1 プロローグ:虫歯娘との追いかけっこ(1/4)
第二部は、国同士のいざこざや、相手を排除せずにこちらの意向を通すなど、精神年齢が高い方向けの話題が出ます。
ハッピーエンドですが、ざまぁタグはつけていません。
無料で公開していますが、気持ちを込めて書いた作品です。
勧善懲悪で敵を嬲らないと我慢できない方は、ここでブラウザバックしてください。
空は快晴。
雲ひとつない明るい陽気、白い壁の美しいリキュール伯爵邸。
冬に近づき、少し肌寒さを感じるような、涼やかな空気の中、しかしわたしは、マイルドな茶色の髪を一つに纏め、はちみつ色の瞳を釣り上げ、伯爵夫人用の普段使いのドレスの裾を翻しながら、逃げ惑う銀色スナイパーの捕獲作戦に勤しんでいた。
「こらリーディア、待ちなさーいっ」
「やぁーっ!」
わたしの半分ほどの平均より低めの背丈、翻るサラサラの長い銀髪、必死に前を見据える紫色の瞳。
すてててて、と子ウサギのように走っている六歳の義娘は、意外と身軽で素早い。
とはいえ、そのリーチはわたしの半分しかない。
いくら必死に走ったとしても、シマリスやハムスターが爪を立てるが如く、無駄な抵抗に過ぎないのだ。
走る彼女の前に回り込んで、迎え撃つように抱きしめ、持ち上げると、軽くてふわふわの感触と共に、サラサラの髪からはお日さまの香りがした。
このままぎゅーっと抱きしめて愛でてしまいたいという想いを抑え、彼女を叱るべく、その可愛いもちもちのご尊顔を覗き込むと、大きな紫の宝石が驚愕の色で染まっている。
「ほら、捕まえた!」
「いや! いやなのママ、リーは……っ」
「だめよ。もうすぐリーのために、歯医者さんが来てくれるんだから」
ざぁっと血の気が引いた絶望の顔でこちらを見るふくふくほっぺの幼子に、わたしは思わず苦笑する。
この愛らしい六歳の令嬢は、リキュール伯爵の一人娘、リーディア=リキュールだ。
数ヶ月前にこのリキュール伯爵家に嫁いできたわたしの、可愛い可愛い義娘である。
いつも笑顔でいっぱいの彼女が悲壮感溢れる顔をしているのは、正直辛い。
しかし、彼女のお口の健康が優先されるので、こればかりは仕方がない。
「リーは、リーは……っ!」
「ほらほら、諦めましょうねー」
「やだぁああーっ!!」
「あっ、こらリーディア!!!」
せっかく抱え上げたというのに、銀色スナイパーは暴れて逃げ出してしまった。
どうやら、本日の捕獲作戦はまだまだ続くようである。
~✿~✿~✿~
わたしは伯爵夫人マリア=リキュール、二十三歳。
マーカス=マティーニ男爵の長女で、先日、このリキュール伯爵家に嫁いできた新妻である。
新妻とはいえ、わたしは元々、このリキュール伯爵家に形ばかりの妻としてやってきた身であった。
リキュール伯爵とわたしの結婚はそう、いわゆる『契約結婚』だったのである。
この『契約結婚』は、眉目秀麗で、国一番の麗人とも囁かれるリカルド=リキュール伯爵の女除けを目的とした、一年限りのものだった。
わたしは、女性達に迫られ続け、女性恐怖症になるまで追い込まれた彼を守るための、一時的な隠れ蓑。
そう思って、静かに隠れるように過ごしていたのだけれども、彼の可愛い一人娘であるリーディア(六歳)は、それを許してくれなかった。
屋敷で過ごしているわたしを見つけだし、「一年だけでいいから、ママになってほしい……」とわたしの心をぎゅんぎゅんにねじ上げた銀色スナイパーは、あっというまにわたしを彼女の契約母にしてしまったのだ。
そして、彼女の「パパにママを落としてもらうの!」というひみつのミッションによって、わたしとリカルドは想いを交し、本当の夫婦となったのである。
