止まらないところは困ったけれども、優しく、沢山のことを知っていて、エタノール王国民だというのに、草原の民であるキルベイル族のことを馬鹿にしたりしない。
キリクの声が届いたのか、茶色の髪をした恰幅のいい男は、そのクリクリの水色の瞳でキリクを認めると、柔らかく微笑んだ。
「おや、キリク殿。どうしました?」
「レヴァルだ! 王の部族で、タラバンテで、レヴァルが行われるそうだぞ!」
「!」
あちゃーという顔をした客人に、キリクは構わず続ける。
「マッティの言っていたとおりじゃないか! レヴァルが行われる気がするって」
「へえ。流石はマッティだ。耳が早い」
「マッティは今回の件のことも、詳しく知っているのかい?」
「いやぁ、そういう訳ではないんですけれどね」
肩を落とす客人は、物理的に重い腰を上げ、一つ伸びをする。
「全く、仕方のない娘だなぁ」
青い空を見上げて、誰にともなく、客人はぼやいた。