こうして、わたしは彼らと本当の家族としてこのリキュール伯爵邸で過ごすこととなり、物語であれば『三人は幸せに暮らしました、めでたしめでたし』で終わる大団円。
だった、はずなのだが。
今わたしは、たった二人しかいないリキュール一族の一人、六歳の義娘リーディアを追いかけていた。
実は昨日、リーディアが定期検診で、虫歯の宣告を受けたのである。
~✿~✿~✿~
「今日は人数が足りないので、明日、治療をしましょうか」
何やら、子どもの治療をするときには、看護師の数を倍に増やすらしい。
こうして翌日まで猶予をもらったリーディアは、その宣告以降、戦地に赴く兵士のような顔で過ごしていた。
「ママ……リーはもう、終わりなの……」
「うん?」
「リーのデザートがないの……もう生きていけないの……」
「うーん?」
「リーのしかばねは……海に捨てて欲しいの……」
「ううん!?」
海を見たこともない可愛い義娘は「最後の晩餐……なの……」と言いながら思い詰めた様子で夕食と向き合っている。明日に備え、念のため夕食のデザートをなしにされたことも、彼女に大きな衝撃を与えたようだ。
哀愁を漂わせ、煌めく銀色娘から絶望の灰色娘にジョブチェンジしたひ孫娘の様子に、わたしの傍らで、ハニーブロンドの髪にマイルドな茶色の瞳をした七十代の貴婦人が狼狽えている。
彼女は、リーディアの曾祖母ルシア=ルビエール。
夫リカルドの母方の祖母で、エタノール王国北方にあるルビエール辺境伯領の、先代領主の妻である。
ルシアおばあ様は、唐突にわたしという妻を迎えた孫リカルドと、義理の母ができたひ孫娘リーディアを心配して、馬車で二ヶ月の道のりを越え、この秋に、はるばる南方リキュール伯爵領までやってきてくれたのだ。
リキュール伯爵邸に来た当日こそ色々あったものの、リカルドとリーディアのことを大切にしてくれる、とても優しくて素敵なおばあ様なのである。
そんなルシアおばあ様は、ハニーブロンドの髪をそわそわと揺らしながら、わたしに問いかけた。
「マリアさん。麻酔は使うのよね?」
「それは、まあ」
「この際、全身麻酔とかは」
「軽度の虫歯で全身麻酔はちょっと」
「!! ママ、ひいおばあちゃま! リーはいいことを思いついたの!」
キラキラと輝く紫色の宝石に、わたしとルシアおばあ様は、うっと身構える。
これからきっと、可愛いおねだりタイムが始まる。
そして、それはきっと無理な内容で、わたし達はおねだりをすげなく断らなければならないのだ。
覚悟を決めたわたしとルシアおばあ様に、おねだり姫リーディアは威風堂々とした笑顔――傍目には桜色のほっぺが愛らしい満面の笑み――で告げた。
「リーが寝てる間に治療すればいいのよ!」
あー、えーと、うーん、それはその。
「不採用ね」
「不採用です」
「ふさ……?」
「ええとね、リーディア。寝てるときに治療して、突然起きちゃったら危ないでしょう?」
はうっ!?と衝撃を受けるリーディアに、わたしもルシアおばあ様も気まずそうな笑顔を向ける。
その後も、「頑張ってね、起きなかったらいいと思うの!」「リーはね、ぐっすり寝るのが得意なのよ! 朝もなかなか起きられないの!」と抵抗を諦めない虫歯娘を、わたしは苦笑しながら受け流す。
そうして、翌朝を迎え、歯医者さんが来るときを三十分後に控えたところで、歯医者さんの重圧に耐えられなくなった銀色子兎が脱兎のごとく子ども部屋から逃げ出した。
こうして、リキュール伯爵邸の中、壮絶な追いかけっこが始まったのである。







